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平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

推薦産業遺産 志免タワーこと竪坑櫓の危ない魅力。

2006年09月28日 | 地域
親愛なるアッティクスへ



ここがどこか・・・、いや、これが何かおわかりになるでしょうか?
どうみても廃墟ですが、これは、私が物心付いたときにはすでにこんな状態でしたね。

ご覧の通りの不気味さで、夜は幽霊が出る・・・などという話もあるそうですが、私はなぜか、無性に懐かしいんですよ(笑)。

これは、福岡県糟屋郡志免町(と言っても、福岡空港から丘を一つ越えた辺り。福岡市って、本当に狭いんですよ。)にある石炭採掘の為の竪坑櫓(たてこうやぐら)です。
私たちは、これを勝手に「志免タワー」などと呼んでいました(笑)。
以前から、一度、この間近まで行ってみたかったのですが、先日、「この周囲に安全フェンスが完成した」というのを新聞で見て、近くまで行けるようになったことを知り、家族を近くにあるショッピング・モールに連れて行くとだまして、改めて、行ってきました(笑)。



私が子供の頃までは、この辺は石炭の町として有名でしたが、この志免鉱業所の開設は、明治21年(1889年)、旧日本海軍直営鉱としての開抗にまで遡ります。

戦後、この炭坑は、旧運輸省から旧国鉄に引き継がれますが、その後、国のエネルギー政策の転換昭和39年(1964年)に閉山

で、この竪坑櫓ですが、私が物心付いたときから、こういう状態・・・というのも当然で、何と、作られたのは、昭和18年(1943年)、太平洋戦争の最中、帝国海軍の直営で建設されたと言いますから驚きです。
鉄筋コンクリート造高さ53.6m
単純に計算しても20階建てビルに相当します。
よくぞ、その当時にこんな物作ったな・・・と改めて感嘆。
だって、ポンプ車ミキサー車クレーン車も無い時代ですよ。
おそらく、セメントも、それから、さえも、人間がバケツか何かに入れて抱えて持って上がって、その場で練って、流し込んだんでしょうね。



で、この櫓には、巻き上げ機1機が設置されているそうで、巻き上げ式として現存するのは国内唯一だそうですが、なにぶん、築63年・・・

台風が相次いだ2004年には、脇の遊歩道町総合福祉施設などにコンクリート片落下が相次いだそうで、当時の所有者である新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)は、「はく離したコンクリート片が人に当たり、けがをする恐れがある」として町に解体の方針を示したと言いますが、町としては、「文化遺産を解体撤去するのは忍びない」として、保存を検討し始めたそうですが、そこで立ちはだかったのが、約3億6000万円と言われる巨額の保存費用・・・。
で、私もその後の先行きを注目していたのですが、結局、町は「歴史的遺産価値が高く、後世に引き継ぎたい」として費用を必要最小限に抑える「見守り保存」の方針を決定。
今年4月に、町はNEDOから竪抗櫓と土地(7,533㎡)の無償譲渡を受け、6月には、貴重な文化遺産であるということで、学術的、文化的に価値が高いと評価され、産業考古学会推薦産業遺産認定されたのだとか・・・。

で、行ったら、フェンスの外周に並行して遊歩道も新設され、子供も遊べる遊具施設もありましたが、でも、台風の時なんか、その辺までコンクリート片が飛んできたと言うのであれば、台風でなくとも、突風なんかがあった場合、ここまで飛んでくる可能性もあるんじゃないんですか?
こんなところに、遊歩道はまだしも、遊具なんか設置していいのかな・・・と言う気もしなくもないのですが・・・。


(↑最後に、敢えて、竪坑櫓を横にしてみました。この方が、なぜか、この建物が持つ危うさというか、凄みが感じられるのは私だけでしょうか・・・。)

ちなみに、周囲に張り巡らされたフェンスはすべて金網製で、竪抗櫓の半径40m周囲251mにぐるりと設置されています。
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博多駅前史 その10 昭和 博多駅移転区画整理編 Ⅲ

2006年09月25日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

毎度おなじみ、先週の続きです。
土曜がなかったので、本日にしました。

昭和33年、順調に行き始めたかに見えた博多駅土地区画整理ですが、正式に決定した途端に、壁が立ちはだかります。
まず、そのひとつめとなったのが農地問題についてです。

当時の空撮の写真を見ると、元々、博多駅移転予定地は見事に農地ばかりであり、区画整理対象区域全体でも、3割以上の区域を農地が占めていたことで、補償金を巡って、地主福岡市、それに、小作農を代表する農業団体の三者の利害が複雑に絡み合い、容易成らざる事態となってしまったとか・・・。


(↑現在の博多駅から見る博多駅前の風景。この大部分は農地だったわけで・・・。)

中でも、難航したのが、離耕を余儀なくされる小作農の問題だったと・・・。
それは、まあ、そうでしょう。
耕地が無くなれば、いきなり、明日から、失業を意味するわけですから・・・。

となれば、当然、小作農の人たちの危機感は強く、そのことは、区画整理が進み始めたばかりの昭和29年には、早くも、前述の博多駅促進農民評議会が結成されていることからもわかると思います。
特に、1/3を占めると言われた農地の半分以上、約56%が小作地だったわけで・・・と、ここまで言ったところで、あるいは、「嘘ツケぇ!」と思われるかも知れませんね。
なぜなら、昭和23年GHQによって、行われた日本民主化政策の一つである「農地解放」があったことから、日本中から、小作農というものはいなくなっていたはずですから・・・。

ところが・・・です。
どういうわけか、この博多駅移転予定地一帯のみは、見事に、その指定地域から外れていたんです・・・。
従って、この地域の少なくない地域を占める小作農地ですが、その51%を、わずか13名大地主が所有するという事態になっており、このことが、今でも、博多駅一帯には地元でも有数の資産家が多いという現象になっているようです。
(ちなみに、当家は、誠に遺憾ながら、この13名の中には入っておりません(笑)。農民ではなく、大工ですからね・・・。あしからず・・・。)

ということで、この問題は、こじれにこじれ、昭和36年には地主と小作人との離耕条件の交渉が進展しないことに業を煮やした小作人たちが、新駅の杭打ち工事反対を申し入れる騒ぎにまでなったとか・・・。
これは、農地法で、「耕作者の同意が無ければ、工事には手を付けてはならない」と定められていたことから、言うならば、小作人側の「切り札」だったわけで、ストライキのようなものだったでしょうか。

