大崎付近のビーチ。白い砂浜と珊瑚礁のコバルトブルーがとても綺麗な海岸です。このあたりはあまり観光客も無く、ひっそりとしています。
その砂浜の背後に石垣に囲まれた石造りの小屋が残されています。地元ではデンシンヤー(電信小屋)と言われる海底電線陸揚室です。
これは明治30年に造られた海底ケーブルの陸揚施設です。はるか内地から本島を経て、石垣そしてかつて日本の領土だった台湾を結ぶ通信施設でした。
沖縄戦では重要な軍の施設と見なされ、連合軍からの猛攻撃を受けました。
レンガ造りの上からセメントで固めた小屋ですが、全体に砲撃を受けた痕が生々しく残っています。
四方から攻撃を受けたようです。
内部は天井が黒く焦げており、火災が起きたものと思われます。それにしてもすさまじい攻撃を受けたことが分かります。
このデンシンヤーは石垣市の史跡に認定されており、現状の保存がなされています。
ちょっと看板の説明が読みにくいので、以下に転記します。
元海底電線陸揚室
俗にデンシンヤー(電信屋)と呼ばれているこの元海底電線陸揚室は、1897(明治30)年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた所である。
1895(明治28)年の日清戦争終結後、日本はその領有するところとなった台湾との間に軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、1896(明治29)年、まず鹿児島と沖縄本島の間に、ついで翌97(明治30)年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷いた。これによって、本土-沖縄本島-石垣島-台湾間の通信施設が完成したのである。 なおこの年、石垣・西表間にも海底線が敷設された。
開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のち逓信省に移管され、一般公衆用通信にも使用された。
明治30年のことである。この年、石垣島では大川12番地に八重山通信所が設置され、一般公衆電報取扱いが開始されている。なお、太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となった。無数の弾痕がこれを示している。
なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
昭和62年10月 石垣市教育委員会
てぃんがーらさんのブログページには
たくさんの貴重な資料がありますね…
ほんと色んな事あった過去。
目で見て感じられる貴重な数々の場所
大切に伝えていきたいと感じました
また、来ます^^
そいえば 石垣の孫・・柔道大会で 小学2年生の部で 準優勝したそうな・・。(小学校は団体で優勝)参加者も少ないとは思うのですが・・大喜びで電話してきました。これからも平和で楽しく 育って欲しいと思います。
ようこそいらっしゃいませ。
決して忘れてはいけない傷跡も、年を追うごとに消えていきます。
こうした物言わぬ証人を、何とかとどめておきたいという気持ちです。
osakakenさん、
子供たちに明るい未来を残すためにも、二度と愚かな争いをしてはいけません。
こうした戦跡は平和教育の教材としても、もっと活用したいですね。
戦争の恐ろしさ、TVや映画ではない、恐ろしさを感じます。こんな弾を受けたら・・・・・・・・・。
怖いです。本当に。