親愛なるアッティクスへ
7月ですね。
7月になると、博多はこの季節になります。
言うまでもなく、博多祇園山笠ですね。
でも、「博多祇園山笠」って、「福岡」にあるんじゃなかったっけ?といったお話も耳にします。
ここで、今更ながらの説明で恐縮なのですが、よく、当方が地元の話題を取り上げますときに、「福岡」と「博多」というのが出てきていると思います。
あるいは、事情がおわかりにならない方の為に、念のため、簡単に触れておいた方がいいかと思っておりました。
まず、これは、逆に現代の感覚で言うとわかりやすいのですが、福岡市の都心と呼ばれる地域は福岡市中央区の北半分と福岡市博多区の同じく北1/4くらいがこれにあたります。
(福岡ドームなどがある辺りは福岡市早良区の北のほんの一部になりますが、こちらは、中心街からは、少し離れたところにあり、規模もまだまだですので、感覚的には副都心の一つでしかありません。ここに住んで、中央区や博多区などに通勤している人たちをたくさん知ってますから・・・。)
で、ほぼ、その地域が「福岡」と「博多」と呼んでいいように思うのですが、雰囲気的にわかりやすく言うと、「福岡」は「山の手」、「博多」は「下町」というところでしょうか。
両者の間には那珂川という川が流れており、この河口にあるのが九州一の一大歓楽街、中洲で、言わば、両者は中洲を挟んで対峙するような形になっております。
で、この那珂川ですが、江戸時代には橋もあまり、架かってなく、福岡と博多を行き来する人も殆ど無かったとか。
で、なぜ、こういうことになったかというと・・・。
度々、触れております通り、現在の福岡市は、古来から天然の良港として栄えた港町でして、古くは「那津」と言われ、現在の「福岡」には、筑紫館、鴻臚館などの迎賓館が存在しており、ある時期から、ここが衰退し、中心が「博多」に移ったのだとか。
で、博多は国際貿易港として、港湾設備も整備され、埋め立てなども進み、大いに栄えた訳ですが、戦国時代になると、当然、群雄の取り合いになって、焦土と化したとか。
で、豊臣秀吉が島津征伐の帰途、博多に立ち寄った際、国際貿易港のあまりの荒廃を嘆き、即座に博多の復興を腹心の石田三成、黒田如水、増田長盛らに命じ、それで、出来上がったのが、現代でも面影を残す、「碁盤の目」の区画、「太閤町割り」です。
その結果、博多では神谷宗湛や島井宗室などに代表される博多商人が台頭し、繁栄を謳歌するのですが、ところが、今度は秀吉が死ぬと間もなく、石田三成と徳川家康の間で天下分け目の合戦と言われる「関ヶ原の戦い」が起こり、これにより、上述の黒田如水の息子にして、隣国、豊前国の領主であった黒田長政が、新たに筑前国の領主となります。
黒田家は、筑前国に入国すると、博多の隣、かつて、筑紫館や鴻臚館があったところをそれまでの「福崎」という地名から、黒田家発祥の地である福岡(岡山県)という名前に変え、ここに城を築きます。
これが福岡です。
ということで、武士の町「福岡」と商人の町「博多」が出来上がったわけですが、今度は、明治になって、大日本帝国憲法の発布とそれに伴う、市制施行が導入されることとなったき、当時の議会は市名の命名を巡って、大紛糾したそうで、当然、博多部出身の議員は全員、「博多市」を主張し、福岡部出身の議員は全員、「福岡市」を主張。
結局、ケンケンガクガクの挙げ句、遂に投票となり、衆人の見守る中、投票結果は・・・同数。
それで、投票に加わってなかった議長の一票で決まる!と言うことになり、福岡部出身の議長が投じた運命の一票は「福岡市」・・・。
この議長さん、未だに博多部の人からは、よく言われてません・・・(笑)。
で、当然、この結果に納得出来ないのが博多人・・・。
博多人の怨念はその後も長く続き、福岡人も結構、これには辟易していたようで(今でも・・・?)、その後、今度は「国鉄が駅を作る」となったときは、「市名は福岡になったっちゃけん、駅名くらい寄越せ!」という意見が強かったようで、割とすんなり、「博多駅」で決着したのだとか(笑)。
続きは、明日のココロだ~・・・と思う。
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7月ですね。