まあ、結局、すったもんだあった末に、昭和38年7月8日、農業団体との間で、ようやく、補償問題で妥結にこぎつけるわけですが、結局、新・博多駅開業は当初より8ヶ月も遅れ、この年の12月になってしまったわけですから、如何にこの問題が・・・ということがおわかりいただけると思います。

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博多駅前史 その9 昭和 博多駅移転区画整理編 Ⅱ

2006年09月16日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

毎週土曜好例の自己満足シリーズです(笑)。

昭和33年3月11日、「福岡都市計画博多駅地区土地区画整理事業」の認可が告示され、事は本格的に動き出したわけですが、それに併せて、人々の「欲」の方も本格化します(笑)。

ところで、以前、どなたに聞いた話だったか忘れましたが、ある旧博多部の方が、遺産分けで、この人参町界隈の土地をもらったそうですが、その方は、「人参畑やらもらったばい。どげんするかいな・・・。」(訳:人参畑地区などをもらってしまった。どうしようか・・・。)と嘆くこと甚だしかったと言います。

つまり、これこそ、この「博多駅前史」の冒頭で述べましたように、この地域は、元々、川の河口が流れ込む入江のような場所だったことから、陸地となってからも、永く、すり鉢の底状の地形は変わらず(ちなみに、付近には「鉢の底川」なる、わかりやすい名前の川さえありました。現在のキャナルシティ脇から、那珂川へ突き当たっている道がそうです。)、湿地帯であり続けたようで、その為、私が子供の頃、までは、大雨が降ればすぐに床下浸水になってしまうような土地であり・・・、つまり、あまり、価値がない、二束三文の地域だったということです。


(↑鎌倉時代の博多絵図だそうです。中央上部分に見える半島の付け根辺りが、おそらく、当地付近だろうと思います。その隣に、入江に川が二本注いでいるのがおわかりいただけると思いますが、それ以前は、この半島は、その横に見えているようなの一つだったかと・・・。)

そんなところへ、突然、博多駅がキタムラ弁護士・・・北村晴男 - Wikipedia「とんだところに北村大膳」は相当に年配の方でないとわからないだろうという親心ですね(笑)。)ですから、となれば、あちらこちらで、醜い争いが起こらない方が不自然であり・・・。

まず、告示から3ヶ月後、博多駅促進農民評議会(そもそも、促進なのか反対なのかがわからないという(笑)。)が「反農民的な区画整理である」との声明を出し、区画整理に反対の立場を示します。
次いで、それから、3日後には噴飯ものの土地区画整理審議会委員選挙が行われています。
そして、これら、人々の欲望は、当然、飯盛り役区画整理局のお役人さんたちに向かい、当時、「博多駅事件」と呼ばれた、一大疑獄事件へ発展していきます・・・。
ということで、まった来週~♪

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博多に秋が来たことを知らせる風物詩、梨も柿も放生会♪

2006年09月12日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日の昼は、一人で、ここに居ました。
たまには、世俗から離れ、こういう時間も必要ですぜ、御同輩。

ところで、福岡市東区箱崎に筥崎宮という神社があるのですが、ご存じでしょうか?

延長元年(923)創建で、元寇による文永の役(1274)で焼けたものの、建治元年(1275)に亀山上皇より再建されたと言われています。
楼門に掲げられた「敵国降伏」の額が示すように、「武門」の神様、八幡宮である所から、今でも、アビスパ福岡福岡ソフトバンクホークスなどは、毎年、正月に、ここに参拝に訪れていることでも知られているでしょうか。

その筥崎宮の祭りとして、有名なのが、1月3日「玉せせり」と、今日、9月12日から始まる「放生会」(私的には、「ほうじょうや」と認識しております。)です。
博多の祀りと言えば、まず、すぐに思い浮かぶのは、「博多祇園山笠」であり、「博多どんたく」ではないでしょうか。
その二つに、この「玉せせり」を加えて、「博多三大祭り」と言うそうですが、何でもかんでも、「3」で括るのが好きな日本人・・・と言ってしまえばそれまでですが、前の二つはともかく、この「玉せせり」というのは、私はまだ、一度も行ったことがありませんし、20歳くらいまで、その存在も知りませんでした。
むしろ、私にとっての祭りというのは、もうひとつの、放生会のほうです。
私が子供の頃は、「梨も柿も放生会♪」と言われ、子供心に、延々と続く、縁日やお化け屋敷などが印象的でした。
私が今でも梨が好物なのは、あるいは、往事にインプットされたものなのかもしれません。
もっとも、柿は嫌いですが・・・(笑)。

放生会は、延喜19年(919)に始まったといわれ、元々は、「武」の神を祀る八幡宮が、生類の死を隣れみ、生き物を放してやる・・・という儀式として始まったそうですが、宝暦7年(1757)頃までは、その放生会の期間中に「どじょう」「小鮒」などの魚を煮売りしていたとも言われています。
まあ、これは、遅まきながら、禁止されたそうで、近くの川での漁も禁止になったという記録が残っているそうです。

また、放生会での神事芸能は、基本的に、氏子の主催で行われ、余興として、相撲興行・舞踊・花火・弓・その他芝居興行などがあり、その賑わいは遠くまで響いていたとか。
『博多名所図会』の「放生会酒宴の図」には、境内の松林に博多の町人たちが各々、幕を張り、酒宴を催している様子、そして、それを幕の外から見物している大勢の人々の姿が描かれていますが、この筥崎宮は、明治の頃までは、「白足袋で浜を歩いても、まるで、汚れない」と言われたほどに白浜青松、風光明媚なところだったようで、博多の町民たちの憩いの場となっていたのでしょう。
その後、大正の頃までは、「幕出」といって、家ごと、町内ごとに、長持炊事道具料理を入れ、長持ち歌を歌いながら、意気揚々と、筥崎の浜に乗り込み、松原に幕を張って宴を催したそうで、当時は、この「幕出」のために、衣装を新調する人も多く、さながら、「ファッションショー」の観があったようです。

