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平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

古代ローマに見る良い仕事をしすぎたが故の作家の功罪 1

2007年09月27日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

今、WOWWOWで、「ROME」(ローマ)というドラマ(?)をやっている。
ローマとは、言うまでもなく、古代ローマのことで、ユリウス=カエサルや、オクタビアヌス、クレオパトラの時代を舞台に、毎週二話、2時間にわたって放送されているのだが、なかなかに見応えがある番組で、大いに気に入っている。
特に、驚くべきは、その舞台設定だ。

これは、本来、史実に表れてこないローマの姿そのものが、忠実に再現されており、そこに出てくる人々は良い意味でも悪い意味でも、実際にそこに生きていた人として、活き活きと描かれている。
主人公は、カエサルでも、オクタビアヌスでもなく、一介のローマ軍兵士二人であり、彼らの生涯と視点を軸に、英雄たちと絡ませることにより、一層、当時のローマという物を等身大で描き出すことに成功したように思える。
史実としては、多少、面白おかしく作ってある部分もあり、また、本来、架空の主人公の兵士二人を含む登場人物の色づけなどには不要論を唱える私も、むしろ、これを切り離してみることこそがフィクションであるかのように思え、見応えという点では、実際のローマかくありし・・・と思わざるを得ないほどの仕上がりである。

街には、ローマ人ばかりではなく、ユダヤ人、マウリタニア人、ゲルマン人、ケルト人、ギリシャ人、エジプト人、ペルシャ人などが、普通に、各々の民族衣装のままで溢れており、この都市が、雑多な人種の集合体であったことがわかるだろう。
ローマのマフィア同士の抗争など、史実にはどこにも出てこない話であろうが、その凄惨ぶりは目を覆わんばかりで、実際のローマかくありき・・・と思わせられる一場面でもある。
さらに、ローマの女同士の争いもまた、上流社会も日本の大奥の比ではなく、売春婦のそれも、「陽暉楼」「吉原炎上」の比ではなく、とにかく、人間の値段が限りなく安価であることに驚かされる。
思えば、キリスト教的価値観が浸透する前であり、そこには「貞操観念」、「同性愛」、「拷問」、「人権」・・・・、即ち、「理論上考えられること」は何でもありの世界なのである。
この点は、いくら、古代のギリシャ・ローマ「民主主義の原型」を求めようとも、そこにあるのは、まごうことなき古代国家であり、しょせん、古代社会は古代社会だな・・という感を強くする。
一部、R-15指定になるのもやむを得ないといえよう。

で、先日、塩野七生女史の大作、「ローマ人の物語」の最終巻を、ようやく、読み終えた。
この点で、故司馬遼太郎氏は、あまりにも良い仕事をしすぎたがゆえに、その裏表としての「功罪」を生じさせた・・・。
即ち、あまりにも良い仕事をしすぎたがゆえに、多くの人が、そこに書いてあることが史実であると思いこんでしまった・・・、つまり、司馬史観というフィルターを通して見てしまっていることである。

そして、その点で、塩野女史もまた、然りであろうか。

明日に続く・・・。

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黒澤明の映画にみる「あの戦争」における平等 後編

2007年09月05日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

「公平」という意味では、まあ、逆に言えば、日本には、それだけ、人を選んでいられる余裕がなかったということでもあるのでしょうが、ただ、この「公平」という点で言えば、天皇家でも決して、その例外ではなかったように聞いております。
今のイギリスなどでも、そうでしょうが、ノブリス・オブリージュという古代ローマ以来の考え方があるヨーロッパでは、高貴な者ほど重い責任を負うということであり、となれば、もっとも高貴な者である王家の人間こそ、率先して、国家の危難に立ち向かわなければならないという発想に至るようです。
チャールズ皇太子も、フォークランド紛争のときは従軍しましたし、今の王子たちも、イラクへ行くとか行かないとかいう話が持ち上がってましたよね。もっとも、一般兵士とは、比べものにならないくらい守られているんでしょうが、だからといって、戦場に赴く以上、まったく危険がないというわけではないわけで・・・。)

その点では、まあ、さすがに天皇陛下その人は別でしょうが、他の皇族方は、結構、軍務に付いていたらしいですね。
明治以降の歴代天皇の弟たちは、皆、軍人でしたし、名目上とはいえ、閑院宮載仁親王のように、参謀総長などの軍務の枢機に預かっていた人も少なくなかったわけで、それなりに、前線に赴くこともあったらしいですよ。
さすがに、天皇の弟が戦死するようなことがあると、「天皇の弟でさえも戦死してしまった」ということで、内外に、戦局の悪化を知らしめるような事になることから、簡単に死ぬようなところには行かせないでしょうが、でも、逆に、軍部の連中からすれば、天皇の弟が「戦死」して、新たな「神社」ができる・・・というのも、国民の士気鼓舞する上では必ずしも悪い話ではなかったのかもしれませんね。
あるいは、誰か一人くらい死んでくれないかな・・・などという不埒なことを思っていた軍人もいたかも・・・。

この点では、庶民から天皇家まで、誰の頭の上にも平等に降りかかってきた「災難」だったからこそ、皆、諦めもついたわけで、逆に言えば、「平等」に降りかかってきた「災難」から、自分だけ逃れようとする者には、国家の縛り以前に、庶民感情として・・・、まさに、文字通り、庶民の「感情」が許せなかったのではないでしょうか。
実際、私が子供の頃、近所になぜか影が薄い老医師がいたのですが、医師というステイタスが高い職業でありながら、なぜ、それほどに影が薄かったかというと、どうやら、戦後40年くらいは、町内で村八分にしていたからだそうで、(もちろん、それには、下人参町自治会長であった私の祖父が、率先して、関わっていたのでしょう(笑)。)何があったかというと、祖父に晩年聞いたところでは、この老医師は、商売柄、薬品に詳しかったことで、戦時中、何らかの方法で徴兵逃れをやったのだとか。
(この辺のことは、現代でも、警察の取り調べよりも、マフィア同士の方が、犯人を割り出すのが早くて間違いがないことが多いように、政府はごまかせても、町内の住民の目はごまかせなかったのでしょうね・・・。もっとも、私が子供の頃となると、さすがに、孫を持つ祖父同士でもあり、さすがに、そこまで露骨ではありませんでしたけどね。)

