プロ野球球団もキャンプを張る浦添運動公園の近く、浦添大公園の東の外れに浦添ようどれがあります。
浦添ようどれは、浦添グスクの北側崖下にある琉球王国初期の王陵で、咸淳年間(1265-1274年)に英祖王が築いたといわれています。
英祖王は琉球最初の王で、伝説上の人物とも言われていますが、最近の研究では実在した可能性が高くなっています。
その後、1620年に、浦添出身の尚寧(しょうねい)王が改修し、王自身もここに葬られました。尚家の墓陵は首里城近くの玉御殿(たまうどん)ですが、尚寧は自分の統治時代に薩摩の侵略を許してしまい、その負い目もあって浦添に葬られる事を望んだといわれています。
浦添ようどれは国宝候補にもされながら、沖縄戦で破壊されたまま長く放置され、その復元が課題とされていました。
平成元年に浦添グスクの一帯が国史跡に指定され、浦添市が整備を計画していた所、所有者である尚裕氏(尚家22代当主)から浦添市に無償提供され、復元事業がはじまりました。
平成17年4月に復元が完成し一般公開されています。
浦添グスク公園の入り口から左へ下りていく通路があります。
崖の中腹を下る階段で、右上には山が迫り、左手は普天間基地まで見通す事ができます。
暗しん御門(くらしんじょう)とよばれる通路。ここは本来トンネルでしたが、沖縄戦で破壊されました。現世とあの世を繋ぐ門とされています。
暗しん御門を抜けると二番御庭(にばんうなー)となります。
中御門(なーかうじょう)と呼ばれるアーチ門をくぐりぬけると一番御庭です。
琉球石灰岩で作られた陵墓。浦添城は13世紀から15世紀まで王府が置かれていました。琉球の浦々まで治める、というのが浦添の語源といわれています。ようどれは13世紀ごろ王府の繁栄を願い造られたもので、白く輝く太陽の世界をイメージして、白い石灰岩で造られています。ようどれとは夕凪を意味する琉球語です。古代琉球語では墓を意味するとも言われています。
静謐な空間です。
崖の中腹に自然壕を利用して横穴を掘って墓室とし、中には中国産の石で作られた石厨子が置かれています。向かって右側の西室が英祖王の墓です。
左側の東室が尚寧王の墓です。
尚寧王の墓を守るシーサー。対の右側のシーサーは沖縄戦で破壊されました。
浦添グスク・ようどれ館。公園に行く途中の左側にあります。ビデオ資料はぜひ視聴したいもの。
墓室内部(西室英祖王統)を復元したレプリカ。非常に良くできていて、発掘に当たった調査員の方の話によると、本当に内部はこんな感じだった、ということです。骨を納める石逗子は中国製で、このころから交易が盛んに行われていた事を示しています。逗子の中には複数の人骨が納められています。ようどれに行く前に見学しておきたい場所です。
善政をしてきたのでしょうか?
あるいは……?
対中国や対薩摩との外交上の問題で、国民に負担を強いた国王もいました。
今と変わらんですなあ。
正直、私のブログのお墓、紹介して憂鬱になっていました。コンクリ-トのまるで歴史を感じさせないお墓。ある日、お墓に行って唖然としたのです。仲里のこれまでの培ってきた歴史が簡単に塗り替えられているのを見て、私たち家族がっかりでした。随分お金をかけたらしいのですが、それなら、修復出来たものを…。価値観の違いにしても、非常に残念に思ったことでした。「千の風になって」の歌詞を思い、我慢!ブログ拝見して、良かった!!
本土の皆様にも知って頂けて!
あっ、私も知りません。ほんとに何も知らない人です。これから見学に参ります。
石逗子に骨と言うことはミイラ化ではないんですね。
と言うことは焼いた?んですかね?
また 内地の人も せっかく沖縄へ行っても 決まり切った観光コースだけで終わる事が多く残念ですね。でもそこからが スタートにもなるとも言えますね・・。
9月に石垣に行きますが・・短くて残念!
いつか 時間を掛けて 沖縄各地を回りたいと思います。