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平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

博多祇園山笠に見る、福岡・博多、三都物語・その1。

2006年07月04日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

7月ですね。
7月になると、博多はこの季節になります。
言うまでもなく、博多祇園山笠ですね。
でも、「博多祇園山笠」って、「福岡」にあるんじゃなかったっけ?といったお話も耳にします。

ここで、今更ながらの説明で恐縮なのですが、よく、当方が地元の話題を取り上げますときに、「福岡」「博多」というのが出てきていると思います。
あるいは、事情がおわかりにならない方の為に、念のため、簡単に触れておいた方がいいかと思っておりました。

まず、これは、逆に現代の感覚で言うとわかりやすいのですが、福岡市の都心と呼ばれる地域は福岡市中央区の北半分と福岡市博多区の同じく北1/4くらいがこれにあたります。
福岡ドームなどがある辺りは福岡市早良区の北のほんの一部になりますが、こちらは、中心街からは、少し離れたところにあり、規模もまだまだですので、感覚的には副都心の一つでしかありません。ここに住んで、中央区や博多区などに通勤している人たちをたくさん知ってますから・・・。)
で、ほぼ、その地域が「福岡」と「博多」と呼んでいいように思うのですが、雰囲気的にわかりやすく言うと、「福岡」は「山の手」、「博多」は「下町」というところでしょうか。
両者の間には那珂川という川が流れており、この河口にあるのが九州一の一大歓楽街、中洲で、言わば、両者は中洲を挟んで対峙するような形になっております。
で、この那珂川ですが、江戸時代には橋もあまり、架かってなく、福岡と博多を行き来する人も殆ど無かったとか。

で、なぜ、こういうことになったかというと・・・。
度々、触れております通り、現在の福岡市は、古来から天然の良港として栄えた港町でして、古くは「那津」と言われ、現在の「福岡」には、筑紫館、鴻臚館などの迎賓館が存在しており、ある時期から、ここが衰退し、中心が「博多」に移ったのだとか。
で、博多は国際貿易港として、港湾設備も整備され、埋め立てなども進み、大いに栄えた訳ですが、戦国時代になると、当然、群雄の取り合いになって、焦土と化したとか。
で、豊臣秀吉島津征伐の帰途、博多に立ち寄った際、国際貿易港のあまりの荒廃を嘆き、即座に博多の復興を腹心の石田三成、黒田如水、増田長盛らに命じ、それで、出来上がったのが、現代でも面影を残す、「碁盤の目」の区画、「太閤町割り」です。
その結果、博多では神谷宗湛島井宗室などに代表される博多商人が台頭し、繁栄を謳歌するのですが、ところが、今度は秀吉が死ぬと間もなく、石田三成と徳川家康の間で天下分け目の合戦と言われる「関ヶ原の戦い」が起こり、これにより、上述の黒田如水の息子にして、隣国、豊前国の領主であった黒田長政が、新たに筑前国の領主となります。
黒田家は、筑前国に入国すると、博多の隣、かつて、筑紫館や鴻臚館があったところをそれまでの「福崎」という地名から、黒田家発祥の地である福岡(岡山県)という名前に変え、ここに城を築きます。
これが福岡です。

ということで、武士の町「福岡」商人の町「博多」が出来上がったわけですが、今度は、明治になって、大日本帝国憲法の発布とそれに伴う、市制施行が導入されることとなったき、当時の議会は市名の命名を巡って、大紛糾したそうで、当然、博多部出身の議員は全員、「博多市」を主張し、福岡部出身の議員は全員、「福岡市」を主張。
結局、ケンケンガクガクの挙げ句、遂に投票となり、衆人の見守る中、投票結果は・・・同数
それで、投票に加わってなかった議長の一票で決まる!と言うことになり、福岡部出身の議長が投じた運命の一票は「福岡市」・・・。
この議長さん、未だに博多部の人からは、よく言われてません・・・(笑)。

で、当然、この結果に納得出来ないのが博多人・・・。
博多人の怨念はその後も長く続き、福岡人も結構、これには辟易していたようで(今でも・・・?)、その後、今度は「国鉄が駅を作る」となったときは、「市名は福岡になったっちゃけん、駅名くらい寄越せ!」という意見が強かったようで、割とすんなり、「博多駅」で決着したのだとか(笑)。

続きは、明日のココロだ~・・・と思う。

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バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・後編。

2006年06月15日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

大正6年3月25日の深夜、博多の街・・・、いや、日本中を騒然とさせた事件が起こりました。
ザルデルン大尉夫人、イルマが何者かに惨殺されたのです。

遺体が発見されたときの描写を、井上精三氏の名著、「博多大正世相史」から抜粋させて頂くと、
「最初の発見者はコックの妻だった。犯人に抵抗し激しく格闘したらしく、室内の調度品は散乱し、脚が折れた椅子は横倒しとなり、寝室と十畳の間の境のふすまは倒れ、イルマはふすまの上に金髪を振り乱し、ネグリジェ胸部まで捲き上げられ、には電灯線が巻き付けられ、紫色絞殺の跡がはっきり残っていた。
鋭利な刀傷胸部両手にあり、かすり傷は顔面から喉にかけて多く、両股に血染の手形がつき、時計は斜めに傾いて12時25分で止まり、その惨状は目を覆うひどいものだった。
この日家庭教師は旅行中で、子供は隣室でまったく母の死を知らず、離れのコック一家も気づかなかったという。急報に接し、夫ザルデルン大尉は駆けつけて、愛妻の無惨な死に泣きくずれた。」とか・・・。

26日、大臣の娘であり、男爵夫人である人の葬儀は行われ、たった数人の会葬者のもと、その夜、大学構内の火葬場で遺体は茶毘に付されます。
ところが、事件はこれで終わりではありませんでした。

29日の朝、博多の者を、さらに驚愕させる事件が起こります。
今度は、夫のザルデルン大尉が収容所内で首つり自殺しているのが発見されたのです。
死後、義父である妻イルマの父、海軍大臣カペレ大将宛の遺書が見つかったそうで、「博多大正世相史」によると、 
「最愛なる父の一人娘たるイルマは何者とも知れぬ兇刃に免れてなんとも申し訳がない。自分と妻とは結婚当初に堅い約束を結んでいた。その約束は互いに生死を誓ったのである。我が身死すれば妻も死し、妻逝けば我が身も逝くとの約束は堅く結んでいた。我は今この約束を果たすに過ぎぬのである。この上は父上の率い給うドイツ海軍全勝せんことを望み、二人の孤児の身上をよろしく頼む。当、日本の官憲は妻の横死につき深甚の同情の意を表わし、その葬儀もすこぶる丁寧を極め、目下犯人の探索中であれば遠からず逮捕されるであろう」という内容であり、諸人の涙を誘ったと言います。

一方、福岡県警は当然ながら、犯人捜査必死で取り組みます。
これは、もう、大変な事件です。
交戦国とは言え、現役の海軍大臣が夫に会いに行った先で惨殺されたわけですから、「日本人は敵であれば、面会に来た妻をも殺す・・・。」などと誤った評価も流れかねず、このままでは、島での松江所長の善政も、日本政府の思惑さえも吹き飛ばしかねず、さらに、国際犯罪ですから、もし捜査に失敗すれば、福岡県警どころか日本警察、いや、「日本」の自治能力自体が問われかねない事態だったわけです。

