美代子は、入院室にベットを二つ接して並べ枕元には氷嚢を提げて準備を終えると、彼女の行動に戸惑う大助に有無を言はせず無理矢理診察室から連れて来て寝かせ、朋子さんから渡された老医師が処方した安定剤と痛み止めの薬を飲ませた。
彼女はそのあと大急ぎで浴室に行き汗を流すと急いで風呂から上がり、留守中のキャサリンの部屋に行き香水を無断で借用して首から胸に鏡を見ることもなく無茶苦茶に噴霧して入院室に戻ると、大助が目を閉じて静かにしている様子を見とどけると少しばかり安堵して、彼の横に用意したベットに入り、二人して額に氷嚢を当てて寝込んでしまった。
部屋の入り口には、彼女の文字で『入室厳禁』と白いボール紙に赤色のサインペンで大きく書き、その横に小文字で『患者名 城 大助 (病名 裂傷・打撲)重症』と書き、その左に『同 美代子 (病名 ptsd)重症』と記して提げておいた。
夕方、新年の挨拶から帰ってきた、正雄とキャサリンが、お爺様に帰宅を告げると、老医師は二人に
「大助君と美代子が入院しているわ。大助君がスキー場で不良共にスキーで大腿部を殴られて裂傷したので治療しておいた」
と、読んでいた新聞を横に置いて澄ました顔で話すと、二人はビックリして事情を聞き、明朝の治療を頼まれて居間に戻った。
落ち着いている正雄に、動揺したキャサリンが
「貴方、様子を見て来てぇ。さっぱり様子が判らないわ」
とせがむので、正雄が忍び足で入院室に行くと『入室厳禁』の提げ札が目にとまり、クスッと笑って静かにドアーを少し開けて覗くと、二人は各ベットに行儀よく並んで静かに寝ていたので、部屋に戻ってそのままをキャサリンに話し、ついでに”城 美代子”と書いてあったが、悪戯にしては少し度が過ぎているわな。と、言って笑っていた。
キャサリンは夫の話を聞いて「幾らなんでも、中学生にもなって・・」と呟いていた。
キャサリンは、美代子の性格から、入院は直ぐに彼女の仕組んだ仕業と判り、お爺さんと正雄に晩酌と夕飯を用意してあげると、正雄は
「お爺さん、友達から金粉入りのお酒を頂いたので呑みましょう」
と言って二人で機嫌よく世間話をして呑み始めたが、美代子達のことは少しも話さなかったので、キャサリンは不思議でならなかった。
キャサリンは、二人が年頃なのを気にして、夫の正雄に
「貴方、美代子に自分の部屋に行って休む様に話してくださいませんか」
と頼むと、老医師は老眼鏡をはずして小声だが険しい表情で語気鋭く
「よせよせ!そんなことを美代子に言ってみろ、噛みつれるぞ」「自分の子供だ。信じることだよ」
と止めさせた。
正雄もお爺さんに攣られて、平然と
「キャサリン、心配することはないよ」「彼等もちゃんと分別ある行動をするよ」
と、今迄に聞いたことも無い、夫の様変わりした、物分りの良い返事に呆れてしまったが、それでも心配でならなかった。
お爺さんと正雄が夕食を終わって暫くしてから、各自が自室に戻ると、お爺さんが、再び、慌ててキッチンに顔を出しあと片付けに残っていたキャサリンに対し
「キャサリン大変だわ!ワシの部屋が大乱雑になっており片ずけておくれ」
と言って来たので、行ってみると成る程、美代子が慌てて掻き廻した衣類が散乱しており、キャサリンは、お爺さんに謝りながら丁寧に片ずけたが、衣類の散乱状況から察して、美代子の錯乱状態が相当にひどかったと思った。
キャサリンは、居間に戻り落ち着いたあと、大助君の衣類にアイロンを当てて整理し、破けたズボンをミシンで繕い、それでも二人のことを、あれこれ心配していたところ、台所に明かりが灯り、ガサゴソと音がするので、台所にそっと行ってみると、美代子が好物のパイナップルやサンドウイッチに牛乳等を用意していたので、小声で遠慮気味に
「母さんが、用意してあげるヮ」
と声をかけて、ガウンを纏ってしゃがんでいる彼女をシゲシゲト見ていると、佇んで凝視している母親に気ずき、美代子は
「イヤダァ~ 母さん、そんな疑わしい目で、わたしを見ないでョ」
「母さんの心配する様なことなんて、わたし達、していないヮ」
と不機嫌な顔で言ったので、キャサリンの方が慌てて
「ゴメンナサイ 母さんも、あなた達の理性ある行動を信じているヮ」
と静かに言って、美代子に代わり夜食を準備して部屋に運んでいった。
美代子と大助の二人は、大助のベットの上で簡易テーブルを挟んで座っていたが、大助は足が痛むのか片方を投げ出して伸ばして胡坐をかき腕組みしていたが、、美代子も胡坐をかいて、テーブルの上に片肘をついて顎を乗せ座り、下から覗くように彼の横顔見つめ睨めて、何も喋らずに向き合っていた。
キャサリンが、雰囲気を察して恐るおそる
「大助君、折角のお休みなのに大変だったわネ」「美代子が一緒にいたのが悪かったのかしら・・」
と、優しく声をかけると、美代子は
「そんなことないわ。母さん、悪いけど、お話は明日にして、今夜は二人だけにしておいて」
「母さんも、お爺さんやパパからお聞きになったと思うけど、今のわたし達凄いショックを受けて普通の状態ではないの」
「御覧になればお判りでしょう」
と素っ気無い返事をしたので、キャサリンも、内心、随分威張ってるわ、と思ったが、二人の凍りついた様な態度から察して、美代子に対し、自分の部屋に戻りなさいとはとても言へる雰囲気でなく、テーブルに温めた牛乳とパンに野菜サラダ等を並べると、何も言わずにそくさくと部屋を出てしまった。
大助は、軽い食事を終えると、美代子の案内で近くにある洗面所で洗顔したあとベットに戻るや、美代子がすかさず
「大ちゃん、そっちに移ってもいい」「なんだか体が冷えて眠れないゎ」
と言いながら、大助が「駄目だよ~」とゆうが早く、さっさと彼のベットに足から入り込み
「ウワ~ 大ちゃんの足、暖かいわネ」
と言って、彼の足首に自分の足先を重ね、彼が「仕様がないなぁ~」と文句を言いつつも、ずれた毛布の端を押さえるべく、彼女を抱き寄せ「髪の毛がいい香りがするわ~」と言いながら毛布を掛けなをしたが、その時、偶然にも彼女の尻に手が触れてしまい、慌てて手をひっこめたが、呟くように「冷たい体だなぁ」と言うと、彼女は
「そうよ、ショックで血液が一挙に頭に上ってしまったからョ」
と小声で答えた。
大助が、彼らしく
「お互いに、手は下に触れっこなしだよ」
と言うと、彼女は
「フフッ 毛布を直す振りして サッキ サワッタジャナイ」
と呟いたあとクスッと笑ったが、彼が言い訳がましく
「いやぁ~、治療は痛かったなぁ~」
と思わず溜め息混じりに漏らすし
「アレハ 一瞬、喧嘩を忘れさせるほど利いたわ」
と言うと、彼女は