まあ、天皇家から庶民まで、平等に押しつけられた大災難に対し、一人だけ、避け得た者が居る・・・となると、誰しも、「ふざけんなよ!」という気持ちにもなろうものかと・・・。
でも、想えば、巨匠・黒澤 明からすれば、この辺の、庶民の心理というのは、おいしい部分だったんじゃないですか?
それを描かなかったことを考えると、この辺に、この時代の人の、あまり、触れたくない部分があったのかもしれません。

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黒澤明の映画にみる「あの戦争」における平等 前編

2007年09月04日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

9月を迎え、暑さも、気持ち程度、凌ぎやすくなってきたように思います。
いかがお過ごしでしょうか。
今週末は、ここ(←)に行ってきました。
一服の涼感如何?

で、暑さが多少和らいだということで、この季節、散々、見せられてきた太平洋戦争というものについて、少し、触れておこうと思います。
この戦争については、私も、私なりに、思うことはあるので、一度、自分なりの総括的なことをまとめておきたいんですが、おそらく、それを言うと、からもからも、総攻撃をくらうことになると思いますので、控えさせて頂きます。
で、この戦争を、当時の人たち・・・、私の祖父母の世代の人たちがどう受け取っていたか・・・という点についてですが、もちろん、辛いことであり、好む物ではなかったでしょうが、意外に、「天災」のような感覚で「仕方がない」という諦めにも似た気持ちがあったのではないかという気がしています。

で、その諦観のようなものを支えた一つには、「公平」ということがあったように思えます。
つまり、庄屋の息子も、水呑百姓の息子にも、稼いでいる奴にも稼いでいない奴にも、公平に召集令状が来る・・・ということです。
以前、祖父母とは同時代人である黒澤 明監督の戦後の映画(現代劇)を見ていて、つくづく、思ったのですが、それは、どの「幸せな家庭」にも、どんなに「不幸な家庭」にも、例外なく戦争というモノが出てくることでした。
父子家庭にも、医師家族にも、警察官にも、泥棒にも・・・です。
そこには、殆ど、ひとつの例外もありませんでしたね。

以前、平太郎独白録: 博多に秋が来たことを知らせる風物詩、梨も柿も放生会♪において、博多の放生会という祭りについて触れたのですが、その中で、「当時は、まだ、戦争が終わって、20~30年くらしか経っていない頃ですから、参道の片隅には、傷痍軍人の格好をした物乞いなど」が居た・・・ということについて述べさせて頂きましたが覚えておられますでしょうか。
今の若い方などは、「まあ、可愛そうに」と言われるかもしれませんが、同時代を生きた私の祖父母などは、決して、いい顔をしてませんでしたね。
あるいは、思い出したくない過去・・・って感じだったのかも知れません。
一度、その人たちが、誰か、通行人とケンカしているのを見たことがありますが、「貴様らだけが被害者のような顔をするな!」という罵声を浴びせられてました。
あるいは、この辺が同時代人たちの率直な感情だったのかも知れません。
もっとも、いつの間にか、すっかり、その人たちも見かけなくなりましたけどね・・・。

一応、明日に続きます。

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賢兄愚弟・・・賢弟愚兄・・・いずれが是か非か。

2007年09月03日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

かつて、ナポレオンを評して、「人格はともかく、能力の点では、あの男は、ウラル以西ではカエサル以来の物を持っていた」と評した人がいたという。
では、ウラル以東ヒマラヤ以北・・・、いわゆる、東洋世界ではどうだろうか。
一人は、そのナポレオンをして、「予の壮挙もあの男の前では児戯に等しい」と言わしめたモンゴルの英雄、チンギス・ハーンであろうか。
では、もう一人、カエサルに当たるのは・・・というと、三国志で有名な魏の武帝、曹操が思い浮かぶ・・・。
が、中国三千年の歴史には、あまり、知られていないが、その曹操を凌ぐほどの人物がいるのである。

同年代中国の歴史年表をひもとけば、前の方、古代王朝に位置する部分に、「前漢」「後漢」という二つの漢王朝があるのに気が付く。
その、「前」の方の漢王朝を創始した劉邦という人物は、若い頃から、遊興放蕩の行いが強く、それに対し、その兄、劉仲はまじめで実直、農作業にいそしむ親孝行な人物だったという。
従って、母はいつも、劉邦に向かい、「少しは兄さんを見習ったらどうだい!」と罵倒していたとか。
ところが、劉邦は、無頼の徒に身を投じた後、時運に乗り、反乱軍の頭目となり、ついには、項羽を破って、中国全土を統一し、漢帝国皇帝となってしまった。
後に、母に、「どうです、兄さんと私とどっちが偉かったですか?」と聞いたという。

その後、さしもの隆盛を誇った漢王朝も紀元8年、王莽という人物により、帝位を簒奪され滅亡するが、王莽は古の政治を理想とし、現実を無視した政策を推し進めたことから、国内各地で叛乱が頻発するようになり、時代は再び、乱世となった。
このとき、たまたま、漢王朝の創始者・劉邦と同姓の者に劉秀という若者がいたのだが、この若者は実直温和、質素で農作業に熱心な性格であったが、それと対照的に、その兄、劉縯は家業には手を貸さず、遊侠無頼の徒に交わることを好んだ。