まず、下宿屋・料理屋・旅館などの聞き込みが行われると同時に、特にに現場に近い新柳町遊廓が徹底的に捜査の対象となったと言います。
で、その中で、遊びに来たときに、身なりに不似合いの六角形純金小型時計を持っていた者がいたことがわかり、警察は有力な容疑者の一人と断定。
さらに、鋭利な刃物が使われていたことから、事件前に、短刀研ぎに出した人物が居たこともわかったものの、この人物は、すでに宿を出た後であり、その後の足取りはつかめなかったそうです。
ところが、自分が指名手配されていると知らない犯人は、その新柳町の娼妓に手紙を出したことで、その後の調べで、男が、小倉(現北九州市)でパン職人として住み込みで働いている田中という人物あるということがわかり、事件から二週間後の4月7日、奇しくも、事件時とほぼ同時刻の深夜12時過ぎ、犯人は活動写真を見に行って帰って来たところをその場で逮捕され、無論、後日、死刑となったといいます。

ザルデルン夫妻の無念さは、何とも痛ましい限りですが、一民間人とは言え、外国の高官一人娘が来日しているわけですから、福岡県警、それから、福岡県も含めて、もう少し、事前に何とか対応できなかったんですかね・・・。
うら寂しい場所にいる・・・ってことは知ってたんでしょうから。
対応がよかったから、まだしも、太平洋戦争中みたいな捕虜に対する過酷な状態の元であれば、下手すれば、憤激したドイツ人捕虜の暴動が起きたかも知れず、最悪の事態になった可能性もあるかと・・・。

ちなみに、終戦後、ザルデルン夫妻の願い虚しく、ドイツ帝国は崩壊
その折、島収容所で自由を宣告された捕虜たちが、これまでの、松江所長や所員、そして地域住民の対応に感謝を込めて、ベートーベン作曲『交響曲第九番 歓喜の歌』・・・、通称、第九を披露し、これが日本で最初の第九だと言われていますが、実は、この点も、これより前、歌無しの「演奏だけ」の公演ではあったものの、福岡の九州大学が日本で最初に第九を演奏していたそうです。
これも、何かの因縁なのでしょうかね・・・。

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バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・前編

2006年06月14日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

松平健主演の映画、 バルトの楽園という映画が近日公開されるそうですね。

この映画は、改めて言うまでもなく、大正3年(1914年)、第一次世界大戦において日本軍の攻撃の前に中国戦線捕虜となったドイツ兵たちと島収容所所長、松江豊寿との触れあいを描いたモノだそうですが、松江豊寿は戊辰戦争において賊軍として、青森への改易を命じられた経験を持つ会津の出身ゆえ、捕虜たちの気持ちがわかった・・・と、この映画では言われているようですが、実際には、この松江所長ほどではなかったにしろ、日本各地に収容されたドイツ兵4,700名は、どこの収容所でも、そこそこに人権尊重され、それなりに寛容待遇を受けたようです。
これは、何も、当時の日本人が皆、いいやつばかりだったわけではなく、日露戦争勝利していたとは言え、まだまだ、日本に対する欧米の偏見は強かったことから、「極東の未開な国」と見なされられることを畏れた、「日本政府全体の方針」でもあったと聞いております。

で、当時、実はドイツ人捕虜の収容地に福岡も指定されたのですが、島の「バルトの楽園」と違い、福岡ではとんでもない事件が起こっております。
それが、「ザルデルン夫妻事件」です。
意外に・・・というか、まったくと言っていいほどに、知られていない事件なのですが、ある意味、この事件の処理次第では、日本政府の思惑など、吹っ飛ばしかねないような事件でした。

まず、福岡では、ドイツ兵捕虜の収容が決まると、約1,050名の受け容れをメドとして、まず、収容場所確保することから始まりました。
収容所には、日本赤十字社福岡支部、福岡県物産陳列場、旧柳町遊郭跡地が指定され、収容所長は24連帯歩兵中佐、久山又三が拝命。
中でも、赤十字社は、皇族宿泊にも使われるような贅を尽くした建物であった為、ここには、ワルデック総督高官たちを収容することに決定します。

一方で、江戸時代初期から栄えた遊郭博多柳町遊廓がありましたが、ここは、すでに「大学の授業に差し障りがある」との理由で、知事命令により、強制移転させられており、その跡地にはまだ15軒女郎屋空き屋が残っていたとか。
女郎屋だから小部屋も多かったため、四畳半または六畳の部屋に2人ないし3人を入れることとし、ほかにも、浴室、便所、洗濯場、さらには運動場も必要とのことで、これらの新設のために、付近の18棟居住者強制移転させられたと言いますから、如何に彼らが歓待とまではいかなくても厚遇されていたかがわかると思います。

そして、大正3年11月15日、ドイツ人捕虜の第一陣、567名は、国鉄博多駅に到着します。
2日後、第二陣272名が到着。
捕虜と言っても、その堂々たる体躯持ち物豊富さ、衣類立派さなどに、当時の福岡市民は目を見張ったと言います。
日本は、戦勝国とは言え、まだまだ、貧しかったんですね・・・。

で、それら、収容されていた中の一人にザルデルン大尉(当時36歳)という人物がいたそうですが、彼は大尉とは言え、男爵であり、その妻イルマ (当時30歳)のは現役の海軍大臣の娘だったそうで、そのイルマは大正4年、夫のあとを追って上海から福岡に来て、家賃35円住吉の蓑島土手(現福岡市博多区美野島)に借家住まいを始め、週に一度の夫との逢瀬を楽しみにしていたとか・・・。
住居は借家と言っても、前福岡県知事 深野一三別邸だったと言いますから、そこそこの家だったのでしょう。
(この深野という人物、ちゃんと官舎があるのに、こんな淋しい所にわざわざ別邸を持つということが、何を表しているかは言わずもがな・・・ですね(笑)。この人は、愛知県知事になってからも遊廓移転失敗して失脚しているそうで、この家も色々と曰く因縁があったようです。)

イルマは6歳次男と女の家庭教師3人で住み、邸内の離れにはコック一家が住んでいたと言います。
ただ、ここは、絃歌ざわめく新柳町遊廓対岸でもあり、まあ、遊郭の移転地になるくらいですから、その当時は、あまり人通りもないうら寂しい所だったと言います。

そして、そんな、大正6年3月25日の深夜、事件は起こります。

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新博多駅開業に伴う38年後の写真を撮るなら今の境地。

2006年06月06日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

先般、博多駅屋上ビアガーデンに行った旨をお伝えしましたが、実は私には、どうしても、ここに行きたい事情がありました。
バドガールのお姉さん・・・ではありません。

それが、これです(↓)。


これは、昭和43年(1968年)、当時の博多駅移転区画整理により、博多駅近辺の町並みが一変したときの風景を、亡父が、まだ、竣工から日が浅かった博多駅屋上から撮影していた写真のひとつです。
新築成ったばかりの陋宅が写ってます。
(なぜ、昭和43年とわかるかというと、陋宅が建っていて、これが建ってない、あそこも建ってない・・・でほぼ、特定出来るわけです。)

