goo blog サービス終了のお知らせ 

平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

ベトナム・カンボジアの旅 8 アンコールワット

2007年12月26日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先日の続きです。

今回の旅の一番の目玉は、何と言っても、世界遺産「アンコールワット」でしょう。
実は、ここは、意外に日本人とは縁が深い場所でして、ここには、中世から日本人の遺したと思われる落書きが15カ所見つかっているのだとか。


(←森本右近太夫なる人物が遺した落書。落書きと言うよりは、「落書」(らくしょ)ですね。右下に「生国日本」という文字が見えます。あまり、写りは良くありませんが、これを鮮明に写すことはかなり難しいのだそうです。このときも、日本人観光客が次から次へ・・・状態で、ゆっくりとカメラを調整しながら写すことは到底、出来ませんでした。)

森本右近太夫については、肥後熊本加藤清正に仕え、その後、肥前平戸(現長崎県平戸市)の松浦家に仕えたと言われていますが、ついでに言うと、ここ、アンコールワットでもっとも新しく流れた日本人の血は、同じく、肥前国は佐賀県武雄市出身の戦場カメラマン・一ノ瀬泰造を忘れることが出来ないでしょう。
昭和47年(1972年)3月、フリーの戦場カメラマンとして、ベトナム戦争・カンボジア内戦を取材、「安全へのダイブ」UPIニュース写真月間最優秀賞受賞、一躍、名を挙げるが、その一ノ瀬が次の目標としたのが、「アンコールワット」でした。

当時、世界の関心の的だったのが、内戦により、現状が心配されたアンコールワットであり、その現状を撮影することは、戦場カメラマンとしての「大成功」を意味したものの、一帯は、残虐を極めた共産主義勢力クメール・ルージュの支配下に有ったことから、かなりの危険が見込まれたことで、今だ、誰も撮影した者はいなかった・・・と。
そこで、一ノ瀬は、昭和48年(1973年)11月、「地雷を踏んだら“サヨウナラ”だ」と友人に言い残し、単身、アンコールワットへ潜入し、そのまま消息を絶った・・・と。
この辺は、浅野忠信主演による映画、「地雷を踏んだらサヨウナラ」でもよく知られているとおりですが、結局、一ノ瀬はアンコールワットにたどり着き、しばらく、そこに滞在していたものの、クメール・ルージュにより処刑されていたことが判明したとか。
その後、彼の遺体は、昭和57年(1982年)、シュムリアップから14km離れたアンコールワット北東部に位置するプラダック村にて発見され、両親によってその死亡が確認されたことはたことは、当時、ニュースでも報じられましたので、私もよく覚えております。

アンコールワットでは、願わくば、一ノ瀬が処刑されたところに佇んでみたいとも思っておりましたが、現地に着いたときには、すっかり、忘れてました(笑)。
だって、何だか、あまりにも懐かしい風景だったんです・・・。
もちろん、ここには初めて来たのですが、私が子供の頃の福岡市には、こういう、アンコールワットみたいな煤けたような古い建物が結構、あったんですよ。


特に、懐かしかったのがこの風景(←)。
修復のために設けられた木造デッキ部分が、まさしく、まだ、戦後の臭いが少し残る古い建物にむりやり設置した物干し(嗚呼、これも死語ですねぇ・・・。)に見えるんですよ・・・。
修復中と言うことで、上には上がれませんでしたが、是非、上がってみたかったですねぇ。
あるいは、私の前世は森本君一ノ瀬君よりも先にここにいたのかも・・・(いきなり、ため口(笑)。)。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

ベトナム・カンボジアの旅 6 大悪の前には色褪せる小悪

2007年12月19日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

一昨日の続きです。

カンボジア人の間では、伝統的に、タイよりも、ベトナムに対する反感が強いと言われているようですね・・・。

共産ベトナムによる南北統一とほぼ同時期に成立したカンボジアの共産党政権・クメール・ルージュ、通称、ポル・ポト政権は、政権成立直後から国内のベトナム人を迫害し、たびたび、ベトナム領への攻撃を仕掛けたことで、両国の対立が激化。
当時の中ソ対立の影響もあり、(ベトナムにはソ連が、ポル・ポト政権には中国がそれぞれの後ろ盾となっていた)ついに、昭和53年(1978年)1月の国境紛争によって両国は国交を断絶。
さらに、ポル・ポトはカンボジア国内でベトナム系住民を迫害するなどの恐怖政治を行ったことから、ベトナムに大量のカンボジア難民が流入するという事態になったことを受け、ついに、ベトナムはカンボジアから亡命していたヘン・サムリンを支援するという形でカンボジアに侵攻。
翌年1月には、ベトナム軍の鋭鋒は、首都・プノンペンを攻略し、親ベトナムのヘン・サムリン政権を樹立した・・・と。

当初、ポル・ポトの圧政に苦しんでいたカンボジア国民はベトナム軍を解放軍として歓迎したものの、支配者として、ポル・ポトと大して変わらないような圧政を行ったことは、映画、キリング・フィールドでもよく知られる話でしょうか。
その後、カンボジア支援のためにベトナムに侵攻してきた中国の人民解放軍を迎え撃ったベトナム軍との間で、中越戦争が繰り広げられたわけで、未だにベトナムは謝罪を要求し、中国は拒否しているということもあり、ベトナム人の嫌中感情は根強い物があるようですね。

思えば、ベトナムの歴史というものは、中国人の支配を受けてきたのが1000年
その後、自前の王朝を築いたものの、欧米列強の進出が始まると、フランスの支配を受け、次に、大戦中はフランスを追い出した日本の支配を受けたわけで・・・。
日本支配下でのベトナム人の被害も決して少なくなかったのでしょう、日越国交回復交渉の折りには、ベトナム側代表団は何を言っても猜疑心の固まりのようで、席を立とうとしたら、「ミクダリハンか?!」と言われたなどというという話も聞きます。
いわゆる、「三下り半」ですね。


ただ、その後、フランスとの独立戦争が始まり、さらに、アメリカとのベトナム戦争に突入していくと、国交回復交渉どころではなくなり、さらに、ベトナム戦争から中越戦争まで終わってみると、日本がやった悪行の数々も、それら大悪の前には、すっかり、色褪せてしまったようで・・・。
今では、日本に対する反感は殆ど無いようです(苦笑)。
その意味では、ベトナム戦争、中越戦争というのはベトナムにとっては悲惨な大難であっても、こと、日本にとっては、「天佑」だったともいえるのでしょうか・・・。

そのうち、続きます。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

そのうち、続きます。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

赤穂浪士討ち入りについて考える その2 刃傷事件の真相

2007年12月14日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

大石内蔵助主役に、浅野内匠頭犠牲者、そして、吉良上野介希代の悪役とした、「この事件の真相」・・・とは果たして何だったのでしょうか?

