平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

越後路顛末記 長岡編 その4

2007年10月19日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

天下統一事業を推し進める大敵・織田信長の前で、内乱を勃発させたことで、滅亡の危機を迎えた、その上杉景勝と同じ事を、中国でも、インドでも、トルコでも、アジア人は行ってしまったことで、世界は列強の支配下に置かれていったわけですが、そう考えると、豊臣秀吉徳川家康オランダ以外の南蛮人勢力を締め出したことは、決して、間違った選択ではなかったように思えます。
それと同義の意味では、幕末の時点で、江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜が、徹底して内乱を回避したことは、日本が植民地化されなかったという点で、大きな意味を持ってくるのではないでしょうか。
ただ、それでも結果的には、戊辰戦争という内乱が勃発するわけですが、もし、このとき、慶喜がわずかでも抗戦に揺れていたならば、たとえどちらが勝ったにせよ、戦いは長期化した可能性が高く、となれば、列強にとっては、「また、向こうから獲物が飛び込んできてくれたわい」的な、笑いが止まらない以外の何ものでもなかったでしょう。

もっとも、むしろ、この点で、河井継之助を評価するのならば、この戦争以前に、財政的に行き詰まっていた長岡藩財政立て直しに見事に成功したその手腕こそあったように思いますが・・・。

で、話を元に戻しますと、昼飯に美味いそばをごちそうになった後、少し不気味な宝物館・如是蔵博物館へ行きました。


(←如是蔵博物館所蔵の、撃墜された長岡出身の山本五十六 連合艦隊司令長官搭乗機の残骸とプロペラの一部だそうです。)

実は、ここは、前回、長岡に来た際に行こうとしたのですが、すでに閉館時間を過ぎていたことで、結局、見ることが出来なかったところで、その後、色々な人から、「あそこにこそ、お宝があったんだ」ということを言われていたので、今度こそは・・・と思っていたところでした。
従って、最初、真っ先にここに行こうとしたのですが、ホテルのフロントの人から、「如是蔵博物館?そんなのは聞いたことがありません」と言われ、さらに、「北越戦争関係の物は、殆どが車で10分ほど行ったところにある長岡市郷土資料館にあります」と言われたので、「ん?こっちのことだったのかな?」と思い、ちょうど、時間的にどこも開いてなかったこともあり、やむなく、タクシーでそこへ向かいました。
ところが、そこには、あまり、目に留めるほどの物はなかったので、帰路、タクシーの運転手さんに、「戊辰戦争当時の物はここにあるって聞いてきたんですけど、あまり、ありませんでしたね。やはり、如是蔵博物館にあるんですか?」と聞いたところ、「いえ、今は色々、記念館などが出来たために所有者がそちらに持って行ったり、あるいは、折り合いが悪かったなどで、所有者が引き上げてしまったりしたんですよ」と。
さらに、「そこに、地震があって、あのお宝というのは保険の対象にならないそうで、その殆どがだめになったそうです」ということでした。

「なるほど、それで・・・」と。
そういうことで、昼食後、友人に付き合ってもらって如是蔵博物館へ行った次第でした。

て、長岡を後に、再び、新幹線で新潟市へ向かいました・・・ので、続く、新潟編は来週・・・と思います。

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