「お爺さんの ヤブ医者メッ!。 お爺さんは軍医上がりで荒っぽいので患者の間でも有名ョ」
「朋子さんに、麻酔なんかしない方が早く治るなんていっていたゎ」「痛いはずよ」
「明日の朝、仇をとってあげるヮ」
と言ったあと、真面目な顔をして
「わたしは、大ちゃんにスキー場で応急手当をしようとしたとき、『余計なことするな』と怒鳴られたときは、目が眩み心臓が止まるかと思うほどショックを受けたヮ」
「あの一言は、スゴ~ク ショック ダッタヮ」
と言って、彼の胸に顔を当て両手でシャツを握ぎりしめた。
彼は落ち着いた声で
「あれは、不良達から嫉妬されない為に言ったのさ。気にするなよ」
と、興奮していた自分を隠すために苦しい弁解をして、彼女を安心させると、彼女は小さい声で
「ホントウニ ソウダッタノ。アァ ヨカッタ」
「ワタシ モウ ダイチャン トハ スベテガ オッワツッテ シマッタノカ ト チノケガ ヒイテシマッタヮ」
と囁いたあと、安心したのか
「でも、あの健ちゃんってゆう人、凄く厳しいのネ」「きっと、肉食系だわ」
と言ったあと、彼の胸を指先でチョットつっつき
「この人は、草食系なのかしら?」「異性にまったく興味がないみたいだわネ」
「ワタシが、清水の舞台から飛び降りるような覚悟で、思いきってベットに潜り込んだとゆうのに・・」
「あの寅達不良連中は、クラスで少しでもHな話しに触れると、想像逞しく、蜂の巣を突っいたように騒々しくなるほど猛烈な関心を表すのに・・」
「ワタシなんか、そんなときは何時も恰好の標的にされ、教室から逃げ出してしまうゎ」
「先生は案山子の様に呆然として手がつけられないくらいだゎ」
と言って、またもや悪戯っぽくクスッと笑って、しきりに彼の胸を指先で突っついていた。
大助は黙って聞いていたが、痛む足の位置を変えて仰向けになり、毛布を口元まで手繰り寄せて
「それは、僕だって凄く興味を持っているさ」
「だけど、珠子姉ちゃんから何時も、オンナノコを泣かせるようなことを絶対にしてはいけない。と、耳にタコができるほど言われており、今もチラット姉の怒った顔が眼に浮かんだよ」
「自分の気持ちを精一杯抑えているのに、挑発しないでくれよ」
「若しもだよ、今、僕が野獣の様に本能に任せて美代ちゃんをいじめたら、それこそ、僕達は本当にグットバイになってしまうかも知れないよ」
「なんたって、僕達は中学生で親に養われている身なんだから、お互いに責任なんて持てる訳がないしさ」
と、小声でブツブツと思いつくままに自分の考えを話したところ、彼女は
「大ちゃんの言っていることは判るが、娘心が全然判ってないのネ」
「上手に理屈をつけて、結局は逃げている様にしか思えないゎ」
「けれども、珠子姉さんはそんなに怖い人なの?」「この先、わたし、どうすればいいのかしら・・」
と気、落ちしたように返事をしたので、彼は
「姉ちゃんは、お金持ちの娘さんと貧しい僕とでは、友達でいられるうちはよいが、そのうちに恋愛に発展し、そのあと悲劇的な別れにならなければ・・。と、忠告してくれているんだよ」
「君も、余り我儘言うなよ」「将来、僕より素晴らしい友達や恋人がキット現れると思うよ」
と、美代子を慮って、内心とは反対のことを口にしたら、彼女は肘を立てて起き上がり、ブルーの瞳を光らせ、少し怒った様な震えた声で
「大ちゃんは、わたしが嫌いなの?」
「わたしは、これでも君とのお付き合いを大事にしようと懸命に努力しているのに・・」
「わたし、どんなことがあっても決して君から離れないからね」
と一気に話すと、彼の胸の上に顔を伏せて涙ぐんでしまった。
大助は、その言葉の威圧感に反して、泣き崩れる彼女が可愛そうになり
「また、僕の考えを勝手に誤解して、興奮している。今日の君は確かに精神的に重症だわ」
と言ったあと、彼らしく大袈裟な表現で
「君の青い瞳や長い髪の毛、それになんと言っても日本人離れした抜群のスレンダーな容姿は、僕が頭に描いていた理想の女性像とピッタリで、僕には勿体無いくらいの女性で、ダイスキダヨ」
「これは僕の偽らざる気持ちだよ」
「だけれど、裕福な家庭で大事に育てられたために、我儘が過ぎる点を除けばだよ・・」
「アッ! それに薄い唇は一見冷たい感じがするが、僕は逆に理知的に見えて好きだなぁ」
「僕達の将来のことは、家庭環境を考えても確かなことは判んないが、兎に角、お互いに前向きに考え、今、とゆう時を大切にして頑張ろうや」
と諭す様に言うと、彼女も気持ちが落ち着いたのか
「ソウダワネ ワカッタワ」 「明日の朝、マリア様にわたし達を永遠に御加護くださるようにお祈りしますゎ」
と素直に答え、疲れもあり添い寝して静かな眠りについた。
健ちゃんが、美代子を連れて校庭裏の駐車場に辿りつくと、先着の六助以下の者達がスキーを脱いで車の前に整列して待っていたが、彼は寅太達三人に対し
「ヨシッ! 今日のことを忘れずに、家に帰って除雪でも何でもいいから人に喜ばれることをしろ」
「それが、お前達が今出来る最善の償いだ」
「さぁ 元気を出して行けっ!今日のことは決して人には言うなよ」
と言って返したら、寅太達は「ハイッ」と元気良く返事し、大助と美代子に黙って頭を下げて謝ると、興奮している美代子は彼等に目もくれず、大助の腕を取って一緒に車に乗り込んでしまった。
健ちゃんは、美代子に携帯を渡し
「これから、君の診療所に大助の傷の手当てに行くので連絡してくれ」
と頼むと、彼女は大助のズボンから滲んでいる血を見て喧嘩を思いだしたのか、再び、取り乱して泣き出してしまい、健ちゃん達は彼女が自分を見失い、ヒステリックに早口で何を喋っているのか自分でも判らないくらい興奮していて、話の順序も内容も滅茶苦茶に話してた。
電話を受けた当番看護師の朋子が、彼女の性格を知りつくしているので、電話が終わると老医師に
「これから、患者さんが来ると、美代ちゃんから連絡があったので、診察をお願い致します」
「美代ちゃんが興奮していて内容がよく判りませんでしたが、何でも患者さんがトラに襲われたらしいです」
と告げると、老医師は怪訝な顔をして
「ナニッ トラに噛み付かれたと・・。虎などいる訳ないし、トラと熊の間違いでないか?」
とブツブツ言いながら白衣を着て診療所の入り口に出たところ、美代子に腕を取られた大助が立っていたので、彼の顔を見るやニコットして
「オッ!大助君でないか」「夏以来久し振りに顔を見せてくれたとゆうのに・・。熊にでも噛みつかれたか?」
と言うと、美代子がヒステリックな泣き声で
「トラだよ トラッ!。お爺さん、早く治療してやってョ」