で、こちら(↓)が、先日、ビアガーデンに行った折りに同じ場所、同じ位置から撮影したモノです。


38年後姿ですね。
38年とは、わかりやすく言うならば、私が小学校一年生紅顔美少年から、45歳厚顔おっさんになる歳月です(笑)。
私は、これを撮りたかったが為にビアガーデンに行ったのです。
くれぐれも、バドガールのお姉さんに会いたかったからではありません(笑)。←ヒツコイ・・・。

と言っても、亡父が博多駅の屋上から撮ったと言うことはわかったのですが、屋上のどの辺りか・・・ということは、まったくわかりませんので、その辺は、かなり、計算して、ほぼ同じ位置になるようなカットで撮影しましたので、変貌ぶりがよくご覧いただけると思います。
あ、そうか、白黒にして撮った方が、感じが出ましたかね・・・。
ていうか、どうせ、真ん前のビル(西日本シティ銀行本店)で殆ど見えないんですけど(笑)。

で、なぜ、今頃になって、こういうことを思いついたかというと・・・。
実は、この現博多駅・・・。
上の画像でもおわかりの通り、確か開業昭和38年で、即ち、今年で、築43年になるわけです。
となれば、当然、建て替えの話が出るわけで、2011年春九州新幹線全線開通に合わせて、新博多駅開業ということに決まり、それに向けて着々と準備が進んでいます。

ちなみに、すったもんだの末に、核テナントとして、現在の、博多井筒屋(北九州市。最後の地場百貨店だそうです。)に代わって、阪急百貨店が入ることで合意したというニュースが流れておりましたが、昨日の村上世彰氏の逮捕を受け、阪神との統合も一気に加速しそうな気配ですが、その余波は・・・大丈夫なんでしょうかね?
その分、こちらに廻るお金が無くなる・・・とか。
阪急も実情は決して良くないと聞いてますし・・・。
(村上氏逮捕については、また、いずれ触れたいと思いますが、インサイダーをやったやらないは別にして、私はホリエモンと違って、村上氏の言っていることは、それほど、間違ってはいないように思えるんですけどね・・・。)

さておき、JR九州によると、新駅ビルの延べ床面積、約20万平方メートル
このうち、阪急百貨店などが入る商業施設はほぼ半分の約11万平方メートルで、百貨店を核テナントとしながらも、シネマコンプレックス(複合映画館)やホール、保育園なども入る複合施設化を検討しているのだとか・・・。
ちなみに、核テナントとしては、既存の博多井筒屋や、高島屋等とも交渉があったようですが、最終的に、いずれも面積配分で合意出来なかったそうです。
ていうか、いつまでも核テナントを百貨店に頼っている時代でもないと思うんですが・・・。

で、現ビルが、いつ取り壊されるのかはわかりませんし、まあ、今すぐでもないとは思いますが、こういうモノは、解体に先だって、閉鎖されることが多いモノで、あまり、油断もできないんですよ・・・。
で、ならばと、一度、思い立って、写真だけ撮りに行こうとかと行ってみたのですが、昔は、子供向けの遊園地や、喫茶・レストランなどとして、一般に開放されていたデパート・駅ビルの屋上も、最近では、誰も来る人もないのか、基本的に、ずっと閉鎖されたままとなっておりました・・・。
つまり、屋上に上がれるのは、今の時期の夕方、つまり、ビアガーデンの時だけということですね・・・。
となれば、「ビアガーデンの季節のみ!」と区切られると、うっかりしてて、気が付いたら、「ビアガーデンの季節は終わっていた・・・」、「あ、今年も終わっちゃってた・・・。」、「またまた、今年も・・・。」ってことを繰り返しているうちに、屋上は完全封鎖されました・・・なんてことになっちゃあ、ご先祖様に顔を合わせらんねぇってやつで・・・。
で、意を決して、少ないチャンス少ない友人を何とか確保して行ってきたって次第でさぁ、御同輩(笑)。
でも、マジで、ビアガーデンって、が降ったら行けないから、なかなか、人と約束して・・・という予定が立たないんですよね。

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続・博多うどん考察 かろのうどんと中世博多うどん!

2006年04月26日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

先日申し上げました平太郎独白録 「七百年前の港湾都市の現実にみる年越しそばの起源!」の続編なのですが、私は実は、うどんが大好きでして・・・、そばは最近、食うようになりましたが、昔は、まったく・・・。
大阪万博のとき、会場内の食堂には、うどんが売ってなくって、他に子供が食べられそうな物は、そばしかなかったという・・・。
それも、ざるそばなら、まだ、何とか・・・って思ったんですが、メニューにあったのは、汁そばのみ・・・。
まるで、私に「好き嫌いしないで我慢して食べなさい!」と万博が言っていたようで・・・。
でも、「東京はそば、大阪はうどん・・・」だったんじゃないんですか???
あの当時から、もう、大阪は東京に呑み込まれ始めてましたね・・・(怒)。

って、そういう私事はさておき、昭和40年代後半に、永六輔さんがやっていた浅田飴のCMを覚えておられますでしょうか?
永さんの独特の口調で「行った先々で語る・・・」というCMだったのですが、その中の一つに、「大変美味しいうどん屋さんを見つけました。店の名前は『かろのうろん』。この地方では、だぢづでどが訛ってらりるれろになるそうです。だから、『角のうどん』が訛って、かろのうろん。浅らあめ。」というのをやってたことがあります。
当時、小学校高学年だったと思うのですが、私はそれを聞いて、「へえー、だぢづでどがらりるれろになるなんて、日本には、変わったところもあるもんだな・・・。」と思ってたのですが、それからしばらくして、うちから歩いて15分くらいのところに、この「かろのうろん」が有るのを見つけました。
「おお!かろのうろんも、あのCM有名になって、ついに福岡にも支店ば出したばいな!」と思っていたら、それは、支店ではなく、本店でした・・・。
つまり、「変わったところ・・・」というのは、北陸でも、四国でも、東北でもなく、うちの近所だったわけで・・・(汗!)。
だって、博多弁に、そんな訛りがあるなんて、初めて聞いたんだもん・・・。
思えば、博多には「博多にわか」という伝統芸能・・・、つまり、博多弁の漫才があるのですが、これが私には、何を言っているのかがさっぱりわからない・・・。
おそらく、うちの祖父だったら、大笑いしたのかもしれませんが・・・。
方言も、時代と共に変わっていくものなんでしょうね・・・。

で、話をうどんに戻しますと、タモリさん曰く、「博多のうどんは、元来、歯ぐきで嚙めるうどん」だと。
(もっとも、「讃岐うどんなんて、アゴがくたびれるだけだ。」とも仰ってましたが・・・(笑)。)
確かに、最近でこそ、博多にも、手打ちうどんなどが出てきましたが、昔は、博多のうどんと言えば、「歯ぐきで嚙める」ような、ふにゃふにゃしたうどんでしたね。
私も、25年くらい前に、初めて博多に出来た本格的な手打ちうどん食って、「こりゃ、うめー!」と思いましたから・・・。
(それまでは、看板には手打ちうどんと書いてあっても、実際にはまったく、手打ちではなかったですね。)
でも、タモリさんの話には続きがありまして、曰く、「讃岐うどんなどの手打ちうどんは、歯ごたえを楽しむのであって、博多のうどんは、歯ぐきで嚙めるうどんだけど、それは喉ごしを味わううどんなんだ。 」と。
喉ごし・・・ってのは、私にはイマイチ、わかりませんが・・・。

ちなみに、以前、大河ドラマ「北条時宗」があったときに、元寇のシーンを実際に博多湾で収録したのですが(と言っても、もろ、福岡タワーの近くですから、当然、他にも商業施設はたくさんあり・・・。まあ、今は、編集の際に、いくらでも消せますからね・・・。)、その際、収録後に、そのまま、セットを一般に開放して、北条時宗展というのをやっていました。

そのとき、そこで、伝来当時のうどんを再現した「中世博多うどん」というのをやってまたのですが、当然、新しもの好きの私としては、食べてみたのですが、まるで記憶にありません(笑)。

で、詳しい定義は忘れましたが、当時のうどんというのは、麵が赤みがかったうどんだったと言います。


(これですね。少し、麵が赤みがかっているのがおわかり頂けるでしょうか?)