そもそも、この事件の発端となり、色々な人のその後の人生に様々な影響を与えた刃傷松の廊下事件とは何だったのかということですが、まずもって、この赤穂浪士の討ち入り事件が歌舞伎などの演目になったのは、確か、事件から50年くらい経った後のことで、人間五十年の時代の50年後ですから、現代で言えば100年後にも相当するわけで、となれば、今、一般にドラマなどで演じられている討ち入り事件は、ストーリーという点では、決して、リアルタイムで書かれた物ではなく、三国志演義同様、時代が経ってから、歌舞伎の題材として、かなり、面白おかしく脚色されたものだということになるわけですね。

次に、この事件の真相については、昨今、色々なことが言われてますよね。
刃傷事件が起きたその日が、五代将軍綱吉とその悲願であった官位授与のための勅使が下向した日であったことで、大奥内での生母派と対立する正妻派による、任官潰しの為の陰謀説やなども然り。
しかし、私はこの説は採りません。
この陰謀自体、背景としての説得力はあっても、実行の上で複雑すぎるからです。
複雑すぎる陰謀は、物語としては面白くても、そこに介在する人が増える分だけ、機密漏洩という点で、なかなか、成就しないもので、特に、大奥自体が、一般との接触をかなり制限された存在であり、自らの実行部隊を持たない存在であった点が致命的だったでしょう。

他にも、吉良上野介の息子を養子に迎えたことで、吉良家から様々な財政負担を強いられていた米沢藩上杉家陰謀説なども見受けられるようですが、さておき、結論を言えば、私は、刃傷松の廊下とは「精神異常者が引き起こした突発的な行動だった」と思います。
どういうことかというと、まず、この時代、大名の結婚というものは、非常に制約が多かったということが背景にあげられるでしょう。
身分制度が厳格なこの時代、お家存続のために、愛妾を持つことは許されていたものの、嫡男の母となる可能性が高い正妻は誰でも良いというわけにはいかず、それなりに相応しい身分の者・・・となったものの、大名の結婚には家同士の接近という政略性が強かったことから、幕府の許可が必要で、その結果、同格同士でなおかつ、幕府に睨まれないところ・・・となると、前例主義のこの時代、限られた家同士で婚姻を繰り返すことになり、自然と血が濃くなる必然性があったといえるわけです。
実際、浅野内匠頭の母は、先代藩主の正室であったわけで・・・。

そしてそれを裏付けるような事件が、この事件に先立つこと21年前の延宝8年(1680年)6月26日に起こっています。
浅野内匠頭にとっては、母方の叔父にあたる内藤和泉守四代将軍家綱逝去に伴う葬儀の最中において、突然、刃傷事件を起こし、同様に、切腹改易となった事件です。
さらに、同様の事件は、その4年後の貞享元年(1684年)にも、大老・堀田正俊が従兄弟で若年寄の稲葉正休に江戸城内で刺殺されて死亡していますがし、(このときの幕府の記録は、乱心・・・、つまり、発狂のためということになっています。)つまり、刃傷松の廊下事件というのは、おそらく、この時代、割と良くあった事件の中の一つ・・・だったのが、たまたま、大事件になってしまったということだったのではないかというのが私の考えですが如何でしょうか。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

赤穂浪士討ち入りについて考える その1 内蔵助の胸中

2007年12月13日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

明日12月14日は、言うまでもなく、「時は元禄十四年!十二月十四日!ペペンペン!」の語り出しで有名な赤穂浪士の討ち入りの日ですね。
「第九」と並び、毎年恒例・・・の年末の風物詩となった観がありますが、実は、我が福岡市赤穂浪士とはまんざら無関係がないわけでもないんですよ。
どういうことかというと、赤穂義士47人は、怨敵・吉良上野介の首を討ち取った後、処分を幕府に一任し、結果、品川泉岳寺において切腹して果てたわけですが、その後、昭和になって、この赤穂四十七士の義挙に感動した人が、現在の福岡市南区にあるお寺に、泉岳寺にある四十七士の墓その他一式とそっくり同じ物を作っちゃったからです。
従って、遺体もないのにはあり、など洗ってもいないのに首洗いの井戸があり・・・、まあ、こういう物を作ろうなどと考えるところが如何にも福岡人らしいと言えばらしんでしょうが、何だかなーという気もしないでも・・・(笑)。

と言っても、決して、いい加減な気持ちで作ったものではなく、当時は、福岡から東京というのは、誰でも行ける距離ではなかったことで、真剣な信仰の場として提供されたものだったようです。
(ちょうど、江戸時代、富士山信仰がありながら、誰もが富士山に行けなかったことで、江戸のあちこちに富士山もどきの丘が作られたような物だったでしょうか。)
私の祖母などは、この季節、何を置いても供養に行ってましたから。

ちなみに、東京品川の泉岳寺には、私も一度、行ったことがありますが、他の一般の浪士の墓が野ざらしなのに対し、大石内蔵助の墓だけは屋根壁が付いており(息子・主税の墓も比較的簡素な屋根が付いていたような。)、思わず、「何か違う・・・」と。
大石本人が、死後、自分の墓にだけ立派な小屋が付く・・・と聞けば、「忝ないが無用に願いたい」と言ったのではないかと・・・。
私が大石だったら、「一般の浪士がむき出しなんだから、余計なことしないでくれ」・・・って言うけどな・・・と。
まあ、これ以上言うと、泉岳寺さんや吉良さんの地元・愛知県の方々からお叱りを被りそうですので、続きは吉良を悪役としてしまったこの事件の真相について、明日の回で述べてみたいと思います。