と叫んで、勝手に診察室へ大助を連れて行ってしまった。
朋子さんは、診察室のベットにビニールを敷いて器具を揃えたあと、ズボンを脱がせようとすると、心配そうに付き添っていた美代子が制止して、慣れた手付きで手際よく勝手に大助のズボンを下げてしまい、朋子が患部を消毒しながら、美代子に
「服や下着が濡れているので、あるものでいいから着替えの下着を用意し、それに、身体を拭いてあげるからバケツにお湯とタオルを運んで来て」
とテキパキと指示した。
美代子は、気が動転しているのか、お爺さんの居室に飛んで行き、衣装タンスの上段から引き出しを片っ端から引張り出しては、2段目、3段目と掻きまわして、やっと下着を見つけ、次に、給湯室でバケツにお湯を入れて、大急ぎで診察室の入り口まで来たら、「痛てぇ~っ!」と大助が大声で悲鳴を上げているのを聞き、驚いてバケツを落としそうになったが、一呼吸おいて診察室に入ると、老医師の施術が終わり朋子さんが傷口に化膿防止の軟膏を塗り、ガーゼと油紙を当て包帯を巻いていた。
老医師は、治療を終わると誰に言うともなく
「麻酔をせずに、ひと針縫合しておいたが、若いから肉が直ぐ上がり早く治るよ」
と言って診察室を出て行くと、少し冷静さを取り戻した彼女は、朋子さんに
「身体は、わたしが拭くヮ」「パンツを脱がすので、朋ちゃん、悪いけど此処から出ていってくれない」
と言うので、朋子さんは彼女と大助の仲を知り尽くしており、明るい声で大助の汚れた衣類を手にして
「お願いネ」「洗濯して、乾燥機に入れておくヮ」
と言い残して診察室から出て行った。
美代子が、大助のパンツを脱がせようとしたところ、彼が「自分でやるからいいよ」と言って、彼女の手をパンツから離そうとしたが、彼女は看護師気取りで
「ダメ ダメョ あんたは患者ョ」「ワタシノ ツトメダカラ サセテョ」
と言って、恥ずがしがってパンツを下げるのを必死に抑えている大助の手を払いのけて、無理矢理パンツを剥ぎ取り、恥ずかしそうに小声で
「ホラ オウジサマガ チジコマッテイルワ カワイソウニ」
と独り言の様に呟きながら、暖かいタオルテで股間を拭いて暖めていたが、タオルを取った瞬間
「アラッ オオジサマガ スコシ ゲンキガ デテキタ ミタイダワ」
と言ったので、大助は
「チッ! イヤガルノヲ ムリヤリ カオヲ ノゾクカラ オコッテイルンダイ」
とブツブツと言い返へすと、彼女は大助の意外な返事に気をおとして
「アラ ソウナノ アセクサイノヲ ガマンシテ テイネイニフイテ アタタメテ アゲタノニ」「キムズカシイ オウジサマネ」
と、情けない顔をして小声で呟いた。
然し、大助も本心では、暖かいタオルで拭いてもらい入浴した後の様に気持ちが良く、それに、傷もズキンズキンと痛いし、以前、東京の病院に入院しているとき、オシッコの始末をしてもらったことがあり、言い出したら聞かない彼女の性格を知り尽くしているので、そのあとは、彼女に抵抗しても無駄だと諦めて全てを任せた。
彼女は終わると、大助の脇に座って一息入れ、自分の思い通りに出来たことで、やっと我に返ったのか、青ざめた顔ながら、彼の心を射る様な澄んだ青い瞳で、彼の顔を見つめてニヤット笑い
「今日は、此処に泊まってゆくのョ」「皆には、お爺さんから連絡しておくからネ」
「ワタシモ 精神的に ジュウショウョ」
と言ったので、彼は
「ナニッ?、入院かネ?」「痛いけれど無理しても皆のところに帰るよ」
と困惑した顔で答えると、彼女は彼の言葉など耳に入らないのか、冷たい表情で
「ソウヨ ワタシト イッショニ ニュウインョ」
と言い残して診察室を出ると、二人用の空室を見つけるや、ベットを移動して二人分を並べ入院着と氷嚢を用意する等自分の思う様に入院室の準備にかかった。
老医師は、待合室にいる健ちゃん達から事件の概要を聞いたあと
「いやぁ~、このたびは、孫娘の親友が大変お世話様になりました」
「たいした傷でもなく、チョコット縫合しておきましたが、直ぐ治りますよ」
と、お礼を兼ねて傷と治療状況を簡単に説明していたら、看護師の朋子さんが「先生、カルテを書いてください」と言って来たが、老医師は「そんなもん、いらんわ」と答えて、逆に
「キャサリンに言って、冷凍した熊の肉をお土産に包んで用意し、大助君を助けてくれたお礼に一塊差し上げなさい」
と言い付け、朋子さんが大急ぎで用意してきた、お土産を健ちゃん達に差し出したあと
「これは熊の冷凍肉ですが、今ではこの地域でも珍品になり、チャンコ風の鍋料理にして、今晩食べてください。身体が温まりますよ」
と言って笑い、昭ちゃんが遠慮気味に
「あのぅ~、大助は入院ですか?。予想もしてなかったことで保険証も用意してませんので・・」
と聞くと、老医師は笑顔で
「美代子が勝手に決めよったが、孫娘の方が精神的に重症で、下手に口出しすると、今晩、我が家が大騒ぎになるので放って置いてくださいな」
「孫娘に、貴方達からお年玉をくれたと思って、我侭を許してやって下さい」
「二人でいれば、最高の治療になりますわ」
と、老医師も満足そうに笑っていた。
健ちゃん達は、老医師の鋭い眼光ながら柔和な表情で語る、孫娘である美代子の幸に余生の全てをかけて願う好々爺ぶりに、すっかりほだされて、何か自分達も明るい豊かな気分になり、好意に感謝して宿に帰る支度をした。
母親のキャサリンは、娘の狂乱振りに圧倒されて、慌ただしい出来事に詳しいことも知らず、ただ、老医師が機嫌よく振舞っている様子から安堵して、朋子さんと並んで「あとでお礼にあがりますので・・」と言って玄関で彼等を見送っていた。
健ちゃんは、雪の上に蹲っている三人を見て、懸命に応援している六助に対し語気鋭く「奴等を起こせ!」と言うや、彼は手際よく、倒れている三人を順次、雪を顔に擦り付け片っ端から尻を蹴り上げて無理矢理起こすと、いかにも海上自衛隊出身らしく、きびきびした命令調で
「お前等、肩を丸めて姿勢が悪いっ!」 「学校で正しい姿勢を教わっていないのか!」
と気合をかけて、彼等の前で自ら<キオツケッ!。ヤスメッ!>と号令を発しながら模範を示して実行させ、疲労困憊している彼らを渋々ながらも横隊に並ばせると、健ちゃんに対し威勢の良い寒空に響き渡る声で「整列、終わりっ!」と叫んで挙手の敬礼をすると、健ちゃんは彼等の前に仁王立ちして拳を握り締め
「お前等、不服があったら俺に向かって来い、幾らでも相手をしてやる。その代わり段々と厳しくなることを覚悟しろっ!」
「どうだ、愚連隊なら、それくらいの根性があるだろう」