その後、しばらく経ってから、その「中世博多うどん」を売り出したところがあり、結構、変わった食感が気に入って、以来、私もよく行ってますが、当初は、何玉頼んでも料金は一緒だったのですが、私があまりにも食べ過ぎたからか、すぐにそのシステムはなくなりました・・・(笑)。

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七百年前の港湾都市の現実にみる年越しそばの起源!

2006年04月22日 | 地域
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昨年の暮れに、ネタにしようと思って忘れていたことを、今、思い出しました。
今年の年末までは、まだだいぶ先のことだし、ちょっと、時期はずれかもしれませんが、土曜だし、誰も見てないでしょうから、やっちゃうことにしました(笑)。

博多というところは、これまでにも、度々、述べてきましたように、古くから国際貿易都市として拓けていたことから、博多が日本で初めて!という物がいくつかあります。

建久6年(1195年)(現在の中国)から帰国した僧、栄西は、日本最初禅寺・聖福寺を創建すると同時に、日本に初めて、お茶の種子をもたらしました。
さらに、それから半世紀近く経った仁治3年(1242年)、日本で初めて「国師」の称号を授けられた聖一国師が承天寺を開山。
承天寺の建立にあたっては、NHKの大河ドラマ「北条時宗」北大路欣也が演じたことでも、ご存じかと思いますが、宋国の人・謝国明の支援があったと言われています。

謝国明という人物について、少し、述べておきますと、彼は、自前の船団を持ち、宋と博多を行き来する日宋貿易を成した綱首(船主)であり、その後、日本に帰化し、綱首謝太郎と名乗り、日本で没しています。
つまり、華僑ってやつの元祖ってところでしょうか。
実は、謝国明と言う名前は、私にとっては、割と昔から馴染みがある名前でした。
なぜなら、家から、歩いて10分くらいのところに、「謝国明の墓」と言う看板があったからです。
ただ、謝国明という人物が何者なのか・・・ということはまったく知りませんでした。
ていうか、知らない以前に、先日ご紹介申し上げた「頭山満」と一緒で、「あやくに・あきら?」「しゃ・くにあき?」・・・、何と読むの?って世界でした(笑)。
まあ、当時は、まさか、中国人とは思いませんでしたからね・・・。

彼の墓は、墓石の横に植えられた(だったと思うのですが・・・。)が長い年月で成長し、成長の過程で、墓石呑み込んでしまったとかで、昭和の初め頃までは、幹の中に、少しだけ墓石の頭の部分が見えていたと言います。
その後、この楠は、太平洋戦争中米軍による空襲で枯れてしまい、今では、一抱えもあるような太い幹だけが、「伝 謝国明の墓」として存在しています。

話を元に戻しますと、承天寺というところには意外に知られていないのですが、二つの石碑が建っています。
(昨日、一昨日の話ではないですが、こういう物は、地元ほど知らないもので・・・。以前、中国に行ったときに、ガイドしてくれた方のお母さんは北京生まれ、北京育ちだけど、まだ、「万里の長城」に行ったことがないと言ってましたし、京都伏見の知人に「寺田屋」について聞いたら、「まだ、行ったことがないから知らない。」と言われたことがあります(笑)。)

で、一つは、「山笠発祥之地」で、もう一つが、「饂飩蕎麦(うどんそば)発祥之地」の碑(↑)です。

山笠については、私は出てないので関係ないですから、さらっと流します(笑)。
で、本題のうどんについてですが、国師が宋から持ち帰った製粉技術を記す図面「水磨の図」というものが現存しているそうで、これによって、うどん、そば、さらには、まんじゅうなどの粉食文化が広まったのだとか・・・。

ちなみに、なぜ、年末にこだわったかというと、それは「年越しそば」も博多が発祥の地だからです。
さらに、特に話には関係ないように思える謝国明のことを述べたのも、その前振りでした(笑)。

港湾都市という物は、まあ、今もそうなんでしょうが、多かれ少なかれ、その生計は、入港時に船員が落としていってくれる金以前に港湾荷役などの現金収入に依存していることが多く、それだけに、シケが続いたりして港に船が入らなくなったりすると、労働者の仕事が減ることになり、そうなると、彼らに物を売ることで生計を立てている人たちから、歓楽街のお姉さん方まで、これまた、多かれ少なかれ何らかの打撃を受けるわけで・・・。

この点で、私には強く印象に残っているテレビ・アニメ1シーンがあります。
「男一匹ガキ大将」というマンガだったかと思うのですが、どういう理由によるものかは忘れましたが、主人公が、「港湾労働者たちの中で住み込みで働く・・・」という場面があったのですが、私が覚えているシーンは、ある日、監督者が、「シケで今日の作業は休みだ!」と労働者たちに告げるシーンでした。
主人公とは関係なく、なぜか、その場にいた場違いな学生が、「やったあ!休みだ!」と喜ぶのに対し、その横で、苦虫を噛み潰したような港湾労働者たちが、「冗談じゃねえぞ!」と吐き捨てます。
「休みったってな、シケが収まるまで、何日も、ずっと休みなんだ!」
「え!それじゃあ・・・。」
「つまり、このまま、シケが続けば、俺たちは干物になっちまうってことさ!」と・・・。
このマンガの当時とは、まあ、随分と社会保障なども充実したでしょうから、こんなことはないにしても、おそらく、謝国明の時代は、事情はこの当時とあまり、大差ないのではないでしょうか?