P.S 赤穂浪士については、よろしければ、こちらもご覧ください。
              ↓
平太郎独白録 : マルクスにおける話は又いつか♪にみる赤穂浪士の死生観

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

ルパン三世的発想の転換に見る川中島合戦への秀吉評

2007年12月08日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

今年の大河ドラマも、ぼちぼち、クライマックスの「川中島の戦い」へと向かっているようですね。
ここで、山本勘助が死んで、大団円・・・となるのでしょうが、この川中島の戦いという点では、ひとつ、思うことがあります。

昭和46年にテレビで放送されたアニメ番組に、モンキー・パンチ先生原作のルパン三世 1st という番組があります。
あります・・・などという言い方をしなくてもいいくらいに、多くの方が知っている、今や国民的な人気を誇る作品ですね。
従って、ルパン三世2ndを始め、その他の多くの続編映画なども作られているのですが、どういうわけか、今でも人気が高いのが、一番、あか抜けしていないはずの初回作品、つまり、1stのようで、(以前、DVDボックスで発売されたときも、あっという間に品切れになったとか。)何でもそうでしょうが、「2」、「3」と出て行くうちに、どんどんと大衆迎合していくもののようで・・・。ルパン三世もまた、然り。私も2nd以降は見るに堪えません。

で、その作品の中で、私には、大変、印象に残る一話があります。
それが、第15話「ルパンを捕まえてヨーロッパへ行こう」です。
あらすじを簡単に述べますと、ルパンは「お宝頂戴」の予告状を出したものの、ルパン逮捕に執念を燃やす宿敵銭形警部敏腕の前にことごとく歯が立たず、辛うじて、逃げおおせる始末。
一方で、惜しくも逃がした銭形には、折しも、栄誉ある世界警察会議ヨーロッパ大会への出席が勧められる。
驚いたことに銭形は、「ルパンかヨーロッパか」ではなく、「ルパンもヨーロッパも」を選択。
即ち、「ルパンを捕らえた上でヨーロッパに行く!」と宣言したわけです!
まさに、おそるべき、銭形の自信ですが、それに対して、ここでルパンが取った行動こそが、当時、私が子供ながらに強く、そして、深く印象に残ったものでした。

ルパンはどうしたか?
驚いたことに、ルパンは犯行予告期限の前日、酔っぱらいになりすまし、些細な事件を起こして留置場に入り、そこに何かを仕掛けた上で、翌日朝、釈放。
その上で、予告通りに押し入り、銭形に逮捕される。
そのまま、留置場に送られたルパン一味は、前日、仕掛けてあった脱獄道具で、まんまと脱獄に成功し、再び、財宝の保管場所へと向かい、警戒が緩んだところを、なんなく盗むことに成功するわけです。

現実には、もちろん、前日に脱獄道具を仕掛けたからといって、その同じ場所に投獄されるとは限らないわけですから、所詮、マンガの中の話でしょうが、私が深く感銘したのは、その発想の転換でした。
即ち、ルパンの目的は、「財宝を手に入れること」であって、銭形と「名勝負を繰り広げること」ではないわけです。
財宝を戴く為に、もっとも効率的なのは、銭形をヨーロッパへやってしまうことであり、その為には、一旦・・・。

で、川中島の戦いですが、この戦いは、言うまでもなく、戦国時代を代表する二人の名将、武田信玄上杉謙信がしのぎを削ったことで有名な合戦ですね。
後年、これを、豊臣秀吉が評して、「はかのいかぬ事をしたものよ」嘲笑したといいます。
確かに彼らはの目的は、「覇権」であって、川中島で名勝負を繰り広げることではなかったのではないでしょうか?
覇権という意識が明確にあったか・・・という点では少々、疑問に思える謙信はともかく、少なくとも、信玄の方は、そんな僻地で、大規模な武力衝突などやって、いたずらに・・・、本当にいたずらに戦力時間をすり減らしただけの結果に終わったわけで・・・。
この辺は、以前より、平太郎独白録 : 戦国武将の方向戦略や、平太郎独白録 「信長が西向きゃ家康は東!」などでも、繰り返し述べて来たことですが、結局の所、信玄と謙信には、国家戦略としての方向性と、それを導く前提となる思想というものが欠けていたということでしょう・・・。
その意味でも、このルパン三世というアニメ番組での・・・、いや、名勝負を宿命づけられたアニメ番組だからこそ、この展開の凄さを感じた次第でした。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

仮面ライダーのV3化に見るサイボーグという名のパンドラの箱

2007年12月01日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先日、テレビで現代のサイボーグ技術というものについてやってましたが、あれって、もうすでに、モルモットに直接、電極を差し込んで、右に左に、ラジコンみたいに操ることができるんですね。
医療の分野では、苦しんでいる人にとって、「神」にも等しい技術となるでしょうが、この技術は、間違いなく、軍事に利用されますよ。
今世紀半ばには、兵士のロボット化現実の物となるでしょう。
なぜなら、権力者にとって、こんなにおいしい話はない・・・ということもさることながら、それ以上に、人間というものは、競争発展過程で、いつかは、誰かが、絶対に、パンドラの箱を開けてしまうものだからです。
核兵器然り、クローン技術また、然りです。
クローン人間は、すでに70年代に作られているという、まことしやかな話もあります。
この流れが止まることは絶対にないでしょう。

また、戦争手足を失った兵士機械で出来たを供給するのは元より、神経に直接繋いで、頭で思うだけで実際の手足が動くように操作出来るという映像や、日本の大学の技術としてロボット・スーツを着用すると、普通、人間では持ち上げられないようなものを簡単に持ち上げられたりもしてました。
となれば、その技術を機械の手足応用し、さえも自由にすることが出来るとすれば、これはもう、理想の兵士になるわけですね。

