ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

◆2月号◆ 愛の随想録(37)「坂の上の雲は見えたか」

2010-02-01 | 愛の随想録
 日本に国民的作家と呼ばれる人がいるとするなら、それは間違いなく司馬遼太郎でしょう。『坂の上の雲』は、司馬遼太郎の長編歴史小説です。この作品は、一九六八(昭和四三)年から一九七二(昭和四七)年にかけて産経新聞に連載されたものです。そして今再び、『坂の上の雲』がブームになりつつあります。
 司馬はこの作品を通して、明治維新後の日本が近代国家へと成長していく様子を描こうとしました。彼自身は、この小説の映画化(ドラマ化)を拒否していました。それは、この作品が軍国主義や戦争礼讃のために利用されることを恐れたからです。
 その『坂の上の雲』を、NHKが遺族の了解を得てドラマ化しました。昨年末に第一部(全五回)が終了し、第二部(全四回)は本年末に、第三部(全四回)は来年末に放映が予定されています。実に息の長い取り組みです。作品の内容もさることながら、これがドラマ化された「今という時代的背景」も、それに劣らず興味深いものです。


国民国家であることの証明


 明治維新は、日本を国民国家にするための革命です。明治維新の指導者たちは、天皇という存在を国民国家の統合の象徴として用いました。昔も今も、日露戦争の勝利を明治天皇の指導力による勝利と解釈している日本人は、少なくありません。しかし司馬は、日露戦争を「天皇の戦争」としてではなく、「国民国家の勝利」と見ました。「国民一人一人が強くなることが、国が強くなることだ」というのが、司馬の信念です。彼にとっては、日露戦争は自衛のために国民が戦った戦争なのです。それゆえ、『坂の上の雲』の主役は、西郷隆盛でも、東郷平八郎でも、乃木希典でもなく、旧松山藩(外様大名)出身の秋山好古、真之兄弟であり、正岡子規なのです。日露戦争の勝利によって、日本が国民国家になったことが実証された、と司馬は考えたのです。
 司馬のこのような歴史観から、日本人クリスチャンはどのような教訓を学ぶことができるのでしょうか。「国民一人一人が強くなることが、国が強くなることだ」という言葉を信仰の文脈に当てはめるなら、「クリスチャン一人一人が強くなることが、教会が強くなることだ」ということになるでしょう。
 プロテスタントのクリスチャンには、宗教改革という伝統があります。その改革によって、「聖書のみ」の原則が回復され確立されました。民衆の言語に翻訳することによって、聖書は民衆の書となりました。さらに、「万人祭司」という真理が回復されました。これは、「すべての信者は神の前では祭司であり、その召命と権利は、一部の者が独占すべきものではない」という教えです。しかし、その後の歴史的展開を見ますと、ルター派教会は国教会(ドイツ)となり、牧師は国家(教会税)から給与を受ける公務員となりました。これは、明らかに万人祭司説の後退であり、特権階級の復活です。似たようなことが、オランダ改革派国教会、英国国教会でも起こりました。その反発として起こったのが、自由教会運動です。教会は国家によってではなく、信徒の自発的な献金と献身によって支えられるべきである、というのが自由教会運動の理念です。この運動は、一八~一九世紀に西欧社会で最盛期を迎えました。日本のプロテスタント教会も、その運動から多くの祝福を受けて来ました。しかし、自由教会運動もまた、聖職者と平信徒を区別するという点において、万人祭司という理念からは離れています。私は、日本人クリスチャンにとっての「坂の上の雲」とは、「万人祭司の理念の実現」ではないかと考えています。「一人一人が強くなることが、教会が強くなること」。「強くなるためには、自ら聖書を学ぶこと」。「受ける側から、与える側に立つこと」。以上のような思いが脳裏をよぎります。