22年冬、その劉縯が挙兵した。
最初は思うように兵が集まらずに苦しんでいたが、慎重な性格と評判であった弟の劉秀が参加すると、蜂起軍に参加する者が次第に増え、ついには、王莽の軍を撃ち破り、一躍、兄弟・・・、特に、劉秀の名は高まった。
その後、兄弟の名声の高まりを恐れた勢力により、劉縯が殺害され、このとき、劉秀にも危険が迫ったが、劉秀は、巧みにそれをくぐり抜け、苦労の末、ついには、自立を果たし、自ら皇帝を名乗る。
これにより、中国大陸は光武帝劉秀によって統一されたのである。
光武帝は、前に滅亡した漢王朝皇帝家の劉家とたまたま同姓だったことから、自らの王朝を、漢王朝の復興政権と位置づけ、国号も「漢」と号したが、後に、これを区別するために、「前漢」、「後漢」と称されるようになった。
これが、後漢王朝の始まりである。

無頼がいいのか、実直でいいのか・・・。
兄が良いのか、弟が良いのか・・・。
その答えは、容易に見出せそうもないが、ただ、無頼派の代表、劉邦は、帝位についた後、功臣らの粛正に動いたことで、その治世に暗い影を落としているが、実直派の代表、劉秀はそういうことはなく、逆に、必要に迫られたとはいえ、度々、奴隷解放令などを公布して、人身売買を厳しく規制するなど、極めて、ヒューマンな政策を実施し、また、門限を守らなかったことで、家臣から、二度も城に入れてもらえなかったなどという微笑ましい逸話も残している。
光武帝劉秀は、高祖劉邦に比べると、日本での知名度は低いものの、中国三千年の歴史の中でも、第一級の人物として、玄人筋では評価されている人物である・・・。

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戦国武将の方向戦略

2007年08月25日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

織田信長の一番凄いところは、先述・戦略・ビジョン・先見性といったこともさることながら、その方向感覚とでもよぶべき国家方針なのではないかと思います。
桶狭間の戦いの後、普通なら空き家となった敗者・今川氏の領土に攻め込み、東へ進むのではないでしょうか?
普通、これを自分のものにして、他の大国と渡り合える力を付けた後、京へ登るなりすることを考えるでしょう。
実際、毛利元就厳島の戦いの後、京都とは反対方向にあたる敗者・大内家の旧領(陶氏の領土)に攻め入って、これを我がものにしています。
むろん、このときの両者の年齢は親子ほどに違うのだから、同じように考えるのはちょっと酷だとは思います。
しかし、100人中99人はこのように考えるのではないでしょうか。
それに対し、信長は徳川家康という、隣国で頭角を現してきた武将にすべてを任せ、脇目もふらず西へ進みます。

他にも、後年、この信長の方向感覚というものは、様々なところで発揮されています。
浅井長政の裏切りによる越前からの撤退などの戦略面ばかりでなく、鉄砲生産元を押さえておきながら、その敵国への流入を全く妨げていないことなどは、自分が一体、この国をどこに持っていくのかという、明確な方針を持っていたことの証しだと思います。
これこそが、今の日本の政治家にもっとも欠けているものではないでしょうか?
これを考えると改めて、信長の凄さを感じます。
だからこそ、信長のその国家方針の卓越性が尚、際だつと思います。
いくら全速力で走ってもゴールと逆の方向へ走ったのでは、いつまでたってもゴールインできませんし、その遅れを取り戻すことは極めて難しいからです。
方向さえ間違ってなければ、少々のずれは修正できる・・・ということでしょうか。

三国志の諸葛孔明の凄いところは、その伝説の戦術にあるのではなく「NO.2国 と同盟し、NO.1大国 に立ち向かう」という国家方針、いわゆる天下三分の計というものにこそあると言われます。
旧帝国日本が一体どこへ向かおうとして、アメリカ中国ソ連と戦争したのか?
ヒットラーはどこへ行こうとして、フランスソ連北アフリカを攻めたのか?
・・・即ち、これこそが、思想に裏打ちされた方向性ということの有る無しなのだと思います。

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タイムマシーンに想う違う道を進もうとも今居る道にくるの理

2007年08月24日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

昔・・・、もう、四半世紀も前のことになりますか、まだ、学生だった頃、私は通学途中にある本屋でよく立ち読みをしていました。
で、そのとき読んだマンガの中に、主人公が、タイムマシーン新人の頃の長嶋茂雄選手を見に行く・・・というのがありました。
ところが、そこで見た長島選手は、意外に、平凡な選手であり、それを見た主人公たちは、これではいかん・・・と、時間を移動して、投手が次に投げて来る球など、次に起こることを見て、再び、元の時間に戻って、それを長島選手の耳元で囁く・・・と。
その結果、「どこからともなく聞こえてくる声」のおかげで、長島選手は、「動物的直感」とまで呼ばれるほどの、常識はずれの勝負強い打撃で、スーパースターへの道を駆け上っていくことになった・・・と。
そして、最後は、その、「どこからともなく聞こえてくる声」を聞くのが、晩年の長島老人の楽しみになった・・・というものでした。

実は、私も、天中殺・・・(古い!)なのか、最近、ツイてないことが続いてまして・・・。
車で出かけた際、うちを出てすぐ、大事な忘れ物をしたことに気づき、慌てて、バックしたところ、慌てていたこともあり、傍に駐車してあった車に、思い切り、ぶつけてしまいました。
まあ、このときは、相手も、非常に良い方で、特に何事もなく片づいたのですが、ただ、何も無理してバックする必要もなかったわけで・・・。
こんなとき、どこからともなく声が聞こえて来て、「バックするな!」とか、あるいは、「そのまま、そこに停めろ!」などと言ってくれれば・・・と思った次第でした。