で、それを見ていて思ったのですが、これって、まったく、仮面ライダーの世界ですよ。
仮面ライダー1号本郷猛は、ある日突然、悪の組織「ショッカー」に捕らわれて、本人の意志と関係なく、改造人間にされてしまうわけですが、手術台に縛り付けられ、体の改造が終わり、さあ、次はだ!というところで、からくも脱出成功するわけですね。
その後、彼は正義の味方として、自分と違い、完全に脳まで改造手術が終わった(つまり、操られた)改造人間たちと戦っていくわけですが、これも、実際に、そういうことになったら、何かありがちのことのように思えます。
科学者の側にも、良心を持った人がいるわけですから・・・。
(テレビでは、番組が好評を博すに従って、子供向けの「正義の味方が怪人をやっつける」勧善懲悪の世界になっていきましたが、原作では、主人公はこんな体にされたことへの苦悩葛藤がありました。)

さらに、その延長線上として、見落とせないのが、仮面ライダーの続編として作られた仮面ライダーV3です。
彼が、仮面ライダー1号、2号と大きく違う点。
それは、家族を殺された恨みから、自らの意志で、望んで、改造手術を受け、サイボーグとなったことです。
これも、今のパレスチナイラクなどを見ていると、実際にサイボーグ兵士出現の次の展開としては、十分に考えられるのではないでしょうか?
そして、恨み恨みを呼び、連鎖はさらなる連鎖を生む・・・・
その結果、そうしたサイボーグ兵士たちが続々と増えてきて、それが各国の軍隊の主流となり・・・。
何だか、これ以上は考えるのが恐ろしくなってきました。

まさしく、SF映画の世界ですね。
昭和40年代に、こういうことを考えた石森章太郎先生は、現代のサイボーグ技術の進展を見て、泉下でどう思われるでしょうか・・・。


(←宮城県にある石森章太郎生家。冬は大変寒いところみたいですね。)

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

際だつ個性が奏でる不協和音のハーモニー・・・、ロボコン

2007年11月26日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先日の連休、家で撮りだめしていた映画を見ました。
ひとつが、長澤まさみちゃんの出世作(でしょうか?)、「 ロボコン」・・・。
改めて説明の必要は無いだろうとは思いますが、ロボコンを知らないご年配の方のために説明申し上げると、(知らなかったりして・・・、御同輩殿(笑)。)ロボコンとは、言うまでもなく、ロボット・コンテストの略で、「全国に62校ある高専(高等専門学校)の学生たちが、テーマに沿って一定条件を満たすロボットを開発し、フィールド内でバトルをくり広げるトーナメント方式の大会のことで、別名、理数系の甲子園と呼ばれる」・・・ですね。

で、この映画・・・以下、感想文風にまとめてみました。

------------------------------------------

ストーリーとしては、ありがちな物なのかもしれない・・・。
しかし、それ以上に、この作品を際だたせている物こそ、ユニークな個性の登場人物たちなのであろう。
その意味では、この作品は人物のデテール勝利だと言えるのかもしれない。

快活奔放だが飽きっぽくて続かない感じの女の子と、好きこそものの上手なれで、誰よりも、ロボットに対する情熱を持っていながら優柔不断指導力ゼロの部長に、いかにもロボットだけを相手にしてきた感じの「人の心の機微がわからない天才肌の技術者」と、これまたそれとは対照的な、少しルーズな面があるものの突発事態には強いたたき上げの職人肌の若者・・・。

これほど、お互いに違うタイプでありながら、かつ、無い物を持ち合わせた組み合わせも珍しいだろう。
だがそれは、当然、激烈な副作用も伴う。
全員に共通するのは、不器用で未熟・・・ということであり、従って、一旦、うまく回転し始めると、お互いがお互いの欠点を埋めあい、長所を存分に発揮する理想的なコンビネーションとなるのだろうが、うまく行かないときはどうにも救いようがない観さえある。
だが、それを、上手に、そして個性を殺すことなく指導していく名伯楽の先生の指導の元、若者たちは、ぶつかりながら、時には、お互いを導きながら・・・、着実に、目的に向かって進み出す。
今日という日が終わらなければいいのに・・・と言いながら。

「不協和音の奏でるハーモニー」・・・、これこそが、若者が若者であることの証なのかもしれない。

------------------------------------------

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

二〇三高地の功罪

2007年10月27日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

日露戦争での激戦地・二〇三高地は、児玉源太郎大将が、最終的には自ら担当部署だった第3軍に乗り込み、現地軍を直接、指揮して陥落させたと言われています。
この点は、確かに日本の死命がかかっていたわけで、やむを得なかったとは思いますが、あのとき、児玉は日本軍全体の指揮を執る立場にあった満州派遣軍参謀総長だったことを考えれば、それがその下の第3軍の指揮権を奪ったという、このことは、後に、帝国陸軍において高級参謀たちが、自分勝手に現場の指揮権を剥奪するという悪例をつくってしまったことでもあるわけです。
本来ならば乃木希典第三軍司令官と伊地知幸介参謀長ら司令部幕僚を更迭し、第三軍を編成し直すべきであったのに、明治天皇が乃木を特にお気に入りだったのと、軍首脳の責任も問われることになるのを恐れたため、責任を明確にすることなく、安易に弾力的解釈でこれを乗り切ったことが、後々、太平洋戦争において、大きな混乱と災いを招くことになったわけです。

さらに言えば、あの甚大なる被害を出した旅順要塞攻略戦は、乃木・伊地知コンビの無能ゆえであったということが巷間、指摘されているわけですが、これは一概にそうは言えないようです。
まず、伊地知参謀長は必ずしも要塞攻略の専門家ではなかったことが挙げられるでしょう。
さらに言えば、こういう場合、往々にして、現場の方が状況をよく理解している場合が多く、現に旅順要塞203高地を奪取しなくとも、別の山から、旅順湾内ロシア艦船砲撃可能であったことから、ここから湾内の敵艦隊を砲撃しており、実際には、これでロシア旅順艦隊は殆ど壊滅していたと言われています。
もっとも、旅順要塞攻略を要請した海軍側としては、「壊滅したと思う」では困るわけで、どれだけの犠牲を払おうとも、それ以上の結果、つまり203高地攻略を望むのは当然だったでしょう。

ただ、もし、そうであるならば、児玉源太の「悪弊を残してまでの指揮権剥奪」とは一体何だったのか?と言わざるを得ないように思います。
児玉にしてみれば、203高地が戦争自体を左右しかねないと認識していたがゆえの、大局的見地に立った指揮権剥奪などではなく、一大決戦が迫ろうとしていた満州での主力軍同士の主戦場では、消耗が激しく、その為には、一刻も早く、旅順など切り上げて、本軍に合流してくれという想いでのことだったのでしょう。
これはこれで、やむを得ない話ではあるのでしょうが、203高地の攻略と指揮権剥奪という二つの大きな「被害」は、もっと他の形でもクリアできたのではないでしょうか?

