親愛なるアッティクスへ
元西鉄ライオンズ投手の池永正明氏のスナック「ドーベル」が昨年末の12月29日に閉店したと耳にしました。
閉店する・・・とは聞いていましたので、一度、足を運ぼうかな・・・とも思っていたのですが、ずーっと行ってなかったので、何か今更・・・って感じもあり、結局、行きませんでしたね。
ちなみに、池永正明という人物は、以前からたびたび、平太郎独白録 : CM契約にみる毀誉褒貶、その2 伝説の名投手 池永正明。、及び、平太郎独白録 : CM契約に見る毀誉褒貶その3 伝説の名投手 池永正明などでも述べておりますとおり、昨年亡くなった稲尾和久氏とは違う意味での西鉄ライオンズの伝説的名投手です。
特に、福岡市で昭和40年代に少年時代を送った子供たちにとって、この人の名前は、少々、複雑な回想と同時に思い出される名前であり、この人が中洲で店をやっているということは耳にしていましたので、機会が有れば、是非、伺いたいと思っておりました。
で、今から20年くらい前でしょうか、バブル真っ盛りの頃に、縁在って、池永氏がやっていた店に行き、以来、何度か足を運んだことがありました。
で、当時、同氏に、聞いたことがあります。
「(投手として、西鉄ライオンズの同期入団だった)ジャンボ尾崎(プロゴルファー・尾崎将司)は野球選手としてはどうだったんですか?打者としては、なかなかの素質を持っていたと聞きましたが?」と・・・。
すると、普段、余計なことは言わない池永氏が、カウンターの中から、「いやいや!投手としても素晴らしかったですよ」ときっぱりと一言・・・。
この点は、少し、意外でした。
尾崎氏は、元々、高校時代には徳島県立海南高校の投手として、昭和39年(1964年)春の選抜高校野球大会で初出場初優勝を成し遂げたほどの投手で、(ちなみに、前年春の選抜高校野球優勝投手が、当時、下関商業の2年生投手だった池永氏。)、尾崎氏は、翌昭和40年に、池永氏と二人同時に西鉄ライオンズ入りしたものの(当時は、ドラフト制施行前)、入団後、ことごとく、池永氏と比べられたことで、同じ甲子園の優勝投手と言っても、そのあまりの才能の差に愕然とし、「こんな凄い投手がいたんじゃ、俺なんかが飯が食える訳が無い」と思い、打者に転向した・・・と聞いていたからです。
ただ、投手として・・・といえば、確かに思い当たるところもあります。
入団間もなくからゴルフに目覚めた尾崎氏は、昭和43年(1968年)に正式に西鉄を退団し、二年後の昭和45年にプロテストに合格、正式にプロゴルファーとしてデビューするわけですが、西鉄球団在籍当時、大した成績も残していないにも関わらず、ゴルフ三昧の尾崎氏に、周囲の視線は冷たく、風当たりも相当強かったと聞いています。
その点では、やはり、その辺を気にもしない・・・、よく言えば、強靱な精神力、悪く言えば、傲岸不遜な性格があったればこそ・・・の今日の成功だったでしょうか。
この辺は、よく、ラウンド中にたばこを吸うなどと、マナーを批判されながらも、平然とどこ吹く風で成績を残し続けたことが想起されますが、この辺などは、確かに投手向きだったのでしょうか・・・。
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元西鉄ライオンズ投手の池永正明氏のスナック「ドーベル」が昨年末の12月29日に閉店したと耳にしました。
閉店する・・・とは聞いていましたので、一度、足を運ぼうかな・・・とも思っていたのですが、ずーっと行ってなかったので、何か今更・・・って感じもあり、結局、行きませんでしたね。
ちなみに、池永正明という人物は、以前からたびたび、平太郎独白録 : CM契約にみる毀誉褒貶、その2 伝説の名投手 池永正明。、及び、平太郎独白録 : CM契約に見る毀誉褒貶その3 伝説の名投手 池永正明などでも述べておりますとおり、昨年亡くなった稲尾和久氏とは違う意味での西鉄ライオンズの伝説的名投手です。
特に、福岡市で昭和40年代に少年時代を送った子供たちにとって、この人の名前は、少々、複雑な回想と同時に思い出される名前であり、この人が中洲で店をやっているということは耳にしていましたので、機会が有れば、是非、伺いたいと思っておりました。
で、今から20年くらい前でしょうか、バブル真っ盛りの頃に、縁在って、池永氏がやっていた店に行き、以来、何度か足を運んだことがありました。
で、当時、同氏に、聞いたことがあります。
「(投手として、西鉄ライオンズの同期入団だった)ジャンボ尾崎(プロゴルファー・尾崎将司)は野球選手としてはどうだったんですか?打者としては、なかなかの素質を持っていたと聞きましたが?」と・・・。
すると、普段、余計なことは言わない池永氏が、カウンターの中から、「いやいや!投手としても素晴らしかったですよ」ときっぱりと一言・・・。
この点は、少し、意外でした。
尾崎氏は、元々、高校時代には徳島県立海南高校の投手として、昭和39年(1964年)春の選抜高校野球大会で初出場初優勝を成し遂げたほどの投手で、(ちなみに、前年春の選抜高校野球優勝投手が、当時、下関商業の2年生投手だった池永氏。)、尾崎氏は、翌昭和40年に、池永氏と二人同時に西鉄ライオンズ入りしたものの(当時は、ドラフト制施行前)、入団後、ことごとく、池永氏と比べられたことで、同じ甲子園の優勝投手と言っても、そのあまりの才能の差に愕然とし、「こんな凄い投手がいたんじゃ、俺なんかが飯が食える訳が無い」と思い、打者に転向した・・・と聞いていたからです。
ただ、投手として・・・といえば、確かに思い当たるところもあります。
入団間もなくからゴルフに目覚めた尾崎氏は、昭和43年(1968年)に正式に西鉄を退団し、二年後の昭和45年にプロテストに合格、正式にプロゴルファーとしてデビューするわけですが、西鉄球団在籍当時、大した成績も残していないにも関わらず、ゴルフ三昧の尾崎氏に、周囲の視線は冷たく、風当たりも相当強かったと聞いています。
その点では、やはり、その辺を気にもしない・・・、よく言えば、強靱な精神力、悪く言えば、傲岸不遜な性格があったればこそ・・・の今日の成功だったでしょうか。
この辺は、よく、ラウンド中にたばこを吸うなどと、マナーを批判されながらも、平然とどこ吹く風で成績を残し続けたことが想起されますが、この辺などは、確かに投手向きだったのでしょうか・・・。
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