7月になると、博多はこの季節になります。
言うまでもなく、博多祇園山笠ですね。
でも、「博多祇園山笠」って、「福岡」にあるんじゃなかったっけ?といったお話も耳にします。
ここで、今更ながらの説明で恐縮なのですが、よく、当方が地元の話題を取り上げますときに、「福岡」と「博多」というのが出てきていると思います。
あるいは、事情がおわかりにならない方の為に、念のため、簡単に触れておいた方がいいかと思っておりました。
まず、これは、逆に現代の感覚で言うとわかりやすいのですが、福岡市の都心と呼ばれる地域は福岡市中央区の北半分と福岡市博多区の同じく北1/4くらいがこれにあたります。
(福岡ドームなどがある辺りは福岡市早良区の北のほんの一部になりますが、こちらは、中心街からは、少し離れたところにあり、規模もまだまだですので、感覚的には副都心の一つでしかありません。ここに住んで、中央区や博多区などに通勤している人たちをたくさん知ってますから・・・。)
で、ほぼ、その地域が「福岡」と「博多」と呼んでいいように思うのですが、雰囲気的にわかりやすく言うと、「福岡」は「山の手」、「博多」は「下町」というところでしょうか。
両者の間には那珂川という川が流れており、この河口にあるのが九州一の一大歓楽街、中洲で、言わば、両者は中洲を挟んで対峙するような形になっております。
で、この那珂川ですが、江戸時代には橋もあまり、架かってなく、福岡と博多を行き来する人も殆ど無かったとか。
で、なぜ、こういうことになったかというと・・・。
度々、触れております通り、現在の福岡市は、古来から天然の良港として栄えた港町でして、古くは「那津」と言われ、現在の「福岡」には、筑紫館、鴻臚館などの迎賓館が存在しており、ある時期から、ここが衰退し、中心が「博多」に移ったのだとか。
で、博多は国際貿易港として、港湾設備も整備され、埋め立てなども進み、大いに栄えた訳ですが、戦国時代になると、当然、群雄の取り合いになって、焦土と化したとか。
で、豊臣秀吉が島津征伐の帰途、博多に立ち寄った際、国際貿易港のあまりの荒廃を嘆き、即座に博多の復興を腹心の石田三成、黒田如水、増田長盛らに命じ、それで、出来上がったのが、現代でも面影を残す、「碁盤の目」の区画、「太閤町割り」です。
その結果、博多では神谷宗湛や島井宗室などに代表される博多商人が台頭し、繁栄を謳歌するのですが、ところが、今度は秀吉が死ぬと間もなく、石田三成と徳川家康の間で天下分け目の合戦と言われる「関ヶ原の戦い」が起こり、これにより、上述の黒田如水の息子にして、隣国、豊前国の領主であった黒田長政が、新たに筑前国の領主となります。
黒田家は、筑前国に入国すると、博多の隣、かつて、筑紫館や鴻臚館があったところをそれまでの「福崎」という地名から、黒田家発祥の地である福岡(岡山県)という名前に変え、ここに城を築きます。
これが福岡です。
ということで、武士の町「福岡」と商人の町「博多」が出来上がったわけですが、今度は、明治になって、大日本帝国憲法の発布とそれに伴う、市制施行が導入されることとなったき、当時の議会は市名の命名を巡って、大紛糾したそうで、当然、博多部出身の議員は全員、「博多市」を主張し、福岡部出身の議員は全員、「福岡市」を主張。
結局、ケンケンガクガクの挙げ句、遂に投票となり、衆人の見守る中、投票結果は・・・同数。
それで、投票に加わってなかった議長の一票で決まる!と言うことになり、福岡部出身の議長が投じた運命の一票は「福岡市」・・・。
この議長さん、未だに博多部の人からは、よく言われてません・・・(笑)。
で、当然、この結果に納得出来ないのが博多人・・・。
博多人の怨念はその後も長く続き、福岡人も結構、これには辟易していたようで(今でも・・・?)、その後、今度は「国鉄が駅を作る」となったときは、「市名は福岡になったっちゃけん、駅名くらい寄越せ!」という意見が強かったようで、割とすんなり、「博多駅」で決着したのだとか(笑)。
続きは、明日のココロだ~・・・と思う。
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