これは、権限委譲を進めていく上で、現代の我々にも当てはまることだと思います。
ご自戒ください、御同輩・・・。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

越後路顛末記 長岡編 その4

2007年10月19日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

天下統一事業を推し進める大敵・織田信長の前で、内乱を勃発させたことで、滅亡の危機を迎えた、その上杉景勝と同じ事を、中国でも、インドでも、トルコでも、アジア人は行ってしまったことで、世界は列強の支配下に置かれていったわけですが、そう考えると、豊臣秀吉徳川家康オランダ以外の南蛮人勢力を締め出したことは、決して、間違った選択ではなかったように思えます。
それと同義の意味では、幕末の時点で、江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜が、徹底して内乱を回避したことは、日本が植民地化されなかったという点で、大きな意味を持ってくるのではないでしょうか。
ただ、それでも結果的には、戊辰戦争という内乱が勃発するわけですが、もし、このとき、慶喜がわずかでも抗戦に揺れていたならば、たとえどちらが勝ったにせよ、戦いは長期化した可能性が高く、となれば、列強にとっては、「また、向こうから獲物が飛び込んできてくれたわい」的な、笑いが止まらない以外の何ものでもなかったでしょう。

もっとも、むしろ、この点で、河井継之助を評価するのならば、この戦争以前に、財政的に行き詰まっていた長岡藩財政立て直しに見事に成功したその手腕こそあったように思いますが・・・。

で、話を元に戻しますと、昼飯に美味いそばをごちそうになった後、少し不気味な宝物館・如是蔵博物館へ行きました。


(←如是蔵博物館所蔵の、撃墜された長岡出身の山本五十六 連合艦隊司令長官搭乗機の残骸とプロペラの一部だそうです。)

実は、ここは、前回、長岡に来た際に行こうとしたのですが、すでに閉館時間を過ぎていたことで、結局、見ることが出来なかったところで、その後、色々な人から、「あそこにこそ、お宝があったんだ」ということを言われていたので、今度こそは・・・と思っていたところでした。
従って、最初、真っ先にここに行こうとしたのですが、ホテルのフロントの人から、「如是蔵博物館?そんなのは聞いたことがありません」と言われ、さらに、「北越戦争関係の物は、殆どが車で10分ほど行ったところにある長岡市郷土資料館にあります」と言われたので、「ん?こっちのことだったのかな?」と思い、ちょうど、時間的にどこも開いてなかったこともあり、やむなく、タクシーでそこへ向かいました。
ところが、そこには、あまり、目に留めるほどの物はなかったので、帰路、タクシーの運転手さんに、「戊辰戦争当時の物はここにあるって聞いてきたんですけど、あまり、ありませんでしたね。やはり、如是蔵博物館にあるんですか?」と聞いたところ、「いえ、今は色々、記念館などが出来たために所有者がそちらに持って行ったり、あるいは、折り合いが悪かったなどで、所有者が引き上げてしまったりしたんですよ」と。
さらに、「そこに、地震があって、あのお宝というのは保険の対象にならないそうで、その殆どがだめになったそうです」ということでした。

「なるほど、それで・・・」と。
そういうことで、昼食後、友人に付き合ってもらって如是蔵博物館へ行った次第でした。

て、長岡を後に、再び、新幹線で新潟市へ向かいました・・・ので、続く、新潟編は来週・・・と思います。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

越後路顛末記 長岡編 その3

2007年10月18日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

その点で、私は、幕末、最大の評価を与えられるべきは、時流に棹さしただけの結果となった、河井継之助などではなく、むしろ、徳川慶喜であろう・・・と思います。

欧米列強が植民地政策を推し進めて行くに当たっては、その端緒はベネツィアに見ることが出来るといいます。
つまり、まず、貿易船を出し、その土地で港を借り、そこに、倉庫商館、教会などを建て、徐々に勢力を拡げていく・・・。
やがて、彼らが来ることを歓迎する勢力が増えて行くと、必ずや、それを快く思わない勢力が現れ、歓迎派が強ければ支援し、弱ければ、強い方に取り入り、機会を待つ・・・。
19世紀、少数の欧米人に、世界中が次々と植民地化されていったことの秘密がここにあります。
つまり、植民地にする側の罪ばかりが指摘されますが、その実は、される側の「自業自得」的な面もあったわけで、つまり、「狼の群れを前にしての内輪もめ」という愚につけ込まれての結果だった・・・ともいえるわけです。

この点は、ここ、越後にこそ、その好例があります。
ちなみに、越後と言えば、大河ドラマ「風林火山」は結構な人気だそうで、そのせいか、再来年の大河ドラマも、上杉家の重臣、「直江兼続」に決まったと長岡駅に大々的に張り出されていました。
しかし、その直江兼続と、彼が補佐した主君、上杉景勝は、先君・上杉謙信没時に、もう一人の後継者・景虎と内乱である御舘の乱を勃発させてしまいます。


(←昨日の画像をもう少し、右に振ったものですが、この尾根の向こう辺りに、長尾景虎・・・、後の上杉謙信が最初に自分の城とした栃尾城があります。14歳の謙信は、ここを拠点に、抵抗勢力を次々に撃破し、ついには、兄に変わって当主の座に付くことになります。)

その結果、この内乱が終結したとき、上杉家の領土は、大敵・織田信長の前に大きく浸食されてしまい、これにより、上杉家は北方の盟主から、単なる、一大名に過ぎなくなってしまっており、この後、景勝・兼続の主君は、織田家の統一政策の前に為す術もなく滅亡寸前に追い込まれます。
上杉家が潰れなかったのは、ひとえに、帝王・織田信長本能寺横死したからに過ぎず、その意味では、景勝は内乱に勝ったとしても一時的な自己満足にすぎなかったということになるわけで・・・のココロは明日のココロだ~。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

人知を超越した直感力はカリスマ性を高めるための演出?