この点で、先日の新聞に、福岡市職員が運転する酒酔い運転の車に、追突され、子供三人が溺死した事件から、一周忌・・・というニュースが載ってました。
(先日も、海水浴の帰りに通ったのですが、「献花台駐車場」なる看板が目に付きましたから、今でも、花を手向ける人たちは少なくないのでしょうね・・・。胸が痛みます。)
私は、あの折りも申し上げましたが、被害者としての目線よりも、自分が加害者、あるいは、加害者の親になってしまった場合のことの方を強く考えました。
あの、加害者の若者も、朝、家を出るときには、自分がその日の夜に、全国紙を賑わすような大事件加害者になっているとは夢にも思わなかったでしょう。
まあ、彼の場合、「どこからともなく聞こえてくる声」が、少々、「乗ってはいけない」と言ったところでハンドルを握ったんだろうとは思いますが(酔っぱらいとは、そんなもんですから・・・・。)、ただ、そこまで行かなくても、私が似たようなことにならなかったとも限らないわけですよね。

その意味で、15年くらい前でしょうか、私は、ある方から、「私も、本来は、**志望だったので、あのとき、そちらの道へ進んでいたら、今頃、違う人生送ってますよ」ということを言われたことがあるのですが、このとき、私は「いや、人間というものは違う道を進もうとも、結局、今居る道にくるものですよ」と答えたところ、相手は怪訝な顔をしてました。
私も、別段、何か根拠があっての話ではなかったのですが、なぜか、そんな気がしました。
人間なんて、少々、道が違っても、分相応の道を歩むもんさ・・・と。

それで思い出したのですが、数年前に上映された、映画、「タイムマシーン」で、恋人を強盗の銃弾により亡くした男が、タイムマシーンを作って、過去へ行き、恋人が災難に巻き込まれないように誘導し、馬車で自宅まで送り届けたところ、恋人は馬車から降りてすぐに、交通事故で死んでしまう・・・というストーリーでしたよね。
まあ、恋人の死という点では同じでも、加害者が違うわけですから、その後の加害者の人生には与えた影響ということを考えれば、あまりにも、主人公中心史観に過ぎる展開だとは思いますが、そこまで極端でないにしても、人間の人生の到達点という意味では、この映画の言っていることは、何となく、当を得ているような気が・・・。

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昭和は遠く成りにけり、「父・緒方竹虎と私」を読み終えて 2

2007年07月27日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

一昨日の続きである。

緒方四十郎氏の大著にて、次に印象に残ったのは、公職追放解除がなったばかりの父、緒方竹虎に、新たに発足する保安庁長官就任の話が持ち上がったとき、社会人一年目の著者が真っ向からこれに反対したときの記述である。
曰く、「日本が独立国となる以上は、自衛の軍備を保有する必要があることは僕も認める。しかし、新しい軍隊は、かつてのそれと異なり、完全に国民、即ちその代表者としての国会のコントロールの下におかなければならない。従って、軍事を担当する国務大臣は必ず国会議員として、それ自身の地位についても国会及び国民にコントロールされる者でなければならない。もしかりに父が民主的でかつ有能な人物であって軍人を旨くおさえることができたとしても、それはたまたま人物に恵まれたまでのことであり、原則としては、国会議員が軍事を担当すべきだ。最初が一番大切なのだから、第一番目の保安相はこの原則論で行くべきだ」と。

この点は、大いに考えさせられる話である。
まず、著者は、「自衛についての軍備の保有」については、はっきりと、これを肯定している点である。
その上で、戦前までのようなことのないよう、シビリアン・コントロールについて言及しており、驚くべきは、学生に毛が生えた程度の若さで、ここまで、具体的な見識を持っていたということであろうか。
この点は、良い悪いではなく、また、あくまで、当時の所感であることには留意すべきだろうが、少なくとも、この後、この新時代を生きて行かねばならない、当時の若者がリアルタイムで持った所感として、何かしら、伝わってくるものが感じられる。

これに対して、父・竹虎は、熟慮の末に、保安相就任の決意を固めたが、結局、保安相就任は、本人の意に反して、その後、何ら進展のないまま、衆議院解散に至ったことで、緒方竹虎は正式に自由党より出馬し当選した。
これにより、著者の指摘は杞憂に終わったが、これは、ただ、結果的にそうなっただけで、著者の指摘は十二分にもっともなことであったろう。
改めて、著者の見識の高さに敬意を表するばかりである。

ただ、著者の見識も、そこに至るまでに感じたのは、やはり、うらやむべくはその恵まれた人脈であろうか。
曾祖父は、緒方洪庵と義兄弟の盟を結び緒方姓を名乗り、祖父は適塾出身の佐野常民に同行してオーストリアに学び、帰国後、内務省入省から山形県庁に勤務。
(ここで、竹虎が生まれている。)
4年後、福岡県庁へ転勤、その後、福岡県農工銀行頭取
竹虎は、高校まで、福岡で学んでいるが、このときの学友に、東条内閣を批判して、割腹自殺を遂げた中野正剛がいる。
その後、竹虎に息子の嫁の妹を妻に世話したのは、観樹将軍と呼ばれ、長州奇兵隊上がりの維新の元勲、三浦梧楼
つまり、三浦は、著者からすれば、義理の大伯父となるわけで、このときの仲人は、頭山 満・・・。
それらの人脈から、古島一雄、 吉田 茂などとの交流も普通に出てくる辺り、何とも羨ましいような環境であったといえ、その意味では、以前、読んだ大久保利通の次男、牧野伸顕伯の自伝を想起した。

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昭和は遠く成りにけり、「父・緒方竹虎と私」を読み終えて 1

2007年07月25日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先日、緒方 四十郎著、「遙かなる昭和―父・緒方竹虎と私」という本を読み終えた。
著者の父君で、この本のタイトルにもなっている緒方竹虎翁は、現在では、あまり、知る人もいなくなったのかもしれないが、地元・福岡では「あの岸 信介も、緒方在りせば首相になること能わなかった」と言われるほどに、未だに知る人ぞ知る名前である。