もっとも、私が子供の頃は、その風習はすでになく、子供心にどこまでもどこまでも続く縁日の裸電球と、迷子が続出したほどの雑踏と・・・、さながら、不夜城の趣がありました。
ただ、当時は、まだ、戦争が終わって、2~30年くらしか経っていない頃ですから、参道の片隅には、傷痍軍人の格好をした物乞いなどもおり、今の若い方などは、「まあ、可愛そうに。」と言われるかもしれませんが、同時代を生きた私の祖父母などは、決して、いい顔をしてませんでしたね。
思い出したくない過去・・・って感じだったのかも知れません。

一度、誰か、通行人とケンカしているのを見たことがありますが、「貴様らだけじゃないんだぞ!」という罵声を浴びせられてました。
あるいは、この辺が同時代人たちの感情だったのかも知れません。
もっとも、いつの間にか、すっかり、その人たちも見かけなくなりましたが・・・。

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博多駅前史 その8 博多駅移転区画整理編 Ⅰ

2006年09月09日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日は、拙宅にて、これ(↑)を飲んでました。
私が愛飲している焼酎、「平太」です。

そうです。
私の名前が冠せられた焼酎です・・・って、うっそぴょ~ん(笑)。
別に、私が付けさせたわけではありません。
たまたま、見つけ、以来、気に入って、飲んでます。

で、ついつい、飲み過ぎました。
ということになれば、本日はいつものように・・・。
(武士の情けです。聞かないで下さい・・・(泣)。)
まさしく、昨日の友は今日の敵・・・です。

で、本題です。

本来、日本列島を、東京から西に交通の大動脈を布く上では、下関までは比較的、直線でルートを通すことができるようですね。
ところが、以前、平太郎独白録 「ヌレギヌは博多発!」の中でも、ちらっと触れたとおり、これが、九州に入って、そのまま、まっすぐ長崎(平戸)の方向に抜けて行くのであれば、福岡を通過するという点では何の問題もないのですが、九州に上陸した後、九州最深部である南端の鹿児島まで到達させる・・・となると、福岡という地勢は通過する上では、少々、無理がある場所のようです。
現に現在でも、九州縦貫道(高速道路)は福岡市内を走っておりません。

ただ、そうは言っても、九州の中で福岡ほどの大都市を無視することも出来ず・・・で、その結果、福岡を通り、熊本~鹿児島へ脱けるとなると、どうしても、福岡都心付近のどこかで90度方向転換せねば成らないことになるわけで・・・。
ということで、今でも、国道三号線は、旧博多の手前を流れる御笠川に当たった所で、90度曲がっているわけです。
ということになれば、当然、明治22年博多停車場が設置された当時は、福岡市自体、もっと小さかった為、より都心部へ乗り入れなければならず、その為、国鉄鹿児島本線は、旧博多駅を過ぎた後数百メートルの付近で、ほぼ直角に左折し、一路、鹿児島方面へ向かっていたそうです。
その為、旧博多駅を過ぎ、下人参畑町とのほぼ中間地点、「管弦町」(現在のキャナルシティ付近)で直角に曲がっており、当然、この辺りで脱線事故が多く発生していたようで、(亡父の話では「飛び込み自殺」も多かったとか・・・。)その為、脱線事故を防ぐ為にも、その鹿児島への角度を少しでも緩やかなものにする必要があったといいます。

で、昭和31年(1956年)、明けて早々の1月6日福岡市国鉄により移転の為の測量が行われ、4月には博多駅移転区画整理局が設置され、「名称及び施行区域」が決定されます。
それに合わせて、5月には、役目を終えた東部区画整理組合解散
ついでに、7月には、「もはや戦後ではない」が白書に掲載され、10月には地元、西鉄ライオンズが全国区の巨人を破って、初の日本一!へ輝きます。
時代の躍動感、沸き立つ街の様子が伝わってくるような気がしますね。

ところが、そう何事も順風満帆に行くはずもなく、昭和32年5月5日の新聞には、「区画整理は誰がやる」と題して、事業主体を国と福岡市が押しつけ合っているという記事が載っています。
どういう事かと言えば、市は「国が事業主体となり、市に委任する行政庁方式」というものを要望しているのに対し、国は「あくまで市が事業主体となる自治体方式」を主張しているということでした。
つまり、いつの時代にも見られる、予算の枠争いですね。
で、結局、当時の建設省大蔵省との間でも手打ちが為されたこともあり、都市改造事業方式というよくわからないもので決着したようです(笑)。

しかし、これで、当面の障害が解消されたことには違いなく、これにより、昭和33年3月、遂に、博多駅地区土地区画整理事業正式に認可されます。
奇しくも、大正7年に初めて、福岡市長ら行政当局者により移転区画整理陳情されてより、苦節40年目のことだったそうです。

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博多駅前史 その7 戦後昭和編

2006年09月02日 | 地域
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毎週好例(?)の自己満足シリーズです。

終戦間近の昭和20年6月19日・・・。
この日、突如、福岡市B-29大編隊が襲います。
いわゆる、「福岡大空襲」です。

生前、祖母から聞いた話では、空襲を受けた当時の福岡市の中心部、いわゆる、旧福岡博多の方向は、一面、真っ赤に見えたと言います。
「・・・見えた」という言葉のとおり、実は、当地、現在の博多駅前地区は、旧博多駅から徒歩で10分程度だったにも拘わらず、このとき、空襲を受けておりません。
つまり、米軍にとっても、空襲する価値すら無い地域だったわけです。
この為、逆に、この一帯は、大正時代から建つ老朽化住宅も多く、これが後に博多駅移転区画整理の対象となる一因となります。

そして、未だ戦後の傷跡癒えぬ、昭和24年(1949年)7月、市議会に博多駅拡張委員会が設置され、「博多駅拡張並びに施設改良に関する件」可決されたことで、再び、事業は動き出します。
翌25年博多駅拡張協議会が結成されると、さらに、翌26年には、それを受けて、遅々として進まなかった戦前からの東部土地区画整理事業換地処分が行われ、また、市議会では博多駅を移転後退させることの是非について、議論が交わされるなど、一層の盛り上がりを見せていったようです。

で、それらの動きに呼応したか、、昭和27年、現在の博多駅前3丁目から4丁目にかけて、つまり、現在の住吉通りを挟んで両岸にあたる、中人参町、上人参町が、正式に町名として認可されます。


