管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

糸満の戦跡1 嘉手志川と南山城跡

2012年02月06日 | 博士の研究日記

 糸満市大里に、南山城跡と豊富な水量が湧き出る嘉手志川という湧水があります。北山、中山と並び三山時代に栄華した南山を支えたのが嘉手志川という豊富な水量の湧き水でした。

 県道7号線を南下していくと、糸満市大里に入ります。南山城跡は県道の右側の小高い丘の上にあります。

 ほとんど崩落しているのですが、一部に城の石垣が残ります。

 大正十一年建立の文字がある南山城跡の石碑。大きくえぐれているのは砲弾の跡です。激しい戦闘が行われた南部では、こうした石碑や煙突などに弾痕が残ります。着弾の標的にされたのでしょう。

 さて、県道7号線を挟み、反対側の大里集落に嘉手志川という泉があります。この水が南山繁栄の源となりました。

 現在でも水が湧き出しており、農地の灌漑用水として使われています。

 この嘉手志川は昭和6年に整備され、現在の形となっています。その竣工記念碑にも砲弾の跡が残ります。

 さて、南山の滅亡と嘉手志川にまつわるこんな史実があります。
 琉球正史「球陽」によると、中山を滅ぼして王となった尚巴志(しょうはし)は、南山王・他魯毎(たるみ)に、金の屏風とこの泉との交換を申し入れました。物欲の強い他魯毎は喜んでその話にのって、嘉手志川は中山のものとなりました。尚巴志は自らに従う者だけに水の使用を許したので、人心は他魯毎から離れ、尚巴志に滅ぼされたというのです。

 南山王・他魯毎はそんなに大馬鹿者だったのだろうか?この話を疑問に思った郷土の歴史家の研究を新聞で読みました。
 水利権を失えば国は滅ぶ、そんなことさえも分からない国王が居るものなのか?と疑問を持ったその方は、中国の文献を調べ、中国が尚巴志に金屏風を売りつけたという事実を発見するのです。おそらく、中国から高価な金屏風を買えと圧力を受けた中山王・尚巴志は、南山王・他魯毎に買わせたのでしょう。その結果、南山の国力は衰え、中山に滅ぼされたのです。

 正史とは時の権力者によって作られた歴史です。当然、権力者にとって都合の悪い部分は隠され捏造されます。現在でもそんな歴史が作られているような気がします。

 


 



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2 コメント

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捏造までして、誰が得するのか、考えても不思議ですねぇ。 (稗島千江)
2012-02-06 06:21:43
悪い奴ほど良く眠る…読ませて頂いて、そんな言葉が頭をよぎりました。
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コメントありがとうございます。 (管理人)
2012-02-06 06:37:21
稗島さん、

歴史にはいろんな面があります。
正史が必ずしも正しいとは限りません。

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