◆2月号◆絵本作家 河井ノア さん (11月3週放映)
■ 頑張れ!防衛軍
——クリスチャンの友人はいますか?
「はい、います」
——その人をどう思いますか?
「いいんじゃないですか。神様を信じる人ですからね。素敵だなって思っています」
——その友人に教会に誘われたら、どうですか?
「えっ?…ごめんなさい、行かないと思います」
——聖書は?読んでみたいと思いませんか?
「はい、別に。忙しいので読めないと思います」
私は、こういう問いかけにこのような答え方をする人間だった。広い心を持ち、クリスチャンだからって、別に敬遠なんかしない。むしろ、いいじゃないクリスチャン。いつもお祈りの中で感謝していて、反省もできて、嘘もつかないし、私、好きですよ。でも、お願いだから、一緒に食事をする時、レストランとかで、声を出してお祈りするの、あれやめてね。特に最後の「ノアさんの上に主の豊かな恵みがありますように…」っていうの。嬉しいんだけれど、ほら、隣りの席の人も見ているしね。それからそれから、教会に誘うの、あれもやめてね。行きたいと思っていないんだから、私は。
と、まあこんな風。「いいねいいね、クリスチャン」と言っていながら、クリスチャンの友が、私の中に送り込もうとする風から、何とか身をかわし、誘いこまれては大変だ!とまじめに思っていた。広い心のつもりの、せまい心で——。
人は、今まで自分が作り上げて来た生き方を、根幹から揺り動かされそうになった時、自分の内側から自己防衛軍をわんさと送り出す。防衛軍は、心にぶ厚いバリアを張り、何者も中に入れないように頑張る。思いに太いクイを打ち込んで、動かされてなるものか!と思い切りそっぽを向かせる。そうです。私も強力な防衛軍、持ってました。心の中の王様の席にどっかりと座っているのは自分。その自分を守らなきゃってね。でも、でも、そんな私に神様は、素晴らしいプレゼントを下さった。
■ 幸せのテーブル
十数年前、私は神様カンパニーの優秀な営業マンみたいな人、アメリカ人の宣教師マデリン・ピトゥリという女性に出会った。
「ごはんを食べにこない?」と誘われ、「行く行く」と二つ返事。だって、私、おいしいものには目がないんですもの。ドレスアップして、いそいそと出かけた彼女の家は、小さなビデオショップの上の部屋。錆びた階段を、おっかなびっくり上がったのを覚えている。
彼女の部屋には、本当に何もなくて、ただ部屋のまん中にドンッ!と大きなテーブルが一つ。自分のための物ではなくて、人を招くためのテーブル——。おいしいお料理やきれいなお菓子、ニコニコの笑顔に温かなハグ……。なんて、心地いいんだろう。私はこの「幸せのテーブル」が大好きになってしまった。
でも、彼女、何回遊びに行っても、神様の話をしない。宣教師なのに、全くしない。私としては、防衛軍を出す必要もなく、ラッキーと思えるはずなのに、気になって気になって仕方がない。マデリンって、何でこんなに幸せなんだろう。お金もないし、物もない。すごく太っていて、足が痛い、腰が痛いって言いながら大声で笑ってて……。
聞くと一言、
「私は、イエス様を心から愛しているから」
「イエス様を愛していると、あなたみたいになれるの?」
「そう。私たちは何もしていないのに、先にごほうびをもらっちゃってるから、嬉しいわけよ」
なんだ、それ…?
それからしばらくして、私は彼女の教会に行ってみた。礼拝を重ねて、イエス様の事を少しずつ学んだ。聖書も読むようになった。けれど…、イエス様が十字架にかかって死んでくださった意味が、教えられて解ってはいるのだが、どうしてもピンとこない。教会も行ったり行かなかったりしながら、そのまま何年かが過ぎた。
■ 気づかされる瞬間
マデリンがアメリカに帰る日が来た。私たちは抱き合ってワンワン泣いた。マデリンは涙でグショグショの、とろけるような優しい顔で、こう言った。
「ノアはこんなに愛されているのに、いつ気づくんだろう」
……言葉が胸にささった。「イエス様は十字架の上で、ノアの顔、思い浮かべていらしたと思うよ」、ああ…、イエス様!私の人生を振り返ると、ここでも、あそこでも、あなたが愛してくださって、あなたが背中を押してくださって、いつもいつも手を引いてくださっていた。
——霧が晴れた。いろいろな事が、はっきりと見えて来た。マデリンが言っていた神様からのごほうびって、イエス様の事だったんだ。十字架にかかって死ぬのは、本当は私なのに……。
■ 受洗
しばらくして、マデリンが又、日本にやって来た。そして、明日、アメリカに帰るというその日、「私ね、バプテスマを受けたいんだけれど、どういう勉強をすればいいの?」と聞いた。「何にも要らない。今から、多摩川にレッツゴー!」
1998年9月、私は多摩川で受洗した。遠い日に、友が祈ってくれた「主の豊かな恵み」をいただいた。——祈りは聞かれる。
■ 頑張れ!防衛軍
——クリスチャンの友人はいますか?
