読谷の戦跡シリーズ第二弾です。国道58号線の伊良皆から県道6号線をひたすら残波岬に向かって進み、瀬名波の三叉路を真栄田方面に向かうすぐと左手に海が見えてきます。そこに長浜区の犠牲者104柱を祀った真砂之塔があります。
戦没者のご冥福を祈り、合掌。
この真砂之塔の脇に海岸に下りていける遊歩道が整備されています。犬を連れて散歩する人も多くいます。
その小道を下りていくと左手に大きな岩が現れます。岩の下は人がもぐり込めそうな隙間があります。ここが「アバシヌンジ」、ハリセンボンのトゲと呼ばれるガマです。貝塚があり、ハリセンボンのとげや骨が多く見つかっている洞窟です。沖縄ではハリセンボンは食用にされますので、有史以前に人間が暮らしていたのでしょう。
内部は土砂が流れ込み、天井が低くなっていますが、沖縄戦の時、住民がこの洞窟に避難しました。米軍は上陸にあたって、艦砲射撃で大量の爆弾を読谷の海岸に浴びせました。しかし大きな岩は爆弾を落とされてもびくともしなかったということです。
アバシヌンジの前をさらに進むと、瀬名波の海岸に下りることができます。ここは遠浅で、潮が退くと磯浜が広がります。浸食され、キノコのような形の岩が多く見られます。
磯には幾何学模様に切り取られた岩の跡があちこちにあります。
これは琉球王府時代に、間切(今の市町村)を結ぶ宿道の石畳にために切り出された跡です。石は島内各所に運ばれ、舗装に使われました。中には切り出される寸前のまま放置されたような跡もあります。いったいどんな事情があったのでしょうか。数百年前の時代を思い浮かべながら、しばし空想の世界に浸りました。
瀬名波の海岸はビーチの背後に崖が迫り、たくさんの浸食洞窟があります。これらの洞窟も沖縄戦で住民が避難した場所です。
このような洞窟ががけ下にいくつも並びます。満潮になれば潮が入り込んでくるような洞窟です。目の前の海から上陸してくる米軍におびえながら、狭い洞窟に潜んでいた住民達。どんな気持ちだったのでしょうか。
護佐丸が築いた座喜味城を始め三山時代から王府時代の琉球の史跡が多く残る読谷。また沖縄戦で米軍が上陸した地でもある読谷。史跡と戦跡のご案内は次回に続きます。
ぐにさん、
その本、手に入れたいですね。どこから出ているのかしら?ジュンク堂にあるかしら。
ちんちらぽっぽさん、
ハリセンボンノ剥製ですか?
もったいないですねえ。味噌鍋にすると美味しいですよ。
福がやってくると言われています。
うちの会社にもハリセンボンを天井から吊ってます。
(ハリセンボンはふぐの一種です)
が、福は来ませんが、、???
読谷には沢山戦跡があります。
読谷村の戦績をまとめた本があります。500円。
地図もついています。
でも2色の本なので、是非カラー最新版をつくってほしいものです。
戦争の記憶をちゃんと残さないと、また同じ過ちを起こしそうな世の中にならないかと危惧するこのごろです。
入れる洞窟は入っています。
洞窟の中から外を見て、追体験してます。
しかし、どの洞窟も環境劣悪ですよ。
ここに日中は何日も隠れ、夜になると洗濯や炊き出しをしたんですね。