(↑現在の中人参町、上人参町地区です。)

が、このとき、この中に、下人参の名前はなく、その後間もなく、博多駅移転区画整理が動き出したことから、結局、下人参は正式町名の申請をすることなく、現町名「博多駅前」へと移行することになります。
その為、現在の役所に保管されている旧町名の一覧表には、中人参町と上人参町はありますが、下人参町はありません。
つまり、私が生まれた福岡市下人参町は、公式記録には、一切、存在しない町になってしまったのです。
下人参町が、中人参町・上人参町と同時に、正式町名の申請をしなかった理由はわかりません。

ただ、おそらく、この時期に、東林寺町下人参畑町とが合併し、新たに、下人参町が発足していることから、合併の関係があって、今回は見送り、次回にしようとしたところが、博多駅移転区画整理の対象となっていることが判明し、どちらにしても、町名が変わるのなら・・・ということで、そのままになったのではないかと思います。
あるいは、正式町名を申請するにあたっては、町民の人数や町の面積など、何らかのクリアしなければならない基準のようなものがあったのかもしれませんね。
下人参畑町では、それを満たしていなかったから、東林寺町と合併する必要があり、その手続きを進めているうちに、中人参町と上人参町は正式町名を認可され、下人参町はする必要がなくなったとか・・・。
それとも、先に合併しておかないと、正式町名が認可されると、後から、合併出来ないということだったなどということもあったのかもしれません。
いずれにしても、昭和29年には、下人参町樽御輿記念の横断幕(画像はコチラ→平太郎独白録 「私事ですが、宝箱を開けてみました・・・。」)が作られてますから、このときまでに、合併が完了していたのは間違いないんですけどね。

そして、昭和30年(1955年)、土地区画整理法が施行されたことにより、この後、一気に、博多駅移転区画整理は前進を始めます。

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博多駅前史 その6 戦前昭和編 東部区画整理組合

2006年08月26日 | 地域
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時代は、いよいよ、大正から昭和へと移ってきました。
そして、注目すべきは、この頃より、博多駅移転問題が俎上に上がり始めたことです。

まず、博多駅自体の流れを時系列的に著しておきますと、明治22年(1890年)に九州鉄道の駅として完成した博多停車場ですが、完成して10年も経たないうちに、早速、手狭になったようで、拡張の必要性が叫ばれるようになったとか。
で、明治42年(1909年)に、当時としては、天文学的とまで言われた12万円の大金をかけて一新され、拡張改築された二代目博多駅ですが、これまた、福岡市の発展に追いつけなかったようで、拡張から10年も経たない大正6年(1917年)には、博多駅移転拡張が新聞紙上にて提起されたのを受け、翌7年には、当時の福岡市長らが門司鉄道局へ博多駅移転の為の陳情を行ったものの、国鉄側からは、あまり、色よい返事はもらえなかったようで、それ以上の進展はみられなかったようです。
が、ともあれ、これが、この後、戦争を挟んで、46年間に渡って繰り広げられる博多駅移転区画整理の嚆矢となります。

で、この動きは一旦、忘れられたかに見えたものの、水面下では止むことなく続けられていたようで、ついに、昭和3年(1928年)5月、博多駅移転の為の、東部区画整理組合創立が決議され、昭和7年より、移転を見越した有志らによる区画整理に着手したようです。

このとき、当地(現博多駅前三丁目地域)でも、この東部区画整理に呼応してのことか、区画整理着手の前年の昭和6年、下人参畑町のうち、拙宅を含む一帯が、下人参畑町より分離して、新たに、福岡市東林寺町となっております。
ただ、分離したとは言え、町内の行事などはすべて、下人参畑町と一緒にやっていたと言いますから、実態はそれまでと何も変わらなかったようです。


(↑これは、東林寺町設立記念式典の際の横断幕です。発起人の中には、私の曾祖父の名前が見えます。)

その後、昭和9年に、同地では、土地の分譲が為されたと、登記簿には記載されております。
あるいは、分譲を契機に町が分離したのかも知れません。

(当時の登記簿は今と違って、納税台帳の一部ですから、必ずしも正確とは言い難いようで・・・。)
ちなみに、先述しましたように、大正12年に同地に転居してきた当家ですが、当時は建物は自前でも、土地は借地だったようです。
これは、何も珍しいことではなく、当時は、日本では、住宅というのは借地が一般的だったそうで、これを劇的に変えたのが、関東大震災だったそうです。
つまり、震災によって、家が倒壊すると、家ばかりか、借地権自体が消滅してしまうという事態に被災者が直面することになったからです。
このとき、分譲された理由の一つには、あるいは、そういった意識の変化があったのかもしれません。

で、その後、東部区画整理組合の関係者は、博多駅移転区画整理に向け、数多の陳情を繰り返し、その努力あって、ついに昭和18年、事業費774万円をもってする都市計画決定告示されるに至ります、しかし、折からの太平洋戦争の戦局の悪化と共に、区域決定のみで、結局、事業認可は得られないままに終わりました。

ということで、続きはまたまた、来週のココロだ~♡

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博多駅前史 その5 大正編

2006年08月21日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

これ、私の毎日の通勤路であり、私の子供の頃からの原風景です。
この手前の部分が、東領、奥の方、右手にあるひとつだけ高いビル辺りからが人参畑(上人参町)です。

ちなみに、実は、この一枚、もの凄いタイミングで撮れた物なんです。

どういうことかというと、これ、今朝撮ったものではなく、実はこれ、平日の、それも通勤時間帯なんですよ。
しかも、この場所、博多駅前の旧道でして、普段、この時間は、いつも、結構、渋滞しているところなんです。
特に、このときは、車の渋滞も激しく、人も自転車もあふれかえっていたのですが、私がシャッターを押した、まさに、この瞬間だけが、ご覧の通り、まるで時間が止まったかのように、人も車もキレーに消えた瞬間でした。
ということで、当然、この数秒後には、時間が動き出し、また、人と車が溢れかえる現実が戻ってきましたことを付け加えさせて頂きます(笑)。

ということで、土曜に平太郎独白録 「またまたワタクシゴトのタワゴトのご報告と告知です。」が急遽、割って入った関係で、この自己満足記事が本日になってしまいました次第です(笑)。
で、本題です。