(←福岡市の中心部付近にある緒方竹虎邸宅跡。)

その翁が、最近、あの!緒方貞子女史の舅であるということを聞き、かねてより、是非、その二人を結びつける立場にある著者の話を聞いてみたいと思っていた。
残念ながら、著者が夫人と結婚されたのは父君没後とのことらしく、両者の直接のエピソードなどを聞くことは出来なかったが、差し引いて有り余るくらい、父・竹虎という、昭和史に名を残す人物を「膝下」より眺めた貴重な話を知ることが出来た。
(特に、著者が米国留学中に父の死と遭遇する前後の手紙のやりとりについての記述は、竹虎翁の末子への細やかな情愛が伝わってくるようで、思わず、胸が詰まると同時に、羨ましくもあった。)

ただ、私は、不覚にも、この本を読むまで著者のことはまったく存じ上げなかったのだが、この本は、同時に、著者の見識の高さを印象づけた一冊でもあった。
特に印象に残ったのが、戦後、著者が、まだ学生であった頃に当時の時事について、今読んでも、極めて適切な意見を持っておられたことである。
一部抜粋すると、サンフランシスコ講和条約においての、吉田 茂の演説について、こう批評している。
「第一に、彼は奄美大島、小笠原諸島が歴史的にみても日本の領土であり、決して侵略によって獲得したものでないことを史実を挙げて立証すべきであった。
 第二に、過去の日本の侵略によってもっとも大きな痛手を受けた中国民衆と同席することができないことを遺憾に思うこと、アジアなくしては日本はありえないという歴史的地理的条件からして、日本政府は中国民衆との協力、なかんずく経済的協力を心から望んでいる旨を力説すべきであった。
 第三に、彼は不必要な程度にまで共産主義の脅威を力説しすぎた。我々とても共産主義の浸透の危険を感じないわけではないが、共産主義は社会的不正義、政治的圧制の存するところに、最も育ち易い。
 第四に、日本が昔日の日本でなく、新しい国民に生れかわっていることを述べるにあたっては、日本は、新しい憲法の定める国民主権、基本的人権の保障という二つの基本原理を講和後も守り抜く決意をもっている旨を強調して、ソ連修正案に答えるべきであった。
 第五に、演説を結ぶにあたっては、日本はこの上なく世界平和を希求するものであること、何故なら、日本こそは、世界史上において原子爆弾の洗礼を最初に受けた国民であり、あの惨澹たる原子爆弾の魔力を考えるとき、次の大戦が必ずや世界の破滅と人類の終焉をもたらすものであることを他のいずれの国民にもましてよく認識しているからであること、日本が降伏後、率先軍備を放棄したように全世界が一日も早く戦争と軍備を放棄する日が来ることを望むものであること、何故なら、我々は剣によって立つものは剣によって亡ぶとの堅い信念を有するからであることを力説すべきであった」

明日に続く。

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塩野七生女史の言に我が意を得たり2 二度目の中世へ

2007年07月18日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きである。

塩野七生女史の大著、「ローマ人の物語」は、言わずとしれたローマ時代の歴史を系統立てて著した大作であり、この手の日本語のものに飢えていたこともあり、私も愛読させて頂いている。
もっとも、女史が一年に一冊、上梓してこられたように、私も、同時並行で、数冊を読んでいる身としては、自宅トイレで今年一年かけて最後の一冊を読み終えるつもりである(笑)。

さておき、女史は今年初めのインタビューの中で、「ローマ人の物語」が完結したことに触れ、「ローマの歴史は、普通は西ローマ帝国滅亡した5世紀後半で終わります。でも私は7世紀後半まで書きました。この時代は地中海の向こうにイスラムがかすんで見えてくる時代なんです。ここから中世が始まる。二つの一神教の世界の、大変な時代になる。『パックス・ロマーナ(ローマの平和)』という、ローマ帝国による国際秩序がローマとともになくなり、よく言えば群雄都拠、悪く言えば法律ではなく腕力暴力で支配する時代」になるかもしれないと述べておられたのだが、まあ、当時とは中国という物の存在ひとつをとっても前提にはないわけで、そのまま、往事と同じ、「キリスト教国家対イスラム教国家」という単純な図式にはならないとは思うが、それでも、女史の言われることを現代世界に当てはめたならばどうなるか・・・である。

まず、世界をリードする大国アメリカが衰亡するかどうか・・・ということだが、あの軍産複合体というものは、戦前の日本と同じで、倒れるまで走り続けるもののように思われる。
そして、今や、その軍産複合体依存体質はアメリカそのものと言っても良いほどになっており、それから脱却することはおそらく、不可能でありろう。
イラク出兵問題ひとつとっても、議会では、満足な議論が為されなかったことからもそれがわかると思う。
選挙に通るためには軍産複合体の支援に頼らざるを得ないからである。
その意味では、必ずやアメリカは衰退のスパイラルに入ったと言って良いように思える。

その上で、さらに、私は、古代ローマ帝国コンスタンチヌス大帝により、キリスト教国家へと転じた辺りのことは、イマイチ、どうにも、理解できていないのだが、これは、むしろ、今のアメリカにおけるメガチャーチと呼ばれるキリスト教系の巨大宗教保守団体の台頭を見ていると、何となく、わかるような気がしてくる。
人々は、自分の生活が苦しくなり始め、また、明らかに国家が行き詰まり始め、希望が見出せなくなると、敢えて、見たくない物は見ようとしない・・・、つまり、宗教への傾倒を深めるのではないだろうかと。
巨大宗教団体は、信者を集めることで、説教本などの印税寄付金などで財政は潤い、潤沢な資金は教会を一大レジャーランドに変え、さらに、人を集める・・・。
その結果、信者は教会・・・、いや、神職が推す人に投票するようになり、政治も、ますます、これらの力を憚るようになる・・・。
コンスタンチヌス大帝後は、ついに、司教・アンブロジウスが皇帝以上の勢威を得て行ったことに似ているように思えるのである。