と、彼等の顔をジロット眺めまわして声を掛けると、彼等は揃って悔しそうな憎悪の目で健ちゃんを睨みつけたので、彼は静かながらもドスのきいた声で彼等に訓示する様に
まだ、その目つきでは、反省が足りない様だな
根性が悪くて、自分達の何処が悪いか判っていないんだ
いいかなぁ~。 自衛隊では、お前等と同じ位の若者が、毎日厳しい訓練を受けて、この国の安全を守っているんだぞ
”蟻の一穴”と言うことを習っことがあるだろう。その諺を思いだしてみろ
お前等が幾ら乱暴者でも、おとなしい同級生達が多少の犠牲を払うことを覚悟の上で、30人位で一斉に襲いかかったら、お前達は参ってしまうわ。洪水で堤防が破壊される様に・・
いまのお前等は、友達を思いやる気持ちがなく、とても自衛隊の訓練について行けんわ
お前等は、平和と空気は、ただだと思っているが、とんでもない間違いだ
学校で、真面目に勉強していれば、それくらいのことは、常識として判るはずだ
これから、自衛隊の魂を入れてやる。お前等の曲がった根性を直すためだっ!。有り難いと思え
と話すと、最初に小太りで背の低い奴の前に行き、左手で顎をなで
「この野郎、ずる賢い人相をしているな」「両手を腰に当て歯を食い縛って足を開いて踏ん張れ」
と言うや、いきなり右手で腰の回転を利かせたビンタで頬を殴って張り倒した。
次に、痩せた長身の奴の前に行き
「勉強も仕事も碌にしないからヒョロヒョロしてるんだ」「歯を食い縛って俺の顔を見ていろ」
と言うと、この男も同様に張り倒した。
最後にボスの寅太の前に行き、映画の寅さんのセリフを真似た様に
「この怠け者めっ!。おお飯食らって遊んでいるからブクブクふとるんだ。豚なら目方で売れるが、俺は肉屋だ。お前みたいな、たるんだ肉ではまずくて買い手がないわ」
と気合を入れるや、この男のこめかみめがけて拳骨で強烈な一撃を加えたところ、その衝撃でボスは軽い脳震盪を起こした様に半回転し「ギャァ~」と悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちる様に倒れて、仰向けに無様な姿を晒してしまった。
大助は、初めて見た、健ちゃんのすざましい気合と制裁に圧倒されて、腕組みして棒立ちしたまま呆然とその様子を見ていた。
美代子は、健ちゃんの怒声と暴力に畏怖を覚え、大助の傍らにしゃがみ込んで、健ちゃんが殴るたびに帽子で顔を覆い隠していた。
美代子は、健ちゃんの声もしなくなり、終わったと思い顔から帽子をソットずらして取った途端に、大助のスキーズボンの右大腿部が破けて血が滲んでいるのを見ると、咄嗟に応急措置としてタオルで縛ってやろうとしたところ
彼は「余計なことをするな!」と叫んで、彼女の手を払いのけたので、彼女は「イヤ~ッ」と大声を上げて、両手で顔を押さえて大声で泣き出し、その場に、再び、しゃがみこみ込んでしまった。
大助にしてみれば、再び、彼等の嫉妬を受けたくないと、咄嗟に思って興奮した上での行動であった。
健ちゃんは、そんな美代子にお構いなく、大助の前に来ると
「お前も奴等の横に並べ」「喧嘩は両成敗と、昔から相場が決まってることは知っているだろう」
と言って並ばせると、ビンタをくれると思いきや、三人が倒れていて自分等を見ていないことを確かめると、薄気味悪くニヤット笑って頬をなでて叩く真似をした。
健ちゃんは、六助に対し「分隊長!。三人を起こして起立させろ」と言うと、またもや、すっかり闘争心を喪失している彼等を順次蹴飛ばして、やっと起き上がった彼等に対し、その場で、キオツケの姿勢をさせて、怯えて震えている彼等に対し、皮肉たっぷりに
「お前等、感激して目から汗をかいているな」「情けない奴等だ」
「大分身震いしているので、これから補充運動をする」
と言うと「両手を肘でまげて、腰にあて、その場で、駆け足足踏み初めっ!」
と威勢のよい号令を掛け、自分も一緒になって「オイッチ ニイッ!」と号令をかけながら行い、途中で「コラッ!腿を高くアゲロ!」と注意指導して20回位させて「ヤメェ~」と号令をかけて止めさせた。
彼等は、恐怖心と体力の消耗からフウフウと肩で息をしていたが、そのあと瞬時に、ボスを先頭に揃って大助の前に座り込んで手をついて「俺達が悪かった。勘弁してくれ」と、半分泣きながら謝ったが、大助は無言で彼等を見ていた。
美代子は、泣きながらも「あなた達、アッチに行って」と言いながら、彼等が大助にさわることをかたくなに拒んだ。
健ちゃんは、彼等に「オイッ 礼を言うことを忘れているぞ」と大声を出すと、三人はビクッと緊張して、健ちゃんに向かって頭を丁寧に下げて絞り出す様な声で
「ア・リ・ガ・トウ ございました」「これからは、真面目な人間になります」
と、泣きながら答えた。
六助は、三人に対し
「ヨシッ! 本日の訓練はこれで終了する」「スキーを履いて俺の後について来い」
「スキーをハの字にしてスピードを落とし、ゆっくり降りるからな」
と指示すると下降し始め、昭ちゃんと大助もそれに続いて行ったが、六助は振り向きざまに、健ちゃんに
「隊長っ!。残った荷物をお願いしまぁ~す」
と叫んで、そのまま、五人を引率して丘陵を下って行ってしまった。
健ちゃんは、荷物とは美代子のことだと咄嗟に気付き、内心、シマッタ、六助のヤツメと思ったが、相手がこれまでに話したこともない外人の娘さんだけに遠慮気味に、美代子の両手を引いて起こし
「さぁ~、元気を出して降りよう」「熊が出てきて襲われたら、俺も熊にはかなわんからなぁ」
と言うと、彼女は「いいわ、わたし、一人で降りますから」と気丈に返事をして立ち上がり、泣き顔を拭いてから、彼のあとについて滑って来た。
勿論、健ちゃんは、時々、後ろを振り返り、美代子に対する注意を怠らなかった。
大助と美代子は、互いに滑降に熱中し話掛けることもなく懸命に滑降と登坂を繰り返して、炭焼き小屋の近くまで辿りつくと流石に疲れて、彼女が振り返って
「疲れたわぁ~、ねぇ~少し休んで行きましょうよ」
と言い出して、二人はスキーで雪を踏みしめたあとスキーを雪中に立て、健ちゃん達の声が聞こえる遥か彼方を見ると、小屋に向かって来るのが見えたので、二人は白と赤色の帽子を頭上でグルグル廻して居場所を教えたら「スグユクゾ~」と遠くで叫んでいるのが聞こえた。
二人は小屋の前の窪地を踏み固めて腰を降ろすと、彼女は膝を揃えて立ててしゃがみ、両足を投げ出している大助の右側に擦り寄り、彼の右腕を手繰り寄せて内緒話をするかの様に、顔を近ずけて
「ネェ~、どうしても聞きたいのだけれど、大ちゃんって、お手紙書くの苦手なの?」
「何時下さるのかと、来る日もくる日も、楽しみに待っていたけれども、さっぱり出してくれないので、すご~く不満だヮ」
