ただの碁好きな麺や親父の雑記

麺や食堂爺のひねもすのたりのたりかな

古文書とは

2019-10-25 23:59:24 | 歴史
仕事が一段落したら、
のんびり好きな事だけをやる、気ままな生活がおくれたらいいなあと思っていましたが、
実際は、何か充実したという事が無くなりました。
我慢しない、頑張らない、目的意識が無い、
無い無いづくし。それではダメなんだろうなと、漠然と感じるようになりました。のんびりと
「ひねもすのたりのたりかな」的なユックリとした生活にあこがれていましたから、約2年そんな感じで過ごしていました。
そんなある日
ひょんなことから、古文書を調べて、其れを読み聞かせる会が有りまして、何もわからないけれども
思い切って参加してみました。
江戸時代から明治にかけてあたりの人達がどんな字を書いていたのか、読んでいたのか。?
文字とその見えない背景に興味が湧いてきましたので、
その会に参加してみました。
慣れないから読めないです。思ったより難しいです。
字の基本は変わらないところもあり、
参考書類を利用して少しづつ読んでいければいいと思っています。
こんな感じの草書体ですかね

代官から庄屋さんに御達し文
百姓を五人組とか七人組などと組織化して、
年貢米を効率よく取り立てとか、やってはいけないこと、その罰則などの通達文なのですが
なかなか面白そうなので取り組んでみようかと思ってます。

朝日と大政所

2018-12-08 17:36:21 | 歴史
秀吉が信長亡き後、天下をほぼ手中に収めた頃、
家康がまだまだ油断ならない存在なので、
家康が秀吉の下にいる存在だということを、世に知らしめ る必要があった。
秀吉に臣従している大名だという認識を、他の大名達に
うえつけせさるために
秀吉はあの手この手を使って、家康を懐柔した。
自分の妹「朝日姫」を家康の奥さんにして、
母親を人質として送り
家康が、秀吉の元に馳せ参じて
他の大名の前で、頭を下げさせた。

大政所と家康の妻となった朝日姫との対面の絵
大政所の顔のシワ具合を上手くかけていますね。
この時代は領主の家族は無理な嫁入り、養子等々
政争の道具に使われていました。

学び舎の楽しさ

2018-10-16 08:15:46 | 歴史

今日はこのロマンスカーで霞ヶ関迄行きます。
午前中は、八丁堀校舎で、午後から早稲田校舎に行きます。
何となくはっきりしない天気なのて、気分良く過ごす為に、笑顔、笑顔と思いながら家を出ます。
通勤する人の大変さを横目で見ながら、
ノンビリと歩いていると、何か申し訳ない様な感じがする。
何でも学ぶことは、素晴らしいと思うのですが、
その成果を文書にしておいたり、人のまえで、発表したりすると、もっと成果があるとは思いますが、
その為に学ぶのではなくて、自分の自己満足の為にやっている事だから、そこまではしませんが、でも学ぶ事の効果をより出す為にはそれもありかと思います。
自分でも学ぶ深さで悩むことはあります。
何処まで追求するのかとか?
漠然とわかっている事を、或いは大まかに覚えている事を、正確に把握し直す作業が、何となくエキサイティングな感じになります。
歴史を文語体ではなく、口語体での見方が面白いですね。歴史上の人物も、日常のその時々の会話を想像してみることも面白いですね。




襲職

2018-08-30 15:51:02 | 歴史

1600年9月の関ヶ原の勝利は豊臣政権下の主導権争いであった。
しかしその結果勝利した家康は反徳川勢力を、減封、
転封、改易して、封じ込め、京都から遠ざけた。
そして家康の豊臣体制からの独立と豊臣解体を急いだ。
秀頼を関白職から摂関家による家職に戻した。
これは位の上からも家康の下に、秀頼がいる形にした、
それが徳川の天下である事を認めさせた。
秀頼の領土も三分の一以下に減らした。
1603年家康が、征夷大将軍になると、次の征夷大将軍に秀忠を指名して、
征夷大将軍は徳川の襲職であるということを世に示した。
そして家康は早々と1605年秀忠に将軍職を譲った。
これで天下は徳川が代々天下人だと分からせた。
この辺の家康の凄さを垣間見る事ができます。
その後駿河の駿府城で大御所政治となる。
この大御所政治が、駿府城で約10年続いた。
なので1603年から1616年までを、駿河幕府か駿府時代としたらどうですか・・


家光までで完成させた

2018-08-28 14:49:19 | 歴史
今日は気温が少し低めなので皇居の平川門から日本橋まで歩いてみました。
日本の大きな街道の起点でもある、日本橋ですが
なんだかロマンがありますね。
日本一交通量のある東海道の出発点
高速道路の下にあるのでなんだか⁇
可哀想
日本橋の上を通る首都高速道路を地下にする計画があるそうな。
参勤交代という各大名の財政の余裕をなくす事を主な目的としたシステム。

それだけではありません。
それぞれの大名が徳川に臣従させるその軍事儀礼が主な目的ではありますが、
いいことも沢山ありました。
参勤交代が、街道の整備、宿場町の発展
商業の盛んな町づくり。大名達が住む建物の建設が進む
当時の江戸の人口が世界一でした。
100万人近い人口を抱える都市でした。
其々街道筋に、日陰を作ったり、暴風林、防砂林、宿の拡充。

松や杉を植えて通行し易くしたり、
或いは1万石前後の貧乏な小大名達は、
自分の領土を通る大藩の大名達に殿様が挨拶に行き、
通行料みたいな感じのお金をせびる。
そんな事もあったらしいです。
加賀前田百万石の参勤交代は凄い規模で、
多い時は4000人規模の大名行列だった時もあったそう。
一回の参勤交代で3億から4億かかったらしいですよ
なんだか今の高校野球の甲子園が連想させるなと。
決勝まで勝ち上がったら、幾らかかるのか⁉️
応援団の費用は何処が払うのか
莫大な費用がかかるね