「政治生命をかけて職責を全うしたい」と政治家がよく口にします。
だいたいが不祥事を起こして、野党から辞任要求があると、こういうこと言います。増税に政治生命をかけるという首相がいる時代、政治生命じゃなくて命掛けろよ、と言いたいのですが、「命かけます」と言われたところで「本当かな」と疑っちゃいます。
かつての琉球に国難に対して命を張った政治家がいました。謝名親方利山がその人です。
波の上宮の近く、旭ヶ丘公園の山頂付近に鄭●謝名親方利山顕彰碑があります。(●は、しんにょうに同)
謝名利山といっても知っている人は少なく、ほとんど人も訪れません。
謝名利山は1549年久米村(現那覇市久米)の生まれで、久米三十六姓の子孫です。唐名(中国名)は鄭●(ていどう)。中国とのかかわりが深かった琉球では、琉球の名前の他に、中国名を持っていたのですな。
久米三十六姓というのは1392年に明の洪武帝より琉球王国に下賜されたとされる中国人の職人達のことで、優れた知識・技術により琉球の発展に寄与しました。利山もこうした大陸中国の血を引いていたため、肌は浅黒く、身長は六尺(180cm)あったといいます。
利山は16歳のときに明に留学し7年間、当時最先端の知識・職能を学びます。琉球に帰ったあとも進貢使者として、たびたび中国に渡りました。
こうしてグローバルな経験を身につけた利山は、1606年に57才で三仕官に任命されます。
三仕官というのは、今でいう政府の閣僚のことですね。第七代国王尚寧も利山に信頼を置き、外務大臣として外交を全権委譲していたようです。
このころ薩摩の島津藩から琉球国にいろいろと要求が来るようになります。朝鮮出兵のための資金、物資を要求したのですね。琉球にしてみれば他国のごたごたに巻き込まれたく無いわけで、利山は日本の要求を飲まない毅然とした外交姿勢をとっていたわけです。
こうした琉球国の姿勢に業を煮やし、1609年薩摩は琉球国に侵略を企てます。外交がだめなら武力で奪い取ろうというわけですね。
利山は三千人の兵力で山に立てこもり薩摩に抵抗したということですが、武力で劣る琉球は薩摩に占領され、国民の身を案じた尚寧王は降伏してしまいます。
尚寧王や重臣たちは捕らえられ、薩摩に連行されます。そこで薩摩藩から起請文が提示され、尚寧や三仕官たちは署名させられます。これは、植民地として貢ぎ物をしなさいという要求書ですな。しかし利山は琉球国の正当性を主張し、最後まで署名を拒否しました。
1611年9月19日、利山は薩摩により処刑されます。62歳でした。
空手の達人だった利山は、このとき数名の薩摩藩士を道連れにしたという伝説もあります。なんとも豪快な男です。
その後も薩摩藩による搾取は明治時代になるまで続きます。琉球国からの砂糖は島津氏に莫大な利益をもたらし、これがなかったら明治維新は遅れたとも言われています。
自国の正当性、自己の信念を最後まで貫き、異国で命を落とした謝名利山。
今、彼の名は恩納村のリザン・シーパーク・リゾートホテルに残すのみです。
このぐらいの気概を持った政治家が国難続きの今の日本に現れないものでしょうかねえ。
それにしても、てぃんが-らさんが、もう1年以上前に記事にされたオスプレイ配備も、新聞の一面を飾っていますが「何で、こうもアメリカに弱いんだぁ!あんたら、沖縄に住んでみろよ。」(お里が知れるので私の言葉、遠慮して書いてます)
心から、利山のような政治家が日本に出現されること、祈るばかりです。
きっと実直な人だったのでしょう。
言葉巧みに話すのが政治家というような風潮がありますが、オスプレイ配備や普天間基地問題をこじれさせているのは、政府の閣僚が二枚舌を使うからです。
アメリカ向け、国内向けに都合のいいこと言っているから、現場で軋轢が生じています。
日本とアメリカがぎくしゃくするところに、中国や韓国がつけ込むのです。
この問題、速やかに解決させなければ、世界での日本の立場をどんどん悪くさせます。
いかに民衆に気づかれないように利権をむさぼるか、
そしてその仕組みをいかに子孫に引き継ぐかなので、
私の定義からすると、
謝名親方利山のような人は政治家ではないです。
全く知りませんでした。
今の政治家は政治屋であって、国のことより
自分のことのほうが大事なんでは?
まぁ橋下さんのように独裁的なのも嫌ですけど、、、
守りたいのは 自分やその周りの人だけ。・・
薩摩のやり方・・結局 その後の 太平洋戦争終結まで続く
スタイルなのでしょうね。きっと 中国にも韓国にも同じように立派な人が いそうな気がします。
現在の領土問題は嫌な話ですが・・きっと埋もれている歴史がありますね。
ここらへんも篤姫で放送して欲しかったな~