「お年賀もあっさりしていて、わたしだけに伝わる一言を書き添えて欲しかったヮ」
「最も、母さんは、手書きで心が伝わるゎ。と、褒めていたが・・」
と言ったので、彼は意外な質問に一寸躊躇いながら
「そんなことないよ。書きたいことも沢山あるが、僕、人に見られるかも知れないと思うと、字も下手糞だし、それに恥ずかしいし、どうせ、正月休みには逢えると思って、わざと省略したんだよ」
と答えたら、彼女は絡ませていた腕を抜いて肘で大助の脇腹をこずき、不満そうな顔で
「そうかしら、 わたし達のことは家族も認めているし、そんなに気を遣うことはないと思うんだけどなぁ~」
「それとも、東京に誰か好きな人でもいるの?」
「大ちゃんみたいに素敵な人を、同級生の女の子が放っておく訳はないと、時々、フッと思うと、しらずしらず涙が零れ毛布をかぶって泣いてしまうこともあるヮ!」
「そんな時、ものすご~く不安に駆られてしまうが、若しそうだとしても、大ちゃんを絶対に離さないからネ!」
と、瞳を輝かせて強い言葉で言ったので、彼はフフンと苦笑いして
「つまらん妄想で僕を見るなよ」「美代ちゃんも、強そうに見えても、やっぱり女の子だな」
「病院で、僕のオオジサマに最初に手を触れたのは君だぜ!。僕も、生まれて初めて経験したあの感動は、絶対に忘れることなんか出来ないよ!」
「君を信頼しているからだよ」「僕にも自尊心があり、そんなに気まぐれな男とは思っていないつもりだけどなぁ~」
「それなのに、僕のことをそんな風に疑って見られると、僕も悲しくなってしまうよ」
と、彼女を懸命に説得し、指先で彼女の頬を軽くつっ突っつき笑って抱き寄せた。
そんな他愛ない会話を交わしているとき、左側の丘陵から図太い声で
「お~い、そんなところでナンパしていやがって、何処の野郎だっ!」
と三人連れの若い男の図太い声がしたので、驚いて小高い丘陵の方を見ると、クラスでも評判の乱暴者の寅太達三人組が、みるみる近ずいて来た。
彼女は、その姿を見るや、大助に
「アッ! あの子達は、街や学校でも評判の乱暴な不良だわ」
「何を言われても、口答えしたり手を出しては駄目よ」
と言うや、反射的に立ち上がって、大きい金切り声で、健ちゃん達に聞こえる様に「助けて~~」と叫んだ。
彼等三人組は、そんな美代子の必死の叫び声を無視して傍に来るとスキーを脱いで、大助に対し凄みのある声で
「見たことねえ~野郎だな」「二人とも抱き合って、いいところを見せてくれや」
と因縁をつけたが、大助は彼女の忠告に従い相手を見て黙っていた。
彼等は、無視して黙っている大助の態度に腹をたてて
「おいっ!、オシでもあるまいし何とか返事くらいしろよ」
と言うやいなや、一番背丈が低く小太りの者が、いきなり大助の顔に平手打ちをくわえたので、大助は反射的に頬に手を当てて
「イテェ~、乱暴はよせよ。僕は、東京からスキーに来ただけで、友達同志だよ」
と答えると、背丈が高く痩せ型の男が
「なにっ、東京からだと」「生意気な奴だ」
と言いながら拳で大助の頭を思いっきり殴りつけ、続いて彼等のボスらしい太った寅太が
「おいっ!、この街に来てナンパするなんて、とんでもねぇ~奴だ」
「俺達の縄張りを勝手に荒らす奴は、二度とこねぇ~様に懲らしめてやれっ!」
と号令をかけるや、大助の頬を拳骨で殴ったので、大助は彼が二回目に殴ろうとしたので、それを避け様として反射的に右足で腹部を蹴り上げてしまった。
大助も、健ちゃんが、時々、夜間を利用して公民館で商店街の青少年達に、空手の稽古を教えており、彼もたまに参加しているので、その癖が出てしまった。
彼等は、大助の思わぬ反撃に益々激高して、小太りの男がいきなり大助の右大腿部をスキーで横殴りしたあと、両足をめがけてタックルして来たので不覚にも雪上に崩れ落ち仰向けに転倒すると、他の二人が大助に馬乗りになり無茶苦茶に殴って襲った。
大助は、両手で頭を抱えエビ型になって、殴られるままに懸命に防いでいた。
美代子は、初めて見る喧嘩に驚いてヒステリックな金きり声で
「ヤメテエ~ ヤメテェ~ ソンナニ ランボウ シナイデェ~」
と、大助が死んでしまうかと思い、泣きながら何度も叫んだが、彼等は止めようとしなかった。
そんな時、美代子の叫び声で大急ぎで近くの小高い丘に辿り着いた健ちゃんが、その取っ組み合いを見るや、恐ろしいドスのきいた声で
「こらっ!やめんか!」
と怒鳴りながら近ずくと、スキーを脱いで大助と彼等の傍に来て、六助と二人で彼等を片っ端から襟首を掴んで強引に引き離したが、小太りな男とやせ細った男の二人が、健ちゃんに拳を振りかざして襲い掛かって来たので、健ちゃんは、最初のうちは適当によけながら「このバカ共が!」と言って、適当にあしらっていたが、長身で痩せた男の拳骨が一発鼻柱にストレートに当たると、健ちゃんの堪忍袋が切れて闘志に火がつき、片っ端から三人を順次空手で腹部を突いたあと、ひるむ相手を柔道の払い越しでなぎ倒し、なおも向かって来る奴の顔を殴りつけて倒し、最後に、ふてぶてしく目をむいて勇敢に向かって来たボスの寅太と壮絶な殴り合いになった。
六助も、健ちゃんが殴り返すたびに気合が入り、彼が一発殴るたびに「ヤッホー」と奇声を上げて拳を天に突き上げ、弱って倒れたボス達を雪の中にうつ伏せにして顔を押し付け、苦しがってもがいて起き上がる奴を往複ビンタで張り倒していたが、最後は健ちゃんが腹部を強く蹴り上げると、ボスは腹部を抱えて身体を回転させて雪の中にうつ伏せに倒れ、完全にくたばってしまった。
三人は、健ちゃんと六助の強烈な反撃にあい、すっかり闘争心を失い立ち上がる気力をなくし、その場にうずくまってしまった。
美代子は、倒れたまま呆然と見ていた大助に駆け寄って縋り付くと、彼の胸に顔を当てて、人前をもはばからず嗚咽をあげて泣きじゃくっていた。
大助は、彼女を抱えたまま、健ちゃんの素早く小気味良い実戦での対応を、あっけに取られて呆然と見とれていた。
温和な昭ちゃんは、手を出さずに見ていたが、健ちゃんの圧倒的な反撃に彼等との力の差を見て取り
「健ちゃん、それくらいでやめとけっ!」
と大声で叫んでいた。
圧雪され滑りやすい道路の両側には除雪された雪が高く積まれ、山肌に沿い眼下に流れる川幅の広い川に沿う様に細い道が続き、運転中の健ちゃんが後ろを振り向くこともなく
「まだ、大分先なの?」
と声を掛けたところ、美代子が
「もう少し行くとバスがUターンする駐車場があるわ」
と、大助とのお喋りをやめて答えた。