大正12年に、あの、関東大震災が起こります。
このとき、福岡市では、「大字春吉」「人参畑町」に代表されるように、「役所上の住所」と、増殖を続ける「実際の住所」との相違、それに、増加する一方の人口ということを考えたならば、もし、福岡で同様の大震災があったなら、大変なことになる・・・という危機感を持った有志らにより、「福岡市住宅調査会」というのが組織され、住民把握の為の「福岡市民録」というのが作成されました。
そこには、町名ごとに分別された上で、番地と氏名ばかりか、職業、電話番号までもが記載されました。

で、現存するその市民録を見ると、上人参町78所帯、中人参町155所帯、下人参畑町68所帯となっており、職業では農業というのが少なく、殆どが米屋、大工、駄菓子屋、床屋・・・などの自営業者だったようです。
(この辺の構成は、私が子供の頃とあまり、大差ないように思います。)
ちなみに、なぜ、上と中は人参町で、下だけが人参畑町だったのかと、なぜ、南から順に、博多駅からも遠い順に、上中下なのかは謎です。
この後も、結構、上と中は同じ動きをしますが、下だけは一線を画したような動きがあるようにも思えます。
私の記憶では、決して、仲が悪かったとか、そういうことはなかったように思うんですけどねぇ・・・。

ちなみに、当家も、この年、市内中心部の方から、この、下人参畑町に移り住んできており、福岡市民録には私の曾祖父の名が記されております。
当時は借家だったといいますから、やはり、市内の高い家賃を嫌って、こちらの方へ移り住んできたものと思われます。

で、この頃より、ついに博多駅移転問題が俎上にのぼり始めることになります。
で、その後はまた、来週のココロだ~♡

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ヌレギヌは博多発!

2006年08月16日 | 地域
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暑い日が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
博多も、盆の間は、ご覧の通りの快晴でした。

ところで、「濡れ衣」・・・ってご存じですよね。

言うまでもなく、「ぬれごろも」・・・じゃなくって、「ヌレギヌ」ですね。
そう、いわゆる、「それは、俺じゃない!ヌレギヌだー!」ってやつ。
つまり、身に覚えのない罪を着せられることですね。

では当然、この「濡れ衣」という言葉は、博多発だということも知っておられますよね(笑)。

私、8年ほど前までは、福岡市東区の方に住んでおり、当時は、毎日、国道三号線が通勤路でした。
で、太宰府方面から来た国道三号線が海岸に突き当たり、大きく東、つまり、下関方面に向かってカーブしている場所があるのですが、その手前、御笠川沿いの歩道に石碑が建っているのが気になってました。
(ちなみに、このカーブ現象は、国道三号線に限ったことではなく、JR鹿児島本線、都市高速・・・etc、多かれ少なかれ、福岡の大動脈は、多くがこの辺りで90度曲がっております。
本州方面と、九州の奥地(?)を福岡を介して結ぼうと思うと、どうしても、こういう形になってしまうようですね。
ということは、本来、交通の効率性の問題からだけ言えば、福岡は、本州と九州を結ぶ、大動脈が通っているのはおかしい地域なんだと・・・。
実際、江戸時代の主要街道である長崎街道というのは、福岡を通らずに、門司から一直線に山の中を抜けて長崎へ向かっております。)

閑話休題(笑)。

でも、この場所、普段は交通量が多いところであり、気軽に車を止めて・・・という気にはなりませんでしたので、しばらく、「何かな?」と思って、通り過ぎておりましたが、あるとき、たまたま、交通量が少ないときがあり、立ち寄って、眺めてみました。
すると、そこには、「濡衣塚」と書いてあり、あの「ヌレギヌ」の語源となった物だと書いてありました。

ちなみに、「濡衣塚」とは・・・、『続風土記』に曰く、
「聖武天皇の御代(724~49)、佐野近世(さのちかよ)は筑前守として、妻と娘を伴い都から赴任して来た。
その妻は死去し、やがて迎えた後妻は、先妻の産んだ娘を亡き者にしようとたくらんだ。
後妻は漁師に色々と物をやって買収し、「娘が釣り衣を盗んだ」と告げるよう言い含めた。
佐野が娘を調べてみると、娘は夜具の上に濡れた釣り衣を重ねて寝ていた。
後妻にだまされていることを知らない佐野は、娘を殺した。
1年後、佐野の夢に現れた娘は2首の歌を詠み、父親に無実を訴えた。
佐野は初めて娘の無実を知り、出家して肥前の松浦山に住み松浦上人といわれた。」とか。
で、これより後、いわれのない罪を着せられることを、「濡れ衣を着せられる」と言うようになったんだそうです。

現在、濡衣塚には「福岡県指定有形文化財」という説明板があり、それには、「この石碑は板碑と呼ばれる中世の石造物で玄武岩の自然石を用いています。高さは165cmで梵字が正面の3箇所に太く刻まれています。康永3年(1344)の銘が刻まれており、南北朝期の板碑であることがわかります。」と記載されています。

で、最後になりましたが、本日、8月16日はこの「濡れ衣塚」の供養の日だとか・・・。
供養に行かれたら如何ですか、御同輩・・・。
あ、貴台様のは、「濡れ衣」ではなく、「身に覚え」でしたね、失礼・・・(笑)。

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博多駅前史 その4 時代は明治から大正へ編

2006年08月12日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

今、私の手許に、明治44年「福岡市の周囲」と題する新聞記事があります。
ここに、この頃になって、一気に発展し始めていた福岡市郊外の様子が記されているのですが、その中に、人参畑と付近のことについて記された一文があります。
農学校、農事試験場、測候所がある為であろうが、住吉に近い、人参畑東領辺りの発展も頗る注目する現状がある」と・・・。
また、「博多駅(旧)の拡張改築に伴い、駅に近い方の線路沿いには、紡績会社電灯会社などが建ち並び、料理屋なども出来てきた」と記されてましたので、どうやら、駅に近い方から発展していったようですね。
ついでに、人参畑ではないですが、付近の比恵というところの既述として、「この辺りは、元々、土着の者しかいなかったが、土木工事が盛んになったことから、各県から職人工夫が住みつき始め、市内の高い家賃を払うよりも、むしろ、少しの不便を辛抱して、片在所に寄寓しようという向きが多く」・・・という既述があります。
おそらく、人参畑も同様だったのではないかと思われます。