2007年10月12日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先日、平太郎独白録: 人の痛みはわからないパットン戦車軍団にみる朝青龍問題でも述べました、アメリカの第二次大戦の英雄、ジョージ・パットン将軍ですが、彼については、その猛将としての一面とは別に、「詩人としての資質を持ち、毎晩、聖書を読む敬虔なクリスチャン」だったといわれています。
ただ、人と接するのが下手だったと・・・。

ただ、パットンの軍人としての能力の卓越さを際だたせている一つには、その「人知を超越」したような直感力にあったともいわれています。
彼の部下の情報将校は、「パットンはその心霊的な感知器を使って、陸軍情報部よりはるかに情勢について先んじていた」と語っていますが、実際、彼にはそういうエピソードを少なからず、残しています。
オマール・ブラッドレー大将の回想によると、「パットンが三個師団を率い、コブレンツ近くでモーゼル川を渡り、迅速に南へと歩を進めている時、突如、彼は前進をやめ部隊を集結させた。すると、翌日、強烈な攻撃を受けたのだ。しかし、彼は行進を止め隊列を整えていたので、それを撃退することができた」などということもあったとか。

さらに、パットンの甥によれば、パットンはテレパシー、デジャヴ、輪廻転生などを強く信じていたそうで、それによれば、彼は自分がかつてトロイア戦争で戦ったことがあり、また違う時代にはユリウス・カエサル第十軍団で戦い、さらに時が下ってスチュワート朝のためにも戦い、最後は、ナポレオン麾下のミュラ陸軍元帥ともに馬を走らせている一将軍であった・・・と信じていたという。
パットンは、「大戦終結直後の昭和20年(1945年)12月9日、自動車事故にあって首の骨を骨折し、これにより、首から下は麻痺してしまった」ということも、前回、申し上げましたが、このときも、病院でパットンは看護婦に、「2週間しないうちに死ぬ運命なので、治療をしても、納税者の支払ってくれたお金の無駄になるだけだ」と語ったと言われており、その予言通り、12日後の12月21日、息を引き取ったとか。
しかし、私は、幾つかは、本当にそうだったとしても、幾つかは、彼の司令官としてのカリスマ性を高めるための演出と、周囲もそれを望んだ結果・・・ではなかったかと思っております。

映画の中で、カンナエだったか、初めて行く古戦場でガイドより詳しく、一行をナビゲーションして、訝しむ一行に対し、「私はここにいたんだ」と呟くシーンがありますが、これなども、彼には多少の予備知識があれば、長年の戦場経験で、こういう地形の場合は、どこに何があって、どこに本営があるはずだ・・・という大体のことが想像付いたのではないかというのが私の考えです。
先のオマール大将の回顧録もまた、然りだと思います。
ただ、戦場では、彼のこういう人知を越えた力というのは、ワラにもすがりたい心境の兵士たちにとっては大いに心強い・・・、有り難いものであって、幕僚も、統帥力強化のために、それを必要としたのではないかと・・・。

人知を超越したような直感力と言えば、やはり、ミスター・プロ野球と言われた、長嶋茂雄さんが有名でしょうが、彼は、現役時代、チャンスになると、ベンチの中で誰彼構わずに足を踏みつけて出て行ったそうです。
踏まれた方は、皆、「痛い!」と思っていても、日頃の彼の「片方の足に2足、靴下を履いて、靴下が片方ないと言って探した」などという奇行を知っている同僚らは、「まあ、長島さんだから仕方がないか・・・」ということになり、そこで、快打を飛ばすと、奇行も信仰になってしまうのでしょう。
でも、よく見ていたら、長島さん・・・、川上哲治監督の足だけは踏んでいなかったのだとか(笑)。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

古代ローマの特殊性をドラマ「ROME」にみる2 暗闘編

2007年10月03日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

この「ROME」というドラマを見て、思わず唸ってしまった一場面があります。
それは、戦場での激しい戦闘の場面でも、英雄たち虚々実々の駆け引きの場面でもなく・・・、実は、女たちの葛藤のシーンでした。
中でも特に、圧巻だったのが、凱旋式に臨むオクタヴィアヌス(アウグストゥス)を迎える為にステージへ出ようとするアウグストゥスの母、姉らが、参列する序列についてやりあうシーンです。

遅れてきた母がさっさと先頭に立とうとすると、嫁が、「どうでもいいことですが・・・、先頭妻の私です。神官たちに聞いてみてください」と。
それに対し、母は嫁の方を一瞥すると、「神官が何です。知ったことではありません。貴女のような腹黒い小娘に先は歩かせません」と言い放つ。
「どうかしてる・・・」と嫁。
私が唸ったのは、このあとの母のセリフです。
「貴女の心は透けて見えます。私を呪ってますね。いつの日か破滅させると・・・」
そして、そのまま、無言の嫁を見据えて、「これまでも、貴女よりすっと凄い女たちが呪いましたが、どうなったかしら・・・」と一言・・・。

・・・もう、このオバサンの貫禄には、思わず、噴き出してしまいましたよ。
思わず、王 貞治でねじ伏せたときの江夏 豊に近い物を感じました(笑)。
その迫力たるや、女帝エカテリーナ春日局かくありき・・・でしょうか。
暴君として知られる五代皇帝ネロのおっかさん、アグリッピーナも相当、あくの強い女性だったようですが、あるいは、この辺がモデルだったのでしょうか。
ネロも、あまりのおっかさんのキャラの濃さにやってられなくなって、母の乗った船を、船ごと沈めて殺そうとしたら、自力泳いで帰って来ちゃったとか・・・(笑)。
あるいは、これがユリウス家血筋だったのでしょうか。