ほどなくして、除雪された雪が壁の様に積み上げられた広い場所に到着して、皆が車から降りて頂上を見上げると、想像していた以上に丘陵は広く急斜面や平地を織り交ぜて高く、美代子が
「右上に細長く灰色に見える校舎がわたしの通う中学校なの」 「私の家は校舎の近くだゎ」
「頂上の真ん中辺りにポツント見える小屋が炭焼き小屋ょ。今は正月休みが終わって皆都会に帰りスキーをする人が少ないゎ」
と地形などを説明していたが、健ちゃんが
「これは登るのに大変だわ」
と溜め息をついて言うと、美代子が
「中学校まで行けば、裏手は平になっているゎ」
と答えると、皆が声を揃えて
「そこに行こうや。こんな急な山坂は登るだけでヘバッテしまうわ」
と声を出して再度車に乗りこんだ。
走行中の車中で、美代子が
「もう少し行くと左側に市役所があり、そこを左に曲がって行くと突き当たりに学校の駐車場があるゎ」
と教えてくれた。
健ちゃんは、凍てついた道を注意深くドンドン車を進めたが、静まりかえった街中に入ると道は地下水で融雪され、雪に埋もれた家並みや商店が続き、市役所の付近に、雪囲いされた植木が並んだ石塀の生垣に囲まれた広い庭に、縄で枝を保護された数本の大きな樹木に囲まれた、診療所の白い二階建ての建物が見えた。
美代子は、自宅である診療所については説明することも無く、大助の手袋の上に手を重ねて彼の顔をチラット見て、周囲をはばかり話しかけることも無く通り過ぎたが、大助は無言で感慨深そうに周辺を見ていた。
やがて校庭脇の除雪された駐車場に到着して皆が下車した。
スキーを履いて校舎の裏側に出てみると、比較的平な雪原が遠くまで続き、右側に連なる雑木林は雪をかぶっていたが、その背景には、時折、晴れた雲間に真っ白な峰の飯豊山が遥か遠くに眺望できる絶景で、炭焼き小屋を中心に左手側は所々に適度な平地がある斜面になっていた。
美代子は、健ちゃん達に
「窪んでいる平地は段々畑と棚田で、急な斜面は笹薮混じりの原っぱと石垣の崖ですゎ」
と、ストックで方向を指しながら地形を大雑把に説明した。
丘陵の下の方には、林に囲まれた集落が散見され、蒸気機関車が黒煙を吐いてゆっくりと走る貨物列車がマッチ箱位に小さく見えた。
彼等は、彼女の説明を聞きながら、高い所にも街があるもんだなぁ~。と、来るまえには想像もしなかった景観に返事をすることもなく、夫々が一様に感慨にふけっていた。
美代子は、景色に見とれている皆に対し
「わたし達、青草が萌える初夏のころや、木々が紅葉色に染まる秋には、此処で仲良し同志が輪になって、持ち寄りの具でお鍋料理をしたり、お弁当をいただくのょ」
と、田舎の学校生活の楽しみを話して聞かせていた。
宿周辺の湿った雪とは異なり、丘陵の頂上に立つと気温が低いためか、時折、弱い風に舞って降る雪は、乾燥した小粒のさらっとした感じの雪で、人影は見えないが滑降した軌跡がわずかに残っていた。
健ちゃんは、元気良く寒空に響き渡る声で
「いやぁ~、スキー訓練には良い場所だ」「寒稽古のつもりで、昭ちゃんと六助は俺について来い」
「少し急な斜面を大回転で山の中程まで行くからな」
と言い、大助と美代子には
「あんた達は、炭小屋の近くの緩やかな所で遊んでいろ」
と指示すると、先頭になって雪煙を舞い上がらせて巧みな滑降で下りていった。
彼等は、毎年この時期になると遊びをかねて各地で練習しているので滑降技術もかなり上手な方である。
大助も、毎年数回乗っているが、地元の美代子には滑降技術が劣り、彼女のあとを追うように、緩やかな斜面を楽しそうに滑っていった。
美代子は、大助と二人だけで滑れることが嬉しく、自分の技術では無理と思われる急斜面を勢いよく滑っては、わざと新雪の深い雪の中に頭からつっ込んで転倒して見せた。
その瞬間、舞い上がって飛び散る新雪が、雲間から漏れる日光に反射してキラッキラッと輝く雪の華の中に、赤い毛糸の帽子がくっきりと浮かび、それは、寒さに耐えて白い世界に咲く可憐な一輪の雪椿の様に、大助の目に映った。
彼女は大助を振り返り、透き通る様な声で
「大ちゃん~、早く来なさいょ~」
とストックを振り廻して叫んでキャッキャと笑い声を上げて手招きしていた。
大助は、美代子の雪と戯れる様子を見ていて、彼女が外国人であるとゆうだけで、学校生活の中で興味半分な好奇心でからかわれたり、時には心無い差別的な中傷誹謗を受けながらも、自分を見失うことなく、それらに耐えて必死に生きている心の強さと、眼前で明るく振舞う姿を見ていて、時折、片親であることに心が萎える自分と比べて、彼女の逞しく生きる心の強さを、改めて思い知らされた。
大助も、最初のうちは身体を慣らすべく、ゆっくりと滑っていたが、彼女の声に誘われるように、美代子の方に勢いよく滑降して行き、彼女の傍まで来て無理に止まろうとして、わざと転倒し、仰向けになっていた彼女の傍らに、身体を添えてうつ伏せになり、顔を近ずけてニコット笑い、彼女の頬を指で突っついて
「無茶して危ない滑りをするなよ」「僕とてもついて行けないわ」
と言って笑った。
美代子は、その様になるのを待っていたかのように、大助の首に手を絡ませて引き寄せ、二人は軽く唇を接したが、離れようとする大助に、彼女は絡めた腕に力をこめて
「ダメ! ダメョ~。本気で長いキッスしてょ」
「わたし、こうゆう日の来るのをず~うっと待っていたのよ~」
と、透き通るような精気溢れる青い瞳で彼の目を見つめて小さい声で囁いた。
幸いその場所は窪んでいて、周辺から一寸見えにくいところであったため、大助も意を決して、彼女を抱えて言われるままに、息が切れるほど長いキッスを交わした。
二人とも、大地を覆った厚い雪に、弾力のある若い身体をぶっけていくのは、なんとも言えないほど心地が良く、思いきり開放感にしたっていた。
彼女は彼を慕いつつも逢えない永い空白の時間を埋めるように、彼に思いっきり強く抱きつき
「わたし達、本当に好きならハグしあうことは人間の本能で恥ずかしいことでなく、普通だと思うわ」
「大助君はどう思う?」
と言うので、彼は
「理屈では君の言う通りだが・・」
と答えるのが精一杯で、あとの言葉が続かず無言で抱きしめた。
今のところ二人が自由に身体を寄せ合うことは、ほかになかった。
空は時折晴れ間を覗かせるが空気は氷の様に冷たく冴えわたり、二人は立ち上がると、炭小屋の方に向かってゆっくりと登り始めたが、行く手には雪をかぶった雑木林が白く光り、背後を振り返ると、白い世界に胡麻をまぶしたような集落が展望できた。
