親愛なるアッティクスへ
先日の続きです。
今回の旅の一番の目玉は、何と言っても、世界遺産「アンコールワット」でしょう。
実は、ここは、意外に日本人とは縁が深い場所でして、ここには、中世から日本人の遺したと思われる落書きが15カ所見つかっているのだとか。

(←森本右近太夫なる人物が遺した落書。落書きと言うよりは、「落書」(らくしょ)ですね。右下に「生国日本」という文字が見えます。あまり、写りは良くありませんが、これを鮮明に写すことはかなり難しいのだそうです。このときも、日本人観光客が次から次へ・・・状態で、ゆっくりとカメラを調整しながら写すことは到底、出来ませんでした。)
森本右近太夫については、肥後熊本の加藤清正に仕え、その後、肥前平戸(現長崎県平戸市)の松浦家に仕えたと言われていますが、ついでに言うと、ここ、アンコールワットでもっとも新しく流れた日本人の血は、同じく、肥前国は佐賀県武雄市出身の戦場カメラマン・一ノ瀬泰造を忘れることが出来ないでしょう。
昭和47年(1972年)3月、フリーの戦場カメラマンとして、ベトナム戦争・カンボジア内戦を取材、「安全へのダイブ」でUPIニュース写真月間最優秀賞を受賞、一躍、名を挙げるが、その一ノ瀬が次の目標としたのが、「アンコールワット」でした。
当時、世界の関心の的だったのが、内戦により、現状が心配されたアンコールワットであり、その現状を撮影することは、戦場カメラマンとしての「大成功」を意味したものの、一帯は、残虐を極めた共産主義勢力クメール・ルージュの支配下に有ったことから、かなりの危険が見込まれたことで、今だ、誰も撮影した者はいなかった・・・と。
そこで、一ノ瀬は、昭和48年(1973年)11月、「地雷を踏んだら“サヨウナラ”だ」と友人に言い残し、単身、アンコールワットへ潜入し、そのまま消息を絶った・・・と。
この辺は、浅野忠信主演による映画、「地雷を踏んだらサヨウナラ」でもよく知られているとおりですが、結局、一ノ瀬はアンコールワットにたどり着き、しばらく、そこに滞在していたものの、クメール・ルージュにより処刑されていたことが判明したとか。
その後、彼の遺体は、昭和57年(1982年)、シュムリアップから14km離れたアンコールワット北東部に位置するプラダック村にて発見され、両親によってその死亡が確認されたことはたことは、当時、ニュースでも報じられましたので、私もよく覚えております。
アンコールワットでは、願わくば、一ノ瀬が処刑されたところに佇んでみたいとも思っておりましたが、現地に着いたときには、すっかり、忘れてました(笑)。
だって、何だか、あまりにも懐かしい風景だったんです・・・。
もちろん、ここには初めて来たのですが、私が子供の頃の福岡市には、こういう、アンコールワットみたいな煤けたような古い建物が結構、あったんですよ。

特に、懐かしかったのがこの風景(←)。
修復のために設けられた木造デッキ部分が、まさしく、まだ、戦後の臭いが少し残る古い建物にむりやり設置した物干し(嗚呼、これも死語ですねぇ・・・。)に見えるんですよ・・・。
修復中と言うことで、上には上がれませんでしたが、是非、上がってみたかったですねぇ。
あるいは、私の前世は森本君や一ノ瀬君よりも先にここにいたのかも・・・(いきなり、ため口(笑)。)。
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今回の旅の一番の目玉は、何と言っても、世界遺産「アンコールワット」でしょう。
実は、ここは、意外に日本人とは縁が深い場所でして、ここには、中世から日本人の遺したと思われる落書きが15カ所見つかっているのだとか。

(←森本右近太夫なる人物が遺した落書。落書きと言うよりは、「落書」(らくしょ)ですね。右下に「生国日本」という文字が見えます。あまり、写りは良くありませんが、これを鮮明に写すことはかなり難しいのだそうです。このときも、日本人観光客が次から次へ・・・状態で、ゆっくりとカメラを調整しながら写すことは到底、出来ませんでした。)
森本右近太夫については、肥後熊本の加藤清正に仕え、その後、肥前平戸(現長崎県平戸市)の松浦家に仕えたと言われていますが、ついでに言うと、ここ、アンコールワットでもっとも新しく流れた日本人の血は、同じく、肥前国は佐賀県武雄市出身の戦場カメラマン・一ノ瀬泰造を忘れることが出来ないでしょう。
昭和47年(1972年)3月、フリーの戦場カメラマンとして、ベトナム戦争・カンボジア内戦を取材、「安全へのダイブ」でUPIニュース写真月間最優秀賞を受賞、一躍、名を挙げるが、その一ノ瀬が次の目標としたのが、「アンコールワット」でした。
当時、世界の関心の的だったのが、内戦により、現状が心配されたアンコールワットであり、その現状を撮影することは、戦場カメラマンとしての「大成功」を意味したものの、一帯は、残虐を極めた共産主義勢力クメール・ルージュの支配下に有ったことから、かなりの危険が見込まれたことで、今だ、誰も撮影した者はいなかった・・・と。
そこで、一ノ瀬は、昭和48年(1973年)11月、「地雷を踏んだら“サヨウナラ”だ」と友人に言い残し、単身、アンコールワットへ潜入し、そのまま消息を絶った・・・と。
この辺は、浅野忠信主演による映画、「地雷を踏んだらサヨウナラ」でもよく知られているとおりですが、結局、一ノ瀬はアンコールワットにたどり着き、しばらく、そこに滞在していたものの、クメール・ルージュにより処刑されていたことが判明したとか。
その後、彼の遺体は、昭和57年(1982年)、シュムリアップから14km離れたアンコールワット北東部に位置するプラダック村にて発見され、両親によってその死亡が確認されたことはたことは、当時、ニュースでも報じられましたので、私もよく覚えております。
アンコールワットでは、願わくば、一ノ瀬が処刑されたところに佇んでみたいとも思っておりましたが、現地に着いたときには、すっかり、忘れてました(笑)。
だって、何だか、あまりにも懐かしい風景だったんです・・・。
もちろん、ここには初めて来たのですが、私が子供の頃の福岡市には、こういう、アンコールワットみたいな煤けたような古い建物が結構、あったんですよ。

特に、懐かしかったのがこの風景(←)。
修復のために設けられた木造デッキ部分が、まさしく、まだ、戦後の臭いが少し残る古い建物にむりやり設置した物干し(嗚呼、これも死語ですねぇ・・・。)に見えるんですよ・・・。
修復中と言うことで、上には上がれませんでしたが、是非、上がってみたかったですねぇ。
あるいは、私の前世は森本君や一ノ瀬君よりも先にここにいたのかも・・・(いきなり、ため口(笑)。)。
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