この、古代ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス・・・の母、ユリアですが、この女性・・・、史実の中ではどうか知りませんが、この「ROME」というドラマの中では、女同士の暗闘に勝ち抜いてきたからと言って、決して、頭が良いというわけでも、胆力にすぐれたというわけでもなく、言うならば、女傑と言うよりも猛女という方が相応しい人・・・として描かれておりました。
この人が勝ち残れたのは、ひとえに、伯父カエサルと実子アウグストゥス天下を獲ったからにほかならないだけ・・・という。

この女性を、一言で言うならば、「自分の思い道理にならないことに不条理を感じることに何の疑問も持たない」女性としてドラマには描かれておりました。
それはもう、見事なくらいに徹底されており(あそこまで徹底されていると、逆に見事と感心します。)、一例を挙げれば、伯父で最高権力者のカエサルより、「政略のために誰か一族の娘を政敵・ポンペイウスに嫁がせたい」と持ちかけられれば、娘オクタヴィアをムリヤリ離婚させてポンペイウスのもとへ差し出したかと思うと、破談になったら、娘の哀しみなどはまったく意に介さず、「うまくいかなったのはおまえのせいだ」と責め、復縁を望むかつての婿殿後腐れの無いように殺害してしまう・・・。
また、賢夫人でもあったセルウィリアが、カエサルの寵愛を受けていることに嫉妬して、罠を仕掛けてカエサルとの仲を引き裂き、ここに、陰惨な暗闘を開始・・・。

そのくせ、金銭欲・名誉欲は人一倍で、さらに、やりたくなったら、誰が見てようが相手構わず情交を交わし、必要とあれば、拷問することにも何ら躊躇しない・・・。
多少、身に覚えがあるご婦人方もいらっしゃるかもしれませんが、くれぐれも、こういうオバサマにだけはなられませんよう・・・(笑)。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

古代ローマの特殊性をドラマ「ROME」にみる1 治安編

2007年10月02日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先週末に述べた古代ローマを描いたドラマ「ROME」についてなのですが、本当は、先週で終わるつもりだったのですが、日曜に、あの最終回を見終えて、思うところがあり、続編を書くことにしました。

まず、この番組を見ていて、ふと、思ったことがあります。
とにかく、マフィア同士の抗争はある、浮浪者はもとより、普通に路上に座り込んでいると強盗はいる、追い剥ぎはいる・・・というのに、それを取り締まる公権力というものがまるで出てこないんですよね。
そこまで思って、ふと思いました。
古代ローマには、「警察」というものは存在しなかったんじゃないかと。
そういえば、塩野七生女史の大作、「ローマ人の物語」にも、「衛生状態は今日のローマよりもはるかに良かった」とは書いてあった記述はみた記憶があるものの、「警察」というものについて書かれたくだりは、見た記憶がないそ・・・と。

つまり、古代ローマには「防衛」はあっても、「警察」はなかったのではないかと。
もし、そうだとしたならば、ローマの指導者階級・・・、すなわち、貴族元老院議員といった人たちは、自分と自分の資産の安全のことしか考えていなかったのではないか・・・、公権力による国民の安全・・・、つまり、治安のことなど考えていなかったのではないかと。
思えば、日本では古くから「検非違使の庁」などという警察みたいなものがあったことを考えれば、おそらくは、これも中国からの輸入品でしょうから、東アジアにおいては、かなり早くから、治安維持機関があったと思われるわけで、(それが民衆を守ってくれたかどうかは別にしても、)この点では、都市国家からスタートした「国民ありき」の国家よりも、王朝が交代することで新陳代謝を繰り返してきた「王権ありき」の国家の方が、民衆の安全に敏感であったということなのでしょうか。

これはまあ、「もしローマに警察がなかったら」・・・を前提に言っている話で、私としても、決して、調べたわけではないので、あくまで仮に・・・の話ですが、もし、警察がなかりせば人々はどうやって自らの安全を守っていたのか・・・ということが疑問になってきます。
で、これも、このドラマと塩野女史の大作を見る限り・・・・ですが、おそらく、貴族富裕層などは奴隷などを一定量購入し、私兵として自らの安全を守ることが出来たでしょうが、庶民はどうすればいいのか・・・といえば、このドラマを見る限りでは、おそらく、貴族有力者などの傘下に入るか、もしくは、マフィアに守ってもらうか・・・ではなかったかと。

当然、守ってもらう以上は無条件というわけにはいかなかったでしょう。
貴族の傘下に入る・・・というのは、平安朝期の日本で、庶民がこぞって貴族に荘園を差し出し、その傘下に入ったことと似ているような気もしますが、その結果、主従関係ができてしまうわけですよね。
カエサルポンペイウスが戦うことになったとき、カエサルの副官「元々、自分の家はポンペイウス家の郎党だった・・・」という理由で、カエサルの許を去り、ポンペイウスに与しているのがそれでしょうか。
また、マフィアに守ってもらうのも、一昔前(?)の日本のやくざ「みかじめ料」のようなものを想像すればわからない話ではなく、ある意味、「自衛」という意味では自然の姿であったといえるかと。
仮に、公権力による治安維持機関というものがあったとしても、それは、往々にして、庶民にとっては期待できるものではないことも多く、であれば、人々は強い人の傘の下に入ろうとするものでしょう。
ま、古今東西を問わずこういう話が出てくる辺り、ある意味、人々が自衛していく上では自然の姿であるといえ、これが王権成立過程原始的な段階だったのかもしれません。

明日に続きます。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

10万人突破に権力を執着心に欠ける我が身を顧みるの巻

2007年10月01日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

今日から10月ですね。
10月という事は、このブログを始めてから、ちょうど丸2年半が経ったことになるわけですが、実を言うと、2年を過ぎた辺りから、結構、飽きてきて、モチベーションも下がり・・・、「もー、いーかなー」と思うようになってました。

