糸満市阿波根941番地の農地の中にある潮平壕は、長さ150メートルの自然壕で、十十空襲の際に住民の避難壕として利用されました。
沖縄戦では、字潮平の住民約560名が約3カ月にわたり壕の中で過ごし、昭和20年6月14日(旧暦5月5日)に一人の戦死者を出すことも無く、全員無事で米軍に投降することができました。
1953年10月、壕への感謝と戦争犠牲者の追悼、世界平和を願い、潮平権現として鳥居が建立されました。毎年旧暦5月5日に潮平権現祭が行われています。
サトウキビ畑の中に、潮平権現はあります。
住民たちを救った壕への感謝の念を表すため、戦後この鳥居が建てられました。壕の保存状態は良く、住民たちが大切に管理していることが分かります。この鳥居の手前と奥の2箇所に壕の入り口があります。ふたつの壕は内部で連絡しています。
手前の壕の入り口です。土砂の流入によりだいぶ狭くなっています。
鳥居の奥の壕入り口です。斜めに地面が裂けたような形をしています。
米軍により手榴弾が2回投げ込まれたということです。戦後70年近く経った今でも、天井に焦げた跡が残り、足元には陶器・瓶などのかけらが散乱しています。
遺留品の持ち出しは禁じられています。
左の白い看板は、壕内見学順路を表すために設置されたものです。懐中電灯を消すと、内部は真っ暗闇です。
壕内には不発弾も残されています。むやみに歩き回ると危険です。
壕の入り口を内部から見上げます。
この地区は水が豊富で、夜になると水汲みや洗濯のために外に出て、昼は壕の中で過ごしたということです。
丘の中腹にある壕の入り口。上から見ると、サトウキビ畑が広がっています。当時も変わらない風景だったのでしょうか?
コメントありがとうございます。
潮平壕には軍は居なかったようです。
しかし、日本兵が居なくても住民がパニックになり集団死したチビチリガマ。
日本兵がいても住民のリーダーの説得により全員が助かった轟壕。
壕の明暗はさまざまです。
とても不安で怖かったでしょうねえ。
昼はガマの奥深くで息をひそめ、夜になってから家事をする日々だったようです。