マキャベリの政体循環論を考えるまでもなく、現代でも、これしか行き着く先はないのではないか・・・と、なぜか、そんな気がした。
その上で塩野女史は、上記のインタビューを、「もしかしたら今、世界は2度目の中世に入っているのかもしれませんね」と結んでおられたことが、何とも暗示的に聞こえた。

続きはまた明日。

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十把一絡げたちの歌

2007年07月14日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

本日、福岡県地方は暴風域には入らないようですが、まだ梅雨も終わらないのに台風だなんて・・・。

で、今、NHKで、「シルクロード」という番組をやっていますが、その中の、少し前に見た物の中に何とも考えさせられる部分がありました。
それは、「シルクロード」の中でも、観光地として有名な「敦煌」の回だったのですが、敦煌と言えばイコールと言ってもいいのが莫高窟(ばっこうくつ)でしょうが、その莫高窟から20世紀初頭に、様々な文書が発見されたそうで、今では、そのおかげで随分と研究も進み、当時の人々の営みもある程度わかってきたとのことでした。

それによると、の時代、この辺りは西域諸国との国境付近であったらしく、国境紛争が頻繁だったようで、ある村では男子7割徴兵されたと言います。
さらに、戦闘は激しく、少なからぬ戦死者を出していたようですが、戦死者には朝廷より戒名が与えられるだけで、一切、補償などはなかったそうで、その上、働き手戦場に取られたからか、人々の生活は苦しく、借金カタ7歳になる息子奴隷として奪われた際の契約書なども見つかったそうです。
その契約書には、事細かに取り決めが規定されており、「生きている間は一切、会ってはいけない」、「死んだら、遺体は引き取って良い」などという条項などもあったとか・・・。
いつの時代も、王朝とはエゴイスティック極みのようなもので、古今東西、おそらく、こういう例には枚挙にいとまがないのでしょう。

そう考えてみれば、我々、現代日本人は何とも良い時代に生きているものだと、改めて再認識せずにはおれませんでした。
いくら、治安が悪くなったと言っても、父も子も、兄も弟も、片っ端から戦場に送られるわけでもないし、生活が楽ではないと言っても、子供を借金の形に奴隷に取られることが当たり前でもないわけですから・・・。

でも、そこまで考えて、ふと、とんでもないことに気付きました。
これって、よく考えてみれば、何も古代中国のことなんかじゃなく、戦前までの日本人の姿そのものじゃないですか!
庶民の命なんか虫けらとも思わず、十把一絡げで片っ端から徴兵して、絶望的戦場に送り込む。
働き手を失ったばかりか、国家予算大半軍事費に奪われ、凶作になれば、を売らなければならなかった大日本帝国の農民の姿そのものではないですか!
そこまで考えたら、改めて、戦前の人たちの懊悩が、何とも身近なものに思えました。
人間とは、何とも業の深いものですね・・・。

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徒然なるままに行き当たりばったりの旅4 彦根城

2007年07月09日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先週からの続きです。

そんなこんなで、豊橋から、滋賀県は彦根に行ってきたのですが、彦根は、今、築城400年ということで、色々、イベントをやってましたが、全体として、街の印象は岐阜の大垣に似ているな・・・と。
あまり、街全体が賑わっているようには感じられませんでしたね。
で、彦根藩主井伊家といえば、何と言っても、先日も申しました幕末の大老・井伊直弼・・・です。


この人は元々、次男三男どころか、家を継ぐ可能性など殆ど無い十四男であり、どういうわけか兄弟の中でも、ただ一人他家への養子入りもうまく行かず、生涯をこの「埋木舎」(↑)と呼ばれる家で終えるはずだったとか。
運命の糸・・・としか思えない取り合わせですよね。
もっとも、前藩主となった兄に、はっきりと、子供が望めなくなってからは、後継者として兄の養子になったそうですが、兄からすれば、実子ではなく、何ともしれない売れ残りの異母弟になど譲らなければならなかったと言う点で、どうにも、内心、納得がいかなかったようで、直弼は、養子縁組以降、兄が亡くなるまでは、随分といじめられたそうですよ。

で、彦根に行くに当たって、一番、知りたかったのが、佐和山城との位置関係でした。
佐和山城とは、昨日もちらっと述べましたが、織田信長丹羽長秀を置き、豊臣秀吉石田三成を置いたことでも、その重要性が見て取れると思いますが、単に、近江支配の要地・・・というだけにとどまらず、京都~岐阜間中継地点であると同時に、中山道、東海道などが集中する交通の要衝であり、天下統一・・・つまり、覇権維持のためにははずせない要地だったようです。
そのため、徳川家康も、関ヶ原の戦いで勝利して後は、ここに、徳川四天王の一人である、重臣・井伊直政を置いたと・・・。
といっても、やはり、有名なのは石田三成の居城としてだったでしょう。
三成によって、「三成に 過ぎたる物が二つあり 佐和山城と 島左近」と読まれたほどに、規模拡張され、最後は、関ヶ原の戦いの後に東軍の猛攻を受け落城し、そのまま、廃城となったことを考えれば、「三成の城」と言っていいかと思います。

その後、直政死後、徳川家では、佐和山よりも彦根山の重要性に刮目し、ここに城を築いて西からの敵を迎撃することにしたと。
それが、彦根城の始まりだということは知っていたのですが、戦略眼ということであれば、信長も秀吉も、それほど家康に劣るものでもないでしょうし、山城平城の時代的相違という点では、信長はともかく、秀吉と家康に限って言えば、それほど、相違があるとも思えません。