欧米的近代国家の達成


 明治維新後の日本人にとっての「坂の上の雲」とは、欧米的近代国家になることでした。日本は足早に近代化政策を推し進め、一八八九(明治二二)年の大日本帝国憲法公布と同時に、アジア初の立憲君主制・議会制民主主義国家が誕生しました。「富国強兵」と「文明開化」がその時代のキーワードになりました。そして、日露戦争の勝利は、「坂の上の雲」への道を切り開いたのです。しかし、太平洋戦争に至る四〇年の間に、日本の指導者たちは国の舵取りを誤りました。その結果、敗戦という悲劇を招くことになりました。
 結果的に日本は、その敗戦によって「坂の上の雲」にたどり着きました。日本人は、歴史の総括をしないまま、良き敗者となる道を選び、経済大国への道を突き進みました。そしてついに、世界でも有数の経済大国となることができました。ところが今、見えていたはずの「坂の上の雲」が消えたのです。欧米型のグローバル経済は、功よりも罪(弊害)の方が目立つようになりました。日本における民主党政権の誕生は、日本人が新しい「坂の上の雲」を探し始めた証拠ではないでしょうか。
 日本のプロテスタント教会についてもまた、同じようなことが言えると思います。つまり、私たち日本人クリスチャンは、欧米のキリスト教を「坂の上の雲」として歩んできたのではないかということです。私自身もまた、米国で神学校教育を受けた一人です。今思えば、実生活でも信仰の面でも、すべてのベクトルが欧米に向いていたように思います。そして今、「坂の上の雲」が消えたのです。つまり、西洋的聖書理解の限界、また、西洋的教会建設の限界が見えて来たということです。少し大げさに言えば、第二の宗教改革が必要な時期に来ているのではないか、ということです。


新しい「坂の上の雲」を求めて

 今日本人が考えなければならないのは、どうしたら「国民性を生かした国造り」が出来るかということです。日本人が持っている技術力や豊かな感性(自然との共存)を再評価し、それを前面に打ち出した国造りを考える必要があります。さらに、アジアの視点からの国造りを模索することも大切です。アジア諸国との自由貿易協定(ウイン‐ウインの関係)、アジア人労働者に対する門戸開放、日本人の意識改革などが危急の課題だと感じます。
 日本人クリスチャンもまた、同じような課題に直面しています。私たちは、国民性を生かしたリバイバルとは何かを真剣に考えなければならない時期に来ています。また、教会とは何かを聖書的に再定義する必要があります。日本人に合っているのは、知的活動を用いた聖書研究だと思います。「日本のリバイバルは聖書研究から」と私が叫ぶのは、そういう理由からです。日本のクリスチャンは、欧米型(あるいは韓国型)のメガチャーチを成功モデルとすることから脱却する必要があるのかも知れません。むしろ、中国の家の教会のようなイメージの方が日本人に合っているような気がします。
 私自身は、西洋的キリスト教の限界を乗り越える秘策は、ユダヤ的視点からの聖書理解であると深く確信しています。つまり、西洋のキリスト教の遺産から学びつつ、ユダヤ的視点を取り入れて行くということです。当然のことながら、ユダヤ人の救いというテーマが深く関係してきます。イスラエルの救いは、異邦人の救いと連動したテーマです。この二つのテーマは、「メシアの再臨」へと収斂して行きます。
 そう考えると、私たちクリスチャンが見るべき「坂の上の雲」とは、日本のリバイバル、ユダヤ人の救い、メシアの再臨の三つが一つになったものであることが分かります。この三つを「三大祷告」と称して、今も祈り続けておられるクリスチャンの先輩たちがおられます。まことに聖書的で、尊敬に値する奉仕です。

 以上の問題意識をもって、ハーベスト・タイムは今年の四月に、「第一回ハーベスト再臨待望聖会」を開催することにしました。東京(4/10)、沖縄(4/14)、大阪(4/16)の三会場で開催予定です。新しい「坂の上の雲」を見るために、どうかご参加ください。