糸満市阿波根集落の南に新興住宅地パークタウン阿波根があります。
きれいに整地され新しい家が建ち並ぶ分譲住宅地です。
パークタウンの北側の入り口付近、阿波根1406-115番地の公園の下に、壕が保存されています。
ヒンプン(目隠しの塀)の後ろに整備された壕口があります。サキタリガマ(酒造り壕)とよばれる軍構築壕です。内部はかなり広いということですが、現在壕はパークタウンの自治会で管理しており、内部には入ることができません。
日本軍が放棄したあとに、近隣の住民数百名が避難したということです。那覇警察署の山川署長以下、署員数十名も避難してきており、壕を拡張しました。
米軍の攻撃が激しくなり、隙を狙い多くの避難民は壕を捨て南部に逃げました。残った住民も米軍の投降勧告により、ほとんどの人々が保護されましたが、中には捕虜に鳴るのを恐れ、手榴弾で自決した人もおりました。
沖縄戦で不思議に思うのは、軍の武器である手榴弾を、広く民間人が所持していたということです。軍は「捕虜になったら男は戦車に轢き殺され、女は強姦され殺される」と住民たちを洗脳し、軍で管理されるべき手榴弾を「一人でも米兵を巻き込んで自決せよ」と住民に配っていたわけです。
なんと過酷な運命を軍が国民に強いたのか。
日本軍はプライドだけでさきの大戦を戦って、そのために
何より貴重な人命をなんと粗末にしてきたのか。
私の大叔父は従軍医でしたが
大叔父の当時の日記には
「お上(天皇)は戦争を望んでおられなかったのに」
の言葉が、線で消されてありました。
大叔父は、真実を伝えたかった、でも立場上、伝えられなかったのだろうと思います。
こうして遺跡として残すことで
人々の悲しみと「戦争の愚かさ」を次世代に伝えて行くのが大切ですね。
私の住む大阪でも、大空襲があり
軍は空襲で逃げるよりも、焼けていく街の消火を住民に強いて
逃げ出した住民は厳しく罰せられたのです。
そのせいで、たくさんの犠牲を出しました。
大阪の子供たちはこの空襲のことを必ず、学校で習います。
同時に、戦争の愚かさも学びます。
戦争はすべての人を狂わせてしまうのですね。
軍が守るものは軍自身なのです。
おそらく兵士も自分たちの体制や自軍を守ることを第一として動いたのだと思います。
国民が滅びても軍を守る、これが実態でした。