司馬遼太氏の小説、「菜の花の沖」でも、同様の理由で、各地の港は船の入港大歓迎するという既述が随所に見られたように記憶しております。
ましてや、「菜の花の沖」の時代からでも500年、男一匹ガキ大将からは、700年も遡るわけですから、社会保障などというものは、おそらく、発想すら無かったでしょうし、それ以上に、何より、当時の操船技術では、冬場の渡航というものは、大変な危険を伴う物だったことから、オフ・シーズンという物がはっきりしており、ということは、事実上、夏場の稼ぎで一年を暮らさなければならかったと思われるわけで、となれば、冬に入る前にあまり、船が寄港することがない年があったとしたら・・・。

で、ある年の大晦日飢えた町民たちを見かねた謝国明は、承天寺の境内に飢民を集め、そば粉を用いて、そばを振舞ったのだとか・・・。
すると、翌年には、から多くの貿易船来航し、博多の町が再び活気づくことになったそうで、以来、博多では、年越しには「運そば」を食べる習慣が出来、それがやがて日本中に広まり、現在の「年越しそば」となったそうです。
もっとも、当時の運そばは、今のような細切り麺ではなく、そばがきのような形だったと言われていますが・・・。

ということで、今年は少し、飲む方を控えめにして、もっと年越しそばを味わって食べましょう、御同輩・・・(笑)。

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新・博多駅にみるブラザーズ・グリムの塔と感覚的前頭葉。

2006年04月13日 | 地域
親愛なるアッティクスへ



昨日、近所の団地が解体されるという話を聞きつけ、出勤途中に写真を撮りに行ってきました。

この団地は、私が物心付いたときには、すでにありましたから、おそらく、築50年近くにはなっているのではないかと思われます。

となれば、解体されるのも、やむを得ない話なのでしょうが、私にすれば、子供の頃の風景が、またひとつ、消えていくわけで・・・。

で、とりあえず、画像くらい残しておこうと思った次第でした。
ていうか、実は、私が撮ろうと思ったのは、団地その物ではなく、団地の中の、この給水塔(?)でした・・・。

私が特に印象深いこの給水塔ですが、まだ、私が幼稚園行くか行かないかくらいの時に、これを見たときは、もう、ぶっとびましたよ!
まさしく、「ウルトラセブン」に出てくる世界・・・。
当時は、まだ、うちの近所は、ボロ家ばかりの時代ですから、このモダンさ(死後)は、眩しいくらいに輝いて見えましたよ。
「こげんとは、ウルトラセブンの出てくるとーきょーていうところにしか、なかっちゃないとや!」と・・・(笑)。
訳しますと(爆)、「こんなのは、ウルトラセブンが出てくる東京というところにしか、無いのではないのか!」と・・・。(←モロ、直訳!(笑)。)
つまり、こんなのが、うちの近所でお目にかかれるとは夢にも思ってなかったというわけで、とにかく、子供の私には夢の世界の建物、もの凄く、強烈な印象で焼き付いております。

去年、ブラザーズ・グリム・・・という映画を見たのですが、その中で、魔女がいる朽ちかけた塔が出てきたのですが、覚えておられるでしょうか?
高い塔の上には窓があるものの一階には出入り口はない・・・。
で、主人公がどうにかして、その塔の上にある窓に辿り着き、そこから中に入ると、そこは人が住んでいた形跡があるものの、クモの巣だらけ・・・。
なぜか、私には、その塔が、その不潔さも含めて懐かしかったんですよ。
どこで、私の記憶に引っかかってるのかは、まったく、思い出せないんですがね・・・。
あるいは、一部分は、この塔だったのかなと・・・。
しかし・・・、一度で良いから、中に入りたかった・・・。



で、写真を撮りに行ったら、誰かがこの塔の横に、土饅頭作って、そこに墓標のように十字架を立て、その上に編み笠を・・・。
それでなくとも、ゴーストタウン気色悪いのに・・・(笑)。
その状態で、写真撮ってたら、何かが足を引っ張るぅ・・・!!!
気が付いたら、誰かが掘った穴の中に片足が落ちてました・・・(笑)。
一昨日の福岡県地方には、大雨洪水警報が出ていたこともあり、当然、その穴は、泥の穴と化しており・・・。
おかげで、靴は元より、ズボンから靴下まで・・・。
それはまだいいんですが、何だか、墓場に足をとられたようで・・・。

ところで、私の思い出の場所が無くなる・・・という点では、ついに新博多駅建設工事が着工したというニュースが、先日の新聞に載ってました。
現博多駅は、確か、昭和38年開業でしたので、こちらも、まさしく、私が物心付いたときからありました。
特に、私の学生時代は、「博多駅と共にあった」と言ってもいいくらいに浮遊(?)してました(笑)。
でも、私の学生時代の博多駅の中の風景は、同じ位置、同じ場所、同じ店であるにも関わらず、何故か、現在とはまったく別の物なんですよね。
私にとって、風景とは極めて感覚的な物なんでしょう。
(そう言えば、飲食店などは、店名などは、さっぱり覚えませんし、飲んだら、場所も覚えてません(笑)。そこで、飲んだという事実と、中でどういう話をしたということは覚えているのですが・・・。)
これ即ち、私は絵描きには、まるで向いてない人間なんだな・・・ということでしょう。
つまり、人でも物でも、見てるようで見てないと言うことです。
絵を描くことが巧みな人というのは、見てないようで見てるんですね。
たとえば、「今まで、アナタがここで話していた人の髪型は?」と聞かれても、「髪型を注意してみていてください。」と言われれば別ですが、そうじゃない限り、まったく、わからない・・・。
老化前頭葉が働いてないと言うこともあるのでしょうが、私の場合、生まれながらにして、前頭葉が働いてない人間のようです(笑)。

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怪奇!ネタ帳が消える!日本で一番忙しい警察も消える!

2006年04月06日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日、私のネタ帳の下半分が消えてしまった・・・ということを申し上げたのですが、何と、今度は、さらにその下半分が消えてしまってました・・・。
何が起こったのか、いや、起こっているのか、茫然自失です・・・。
茫然過ぎると、人間、取り乱しませんね・・・。
もしかして、スパイウェアが侵入しているとか・・・。
でも、私のネタ帳なんか消しても、あんまり、意味無いでしょうけどね・・・。
嫌がらせ・・・?
確かに、敵は多いですね・・・(笑)。

ところで、いや、ということで、警察ネタです。

日本で、もっとも忙しい警察署・・・って、どこかご存じでしょうか?
それは、世界に冠たる犯罪都市、東京の警察署ではなく、我が、福岡市早良区の福岡・「西署」なのです!
(以前、香港の日本系企業にお勤めの方に、東京の友人が、「香港は治安が悪いんでしょ?」と聞いたところ、「東京の人の口から治安が悪いなんて言われたくないよ。」と言われたとか・・・。ん?この話、申しましたでしょうか?何せ、ネタ帳が消えるもんで・・・。)
八重山商高青峰学園が、甲子園PL横浜などの強豪校に伍し、健闘を見せたのに、負けず劣らずの健闘ぶりでしょう(笑)。
その西署が、先日、ようやく、「早良署」と、新設の「西署」の二つに分割されたというニュースが、数日前の新聞に載ってました。

この旧西署というところは、開庁した1972年当時、管内人口は29万人で、体制は7課300人だったそうですが、管内にヤフー・ジャパン・ドーム福岡タワーなどの人気スポットを抱えることもあり、人口は昨年、遂に倍増の50万人を突破・・・。


(対岸の東区志賀島より。遠くに福岡タワーや、ヤフー・ジャパン・ドームがおわかり頂けるでしょうか・・・。)

その結果、刑法犯認知件数も、2.5倍、体制も14課550人とこちらも倍増・・・。
(何でも、車上荒らしなどの軽犯罪が多いのだとか・・・。)

しかし、人が倍増しても、地上4階、地下1階の建物は、当直用シャワー室を「街頭犯罪対策室」に改装するなどの「微増」だったそうで、遂には、署内はパンク状態となっていたと言います。
(そう言えば、旧西署の留置場に行ったことがありました!あ、修理ですよ、修理!誤解のないよう・・・。修理じゃなくて行ったのは、博多署です(笑)。でも、そこって、留置場部分は、八角形のような変わった建物でしたね。記憶が、かなり、怪しいですが・・・。)

で、その結果、旧西署が、如何に凄い状態だったか・・・と言えば、事件数は隣県である佐賀県警を上回り、刑法犯年間認知件数も、佐賀、鳥取など8県警本部を上回る・・・。
昨年一年間の110番処理件数に至っては4万7538件全国第一位!
多い時は、一晩に180件の110番通報が来るとか・・・。

ちなみに、西署の分割で、首位の座は、歓楽街・ススキノを抱える札幌中央署が獲得したそうですが、一方で、福岡市には、九州最大の歓楽街、中洲を管轄下に置く、我が!博多署もあるわけで・・・。
まさしく、温泉の源泉数で、二位熊本県に倍近い差を付け、堂々の一位を誇る大分県状態ですね(笑)。
って違うか!(笑)。
(ちなみに、二位は熊本県ですが、三位北海道、四位山形県に続き、五位鹿児島県が入っているという・・・。如何に九州に温泉が豊富かがおわかり頂けると思います。)

「温泉に 熱燗浮かべて 月見酒」 梁庵平太

近々、一献如何ですかな、御同輩・・・。

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海図から見る博多港今昔から想いを馳せる金印!

2006年02月25日 | 地域
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博多港シリーズ第5弾(・・・あるいは第六弾かも(笑)。)です。
去る2月17日の毎日新聞朝刊に、九州大学大学院教授 服部英雄氏の筆になる「海図を読む」という特集記事が載っておりました。
大変、興味深く読ませて頂きましたが、それによると、てっきり、古来からの天然の良港だとばかり思っていた博多港も、実は明治の段階ではまだまだ、「瀬」と呼ばれる海面下に隠れてしまう暗礁が多々、あったそうで、中には海中に立てるところさえあったとか・・・。
この教授氏ならずとも、「立ってみたい」という気持ちになろうかというものでしょう。

しかし、そんな、「漁師にとっては絶好の漁場」であり、「住民にとっては天然の防波堤」でもある「瀬」は、同時に、航海者にとっては「障害」以外の何ものでもなかったわけで、そこから、明治になって初めて海図というモノの必要性が出てきたのだそうです。
(それ以前は、漁師にとっては、知ってることが当たり前であり、それをわざわざ、図面に落とす必要を感じなかったとか・・・。)
この辺を昭和4年(1929年)の海図でみると、そういった瀬と瀬を結んで、その上に防波堤が築かれており、さらに、港湾内の浚渫も開始されているのがわかるとか・・・。
そのおかげで、現在の博多湾の人工航路の水深は14mあるのだそうで、それで、現在では大型船の出入りが出来ているわけですね。

その辺を、一部、抜粋させていただきますと、
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博多湾等深線を読んでみる。
博多湾内は意外に浅く、先の間の瀬あたりは、二尋(3.6m)程度の水深しかない。
能古島東方つまり博多湾の過半水深三尋(5.4m)程度であった。
加藤清正軍船350人を乗せ、船艙深5.9mだったという。
三尋では不足する。
『老松堂日本行録』の朝鮮通信使・宋希がそうしたように、船は志賀島に碇泊したままで、それより博多へは小艇乗り換えて往復することも多かった。
島の重要性がわかる。
--------------------------
だそうです。


こちらは、現代の博多湾です。
中央部分に地続きになった島が確認頂けると思いますが、これが志賀島です。
ここに船を置いて、ここから、小型舟艇に乗り換えて、向こう岸まで行かないといけないわけですね。

また、教授は「蒙古襲来時の元軍停泊地伊万里湾の入口にあった鷹島であって、ただちに上陸はしなかった。豊臣秀吉は博多ではなく、深い呼子の海を朝鮮への出撃基地に選んだ。」と書いておられましたが、なるほど、それで行けば、志賀島に金印が埋まっていたのも「WHY!」ってほど、有り得ない話でもないわけで、秀吉が朝鮮出兵の拠点を肥前名護屋に選んだのも、必ずしも、「前線基地にされたくなかった博多商人たちの深謀遠慮」に引っかかったというわけでもなかったわけですね。
ちなみに、一昨日の2月23日金印発見された日だそうです。



こちらの画像は、その志賀島から福岡タワー方向を見たところです。

(方向的には、ほぼ、上の画像を左右に二つ折りして、その島側南端部分から、垂直方向に南を見たものとご理解下さい。)

ちなみに、この辺りからは、角度的に、福岡市のいわゆる、天神、博多駅、中洲といった中心部分は見えませんので、あしかがたかうじ・・・じゃなかったあしからず

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福岡人気質が決定的としたディマジオとモンローの破局。

2006年02月24日 | 地域
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「女房の 反応欲しく 倒れたり 反応したるは 臭い感知器のみ」 平太字余り
(ていうか、字余りというレベルですらない・・・。ていうか、さみしー!←知る人ぞ知る財津一郎の往年のギャグ・・・。)

さておき、私の住まいします福岡(博多)は、たびたび、平太郎独白録 「博多港の歴史に見る「この前の戦争」的定義!」平太郎独白録 「もうひとつの元寇にみる日本政府の拉致への対応。」などでも、述べさせて頂きました通りなのですが、改めて申しますと、ご存じの通り、「漢委奴国王」金印でも知られるとおり、日本でも有数の歴史ある街なのですが、(その一番古くは金印として、一番、新しい歴史は、終戦後、大陸からの引き揚げ港に指定されたことです。)意外と知られていないところでは、マリリン・モンロージョー・ディマジオ新婚旅行で来日し、夫妻の仲が決定的になったのも、実は、福岡でした。

ディマジオとしては、新婦に自分の人気がどれほど凄いかを見せつけようと思って、数年前、メジャー・リーグの一員として来日したときに熱狂的に迎えてくれた日本を新婚旅行の場として選んだのだそうですが、来日したところ、皆、「ディマジオって誰?」状態だったそうで、それどころか、どこに行ってもモンロー一色だったとか。

まあ、この辺が極めて日本人らしいのですが、今でも、三大テノールとかが来日したら、大勢押し寄せますが、「あんた、本当に知ってんの?」ってところがありますよね。
(ていうか、ブーニンってどこ行ったの?ていうか、アメフトのスーパースターなんて本当に知ってるの?)
で、来福した折り、当然、軽薄さでは日本一を豪語してもいい(?)、福岡人ですから、まあ、大体、想像は付くかと思うのですが、当時の地元新聞記者は、ディマジオなどそっちのけで、モンローに突撃取材を敢行し、モンローがホテルの外に集まった群衆に向かい、窓から身を乗り出して、ファンに手を振るところを、後ろから写真を撮ったと言います。
当然、翌日の新聞一面には、モンローが大きくお尻を突き出した写真大々的に載ったとか。


↑ディマジオとモンローが眺めたであろう玄界灘です。

で、結局、この直後に、折から勃発した朝鮮戦争への慰問公演をモンローが依頼され、ディマジオが反対したにも関わらず、彼女がそれを受けたことで、ディマジオはモンロー待たずに帰国。

二人の仲は事実上の破局を迎えたとか・・・。

モンローとディマジオ・・・、いや、ディマジオとモンローの破局にも関わっていたとは、恐るべし、福岡人・・・ですね(笑)。

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博多港の歴史に見る「この前の戦争」的定義!

2006年01月31日 | 地域
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私の地元である福岡市の港、博多港は、古くは「漢委奴国王」(漢の倭の那の国王)で有名な「金印」に始まる日本有数の古い歴史を誇る港ですが、その博多港が、今のところ、最後に、歴史にその名を刻んでいるのが、太平洋戦争後の引き揚げ港であったことです。

当時、満州100万人朝鮮半島90万人在留邦人(派兵兵士を含まない全くの民間人)が暮らしていたといいますが、何と、博多港が敗戦後の一年間だけで収容した人数は、140万人と言いますから如何に博多港が終戦時の引き揚げ港としては、突出した存在であったかがおわかりになると思います。
まあ、在留邦人が朝鮮と満州だけにいたわけではないでしょうが、「引き揚げ」と言うと、舞港などが、「母は来まし~た~♪ 今日も来た~♪」で有名な二葉百合子さんの往年のヒット曲、「岸壁の母」の舞台となったなどもあって有名ですが、舞港は、主に、博多港引き揚げよりは、随分経ってから、シベリアからの抑留者の帰還の舞台となったところだと聞いておりますので、少し、意味合いが違ってくるのかもしれません。
(あ、調べて言っているわけではないので、間違っていたらごめんなさい(笑)。)

で、以前、私が、ある祖母の友人の方とお会いしたときに、四方山話のついでから、「ご出身はどちらですか?」とお尋ねしたところ、「高崎です。」と答えられたことがあります。
「高崎」と言われて、関東の方は、それほど違和感はないでしょうが、九州では「???・・・たかさき・・・ですか。」となります(笑)。
(もちろん、群馬の高崎は知っているのですが、これが、若い方の口から出たものなら「ああ、転勤ですか。」となるのですが、そういう年配の方の口から「高崎」と言われると、「あれ?そう言えば、大分かどこかにも高崎って有ったっけ?」と・・・(汗”)。)
で、よくよく聞いてみると、やはり、群馬の高崎だとのこと。
私が、「何でまた・・・。今でこそ、羽田まで出て、飛行機ですぐでしょうけど、当時は、新幹線もない時代でしょうから、来るだけで大変だったんじゃないんですか?」と問うたところ、「いや、引き揚げで・・・。そのまま、居着いちゃってね。」ということでした。

当時、引き揚げ者は、命からがら、日本まで引き揚げてきたものの、日本を統治していた泣く子も黙るGHQ・・・つまり、占領軍は、「引き揚げ者は日本の大陸侵略の手先の役割を為した。したがって、引き揚げ者の財産は、すべて大陸の財産であり、引き揚げてきた国に返還する。」という理由で、引き揚げ者の所有しているわずかな財産さえ、すべて没収したそうで、そうなると、博多まで引き揚げてきたのは良いけれど、今度は、博多から故郷まで帰る旅費が無いわけで・・・。
なるほど・・・と。
確かに、当時は、結構、そういう方も多かったのかもしれませんね。

で、そのときに、この方が仰っておられたのですが、この方のお住まいは、今のヤフー・ジャパン・ドーム(旧福岡ドーム)があるあたりなのですが、この辺は、今でこそ、横浜の「みなとみらい」みたいになってますが、元々は、ここ20年ばかりで埋め立てられた埋め立て地で、私が生まれた頃は海水浴場だったようです。
で、戦後すぐに、ちょうど、この辺りの、沿岸石垣が壊れるという事件があったそうです。
すると、その壊れた石垣の中から、多数の人骨が出てきたと・・・。
となれば、当然、時節柄(?)、「先の大戦での死者か!・・・」となったそうですが、その後、色々と偉い先生などが来て調査したところ、死者は死者でも太平洋戦争での死者ではなく、何と、「元寇」での死者であったとか・・・(驚!)。

委細は存じませんが、会津では「この前の戦争」と言うと太平洋戦争ではなく戊辰戦争、同じく、京都では「この前の戦争」と言えば「応仁の乱」だと言いますが、どうやら、博多では「元寇」のようです・・・。←(あ、ここ、笑う所ですよ(爆!)。)

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「喬木風に弱し」第二弾!博多の明太子に見る特許と商標。

2006年01月07日 | 地域
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今年の元日は如何お過ごしだったでしょうか?
私は朝から、焼酎飲んで、お雑煮喰って、チロリアン食って・・・、で、また、夜中に、餅食って、焼酎飲んで、チロリアン食いました。
何か、結構、ゲロゲロです(笑)。
ところで、チロリアン・・・って、知ってますよね?
博多のお菓子ですけど・・・。

別に、このお菓子の宣伝をするわけではないのですが、博多には、何故か、お菓子メーカーで有名どころがいくつか有ります。
聞いたら、結構、びっくりされるかもしれませんが、ひよこ千鳥饅頭などもそうです。
(ひよこを東京銘菓と信じて疑わない方が、結構、多く・・・(笑)。)
あと、もうひとつ、どこだったか忘れましたが、それを併せて、博多の三大銘菓というらしいのですが、なぜ、博多にこういうお菓子メーカーが集まったかというと、かつて、福岡県では石炭が採れたので、その炭坑夫相手にお菓子を売っていたのが、その後、石炭が斜陽化したことで、博多の方に出てきた・・・ということだったとか。
(炭坑夫というのは、肉体労働甘いモノが食べたくなる一方で、いつ、落盤があって死ぬかもしれないという危険な仕事だったから、給金は割りと良く・・・つまり、金回りがいい・・・ということで、昭和三十年代くらいまでは、この荒くれの炭坑夫という人たちが、福岡県の経済を動かしていたと言ってもいいほどだったそうです。)

で、博多と言えば、もうひとつ、忘れて成らないのが明太子です。
こちらは、元々、ふくやというところが始めたのですが、ここは、驚くことに、特許登録商標もとらなかったのだそうです。
それどころか、逆に作り方を聞きに来た人には教えてあげたとか・・・。
その結果、博多の明太子は、専門メーカーは元より、寿司やから料亭・・・、果ては一般家庭などでも自由に作ることが出来たことから、一気に明太子店が拡がり、本家本元のふくやの前にさえ、別の明太子の店が出来るほどだったとか。
そこへ、新幹線が博多に乗り入れることになって、一気に、全国ブランドになったとのことでしたが、これって、まさに、驚嘆すべき発想!端倪すべからざる卓見!ですよね。
この辺は、まさしく、平太郎独白録 「桿木風に弱し!」でも西武の創業者、堤康次至言としても申し上げた、まさしく、「喬木風に弱し」ではないですか!
もし、これを、専売特許登録商標などでがんじがらめにしていたなら、果たして、明太子は今ほどの隆盛を見ていたでしょうか・・・。

それに、特許などは、口で言うほど絶対的な物ではないようで、中小企業が苦労して取得しても、大企業は中小企業の側に訴える能力がないと見て取れば、平気でこれを侵害してくると言います。
さらに、訴えたところで、膨大な手間時間コストがかかり・・・。
そう考えれば、この明太子の戦略というモノは、「阪神優勝」や「ホリエモン」の商標問題で、今や特許や登録商標を取るのが、一種の社会現象のようにさえなりつつある観がある現代、一考の余地があるように思えます。
登録商標も、今や、膨大な順番待ちだとか。
さもありなん・・・と思いますよ。
少し、こういうものは、見直した方がいいのではないでしょうか?
住友の家訓でしたっけ?
「浮利を追わず」と言ったのは・・・。

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謹賀新年に見る博多雑煮の世界!

