法華経講読(第1回)
法華経を読みましょう。
——はい?何かご質問でしょうか?
——はい、お聞きします。法華経を含め、大乗仏教の経典は、ブッ
ダの教えではないと聞いています. どうせなら、どうして釈
尊が説かれたものに近いと言われている、「ブッダのことば」
などを学習しないのですか?
——それはいい質問です。釈尊入滅後、500年は、教えが正しく
行われるだろうと、ブッダ自身も言い切っておられました。
すると、その500年間に、正しく修行して、覚りを得た人た
ちも一応、ブッダですよね。そういう人たちが編んだ経典なら、
ブッダのことばに準ずるものではないでしょうか?
「大乗非仏説」のことは、よく耳にすることですが、一般に
知られている「ブッダのことば」にしても厳しく言えば、弟子た
ちの言行録ですから、「非仏説」といえば、非仏説です。
ただ弟子たちは悟りを得ていたわけですから、ブッダです。
のちにこの正覚者たちは、アラカンに落とされてしまいますが、
これはとんでもないことでした。覚(悟)りを得たらブッダです。
のちに教団が分裂したときも、上座部にも、大衆部にも覚りを得
た人たちは大勢いたと、私は考えます。のちにたくさんの如来た
ちが出現しますが大日如来も、阿弥陀如来も、薬師如来もみな、
そういう人たちのことを指していると考えても、まんざら間違い
とは言えないと思います。
どの書物だったか忘れましたが、大乗仏教は、既存の仏教教団を
批判して生まれた、と説かれていました。
それによると、当時小乗仏教(部派仏教のことを彼らはそう呼称
しました)は、難解な哲学思弁にふけっていて、人々に教えを還
元しなかった、それに引き比べ、大乗仏教は、衆生を救済する。
ゆえに、救済の担い手として、様々な菩薩を編みだした。
(まあ、そういっていた大乗側も、たくさん難解な経論を作りまし
たけどね)
(インド各地に小乗仏教が伝播した結果をみると、大乗側に負ける
ことなく救済活動もしていたようです。)
大乗が「非仏説」と言われる所以は、様々な菩薩を生み出したと
いう、この点にも あるかと思います。
「架空の菩薩を大量生産しておいて、何が仏説だ!」
と叫び声が聞こえてきます。
まあまあ、そう固く考えないで、たとえば、「観音菩薩」様な
ら私たちも、きょうからでも、「準観音菩薩」と自称して生きてい
けばいいじゃないですか。 慈悲心を持って、生きていきましょ
う。
たくさんある菩薩様のことは、修行者の名前とか特徴だと割り
切って考えましょう。
あまたある如来、菩薩、魔訶薩は、もちろん仏教の権威付けの
ためではありましょうが、それ以上に、仏教そのものの、真実証明
書の役目を果たしていると思います。これがあるから、釈尊在世の
教えが「正しい」ものとして受け入れられると思います。
それがなければ、「イソップ寓話集」と同じ仲間入りをしていた
ことでしょう。
大乗仏教がどこでどう生まれたかについては、幾つか説があります
が、この講読では、平川彰先生の説を採用したいと思います.どう
いうものかというと、仏滅後、各地にストゥーパ(仏塔)が立てら
れ、仏舎利が納められましたが、やがてそのストゥーパには、多く
の巡礼参拝する者が現れた.彼らはお参りしたあと、金品をお布施
としてストゥーパ管理者に手渡しました.巡礼者が増えるにしたが
いその奉納金額は半端なものでなくなり、仏塔管理者たちも、それ
に応えるため、新たな経典を編む、という方針を打ち立てた.経典
編纂に当たってはおそらく、部派教団の協力指導があったのであり
ましょう.
では、よろしいでしょうか?スタートします。
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如是我聞。一時仏住。王舎城。耆闍崛山中。
「かくの如く、われ聞けり。あるとき、仏は王舎城の
耆闍崛山の中に住したもう。」
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如是我聞。経典の出だしは、この「にょぜがもん」です。
お経文は、仏様が書かれたものではありません。お弟子たち
も書きませんでした。これは、ずっと後になってから
聞き伝えられた教えを、さらに後世へと語り伝えるために
書かれたものです。
書き手は各地に散らばった伝承を集め、順序立てて書いて
います。特に法華経はその傾向が著しく、陀羅尼品もあれば
観世音菩薩普門品もある。種々雑多の伝承をかき集めたもの
の集大成です。ですが、だからと言って、掃きだめというわ
けではありません。この編集には、多くのお坊様が集まって
何度も検討を重ねて編まれたものだと思います。
、
そして、この如是我聞ですが、これは当時の書き手の実印に
相当するものです。「如是」の2字には、間違いなく、こう
聞いたのだという明言があります。もし間違っていれば
責任は私にあります、という実印ででもあります。つまり、
書き手の勝手な解釈は一切混ざっていません、と言っています。
それから「住したもう。」ですが、実際には山中で暮らしていた
というわけではありません。法を説かれるときだけ、そこに
上った、という解釈でよろしいかと思います。山中の炭焼き
小屋で真っ黒な顔をした炭職人などを思い描かないようお願い
したいです。法華経が説かれたと言う頃、教団はすでに大きく
成長し、ブッダがどこへ行くにも、食事、宿泊の提供を申し出
る在家信者は多かったと思います。
滅後400年もたってから成立した法華経をこの山中で説くと
いうことは、時間軸的にありえないのですが、12因縁などの
覚りの中心軸をなす教えも、法華経は網羅していることから
伝道にささげた生涯の後半でその一部分が説かれた、として矛
盾はないように思います。一部分であって、28品が説かれた
とは、到底考えられない。
ではその他大部分は? はい、悟りを得た別のブッダたち
(阿羅漢たち)によって付け足されたと考えます。
釈迦牟尼如来ではないが、如来と呼ばれるに相応しい新たなる
ブッダ(正覚者)によって。
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