大助は、美代子のあとを追うように緩やかな丘陵を滑ったり登ったりしている最中、自分と美代子の将来も、この雪の上に細々と続いた先を行く美代子の残した条痕のようなもので、今は二人で鮮やかな軌跡を雪原に残しているが、やがては何処かで跡形も無く消えてしまうんだろうなぁ。と、切ない思いが頭を掠めた。
そう考えると、ひたすら自分の描いた夢を追って、この束の間の時間を青春の美しき暦に刻んで、無邪気にはしゃいでいる美代子がいとしく思えてならなかった。
地図や旅の案内書にも記載されていない、飯豊山麓にただずむ、こじんまりした村営の宿に到着すると、彼等の自動車の音を聞きつけて外に出てきた宿を預かるお婆さんは、カヤの柵と板で頑丈に雪囲いされた入り口でニコニコと笑みを浮かべて彼等を出迎え、事務室脇の控え室に案内して皆にお茶を出すと
「この時期はお客さんもなく、夕方、部落の人達数人が風呂に入りに来て、帰りに当番の男の人が風呂場を掃除して行く以外に、お客さんはおりませんので、ゆっくり遊んでいってください」
「あなた達が来られることは、村の指導者である山上先生の娘さんから聞いておりましたので・・」
「一人娘の理恵子さんも、この春には東京の美容学校を卒業して村に帰って来るそうで、親御さんも楽しみにしておりますわ」
「この温泉は、それこそ湯量が豊富で勿論掛け流しですが温度が高く、温泉卵が出来る位ですので、入るときには浴場に備え付けの消防用のホースで遠慮なく沢山水を入れて薄めて下さいね。やけどでもしたら大変ですのでねぇ」
と温泉の自慢話をしたあと、話相手を待ち焦がれていたのか、手造りの干し柿を藁縄からはずしながら皆に勧め
「この部落は昭和の初めころまでは、マタギ部落と言って、冬は猟師さんは熊を取っていましたが、開発が進んで縄文時代の遺跡もダムの底に沈み、熊もいなくなり今では猟師も少なく熊狩りも無くなり、温泉以外何のとりえもなく、特に宣伝もしませんので、春から秋にかけて口コミで知った顔見知りの常連客が渓流釣りに訪れて来るだけですわ」
と、ひと通り村の昔話と営業のことを親切に説明してくれた。
健ちゃんは、お婆さんの話が終わると、早速一風呂浴びてこよう。と、皆を誘い浴場に向かった。
真っ先に浴場に入った健ちゃんが湯船に手を入れてみると成る程凄く熱いので、六助に大声で
「六ちゃん、放水!」
と勇ましく号令をかけると、彼は浴場に用意されていた消防用のホースをひぱって来て惜しげもなく水を入れると、健ちゃんは、ころあいをみて湯船に飛び込み桶でかき回して湯加減が丁度良くなると「ヨ~シッ」と叫ぶと皆が入った。
昭ちゃんが浴場の周囲を囲んでいる大きな岩石を見ながら
「こんないい湯を貸切なんて、ご当家には申し訳ないなぁ~」
と言うと、健ちゃんが商売気をひらめかせて
「本当だなぁ。これが東京にあれば一儲け出来るんだがなぁ~」
と、大きな岩石で作られた広い湯船と豊富に湧出する湯に満足して、夜間運転での長旅の疲れを癒した。
窓の硝子に湯をかけて窓外を見ると、温泉から流れ出る暖かい湯で融雪した小川の淵には、雪椿の赤い花が数輪鮮やかな真紅の花びらを開いて咲いていた。
早湯の六助が、浴衣に鉢巻姿で広間に戻って大広間に入るや、赤々とした炭火が山盛りになった囲炉裏端に、お婆さんと金髪の若い女性が居たので、彼はビックリして浴場に駆け戻り、健ちゃん達に
「オイ オイッ!、先客らしい外国の若い娘がいるぞぅ~。どうする」
と素頓狂な声で叫んだ。
健ちゃんは湯船に顎までつかり頭にタオルを乗せたままニヤット笑うと
「う~ん 飛び入りのお客さんかなぁ」
「まぁ~、外国の娘さんに会えるなんて、正月早々縁起がいいことだ」
「ところでその娘さんはホワイトかブラックか?」
と聞くと六助は
「勿論、白だよ。細身で金髪が長くブルーの瞳が印象的で、滅多に拝めない外人さんだぞ」
と早口で喋ると、健ちゃんは落ち着いた声で
「六ちゃん、魂消ることは無いさ。まさか雪国の妖精でないだろうな」
「幸運の女神かも知れんぞ。勇気を出して行こうや」
と言いながら湯船から上がると、それでも浴衣の襟を正して先頭になって皆を連れて広間に戻った。
後に続いた大助は、連絡はしていなかったが、若しかして美代ちゃんかな。と、思ったが黙って彼等の後についていった
彼等は、囲炉裏端に遠慮気味に座ると、お婆さんが
「この娘さんが、お餅と黄な粉や小豆アンコや田舎の味噌漬けを持って来てくれたので、お汁粉と黄な粉餅を作ったからご馳走になって下さいな」
「田舎の餅は手つきで、また街のお餅とは違い大き目で粘りがあり味もいいですよ」
と言いながら、赤い漆塗りの大きなお椀に盛り付けしながら
「この子は、街の診療所の娘さんで、県下の中学校の水泳大会では、何時も良い成績を上げているんですよ」
と紹介すると、彼女は正座して畳みに手をついて金髪を束ねた頭を下げて
「わたし、美代子と言います。どうぞ一緒にスキーに連れて行ってください」
と丁寧に挨拶をした。
健ちゃんは、畏まって自己紹介のあと皆を簡単に紹介し、大助は最後に紹介された。
大助が緊張した顔で頭をピョコント下げると、美代子が口に手を当ててクスット苦笑いしていた。
彼女は、お婆さんが手際よく盛りつけたお汁粉と黄な粉餅を各人の前に配り終えると、大助の傍らに座って目を合わせてニコット笑い、再度、皆に
「わたし、大助君とは、昨年からお友達になったのょ」
「彼の家に下宿していて、帰省中の理恵子さんが、今日皆さんが来られると教えてくれたのょ」
と快活な声で言ったあと、大助に対し
「朝、理恵子さんが電話で、大ちゃんが先輩達と此処に来ると教えてくれたので、お母さんに送ってもらって来たの」
「お爺さんも、お酒やTVに飽きて退屈しているので、時間をみて皆を家に案内して来いと言っていたゎ」
と、彼の横顔を覗き見してにこやかに説明していたが、健ちゃん達は彼女の容貌から間違いなく外人なのに流暢な日本語で、大助と人懐こいなれた話振りに呆気にとられ、互いに顔を見合わせて呆然としていた。
美代子は、純白の襟首の長いセーターに、厚手のフラノ生地で仕立てられた黒色のスキー用のトレパン姿で、長い金髪を黒いヘヤバンドで束ねており、見るからに清楚な感じであった。
大助に対する態度は恥じらいながらも落ち着いており、久し振りに逢えた嬉しさを全身に漂わせていた。
大助も、してやったりと思いが叶った顔で
「宿に着いたら連絡しようと思っていたんだよ」
と喜びを隠して返事をし、彼らに隠し立てしていたことを気にすることもなく、澄ました顔でお汁粉を旨そうに食べた。
彼等は、東京では見られない、大きめに切られた田舎の餅を食べながらも、各人は好奇心から美代子をチラッチラッと見ては、朝からの空腹を満たしていた。
