響けブログ

音楽コドモから「音楽コドナ」へちょっと進化。ドラムとバイオリンと小鼓を弾く、ヒビキの音楽遍歴。

ないものねだりの音楽に。

2008-07-30 | ピアノ
そこ(前回)まできてから、クラシックイタチは最前からの「ミラーリング」問題について、もう一度考えてみたいと思った。

現実の音楽を聴かないで、譜面の向こうを見ようというのは、いったいどういう態度なんだろう?

クラシック音楽というのは、その本質に近づこうというときに、ある種の神聖さをまとっている。ある種の神聖さというのは、音楽そのものがバロックのように宗教音楽なので、本来が神聖なものである場合もあるし、偉大なる作曲家へ近づこうというアプローチが持っているはずだという印象でそうなっていることもある。たぶん後者が多いだろうな。

いずれにしても、これは明らかに「過去」を向いた、作曲家の意図という名の私の意図を実現しようという「自己完結した」世界だと思われる。この世界とはいったい何だろう?

もし演奏レベルの問題を問わなければ、これは独りクラシックイタチの問題ではない、きっと。むしろ演奏のレベルとしてはかなり高い人でも、この問題を抱えていると想像できる。だが待てよ、とクラシックイタチは思うのだ──それはひょっとすると心地いいセーフティーゾーンなのではないか? つまりこれは作曲家との対話というフィクションによるモノローグであって、するとこれは誰にも責めることができない。そしてその姿は、神に仕える姿、宗教的な作業に似ていなくもないではないか、と。

だとすれば、そこで追究されているものは、実はとても空虚であり、虚空であり、要するにないものねだりであるに違いない。だって、その神聖で素晴らしいものは、鏡であり、鏡に映った自分の姿であって、もちろんそれを誰かがうんといって褒めてくれればいいけれど、たぶんそれができるのも独り自分であろうから。

[しんぱいな発表会]
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