ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

激動の時代を生き抜く知恵

2005-02-18 | 中川健一のおはなし
◆2月号◆激動の時代を生き抜く知恵

 日本の進路をどうするか。今これが大きな課題です。
 冷戦構造の終焉以来、日本は第三の文明開化期に入っています(第一は明治維新後の開化、第二は太平洋戦争敗戦後の開化)。今までの学歴社会は終わりを迎えつつあり、実力主義と「生涯現役時代」が到来しつつあります。このような時こそ、激動の時代を生きた先人に学ぶべきではないでしょうか。特に、聖書で信仰の人と呼ばれているアブラハムの生涯から学ぶことは多いように思います。


1.幻の人アブラハム

 アブラハムは、なんといっても幻の人でした。彼は、安定した生活を捨て、「行き先知らずして」、神が示す地に出て行きました。拙著『日本人に贈る聖書ものがたり』の第一巻では、このアブラハムの生き方と坂本竜馬の生き方とを比較しました。両者に共通するのは、天命を自覚し、無私の心で行動したという点です。ここに、現代人への教訓があると思います。両者が、「自分の名を挙げるための幻」ではなく、「多数の幸福のための幻」を追求した点に、成功の秘訣があります。
 「天命」という言葉は、日本人にはいかようにも取れるあいまいな言葉です。しかし、アブラハムにとってはそうではありませんでした。彼は、「自分は天地創造の神と個人的な契約関係に入った」との自覚を持っていました。彼にとっての天命とは、その神の計画を実現させることだったのです。私たちの人生では、そこそこの成功を味わった時が一番危険です。健全な幻が与えられるように、祈り求めようではありませんか。
 

2.危機管理の人アブラハム

 アブラハムはその生涯で、何度か危機に直面しています。約束の地(カナン)に飢饉がやってきて、エジプトに下った時がそうでした。そこで彼は、エジプトの王に自分の妻サラを奪われています。しかしこの危機は、神の介入によって脱出することができました。そこから彼は、教訓を学び、同じ過ちを繰り返さないようになっていきます。工学院大学の畑中洋太郎教授は、『失敗学』の権威です。畑中教授は、失敗には「いい失敗(未知との遭遇による失敗)」と、「悪い失敗(人間の怠慢から起こる失敗)」があると語っています。『失敗学』とは、いい失敗から物事の新しい側面を発見し、悪い失敗を最小限に抑えることを学ぶ学問です。
 先日、プロゴルファーの中嶋常幸氏からこのようなコメントを聞きました。「プロであっても、ショットの八十パーセントはミスショットです。大事なのは、ミスショットした後、すぐにそれを忘れ、乗り越えるだけの内面的なものを持っているかどうかです」
 このコメントに励まされるアマチュア・ゴルファーの方は多いと思います。プロでも八十パーセントのミスがあるとするなら、自分にミスがあるのは当たり前だと。


3.本気力の人アブラハム

 アブラハムは、本気力で生きた人物です。それが遺憾なく発揮されたのが、モリヤの山で息子イサクを捧げた事件です。神はアブラハムに、最も大切なものを捧げるように命じました。彼は即刻それに従い、息子イサクを連れて山に登りました。途中、数々の誘惑があったものと思われます。その中には、「捧げるふりをしていれば、その内神が介入されるだろう」というものもあったでしょう。しかしアブラハムはそれを退け、神の命令に従いました。それは演技ではなく、本気力による実践でした。神はアブラハムの本気力を大いに喜ばれ、イサクの代わりに雄羊を用意して、それをほふらせました。
 この出来事は、アブラハムにとっては最大の試練でしたが、これを通して彼は、「死者の中からイサク」を取り戻すという体験をしました。これは、復活信仰の先駆けとなりました。
 神はなぜアブラハムにこのような厳しい命令を出されたのでしょうか。それは、神ご自身が、私たちの罪を赦すために、ひとり子イエスを十字架につけることを決意しておられたからです。神もまた、本気だったのです。
 
 演技によって他の人に影響を与えられると思っているなら、それは大きな誤解です。本気で生きている人でなければ、誰も付いてきません。
 聖書もまた、本気で読む本です。そうでなければ、そこに書かれた愛のメッセージは見えてきません。聖書のメッセージを心を開いて受け取るなら、数々の祝福を手に入れるようになります。私もまた、聖書によって生かされている者の一人です。私の場合、使命の自覚、日々の指針、永遠の希望を聖書から得ています。
 
 新しい年が始まりました。今年こそ、聖書に親しんでみませんか。アブラハム的生き方を自分のものにしてみませんか。祝福を祈ります。