(ちょうど、マラソンをやってる最中に、「もう、ここら辺で歩こうかなー。もー、いーかなー」と思う、あれですね・・・(笑)。)

そんなこんなの先週末の金曜日、滅多に見ない来訪者数のページを、ふと見たところ、前日までで始めてからトータルでの来訪者数が、ちょうど、「51,000人」を記録しておりました。
直近の一日平均では「113人」、また、アクセス数では、9月中のMAXで「302アクセス」(9月4日。ちなみに、なぜ、この日なのかは、さっぱりわかりません。記事を見ても、前日も含め、何ら、話題性がある記事ではありませんし。)を記録しておりました。
でもって、よく考えたら、これとは別に、同じ記事を別館の方でも更新しており、こちらは、トータルの数字はわからないのですが、直近の一週間(09/16~09/22)で、閲覧数1420 pv・アクセスIP数633 ipを記録していることから、一日辺りに直すと、約210閲覧・90アクセスIPということになるわけで、であれば、おそらく、単純に51,000という数字をにしていいのではないか・・・ということに思い至りました。
(さらに、これに、最初、3ヶ月ほどやっていたライブドアでの来訪者数も加算すれば、おそらく、トータルでは、ほぼ、「10万人」突破したことは確実ではないかと。と言いつつ、来訪者数アクセス数閲覧者数アクセスIP数というのがどう違うのか、イマイチ、わかっておりませんが・・・。)

ともあれ、「継続は力なり」とは申しますが、これほど多くの方にお越し頂いていたことに、知らぬうちにご支援を戴いていた感慨を覚えると共に、改めて、謝意を表し奉る次第です。
誠に持って、有り難うございました。

で、この点で、本日のお題です。
常日頃、私は、「権力とは、それ自体に遠心力を有しているもののようである」と感じております。
即ち、権力とはハンマー投げハンマーのように、油断すると、すぐに手から離れて飛んでいってしまうもののようだと。
時には、ちょっとした油断からその辺に落ちて、側近くの者に拾われてしまうもののようでもあります。
従って、それを手放さないように維持するためには、もの凄いエネルギーを必要とするわけで、その意味では、周 恩来よりは毛 沢東・・・、マスードよりはドスタム将軍のような、権力に対しての脂ぎった執着心を持った者の方が適任である・・・ということでしょうか。

となれば、どうにも、こういう脂ぎった物を持たない・・・、つまり、恬淡すぎる私としては・・・、平たく言えば、福岡人の国民性そのものに、アバウトでどうにも粘りがない私としては・・・、砕けて言うならば、ワックスなど滅多にかけないけど、たまにかけると、半分掛けた段階力尽きてしまう私としては・・・、もっと砕けて言うならば、残り半分のワックスはまたそのうち・・・などと思いつつ、半永久的にに掛けない私としては・・・(長い!)、とにかく、こういう具体的「数字」というものは、大いに励みになるということです(笑)。

ということで、今後ともご支援のほど、よろしくお願いいたします。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング

古代ローマに見る良い仕事をしすぎたが故の作家の功罪 2

2007年09月28日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

「あまりにも良い仕事をしすぎた」という点での、司馬遼太郎氏のの部分、即ち、「司馬史観=史実」であるという誤解についてだが、これについては、実はかくいう私も、その一人である。
司馬翁の著書の中に、「坂本龍馬脱藩するに当たっては、の一人がそのを負って自害した」という記述があり、また、他の媒体でも度々、見かけたことから、これはてっきり、事実だとばかり思っていたのだが、以前、高知を旅した際に、「坂本龍馬記念館」(?)に行くことになり、道々、このことを、同行者に得意気に語ったところ、同館には、「この話については、事実としては確認されていない」と、大きく張り出されており、これには大いに面目を失うこととなったのである。

これ即ち、研究発表でない限り、極力、史実を基に描いたとしても、そこに作者の史観が影響してくるのはやむを得ないことといえるだろう。
この点で、塩野七生女史は、大作「ローマ人の物語」を著すことで、これまで、日本人にあまり馴染みがなかった古代ローマというものを、系統立てて、わかりやすく、それでいて、既存の学者の説をなぞるだけに終わらない、優れた逸品に仕上げた。

明治以降、日本人は、脱亜入欧というスローガンを掲げてきたわけだが、その是非は置くとして、それを掲げる以上は、最低、「ギリシャ・ローマ史」「聖書」くらいは(入信しないまでも)理解しておくべきではなかったか・・・というのが、常々の私の考えであった。
ただ、聖書はともかく、ヨーロッパ文明の基礎となった「ギリシャ・ローマ文明」については、これを、きちんと、系統立てて、しかも、基礎知識がない日本人にもわかるように詳述した良書は皆無であったのである。
(昔、私が学生時代には、日本人向けにわかりやすく、ローマ史の一部として系統立てて著した著作を探したのだが、書店では皆無だった。 カエサルアウグストゥスの名前は知っていても、彼らをモデルに描かれた著作は、小説ですら見つけ出すことは困難だった。)
日本人は、必ずしも、欧米に同化する必要はないが、その意味では、この書は必読の書であると思われる。
そこへ、この本が出た。
読んでみると、読みやすいし、わかりやすい。

だが、それだけに、ローマ帝国がきちんと機能している時代までを「理想的な政体」であるかのように描いているのは、少々、いかがなものかと思える。
それは、いかに素晴らしい政体であっても、現実には、既述のように、古代国家以外の何ものでもなかったからだ。
(無論、現代より優れた部分もあっただろうが。)
即ち、古代ローマとは、奴隷で成り立っていた政体であり、塩野女史は、「解放奴隷」などの救済措置があったことで、奴隷制度の現実を希釈しているようだが、もっと、これら負の側面についても詳述するべきではなかったか。
(最たる物は、剣闘士奴隷による大規模な反乱「スパルタカスの反乱」に対する部分での記述であろうか。塩野女史には、なぜ、こんな反乱が起きたのかが、理解できなかったのではなかろうか。)
それらのことについては、貴族の平均年齢65歳に対し、奴隷の平均年齢20歳という数字が雄弁に物語っているだろう。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング