平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

海図から見る博多港今昔から想いを馳せる金印!

2006年02月25日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

博多港シリーズ第5弾(・・・あるいは第六弾かも(笑)。)です。
去る2月17日の毎日新聞朝刊に、九州大学大学院教授 服部英雄氏の筆になる「海図を読む」という特集記事が載っておりました。
大変、興味深く読ませて頂きましたが、それによると、てっきり、古来からの天然の良港だとばかり思っていた博多港も、実は明治の段階ではまだまだ、「瀬」と呼ばれる海面下に隠れてしまう暗礁が多々、あったそうで、中には海中に立てるところさえあったとか・・・。
この教授氏ならずとも、「立ってみたい」という気持ちになろうかというものでしょう。

しかし、そんな、「漁師にとっては絶好の漁場」であり、「住民にとっては天然の防波堤」でもある「瀬」は、同時に、航海者にとっては「障害」以外の何ものでもなかったわけで、そこから、明治になって初めて海図というモノの必要性が出てきたのだそうです。
(それ以前は、漁師にとっては、知ってることが当たり前であり、それをわざわざ、図面に落とす必要を感じなかったとか・・・。)
この辺を昭和4年(1929年)の海図でみると、そういった瀬と瀬を結んで、その上に防波堤が築かれており、さらに、港湾内の浚渫も開始されているのがわかるとか・・・。
そのおかげで、現在の博多湾の人工航路の水深は14mあるのだそうで、それで、現在では大型船の出入りが出来ているわけですね。

その辺を、一部、抜粋させていただきますと、
--------------------------
博多湾等深線を読んでみる。
博多湾内は意外に浅く、先の間の瀬あたりは、二尋(3.6m)程度の水深しかない。
能古島東方つまり博多湾の過半水深三尋(5.4m)程度であった。
加藤清正軍船350人を乗せ、船艙深5.9mだったという。
三尋では不足する。
『老松堂日本行録』の朝鮮通信使・宋希がそうしたように、船は志賀島に碇泊したままで、それより博多へは小艇乗り換えて往復することも多かった。
島の重要性がわかる。
--------------------------
だそうです。


こちらは、現代の博多湾です。
中央部分に地続きになった島が確認頂けると思いますが、これが志賀島です。
ここに船を置いて、ここから、小型舟艇に乗り換えて、向こう岸まで行かないといけないわけですね。

また、教授は「蒙古襲来時の元軍停泊地伊万里湾の入口にあった鷹島であって、ただちに上陸はしなかった。豊臣秀吉は博多ではなく、深い呼子の海を朝鮮への出撃基地に選んだ。」と書いておられましたが、なるほど、それで行けば、志賀島に金印が埋まっていたのも「WHY!」ってほど、有り得ない話でもないわけで、秀吉が朝鮮出兵の拠点を肥前名護屋に選んだのも、必ずしも、「前線基地にされたくなかった博多商人たちの深謀遠慮」に引っかかったというわけでもなかったわけですね。
ちなみに、一昨日の2月23日金印発見された日だそうです。



こちらの画像は、その志賀島から福岡タワー方向を見たところです。

(方向的には、ほぼ、上の画像を左右に二つ折りして、その島側南端部分から、垂直方向に南を見たものとご理解下さい。)

ちなみに、この辺りからは、角度的に、福岡市のいわゆる、天神、博多駅、中洲といった中心部分は見えませんので、あしかがたかうじ・・・じゃなかったあしからず

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。