また、この記事の中には、以前、平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・前編。」、並びに、平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・後編。」の中で触れた、ザルデルン夫人殺害事件の現場となった貸家のことについて触れた箇所もあります。
曰く、「至って寂しい土地で、夜は強盗変質者が出て通行人を悩ませた簑島土堤に、一時、深野県知事が別荘を建て、転任後に売却しようとしたが、あまりに寂しいところなのと不便なのとで買い手が付かなかったが、それが対岸に遊郭が出来るとともに、以前、一坪20銭そこらだった櫨畑が、たちまち、五円十円で買い手が付くようになった。」と。
ザルデルン夫人殺害のわずか、6年前のことです。
警察も、随分、マシになっていたとは言え、交戦国とは言え、海軍大臣をこんなところに住まわせたよな・・・と。


↑ここがいわゆる簑島(現美野島)の土堤で、名前の通り、鎌倉時代には簑島という名の島だったようです。
もう、往時をしのばせる物はありませんが、一番、それっぽいところを撮ってきました。
私が子供の頃までは、うちと同様、普通の下町だったんですけどね・・・。

で、本題に戻ると、人口増加の一途を辿っていた人参畑地区ですが、大正11年6月1日、遂に福岡市に合併され、福岡市住吉町大字春吉字馬場添となります。
ただ、この住所はあくまで公式の物であり、実際には、やはり、「人参畑」と呼ばれていたようで、この時代になってくると、人参畑の人口も増えたことから、上人参畑町、中人参畑町、下人参畑町・・・と分裂、増殖を始めていたようです。
と言っても、住居表示法施行前のことですから、地主が分譲したら、勝手にそこに名前を付けて・・・と言う、今で言うところの、「実際の住所」は「大字藪田」だけど、「分譲時の通称」として、分譲元が「光が丘」とか「湊坂台」なんてのを付けられるような・・・、言うならば、登記上の「家屋番号」といったところだったようです。

ということで、やっと、大正編へ、れっつごーです。

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博多駅前史 その3 明治立志編

2006年08月05日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

で、今週は、先週の続き、博多駅前史 明治立志編です。

マニア向けのコアな話題ですから、人のことは顧みず、自己満足だけの境地でやっておりましたが、意外に反響がよく、気をよくしております(笑)。
我が道を行く・・・ですね。


こちらは、明治時代の福博(福岡市では、今でも、福岡博多総称して、こういう表現を使うことがあります。)の街を描いた錦絵絵図です。
博多駅から、港の方に抜ける大通りの歩道に、こうやってタイル貼りで設置してあります。
これなら、問題ないかな・・・と。

ちなみに、一番手前が博多部、その次、真ん中が中洲、一番奥が福岡部です。
現博多駅前地区は、この時点では、まだ、載っておりません・・・。

で、現博多駅前地区のことですが、明治時代、春吉村から住吉村へ吸収合併されたこの地域を表す数字としては、
人口2,522人424戸  
田 59、畑 9 (うち官有地 2)、宅地 17、官有雑種地 30
というのがあります。

その後、当地は、明治29年、県下31郡を19郡に統合する明治の大合併に伴い、那珂郡・御笠郡・蓆田郡の三郡が合併し、新たに筑紫郡が出来たことで、福岡県筑紫郡住吉村大字春吉字馬場添となります。
これも余談ですが、現在ではこの筑紫郡というのは、福岡市のベッドタウン化が進んだ為に、今や那珂川町というものだけを除いて、すべて、市に昇格しており、おそらく、その那珂川町が市になる日も、そう遠くないと思いますので、そうなると、もう、この筑紫郡というものが消滅してしまうわけですね。

で、地名こそ変遷があったとは言え、これらの地域の中でも、「人参畑」地区は、相も変わらず、人家もまばらな地域であったことには何ら変わりはなく、明治42年に国鉄博多停車場が拡張改築され、国鉄博多駅(旧博多駅)が出来た辺りから、福岡市内へ通勤する人たちのベッドタウン化が進み始めたようで、これにより、同43年12月、住吉村は住吉町に昇格し、福岡県筑紫郡住吉町大字春吉字馬場添となります。
ちなみに、それでも、この人参畑一帯の人口はたかが知れていたようで、同44年、その博多駅の拡張の関係で、旧博多部にあった「東林禅寺」が、人参畑に移転してきましたが、つい数年前に亡くなった先代住職は、もう、このときお生まれになっておられたそうで、往事を振り返り、「引っ越してきた当時は、見事に辺り一面、何もなかった。」と言っておられました。

で、その後、時代は大正へと下り、ますます、人口はふくらみ続けていくことになります。
ということで、また、来週のココロだ~♡

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那珂川、水上バス試験運行の是非。

2006年08月02日 | 地域
親愛なるアッティクスへ



今朝ほど、いつものように、川沿いの遊歩道を歩いて通勤しておりましたら、川のガード下に何やら渡し船らしき物が・・・。
普段は、そういう小洒落た物があるようなところではないので、「???」と思い、近寄っていくと、やはり、渡し船に船頭さんが・・・。

ますますもって、「???」と思い、近づいていくと、テントがあり、受付らしき人が数人・・・。
地元町内会の行事か何かかな・・・と思って、聞いてみると、何と、水上バスの試験運行だとか・・・。
まあ、渋滞緩和にはなるし、乗り間違えることもないし、良い試みかな・・・とは思いますが・・・。

とりあえずは、7/31から8/6までの試験運行だそうですが(朝7時~夜8時まで、ほぼ、1時間間隔で運行。)、あいにく、最終寄港地が天神ですので、私の通勤コースとは、かなり、ずれており、私が通勤として利用することはないと思いますが、せっかくだから、期間中に子供でも連れて、乗ってみようかなと思ってます。


(乗船場所はこの図にあるとおり、上流に2つ、下流に1つ。ちなみに、●が私の通勤先です。私は、この川の地図外のもっと南、つまり、上流から歩いてきて、いつも、この乗船桟橋辺りで、川沿いの遊歩道から、一般道へ上がり、●方向へ向かっております。)