明日に続きます。

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大老、井伊直弼の歴史的位置付け

2007年07月07日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

井伊直弼という人物が居ます。
この人は、ご承知の通り、彦根藩主であると同時に、桜田門外の変で暗殺された江戸幕府の大老、つまり大実力者だったわけですが、彼の暗殺は、あの司馬遼太氏をして、「時代が10年進んだ」と言わしめたほど、時代逆行していたと言われています。
しかし、彼の思想自体は保守的であったとしても、彼の採った政策は、後の明治政府とも、それほど大きな隔たりがあったようには感じられません。
(この点では、「航海遠略策」を掲げながらも攘夷の声に押され、非業の死を遂げた長州藩の長井雅楽も同様ですが・・・。)

そう考えれば、果たして彼は、暗殺に値する頑迷固陋「愚者」だったのか、それとも、単に運が悪かっただけの「悲劇の人」だったのか、私の中では歴史上の位置づけが決めかねる人物でした。
で、最近、やっと思い当たったことがあるのですが、結論を言うなら、彼は時代の流れというものを認識しようとはせず、それを押し戻そうとして、一旦、動き始めた時流の力の前に押しつぶされた人物であったと思います。
ただ、ここで問題なのは、彼が歴史を押し戻そうとしたのは、政策自体ではなく、それを実行する者がなのか?と言う権力闘争の為であったということです。

即ち、彼にとっては、開国攘夷かの政策論争は問題ではなく、その政策を決定するのは川幕府であり、その幕府を動かすのは家康が定めた通りの譜代大名でなければならないということだったわけです。
つまり、権力闘争は権力闘争でも、一方では、家康以来のそのシステムを繕いながらも護っていかなければ成らない、護っていけるとする直弼らと、国難に際し、挙国一致の為にも、自分たちも国政へ参加させろ!という、それまで幕政から閉め出されてきた者たちとの、目指そうとする国体の違いによる対立だったと言えるでしょうか・・・。
従って、直弼は、英明の誉れ高い薩摩の島津成彬はもとより、水戸川家出身で、八代将軍吉宗を祖とする一橋徳川家の当主であった徳川慶喜や、同じく、田安徳川家の出身である松平春嶽などの親藩諸侯ですら、幕政への参与を徹底的に排除し続けたわけです。

ところが、皮肉なことに直弼による「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧によって、時代は直弼の横死後、もの凄い奔流となって川幕府を呑み込み、明治新政府の樹立へと繋がったわけですが、その明治政府を動かすことになったのは、島津でもなければ毛利でもない、直弼からすれば大名でも何でもない陪臣と呼ばれる西盛大久保利通木戸孝允ら外様大名の家臣らであり、さらに彼らの遺志を継いで、明治日本をリードしていくのは、直弼からみれば、江戸時代の巨大な身分ピラミッドの中では、武士以前の虫けらにも等しい身分であった伊藤博文山県有朋ら卑賤の者たちであろうとは、直弼も夢にも思わなかったでしょう。
もし、直弼が権力を独占することをせず、幕政参加者を大名、諸侯にまで拡げていれば、あるいは伊藤、山県らの時代はなく、その後の歴史も随分、変わったかもしれません。
直弼は、この点で、革命という底辺の者たちの唸り声に対して、余りにも無関心で有りすぎたといえるのでしょう。
もっとも、封建君主にそれに気付けというのは、ちょっと無理な話だったでしょうが・・・。

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徒然なるままに行き当たりばったりの旅3 名古屋~彦根

2007年07月05日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

はい、昨日の続きです。

静岡・愛知から滋賀・京都への移動で、その気候の変動に思いを馳せ、名古屋から、岐阜、滋賀、京都天下獲りの歩を進めた織田信長に率いられた尾張兵も、このわずかな距離での気候の変動にはとまどったのでは・・・と思い至ったわけですが、でも、よく考えたら、彼らは皆、「歩き」でのスピードですから、関ヶ原に着いたときに名古屋の天気がどうなっているか・・・などということは知るよしもなかったわけですよね。
新幹線のスピード気象観測情報の充実が得られた現代だからこそ、この気候の変化に驚くわけで・・・。


(↑伊豆は宇佐見温泉があるJR伊東線の宇佐美駅です・・・。初日は、ここで下車しました。伊豆の印象は・・・と言われれば、改めて、伊豆は関東だよなー・・・というものだったでしょうか。)

ただ、そうは言っても、そこに住んでみれば、ここが故郷に比べて著しく寒暖の差が激しい地だ・・・ということには気づくでしょうから、そう考えれば、信長が、京都と本拠地・岐阜の間に安土城を築いたのもわからないでもないような気がしました。
当時の交通事情を考えると、京都と岐阜の間に、使い勝手の良い居城をひとつ置いておかないと、ちと、きついですよね。
でも、信長も、利便性のために安土城を築いたものの、そのまま、ここを終の棲家としようとは思わなかったような気がします。

ちなみに、安土城築城以前は、信長は、彦根と目と鼻の先にある佐和山城を利用していたようで、その後も、秀吉時代には石田三成が、関ヶ原以降の徳川期には徳川四天王の一人、井伊直政を置き、直政没後、井伊家彦根城を築いて新たな居城としたわけで、それだけでも、この彦根市というところの重要性がわかるかと。


(↑御殿と、その背後にそびえる彦根城天守閣・・・です。)

で、岡崎を過ぎ、そのまま彦根へ向かうことにしたわけですが、ところが、特別快速に乗ったにも関わらず、豊橋~名古屋間でさえも遠い遠い!
丸々、小一時間・・・。
これで、このままの調子で終点・米原まで行ったら、下手すりゃ今日中に家に帰り着けないぞ・・・と思い、急遽、名古屋で新幹線に乗り換えて、米原へ。
で、そこでローカル線に乗り換えて彦根へ行ってきました。

