ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

◆11月号◆ 愛の随想録(34)「尺取り虫運動から学ぶ」

2009-11-01 | 愛の随想録
問題解決へのヒント
 人生には山があり谷がある。順風の時もあれば逆風の時もある。苦難を通過しない人などこの世に存在しないのである。
 私は、聖書からメッセージを語らせていただく時には、聴衆がどのような問題や痛みを抱えているかを想起することにしている。現代の日本人が抱えている代表的な問題としては、健康問題、経済問題、人間関係の問題、家族についての悩みなどが考えられる。説教者としての私は、聴衆の痛みが少しでも和らぐように、また、問題解決へのヒントが与えられるように、と願いながら聖書の解き明かしをすることになる。聴衆が抱えている問題をできるだけ具体的に取り上げ、それへの解決策を提示したいと願うのであるが、それは至難の業である。一見同じように見えても、人それぞれに抱えている問題の内容が微妙に異なる。その結果、具体的になればなるほど、的外れのメッセージになるという危険性が付きまとう。経験則から言うと、具体化を避けて普遍的真理を提示した方が、結果的に問題解決につながる場合が多いような気がする。では、普遍的真理を提示するとは、どういうことなのか。
 「尺取り虫運動」に大いなるヒントが隠されている。この言葉は、『がん哲学』でよく知られている順天堂大学教授の樋野興夫氏から教えていただいたものである。樋野氏によれば、故中原和郎氏(1896~1976・癌研所長、国立がんセンター総長)は「尺取り虫運動」の効用について次のように語ったそうである。「尺取虫運動‥自分のオリジナルポイントを固めてから後ろの吸盤を前に動かし、そこで固定して前部の足を前に進める。かくていつも自分のオリジナリティーを失わないですむ」
 普遍的真理を確認する作業は、自分のオリジナルポイントを定める作業である。そこに足場を固めてから、次の一歩を踏み出す。人生で遭遇する多くの問題は、このようにして解決されるものであろう。

普遍的真理
 では、キリスト教に関する普遍的真理とは何であろうか。私の頭には、以下のような項目がすぐに思い浮かぶ。①キリスト教はヘブル的ルーツを持った宗教である。②キリスト教は世界観そのものである。③キリスト教は歴史観そのものである。
 逆に言えば、ルーツから切り離されたキリスト教は本来のキリスト教ではないということである。また、世界観や歴史観なきキリスト教も、本来のキリスト教からはほど遠いものだということになる。残念ながら、自らの信仰を世界観や歴史観と結び付けて理解し、それを実践しているクリスチャンはさほど多くはない。その結果、日本人のキリスト教は足場(オリジナルポイント)を失った信仰に成り下がっている。足場のない信仰は、往々にして御利益信仰に陥る。ご利益信仰においては、信仰の篤さと現世での成功とが正比例の関係で捉えられる。つまり、不幸なのは信仰が足りないから、信仰深くなれば祝福が与えられるという理解である。これほど聖書の真理からかけ離れた教えはない。

「選び」というキーワード
 聖書が教える普遍的真理は、「選び」というキーワードによってより鮮明なものとなる。イスラエルの選びを見てみよう。イスラエルの民が「選びの民」であることは旧約聖書から明らかである(出エジプト記19・4~6)。彼らは「宝」、「祭司の王国」、「聖なる国民」と呼ばれている。イスラエルが選ばれた理由は、彼らが他の国民よりもすぐれていたからでも、数が多かったからでもない。聖書には、「事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」と記されている(申命記7・6~8)。
 以上のことから、「選び」について少なくとも三つのことが言える。①神の選びは「下からの選び」、「取るに足りない者の選び」である。②選ばれた者には、一方的な神からの祝福が与えられる(これを神の恵みと言う)。③選びには使命が伴う。この三要素は、聖書全体を貫く霊的原則である。
 旧約聖書において、神に用いられる人物がどのようにして選ばれたかを見てみよう。カインとアベルは兄弟であったが、選ばれたのは弟のアベルである。この選びは「下からの選び」、「取るに足りない者の選び」である。アブラハムには兄たち(ナホルとハラン)がいたが、選ばれたのは弟の彼である。イサクとイシュマエルの場合も、弟のイサクが選ばれている。イサクには二人の息子がいたが、兄のエサウではなく、弟のヤコブが長子の権を引き継いでいる。ヤコブの一二人の息子の場合は、長子ルベンではなく、一一番目の息子ヨセフが長子の権を継承している。ヨセフの息子マナセとエフライムの場合も、弟のエフライムが兄のマナセの上に立つようになる。モーセもまた兄のアロンに優先するようになる。神はダビデの七人の兄たちを退け、末っ子の彼をイスラエルの王に選んでいる。以上の例はいずれも、神の選びが下から起こっていることを示している。

クリスチャンの選び
 次に、クリスチャンの選びについて考えてみよう。イエスはユダヤ人のメシアとして地上に来られた。しかし、ユダヤ人はイエスがメシアであることを受け入れようとはしなかった。その結果、教会は異邦人信者中心の組織として発展することになった。なぜユダヤ人はイエスを信じなかったのか。そのあたりの状況について、パウロはこう教えている。「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです」(ローマ11・11)。この聖句には、神の人類救済計画のステップが啓示されている。①ユダヤ人が不信仰になってイエスを拒否する。②福音がユダヤ人から異邦人に提示され、異邦人が先に救われる。③異邦人の使命は、ユダヤ人にねたみを起こさせることである。ねたみを感じたユダヤ人は、イエス・キリストに目が開かれるようになる。ユダヤ人の民族的回心とメシアの再臨とが密接に関係していることを考えると、ユダヤ人伝道がいかに重要なものであるかが分かる。
 パウロは異邦人信者のことを、オリーブの幹に接木された「野生種の枝」と定義している。異邦人である私たちが先に救われたのもまた、「下からの選び」、「取るに足りない者の選び」が実行された結果である。
 さらにパウロは、異邦人のことを「神の子」、「キリストとの共同相続人」とも定義している(ローマ8・15~17)。要約すると、次のようになる。私たちの選びは「下からの選び」であり、その選びによって私たちは「キリストとの共同相続人」となった。その私たちには、「異邦人にもユダヤ人にも福音を伝える」という使命が与えられている。
 この教えを自分のオリジナルポイントとしたパウロは、苦難の中にいる人に対して驚くべき宣言をしている。
 「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(ローマ8・16~17)

 何という確信、何という希望、何という洞察力であろうか。これこそ普遍的真理であり、あらゆる困難を乗り切る力である。