ちなみに、この水上バスは、これ以上、上流には、(せき)がある為、行けません。
従って、どうしても、ここからのスタートとなってしまうようですね。
ちなみに、この舟は、下流にて、博多湾遊覧船リバーシーと接続しているそうです。
河口付近になれば、水深も多少はましになりますので・・・。
ちなみに、私はこの河口付近にある、屋形船で一献やったことがあります。
水面から見る中洲風景というのも、また、普段とは違って、なかなか、新鮮な物がありましたが、まあ、それ以上のものではないという意見が強く、以来、私は行きたいのですが、行ってませんねー。


ただ、これから、色々と改善していく・・・ということだそうですが、潮の満ち引きにもよりますが、干潮の時は水深がご覧の通り(↑)ですから、手こぎの「ひらた舟」しか使用出来ず、となれば、のんびり、揺られていくのは、「風情」としては悪くないにしても、通勤手段としてはどうでしょうかね・・・。
実際、多分、車だと片道10分程度の距離が50分ですよ。
夏はまだしも、冬はこんな状態の所へ50分というのは辛いですよね。
トイレにも行けないわけだし・・・。

ただ、魅力は、乗船料金が100円ということでしょうか。
でも、ガソリン代はいらないとはいえ、明治の頃の人件費の安い時代ならともかく、今、普通にやれば、人権費割れは間違いないでしょうね。
この辺りが、今後、一番の課題でしょうか・・・。

でも、よく考えたら、ここまで、歩いて、25分・・・。
私が夕方から、天神中洲方面に飲みに行くときは使えるんですね・・・。
逆に、酔客は川に落ちる可能性もある・・・と(笑)。

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博多駅前史 その2 江戸時代~明治編

2006年07月29日 | 地域
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たびたび、ご紹介申し上げております私の通勤路からの風景ですが、この川が福岡市で一番、メインの川、那珂川です。
中世以前は、前回申し上げましたように、この川ともう一つ四十川(現在の薬院新川)が、現在の住吉一帯にあった入江付近に注いでいたわけですね。

しょっちゅう、氾濫を繰り返していたとは言え、平時は、清流が注ぎ込む、さぞかし、魅力的な風景だったことでしょう。
叶う物なら、是非、往事の風景を見てみたいものです。

で、先週の続きです。

福岡市博多区博多駅前三丁目・・・。
ここの廃藩置県以前の地名は、筑前国那珂郡春吉村と言います。
春吉村とは、元々、隣の住吉村にある住吉神社の境内地だったようですが、慶長7年(1602年)、住吉村から分かれたとあります。
が、同時に、「されども、この所、その時は民家無し。この地に田畑を作る農人は皆、博多市中より通う。」と記されているように、かつてのような事はなかったとは言え、まだまだ、農地だけが拡がる寂しいところだったようです。

この春吉村に、初めて、人が住んだ記録としては、それから、10年が経った慶長16~17年頃、二代藩主忠之が、ここを宅地として造成し、足軽入植させたことが記されています。
そして、この頃から、以前、平太郎独白録 「民主党のお粗末さに想いを馳せる筑前福岡藩の財政運営。」で申し上げたところですが、日本一の裕福藩とまで言われ、潤沢だった福岡藩の財政が、慢性的赤字体質を見せ始めたようで、これに苦しんだ藩は、江戸時代中期、殖産興業の一環として、その春吉村の一角である、現在の博多駅前の地に高麗人参の栽培を企図し、新たに足軽数名を入植させています。
もっとも、この事業自体は頓挫してしまったようですが、ともあれ、以来、この地は、それにちなみ、通称、「人参畑」と呼ばれるようになります。

ちなみに、以前、平太郎独白録 「日露戦争と福岡人の奮闘に見る、男装の女傑と人参畑!」で触れました、男装の女傑、高場乱がここに興志塾という私塾を開き、右翼の巨頭、頭山満翁などに薫陶を与え、晩年、「人参畑の婆さん」と言われたのは、幕末から明治にかけてのことだそうですが、当時は人家もまばらな寂しいところだったと言います。

その後、明治4年の廃藩置県に伴い福岡県那珂郡春吉村となり、同6年9月には第2大区第22小区、同9年12月には第6小区、同11年11月には1区となります。
ちなみに、同15年の「字小名調べ」によると、春吉村には54の小字があり、そのうち、当家の所在地は「馬場添(ばばぞい)」というところで、正式には、福岡県那珂郡春吉村大字春吉字馬場添となります。
そして、同19年6月には隣村である住吉村と同区となったことで、明治22年の大日本帝国憲法発布に伴う、市町村制施行により、福岡市が誕生したのと同じくして、この地域は、春吉村から分離して住吉村に編入され、福岡県那珂郡住吉村大字春吉字馬場添となります。

元々、ここは春吉村とは言いながら、春吉の飛び地的な感覚のところであったようで、従って、実際には、春吉よりも住吉に含めた方がいいような地域であったようです。
従って、春吉村から住吉村へ編入された後、「住吉村大字春吉」という変則的な地名で残ったようです。
ちなみに、現在、住吉は博多区ですが、春吉は中央区です。
が、まあ、お世辞にも、柄の良くないところは五十歩百歩といったところでしょうか(笑)。

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自己満足の世界・博多駅前史 その1 前フリ

2006年07月22日 | 地域
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今朝の福岡県地方は少し、小雨がぱらついている程度でしたが、今、南九州では大雨だとか・・・。
今日の宮崎でのオールスターゲーム、大丈夫でしょうか・・・。
皆、楽しみにしているんでしょうから、とにかく、雨が上がってくれることを祈るばかりです・・・。

さておき、実は私、十年ほど前に、家業であるところの社史を作ろうとしたことがあります。
ただ、結論を言えば、昔のことは、とにかく、もう、わかりませんねぇ・・・。
「明治は遠く成りにけり」と言いますが、「大正も遠くなったなぁ。」というのが私の実感でした。
私の五代前の人(創業者?)が、大正15年に亡くなっているのですが、もう、この人の顔を特定出来る人がいないんですよ。
大正生まれの親戚のご婦人のところへ持って行っても、その方でも、まだ、子供だったから、もう、わからない・・・と。
はっきりと、特定出来るくらいまで成長しておられた方・・・となると、もう、明治生まれなんですよね・・・。
うちの祖父辺りが、もうちょっと、よく調べてくれていたら、結構、わかったんでしょうが、今となっては・・・ってところです。