2006年01月01日 | 地域
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謹賀新年

旧年中に賜りましたご芳情を深く御礼申しあげます。

時が経つのは誠に早いもので、厚顔の美少年と言われた私も、本年とって四十五歳
いたずらに馬齢を重ねるのみにて、未だ何事も成し得ることなく、我が魂魄、慚愧に堪えず・・・。

さすがに、五十というモノの足音が聞こえるようになり、改めて、もう、引き返せないところまで来たんだな・・・と言うことをひしひしと感じるようになりました。
そんな想いもあり、昨年は三月末より、このブログを書き始め、八月には一念発起し、十時間も歩いての、屋久島縄文杉登山に挑みました。
そして、今年一月には性懲りもなく、二冊目の著書、「死せる信玄生ける勝頼を奔らす」を出版する運びとなっております。

とは言え、未だ己が爪痕を大地に刻むには遠く及ばず、我が身の愚鈍が嘆かわしい限りにて、この上は何卒、本年も旧年中同様のご指導の程、御願い申し上げます。

  平成十八年 元旦   梁庵 池田平太郎  頓首頓首 再拝再拝


ということで、正月くらい(?)は堅い話は抜きにして、一杯やりませう(笑)。
画像は、当家の雑煮です。
私は、どういうわけか、この雑煮が大好物でして、ここにあるのは、いわゆる博多雑煮と呼ばれる物です。
まあ、ご覧の通りの物なのですが、特徴としてはブリが入ることが知られていますが、もうひとつ、これを抜きにしては語れない・・・というモノに「カツオ菜(かつおな)」というものがあります。
(椀中に、緑色の菜っ葉が浮かんでいるのがおわかり頂けると思いますが、これです。)
これはどうやら、博多にしかないもののようで、こちらでも、雑煮にしか使いません。
以前、博多在住の広島出身者が「雑煮にはこれ!」とあまりに言われるので、食べてみたそうですが、とても、食べられたモノではなかったと言ってましたので、やはり、博多人の口にしか合わないモノなのかもしれません。
(もっとも、どういう調理の仕方をしたかはわかりませんが・・・。)
ただ、以前、カツオ菜が無いからと言って、母がレタスか何かを入れたことがあったのですが、やはり、邪道でした(笑)。


ちなみに、こちらにあるのは、雑煮と太宰府名物「梅ヶ枝餠」です。
別に、関係はないのですが、初詣といえば、こちらでは太宰府天満宮ですから、並べてみました(笑)。

ということで、今年もお見捨て無きよう、よろしくお願いします。 

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私事ですが、宝箱を開けてみました・・・。

2005年08月02日 | 地域
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先週の土曜、うちの倉庫を片づけていたら、一抱えもある大きな箱が4つ出てきました。
以前から有るのは知ってましたが、何が入っているのかは知りませんでした。
で、片づけようと思い、表に出してきて中を確認したところ、何と昭和29年の地域の祭りの時の段幕(祖父の名前が世話人の欄に)、昭和31年の町内対抗子供マラソン大会の時のシャツ(手縫いでマークが付けてあるという・・・。何だか、温もりが・・・。)、他にも何だかわからないがフラッグ!(マークは福岡市のマーク。けど、町の名前入りの見学団だとか、女子青年団とか、一体、いつ何に使ったんだ・・・と。)、祭りの式次第を書き出した紙etc・・・。



何でこんな物があるんだ・・・。ていうか、いつからあるんだー(涙!)。
少なくとも、私はこの祭りに出た記憶はないんですよ。
1歳くらいの時、祖父のヒザの上で出ただけ。
昭和40年くらいまでしか、この祭りはなかったはず・・・。
ということは、それ以来、40年間、ここにこうしてあったということ!

で、その翌日が、亡父の7回忌でしたので、実家に向かう途中、よく見たら、至る所に祭りの格好した子供たちが・・・。
よく考えてみたら、その日が祭りの日だったんですよ。
(都心化で町内自体が事実上、消滅したので、過去の話になってますが、神社の祭り自体は今でも続いています・・・。)
その上で、よりによって、昨日、40年ぶりに陽の光を見るなんて・・・。
何とも、奇遇だなーと思いつつ、私的には感慨深い物があり・・・。
関係ない話にお付き合いさせてしまい、失礼しました・・・。

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福岡市の人口、7月にも140万人へ!

2005年06月29日 | 地域
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いつの間にか、140万人にまで膨れあがってたんですね・・・。
知りませんでした。

◆――――――――――――――――――――――――――――――◆

05/06/06付 西日本新聞
 福岡市の人口140万人到達が目前となった。
 同市が6日発表した推計人口によると、1日現在の人口は139万9543人(前月比1582人増)。
 同市の人口はここ数年、月平均800~1000人ペースで伸びており、市総務企画局は「来月には百四十万人を突破する可能性が高い。魅力的な商業施設の集積が進み、九州一円から人を呼び込んだ結果」としている。
 同市は1889年に市制施行。当時の人口は5万847人だった。1975年には人口百万人を突破し、79年には、北九州市を抜いて九州最大の都市となった。現在の人口は、全国13政令市(東京都区部を除く)の中で、約146万人の京都市に次いで七番目。
 福岡市が2002年度に策定した基本計画は「140万人到達」を06年度と見込んでいたが、一年早く実現する見通しとなった。

◆――――――――――――――――――――――――――――――◆

だそうです・・・。

130万人まではそう思わなかったけど、140万人となるとちょっと・・・。
だって、福岡市って小さいんですよ。
(札幌の1/4程度と言われてます。)
そんなところに、140万人。
さらに、周辺ベッドタウンまで入れたら、200万とも250万とも言われているわけですから・・・。
道理で、水が足りなくなるはずですね。
北陸や会津は大雨で洪水とか・・・。
こちらは、このままでは、完璧に取水制限みたいです。
北陸ではうらめしい水も、福岡ではうらやましい水です。
まあ、慣れましたけどね・・・、水不足。

あ、ここで終わるつもりだったのですが、最近、思うんですよ!この定義!
「劣悪な環境から来た人たちは、それに慣れていると言うことだけで、好環境の人に優越感を持つ」と。
治安の悪いところから、いいところへ来た人たちは、「このくらいなら、別に驚かないよ。」と胸を張るし、物価が高い地域の人たちは安い地域で同じ物、同じサービスが受けられても、「いや、こっちじゃ、このくらいはするんだ。」って高い金を払うことに違和感を持たない。
ちなみに、日本は治安が悪化していると言われてますが、一番、治安が悪かったのは昭和30年代だそうです。

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