大型で非常に強い台風6号は15日午後6時現在、小笠原諸島の近海にあり、勢力を強めながら時速20キロで西北西に進んでいる。中心の気圧は950ヘクトパスカル。中心付近の最大風速は45メートル、最大瞬間風速は60メートル。
沖縄気象台によると、大東島地方は16日夜から強風域、17日午後から暴風域に入る見込み。台風は次第に北へ進路を変え、沖縄本島地方は17日午後から強風、18日には暴風の恐れもある。(沖縄タイムス)
だいたいにおいて台風は週末に接近することが多いですな。6号は結構大型のようで、十分な注意が必要です。
さて、本日ご紹介するのは西原町にある小波津邸の石塀です。1935年(昭和10年)小波津家の新築の際に造られた石塀にはたくさんの穴が空いています。
戦時中、日本軍が駐留したため、米艦隊の艦砲射撃を受け被弾した痕です。西原町(当時は村)では住民の約半数が戦死した激戦地でした。石塀には多数の砲弾の破片が食い込んでいたということですが、戦後復興のスクラップブームで取り去られ、今では痕だけが残っています。
この小波津家、今でも大きな家が建っていますが、当時も立派だったのでしょう。石塀も当時は7段あったそうですが、舗装や盛り土で今は下2段は埋もれています。
この生々しい砲弾の痕がのこる塀の前に立つと身がすくむ想いがします。鉄の暴風雨と言われる様に、赤く焼けた鉄の固まりが豪雨となって降ってきたわけです。逃げる場所など無かったのでしょう。
さらに思うのは、このような戦争の傷跡の中で今現在も住民の日常生活が営まれているわけで、人々はどう感じているのだろうかということです。こういうものを見るにつけ沖縄の戦後は終わっていないことを感じます。
またいつも思うのですが、この物言わぬ証人をいつまで保存できるのか?ということ。この塀も個人宅のものです。家の建て替えで取り去られてしまうかもしれません。実際多くの戦争遺跡が家の新築や道路の拡張などによりいつのまにか消滅している現実があります。やはり行政による保存活動が望まれます。
The BOOMが歌う「島唄」、ご存じのように、デイゴの花が咲き、戦局が悪くなるという風を呼び、米軍という嵐が来た、という沖縄戦の悲惨さを歌った唄です。今回来るのは本物の台風。鉄の暴風雨でなくてよかった。
無事、通過してくれることを願います。
台風とは昔からの付き合いです。今のうちにレンタルビデオ借りておきます。酒も用意しなくっちゃ。
人が浴びるのは耐えられないです。
この塀の前に立つと耐えられない気持ちになります。
考えてみれば、石塀だけでなく周囲どこも被弾していたわけですね。
悲しくなる光景ですよね。
幼い子供達もいたでしょうにね。
実弟の話としてコザ辺りで土地を掘り返したりすると、今でも茶色い薬のビンが出て来ることがあるそうですが、中身が空だそうです。
薬もなかったんでしょうね。
たまに医療班の所属する部隊の名前が書かれていて、涙がこぼれたと言っていました。
今が平和かどうかは断定しづらいですが、爆弾が落ちてこない分だけ平和なのかな。