で、その折りに、その一環として、私の地元、博多駅前のことなども、色々と調べました。
そういう関係から、博多駅前(正確には、そのうちの旧下人参畑町付近)の歴史と言うことになると、今では、おそらく、私が一番詳しのではないかと思っております。


で、ちょいと、コアマニアの世界の話(笑)になりますが、意外に埋没しかねない郷土史でもあることから、後世に語り残す意味でも、敢えて、ふれておきたいと決意致しました次第です。
ということで、土曜なら余り、人も見てないでしょうから、迷惑も掛からないと思いますので、しばらくは自己満足にお付き合い下さい(笑)。

まず、私が生まれ育った福岡市博多区博多駅前というところは、元々、大昔は2本も川が流れ込んでいた河口だったようで、従って、川からの土砂が堆積し、鎌倉時代くらいには入江のような形になり、室町時代くらいには完全に陸地になっていたようですが、川が近接して2本も流れ込んでいたことで、たびたび、洪水などの被害を与えていたそうです。
で、中世に大土木工事を行い、川の流れを一本他へ流れ込むように変え、これにより、とりあえず、耕作地程度にはなったようですが、湿地帯であることには変わらず、以後も、なかなか、人が住むには至らなかったようです。

ということで、来週土曜を乞うご期待(笑)。

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博多祇園山笠に見る、福岡・博多、三都物語・その2。

2006年07月08日 | 地域
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先日の続きです。
ホントは、あの翌日にUPするはずだったんですが、中田ヒデが引退しちゃったもんだから、もう、こうなりゃ、遅れついでだ・・・で、今日になりました。

で、まあ、そんなこんなで成立した福岡市内包する 武士の町、「福岡」と町人の町、「博多」ですが、ちなみに、福岡市中央区赤坂というところは、福岡市の中心、天神旧福岡城の間に拡がる街ですが、ここは、今でも、「おサムライさんの町」と呼ばれています。
無論、この現代に、チョンマゲを差した武士がいるわけではなく、ここには、福岡法務局があることから、周辺には司法書士、土地家屋調査士、弁護士などの「士」、つまり、「おサムライさん」がたくさん、いるわけです。
(士には、サムライという意味があります。)

で、この表題です。
「三都って、福岡と博多、二都の間違いじゃない?」と訝られる向きもお有りかとも思いますが、三都物語というのは、確か、京都、大阪、神戸JRか何かのキャッチコピーですよね。
で、「古くからの京都、秀吉以降の大阪、そして、明治になってからの神戸・・・」ということで、以前、この三都の成り立ちをテレビでやっておりましたが・・・。



(↑こちらは、平成23年に新しく出来る新・博多駅の予想建築図だそうです。まあ、どうしても、空港が近くにある関係で、高さに制限がある為、高い建物を造るわけにもいきませんから・・・、私的には代わり映えしない印象がありますが・・・(笑)。)

明治21年に福岡市が発足したときの人口は1万数千人だったと言います。
現在、福岡市は140万人、周辺市町村を含めた、実態にあった福岡人口、つまり、福岡都市圏は200万人だと言いますが、これは無論、人口の増加もながら、当時の福岡市とは面積がまるで違うことがあります。
発足当時の福岡市は、ほぼ、旧福岡と旧博多が合体して出来た町であり、現在の福岡市のほぼ、都心部分に当たります。
その後、福岡市は次々に周辺市町村を合併することで、現在の大きさにまで膨れあがったわけで、事実、私の地元、現博多駅前でさえも、大正12年にそれまでの筑紫郡住吉町が福岡市に編入されたことで福岡市になった町です。

実は私、よく言われるのですが、博多駅前の生まれ育ちながら、山笠などには出ておりません。
私だけでなく、うちの親父も出てませんし、私の小学校、中学校では、山笠に出ている人など、殆ど、聞いたことがありませんでした。
何故かというと、私の地元、現博多駅前は、昭和38年に現博多駅が500mほどセットバックして現在位置に移ってきたことにより、出来た街だからです。
それまでの下町が、昭和43年に、区画整理によって今の町並みとなり、その後、オフィス街に成ると共に、昭和47年区制施行によって、福岡市博多区博多駅前となったわけで、従って、「博多の風習に従え!」と言われると、「ちょっと待ってよ!俺、博多じゃないよ。」という意識があります。
「え、じゃあ、福岡なの?」と言われると、まるっきりの下町の生まれですから、高貴な福岡人という意識は毛頭ありません。
でも、私が生まれたときの本籍は、「福岡市春吉」となっており、この春吉というところは、今では中央区なのです。
つまり、博多駅が移ってこなければ、私は本来、中央区の人間だったんですね。
だから、博多駅前だからと言って、「本当の博多人」とは博多の人は言わないし、私にもその意識はないし、中央区に入るはずだったからと言われても、今更、福岡人という気持ちもありません。
ですから、私的には、博多でも福岡でもない、言わば、大阪・京都に対する、新興都市・神戸のような第三勢力として・・・、と言っても、極めて微々たる勢力ですが、意識の上では「福岡でも博多でもない。」という矜持があるのです。
だから、山笠なんて出てないよ・・・と(笑)。

ちなみに、実は、最近、この山笠に微妙な変化が起きています。
元々、山笠というのはいわゆる、旧博多部のお祭りでして、従って、飾り山笠というのも、以前は、主にそのメインの商店街に集中して置いてありました。
山笠には出てないとは言え、この時期、「祇園風に吹かれると風邪をひかない」という言葉があり、子供の頃から、山笠見物には行っておりました。
ところが、最近では、旧博多部の祭りから、福岡市全体の祭りのような位置づけになり、置いてある飾り山笠も全部廻ろうと思えば、車でないと行けないような広範囲に置かれるようになってしまいました。
それから、この山笠、表と裏がありまして、以前は、表は武者人形、裏は子供向けテレビ・ヒーローだったのですが、最近では、この子供向けのモノがめっきり、少なくなっているのです。
なぜ、こんなに少なくなったのかはわかりませんが、私が子供の頃は、結構、楽しみだったんですけどね。

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