「はい、います」
——その人をどう思いますか?
「いいんじゃないですか。神様を信じる人ですからね。素敵だなって思っています」
——その友人に教会に誘われたら、どうですか?
「えっ?…ごめんなさい、行かないと思います」
——聖書は?読んでみたいと思いませんか?
「はい、別に。忙しいので読めないと思います」
私は、こういう問いかけにこのような答え方をする人間だった。広い心を持ち、クリスチャンだからって、別に敬遠なんかしない。むしろ、いいじゃないクリスチャン。いつもお祈りの中で感謝していて、反省もできて、嘘もつかないし、私、好きですよ。でも、お願いだから、一緒に食事をする時、レストランとかで、声を出してお祈りするの、あれやめてね。特に最後の「ノアさんの上に主の豊かな恵みがありますように…」っていうの。嬉しいんだけれど、ほら、隣りの席の人も見ているしね。それからそれから、教会に誘うの、あれもやめてね。行きたいと思っていないんだから、私は。
と、まあこんな風。「いいねいいね、クリスチャン」と言っていながら、クリスチャンの友が、私の中に送り込もうとする風から、何とか身をかわし、誘いこまれては大変だ!とまじめに思っていた。広い心のつもりの、せまい心で——。
人は、今まで自分が作り上げて来た生き方を、根幹から揺り動かされそうになった時、自分の内側から自己防衛軍をわんさと送り出す。防衛軍は、心にぶ厚いバリアを張り、何者も中に入れないように頑張る。思いに太いクイを打ち込んで、動かされてなるものか!と思い切りそっぽを向かせる。そうです。私も強力な防衛軍、持ってました。心の中の王様の席にどっかりと座っているのは自分。その自分を守らなきゃってね。でも、でも、そんな私に神様は、素晴らしいプレゼントを下さった。
■ 幸せのテーブル
十数年前、私は神様カンパニーの優秀な営業マンみたいな人、アメリカ人の宣教師マデリン・ピトゥリという女性に出会った。
「ごはんを食べにこない?」と誘われ、「行く行く」と二つ返事。だって、私、おいしいものには目がないんですもの。ドレスアップして、いそいそと出かけた彼女の家は、小さなビデオショップの上の部屋。錆びた階段を、おっかなびっくり上がったのを覚えている。
彼女の部屋には、本当に何もなくて、ただ部屋のまん中にドンッ!と大きなテーブルが一つ。自分のための物ではなくて、人を招くためのテーブル——。おいしいお料理やきれいなお菓子、ニコニコの笑顔に温かなハグ……。なんて、心地いいんだろう。私はこの「幸せのテーブル」が大好きになってしまった。
でも、彼女、何回遊びに行っても、神様の話をしない。宣教師なのに、全くしない。私としては、防衛軍を出す必要もなく、ラッキーと思えるはずなのに、気になって気になって仕方がない。マデリンって、何でこんなに幸せなんだろう。お金もないし、物もない。すごく太っていて、足が痛い、腰が痛いって言いながら大声で笑ってて……。
聞くと一言、
「私は、イエス様を心から愛しているから」
「イエス様を愛していると、あなたみたいになれるの?」
「そう。私たちは何もしていないのに、先にごほうびをもらっちゃってるから、嬉しいわけよ」
なんだ、それ…?
それからしばらくして、私は彼女の教会に行ってみた。礼拝を重ねて、イエス様の事を少しずつ学んだ。聖書も読むようになった。けれど…、イエス様が十字架にかかって死んでくださった意味が、教えられて解ってはいるのだが、どうしてもピンとこない。教会も行ったり行かなかったりしながら、そのまま何年かが過ぎた。
■ 気づかされる瞬間
マデリンがアメリカに帰る日が来た。私たちは抱き合ってワンワン泣いた。マデリンは涙でグショグショの、とろけるような優しい顔で、こう言った。
「ノアはこんなに愛されているのに、いつ気づくんだろう」
……言葉が胸にささった。「イエス様は十字架の上で、ノアの顔、思い浮かべていらしたと思うよ」、ああ…、イエス様!私の人生を振り返ると、ここでも、あそこでも、あなたが愛してくださって、あなたが背中を押してくださって、いつもいつも手を引いてくださっていた。
——霧が晴れた。いろいろな事が、はっきりと見えて来た。マデリンが言っていた神様からのごほうびって、イエス様の事だったんだ。十字架にかかって死ぬのは、本当は私なのに……。
■ 受洗
しばらくして、マデリンが又、日本にやって来た。そして、明日、アメリカに帰るというその日、「私ね、バプテスマを受けたいんだけれど、どういう勉強をすればいいの?」と聞いた。「何にも要らない。今から、多摩川にレッツゴー!」
1998年9月、私は多摩川で受洗した。遠い日に、友が祈ってくれた「主の豊かな恵み」をいただいた。——祈りは聞かれる。