ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

◆12月号◆ 愛の随想録(35)愛について思う季節

2009-12-01 | 愛の随想録
 今年もクリスマスの季節になりました。毎年のことながら、この時期になると愛について考えたり、語ったりすることが多くなります。正直なところ、私は愛について語るのは苦手です。愛の足りない者にとって、愛を論じるのが苦痛なのは当然のことです。しかしながら、聖書からメッセージを語るということは、自分を論じるのではなく神の愛を伝えるという営みですので、自らの欠けを認識しながらも、「愛のメッセージ」を語らせていただくわけです。これは、ほとんどの牧師が共有している思いではないかと思います。自分が「愛の人」だからではなく、「神は愛」だから、愛のメッセージを語り続けるのです。 

愛とは動詞なり
 先日、米国のクリスチャン著作家ゲアリー・トーマスの「飛行機の中での体験談」を読んで、大いに考えさせられました(彼は、米国における霊性運動の旗手の一人です)。彼は次のように書いています(要約したものを紹介します)。

 「窓側の席に座って、名著『二十一世紀の家族に奉仕する』という本(デニス・ライニー著)を読んでいると、通路に立っている若い母親と少年の口論が聞こえてきた。どうやらその少年は、窓側の席に座りたくて駄々をこねているようだ。そこで私は、窓側の席と通路側の席の交換を申し出た。少年の顔は直ちに輝いた。しかし母親は、しきりに後方の座席を振り返っている。実は、この母親は十一歳になる娘も連れていたのである。その娘は、最後尾の、トイレに隣接した座席に座っていた。私の席は『エコノミー・プラス』(余裕のある席)であったが、最後尾の席は通常のエコノミーで、イワシの缶詰のようにぎゅうぎゅう詰めにされる所である。しかも、トイレ待ちの乗客が列を作り、扉が開くたびに不快な思いになる席でもある。その上、少女の座席は中央の席なのだ。さてどうするか。その席に座ると、シアトルまでの数時間、非常に窮屈な状態で旅をすることになる。
 私は深いため息をつきながら、その母親に、私が後部座席に移るから娘を呼び寄せたらいいと申し出た。彼女は、後部座席は二人の大男に挟まれた中央の席で、居心地が悪いと説明を始めた。しかし、私はこう応じた。『私の妻も、子ども連れで何度も旅行しています。私には、それがいかに大変なことか、よく分かっています』。後部座席に移ってみると、そこは確かに最悪の席であった。大男に挟まれた窮屈な席に腰を下ろした私は、読みかけの本をシートポケットに入れながら、愛とは何かについて考え始めた。そして、現代の教会では、ある課題について『論じたり』、『祈ったり』することはあっても、それ以上先には進まない場合が多いことに気づいた。結局のところ、愛とは動詞なのだ。
 私は他人に席を譲るようなタイプの人間ではない。しかし、それを実行したことは、私にとっては聖なる性質を身に付けるための小さなステップとなった。その瞬間、私は神に対して『聖なる奉仕』をしたのである。少女の笑顔と母親の安堵の顔を見た時、私は神の栄光の輝きを垣間見たような思いになった」

 海外旅行の機会が多い私にとっては、ゲアリー・トーマスのこの体験談は、重低音の太鼓の音を聴くように腹にずっしりと響きました。この時期、「愛とは動詞なり」という言葉を心に留めたいと思います。

愛とは犠牲なり
 ゲアリーが取った行動から、「愛とは犠牲なり」という教訓も学ぶことができます。平易な言葉を使えば、「彼は損をした」のです。ゆったりとした座席に座る権利を放棄し、それ以下の座席に移動したのです。いつか聞いた「愛とは損をすることである」という言葉を思い出します。世界中の人たちがクリスマスを祝う理由は、この日に「愛とは犠牲なり」という真理が具体的な形を取って人類の前に示されたからです。クリスマスの物語は、いくつもの対比から成っています。イエスは栄光の座に座しておられた方ですが、そこを去って、低き所に下ってくださいました。神の性質を持ったお方が、神としての在り方に固執せずに、肉体的にも、精神的にも、霊的にも、人間の姿を取ってくださいました。
 イエスの地上生涯もまた、対比で満ちています。イエスは肉体の疲れを覚えたお方ですが(ヨハネ4・6)、同時に、疲れている人を招かれたお方でもあります(マタイ11・28)。空腹になりながら(マタ4・2)、自分のことを「いのちのパン」だと宣言されました(ヨハネ6・35)。自分自身は渇きを覚えながら(ヨハネ4・7、19・28)、渇いている人にはいのちの水を提供されました(ヨハネ4・10、7・37)。人としての成長過程を通過しながら(ルカ2・40)、永遠の昔から存在していると主張されました(ヨハネ8・58)。誘惑に会いながら(マタイ4・1)、一度も罪を犯されませんでした(Ⅱコリント5・21)。「父はわたしよりも偉大な方」(ヨハネ14・28)と言いながら、「わたしを見た者は、父を見た」(ヨハネ14・9)、「わたしと父とは一つ」(ヨハネ10・30)と言われました。墓の前で泣きながら(ヨハネ11・35)、次の瞬間、死人をよみがえらせました(ヨハネ11・43)。
 まさにイエスは、神の子でありながら人となられたお方です。イエスが座られた後部座席は、十字架という世界で最も悲惨な席でした。イエスは行動し、犠牲を払い、損をされました。すべて私の罪の代価を支払うためでした。イエスの弟子の一人であったヨハネは、こう書いています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4・10)

愛とは応答なり
 クリスマスは神の愛に応答する時期でもあります。「罪」の本質は「神のことばを信用しないこと」です。罪人である私たちにできる最善のことは、神の愛に応答すること、つまり、「イエスは私たちの罪のために身代わりの死を遂げてくださった」というメッセージを信じることです。
 救い主誕生の知らせに最初に応答したのは、貧しい羊飼いたちでした。
 「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。『さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう』」(ルカ2・15)

 今年のクリスマスが、神の愛に応答し、隣人への愛を実践する時となりますように祈ります。