ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

◆12月号◆ 「道ありき」朗読への道

2009-12-01 | 番組ゲストのお話
ナレーター  中村 啓子


はじめに
 二〇〇九年は、私がかつてない歩みを始めた年でした。三浦綾子文学を朗読CDにとの願いのもと、二月に「塩狩峠」を、一〇月に「塩狩峠」「道ありき」ををリリース。これらは、たちまち驚くほど多くの方々のもとに届けられて行きました。一度お聞きになった方が、プレゼントにと、何枚もお求めくださることを知り、ただただ感謝でいっぱいの私です。この紙面を借り、心からお礼申し上げます。

「道ありき」朗読CD
 三浦綾子さん召天一〇周年を記念して制作したこのCDは、自叙伝「道ありき」を六〇分にまとめたダイジェスト版です。敗戦による価値観の激変、病…絶望の渕で厭世的になり、自殺の道さえも選ぼうとした堀田綾子(後の三浦綾子)が、一条の光を見いだし、奇跡の回復と真実の愛に導かれた事実。「塩狩峠」に続き、三浦綾子記念文学館特別研究員、森下辰衛先生が、そのあらすじを見事にまとめてくださいました。

制作秘話
 七月半ば、録音が始まりました。ところが、どうしても納得のいく読みが出来ません。「現地へ行って見て来た方がいい」との結論に至った私は、一週間後には、札幌の街角に立っていました。
 迎えてくださったのは、黒江勉氏。綾子さんとは、入院先の僚友で「道ありき」の登場人物です。綾子さん主催の病院内での集会になぜ出るようになったのかと聞かれ、「修養のために出ています」と答え、(信仰と修養は違うんだけれど…)と思わせたこの人は、その後札幌北一条教会の役員をなさるほど熱心なクリスチャンになられました。綾子さんの依頼で前川正さんが見舞いにいらしたこと、前川さんと光世さんは、顔かたちだけでなく、もの静かな口調までがそっくりだったことなど、貴重な思い出を伺いました。
 翌日、旭川へ向かった私は、ハーベスト・タイムの撮影クルーと合流。憧れの春光台へと向かいました。森下先生のご案内で歩いた雨上がりの春光台は、想像をはるかに越える広大な丘で、したたる緑におおわれていました。ここは、前川正が自分の足を石打ち、綾子がかつて知らなかった光を見いだしたところです。ここを歩きながら、三浦文学研究のために、大学助教授の座を捨てて旭川へ移り住まれた森下先生の説明に耳を傾けるうち、私の中で、東京では得られなかったイメージがふくらんできました。
 続いて訪ねた中西清治画伯邸。「塩狩峠」に続き、ジャケットの絵をご提供いただくことになっていました。「どれでも好きなのを選んでください」「好きなようにカットしていいですよ」。こんなことをおっしゃってくださる方が、他にあるでしょうか。この日も翌日も、出入りする私たちのために茶菓を整えてくださるご夫妻の愛に胸がいっぱいでした。「親戚のようにしていただいて」と涙ぐむ私に、森下先生はおっしゃいました。「みんな家族ですからね」。中西先生もまた、クリスチャンとなられた方なのです。綾子さんの旭川啓明小学校教師時代の生徒でもあられた中西先生と、同じく綾子さんの教え子の信田和子さんに、厳しくも愛の人だった綾子先生のお話を伺いました。
 次の日は、三浦綾子記念文学館を訪問。ここで、館長であり、妻綾子さんを支え続けられた三浦光世さんから、「道ありき」にまつわる思い出をたっぷり伺いました。綾子さんを支えるという使命に生き、今もその証人として多くの取材に応じていらっしゃるお姿をうれしく拝見したことでした。
 会う人、会う人が温かく、私はそこに、二千年前から連綿と続く愛の道を見た気がしました。「道ありき」は、綾子さんにだけでなく、私たちひとりひとりに言えることであり、それらの道は、一本の広大な道の上にある…そんな光景が目の前に開けたのです。
 さて、帰京してからの録音で、私の読みは、一変しました。景色が浮かびます。台詞に気持ちが入ります。春光台の場面では、綾子の気持ちになりすぎ、涙で声にならなかったほどでした。それだけに完成を見たときの喜びはたとえようもありません。

再び巻き起こる潮流
 CD制作の上に、またしてもマスコミ報道の潮流が起き始めました。一〇月末に行ったふるさと富山の教会での講演を、朝日新聞社が後援。新聞の予告には、「『道ありき』朗読CDを今月発売」と記され、講演翌日には、「キリスト教と出会い…」と、信仰の証しがはっきりと掲載されました。
 さらに、この講演をNHK富山放送局が取材し、それが全国ネットでの放送に発展したのです。ここでも、私の三浦文学の朗読にかける熱意が報じられました。時を同じくして、P R誌などでもそのことがさらに詳細に記されることになりました。
 CDを出す度に起こるこの流れに、主の備えの道を思い、畏れと感謝でいっぱいの私です。

「道ありき」にある希望
 この夏、ある高校生への講演で「道ありき」の一部を朗読した私に、間もなく次のような感想文が届きました。
 「人間として人格として愛するということを覚えておき、将来に生かしたい」。「その人にしかないという道が、自分にもあると思うと頑張れる」。「いつか必ず生きていて良かったと思えることがあるのだなと思った」
 この朗読こそが、私に備えられた道だと確信した一瞬でした。
 「われは道なり、真理なり、生命なり」(ヨハネ伝14章6節)。「道ありき」冒頭の聖句が、すべての人々の指針となりますようにと祈らずにはいられません。