また、明日に続きます。

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時代は違えども・・・裂帛の気魄至言三態

2007年06月25日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

「立ちゆかぬときは・・・、立ちゆかぬときは・・・、それがしが何としても立ちゆくようにして見せまする!」

これは、以前、平太郎独白録 「真田太平記に見る昭和的クソ親父のあり方」でも触れさせていただきました、二十年くらい前のNHKドラマ、真田太平記の中での主人公、真田信幸真田幸村の兄)が言う言葉です。
お家滅亡の危機に直面した真田家で、「当家は、もはや、立ちゆかぬかもしれぬ」という話になったときに、狼狽した母より、 「たちゆかぬときは如何するのじゃ?」と言われた渡瀬恒彦演ずる若き真田信幸が、覚悟の果てに毅然と言い放った言葉です。
このドラマがあったとき、私もまだ、二十代前半だったかと記憶しているのですが、どういう自体になっても、家を「立ちゆかせ」なければならない立場にある長男として、大変、印象に残りました。


その真田家が本拠をとした信州上田城の正門前にある「真田石」
(ただし、信幸自身は父、昌幸の失脚後に入城。)
後年、真田家が松代に移されたときに、信幸が、父、昌幸の形見として、この石を持って行こうとしたところ、あまりの重さに断念したとか。
当時は、築城に当たっては、巨石を一番、目立つところに使うことが流行しており、つまりは、「うちの殿様は、これだけの巨石を城の石垣に使えるほどの勢威がある」ということを誇示するためのものだったそうです。

一方で、「武士が病で死ぬなど情けない」とは、数年前の大河ドラマ、「北条時宗」の中で、渡辺謙扮する時宗の父、北条時頼が病に伏すようになったときに言うセリフです。
なぜか、敵に銃撃され、重傷を負ったイギリスネルソン提督が最期にいう言葉、「私は義務を果たした」を想起してしまいましたが、妙に人の命が大切にされるのが当たり前になっている現代日本と比すれば、「武士の気骨」を見せられたようで新鮮な驚きを感じましたね。

で、最後は、この言葉です。

「戦争など恐ろしいことがあるか!こちらも鉄砲持ってるのに!」

これ・・・実は、私の祖父(下人参町自治会長(笑)。)が生前、言った言葉です。
私が「戦争は恐ろしかったね?」と聞いたとき、「馬鹿たれが!」と一喝した後、訝しむ私に向かってこう言いました。
もっとも、その祖父も、続けて、「ただ、夜戦だけは恐ろしかった。どこから、弾が飛んでくるかわからないからな」と述懐していましたから、何だか、ただの負け惜しみなどではなく、本当に恐ろしくなかったようにも思えましたよ。
明治人の気骨、ここにあり!・・・って感じですね(笑)。

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日本の中枢で現代も生き続ける長州閥

2007年06月23日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

以前、元総理大臣、岸信介について書かれた本を読んだことがあります。
今頃、なぜ、岸信介なのか?と言いますと、私が興味があったのは、岸とは実弟佐藤栄作の夫人を通しての義理の伯父に当たる、松岡洋右国連脱退時の全権代表にして三国同盟の立役者。近衛内閣で外務大臣。)との関係を知りたかったからです。
二人は、満州国「2キ3スケ」と言われた大物同士で、かつ同郷で親戚同士で有れば、当然、他者には入れないような濃厚な関係があったと思うのが普通でしょうが、佐藤と松岡の伝記には、ここら辺のことについては、実にあっさりとしか書かれていませんでした。

私が松岡と岸、佐藤兄弟の関係を知りたいと思った理由。
それは、明治日本を牛耳った藩閥のなかで、長州閥のみが今でも生きていると思うからです。
かつて、司馬遼太郎さんは、「革命というものは三世代に渡ってなされる。まず第一に思想家が出てくる。長州においては吉田松陰、薩摩では島津成彬がこれにあたるが、多くは非業の死を遂げる。第二にその後を受け、革命家が出てくる。高杉晋作、桂小五郎、西郷吉之助、大久保一蔵らがこれに当たる。そして、これも多くは、事半ばにして死ぬ。そして最後に出てくるのが政治家である。伊藤、山県、井上、松方、黒田、大山、西郷弟らがこれに当たる。」と言っておられます。
その論で行けば、第一世代には孫文、マルクスらがあたり、第二世代には、毛沢東、レーニンらがこれにあたり、第三世代には、小平、スターリンらがこれにあたるのでしょうか・・・。
ところが、閥としては大正期の山本権兵衛を最後に完結している薩摩に対し、長州閥はしぶとく生き続けたと言えるのではないでしょうか?

伊藤、山県、井上ら第三世代の後も、児玉、乃木ら日露戦争の英雄をはじめ、桂、寺内、田中となおも三人の首相を輩出し続けた長州閥。
ここら辺は、恬淡とした伊藤博文と違い、閥意識が強かった山県有朋という人の性格が、こういう結果を導いたのかもしれません。
そして、その最後の山県門下生こそが松岡洋右なのです。
なぜならば、松岡の仲人は山県の懐刀であった田中義一元首相であり、その松岡と縁戚関係で繋がりを持つのが、岸信介佐藤栄作総理大臣兄弟だからです。
この二人が戦後、巨頭として隠然たる勢力を誇ったばかりか、そのあと、総理には届かなかったとは言え、岸の娘婿である安倍晋太郎が巨頭として存在感を誇ったことは記憶に新しく、それはその子、安陪晋三現内閣総理大臣や、佐藤栄作の子、佐藤信二氏らに引き継がれているのではないでしょうか?

鹿児島出身の有力政治家がいないわけではありませんが、彼らはで存在しているのであり、閥としての繋がりがあるようには感じられないのに対し、長州閥というものは上述のように、閥としての流れを維持したまま、存在しているように思えます。
ここら辺が、長州人というものの県民性なのかもしれません・・・。

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