住吉大社を出て、東に歩きました。
昔見たような景色です。味噌屋さんです。
私のパソコンの師匠S氏のことは、何度も書いています。
阪神大震災のボランティアの中心人物で、トルコの地震の時には、神戸を代表して現地に行ったことや、
連れ合いが娘・息子の保育園の先生で、フラメンコダンサーだったことなど。
そのS氏の実家付近です。
南海高野線の住吉東駅も見えました。
15分ほど歩くと、バスが走っているのが見えました。
上住吉というバス停でした、ひとつ北に行くと、住吉車庫前です。そこまで歩きました。
すぐに、JR大阪駅行きが来ました。後ろに、あべの橋行きも来ました。
松虫停留場で降りました。少し戻って、松虫通を西に歩きます。
伊東静雄の文学碑を見つけましたが、目立たなく通り過ぎるところでした。
もう少し西にある聖天山公園に、兼好法師の藁打石と服部嵐雪の句碑があるようなので行ってみました。
聖天寺です。
兼好法師の藁打石です。
服部嵐雪の句碑が分かりません。案内の地図のあたりにあった物です。
戻ってくると、松虫塚がありました。
昔通りかかった旅人が、松虫の声に聞き入り命たえたことをあわれんで、供養された物のようです。
あべの筋まで戻ると、街道案内の石碑が建っていました。
伊東静雄(1906年~1953年) 平成16年6月改訂 冊子「大阪市文学碑」より
伊東静雄は、明治39年(1906年)長崎県北高来郡諌早町(現長崎県諌早市)に生まれ、
昭和28年(1953年)3月12日死去した。
諌早尋常小学校(現諌早小学校)、大村中学校(現大村高等学校)、佐賀高等学校(現佐賀大学)を経て
京都帝国大学文学部国文科にすすんだ。
大学在学中の昭和3年、懸賞募集児童映画脚本の童話「美しき朋輩達(ほうばいたち」」が
一等当選となり映画化された。
昭和4年大学を卒業後、住吉中学校(現住吉高等学校)に就職し、生涯教職を離れなかった。
昭和7年、同人誌『呂』を創刊したが、やがて『呂』を離れ、同人誌『コギト』に専念することとなった。
昭和10年、最初の詩集「わがひとに与ふる哀歌」を刊行し、萩原朔太郎に激賞され、一躍詩人としての名を高めた。
その後、昭和15年、第二詩集「夏花(なつけな)」を、また、同18年、第三詩集「春のいそぎ」を刊行した。
昭和22年、第四詩集「反響」を刊行。次第に散文的描写的に変化しつつ、一段と内面的静けさと高みを獲得していった。
この他、昭和28年、遺志により、死後まもなく刊行された「反響以後」がある。三好達治は、
その詩業をふりかえり「清新な、繊細な、また明確な彼の手法で一歩一歩刻印をうつよう跡づけてきた」と讃えた。
「百千(ひゃくせん」の」の詩は、昭和18年に刊行された第三詩集「春のいそぎ」におさめられており、
簡潔でつよく、また作風に円熟したものを感じさせる詩と評価されている。
また、この詩は、心から傾倒した詩友 蓮田 善明(はすだぜんめい)に贈った自筆の色紙にも書かれている。
墓所は、長崎県諫早市舟越名広福寺。
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