健ちゃんは、餅を食べながらも
「あっ、はぁ~、以前、大助を病院に見舞いに来たと評判になったのはこの子だったのか」
と記憶を甦らせ、どうして二人が友達になったんだろうなぁ~。と、昭二とヒソヒソ話あっていた。
それでも、二人が明るく屈託無く話し合う態度に雰囲気も和み、一緒に行動することに違和感もなくむしろ楽しみが増えたことを喜んでいた。
皆がお汁粉で空腹を満たすと、横になって休んでいたが、お婆さんが
「昨晩から降り続いた雪も朝方に止み、曇っているが風も弱いのでスキーには丁度良いわ」
「湯上りなので風邪を引かないように注意してくださいよ」
「スキー場は美代子さんが案内してくれるので・・」
と言ってくれたので、これを合図に健ちゃんが
「ヨシッ!、夕方まで時間がたっぷりあるし、さぁ~初滑りに行こうや」
と言うと、皆は元気良く立ち上がり支度を整えてから、車にスキーを積んでスキー場に向かった。
健ちゃんと六助は、迷彩服に戦闘帽と黒いサングラスをかけて、如何にも元自衛官といった姿であったが、昭ちゃんと大助は、普通にセーターとスキーズボン姿で毛糸の帽子をかぶっていた。
後部座席に大助と並んで座っている美代子が、積極的に
「この国道を山に向かって走ると、町営のスキー場があるヮ」
と教えてくれたので、健ちゃんは街に向かう一本道を走った。
大助と美代子に遠慮して助手席に窮屈そうに乗車した昭二と六助が、後部座席の二人を見ようとバックミラーを自分達の方に向けようとしたところ、運転中の健ちゃんが
「コラッ! 安全運転の邪魔をするな」
と大声を張り上げて注意したが、自分も気になるのか、時々、大助達をミラーで覗き込んではニヤットしていた。
商店街恒例の正月初売りの日。
八百屋の長男で大学卒業後、親の後を継いで仕事に一生懸命に励む昭二は、毎年正月は大勢の人出で店が賑やかになることを予想して、珠子にレジ係りを、大助には配達を担当してもらうことを臨時に頼んで、相変わらず店頭で威勢のよい掛け声でお客さんを呼び込んでいた。
一方、通りを挟んで昭二の店と向き合っている精肉店の健太は、八百屋の人だかりを時々羨ましげに見ながら、両親と三人で黙々と精肉と揚げ物の仕事をしていた。
健太は、自衛隊の降下部隊出身で、背丈も高く体は鍛え抜かれて頑丈で、見るからに頼り甲斐があり、夜間は公民館で青少年達に空手を指導している。
年齢は昭二より2歳上で、普段、兄弟の様に親しく付き合っているが、町内の青年達を巧みに纏め、人の面倒見の良さは天性のものがあり、商店街の若者の間でも信頼感は抜群である。
然し、昭二の様に愛想よくお客を呼び込むことは苦手で、この日も、たまたま通りがかった顔馴染みの居酒屋の娘奈緒が見かねてコロッケ揚げを手伝ってくれていた。
そこに、早朝から仕事をしていて早々と店終いをした、海上自衛隊出身で健太の高校の後輩である魚屋の六助が顔を出した。
彼は小柄で細身であるが筋肉質の体形であるが、退職後、日が浅く在隊時の癖が抜けず快活な性格とあわせ行動が機敏で、健太を兄貴の様に慕っている。
朝早くからの仕事を終わって健太に挨拶に訪れ四方山話しのあと、皆で一杯酌み交わし新年会をしようと話を持ちかけてきたので、健太は即座に賛成し、六助の手慣れた段取りで昭二や珠子達にも連絡して呼び寄せ、各自が持ちよった料理で健太の部屋で賑やかに新年会がはじまった。
仲間うちで慕われている健ちゃんは、酒盛りが大部進んだところで
「今年は、越後湯沢は大雪でスキーには絶好のコンデーションなので行こうや」
と、話を切り出すと、珠子と奈緒は、それぞれ母親と一緒に親類へ新年の挨拶に房総と浜松に行くので、残念だけど参加できないと言い出し、大助は姉の珠子の顔を見ながら
「僕も、今年は進学のため倹約することにしたので、旅費や宿泊代の高いところは御免だ」
と、残念そうに断った。
そんな大助を見かねて、姉の珠子が
「あのぅ~、田舎に帰省している理恵子さんの故郷には、公営で湯量が豊富な天然温泉の岩風呂があり、しかも、食材を持ち込めば、鍋や釜に食器類が全て揃っていて、一泊3千円の宿があると聞いたことがあるわ。皆で、料理をすることも楽しいと思うけど・・」
「勿論、奥羽山脈の麓でゲレンデは無いらしいが、山スキーで自然の中を滑るのもいいと思うが・・どうかしら」
と言い出すと、健ちゃん達は、女性が参加しないことに少しつまらなそうな顔をしたが、低料金で自炊できる温泉場とゆうことに魅力を感じて、健ちゃんが
「よしっ! そこに遠征しようや」
と提案すると、昭ちゃん、それに六助も大賛成して、健ちゃんの提案で、野菜や肉と魚介類など、各自が店にあるものを持参することにし、四輪駆動のレンタカーの大型ジュピターで行くことにきめ、そうすれば費用も安くあがり、こんないいことはないわと言うと皆が即座に意見が一致した。
皆の威勢のよい話を聞いていた大助も、其処なら、もしかして美代ちゃんに逢えるかもと秘かに思い、彼女のことは話さずに
「僕も、安ければ連れて行ってもらいたいなァ~」
と参加を希望し参加することになった。
珠子は、大助の心情を察して、費用をかけずに行けるなら、何とか二人を逢わせてあげたいとゆう優しい思いやりから、咄嗟に思いつき話を持ち出したのである。
珠子が、健ちゃんにせがまれ、その場で自宅に下宿していて、田舎に帰省中の理恵子に電話で予約を頼むと、暫くして、折り返して返事があり、連休前なら空いているとのことであった。
彼等は、その間に地図を広げて大体の距離を調べていたが、交通量や道路状況を勘案し、道路が空いている夜間運転で行くことにし、途中休憩時間を入れても、目的地まで約15時間位掛かると計算した。
そして、仕事の関係もあり平日の午後6時出発と決め、2泊3日の旅行とすることにした。
正月の3が日を過ぎた日の夕方。 健ちゃんの運転で街を出発したが、関越高速は田舎から帰る車で混雑する上り線とは反対に下りの道路は空いていて、途中車窓から見えた、湯沢温泉のスキー場のゲレンデの照明が映し出す夜景が綺麗に眺められた。
早朝の3時ころ、新潟近郊のICに着いたが、予想に反して雪が少なかったが冷え込みは流石に厳しく、昭ちゃんが用意して来た握り飯と六助がショップから仕入れきた熱いインスタントラーメンで車の中で朝食を済ませてから、各自が毛布を掛けて一眠りすることにした。
仮眠から目を覚ました6時ころ、六助が
「此処からは高速を降りて、国道を2時間位走った後は途中からは川沿いに山の中を走るので、5時間位かかるかなぁ~」
と地図を見ながら説明していた。
走ってみると、成る程、国道とはいえ除雪で圧雪し凍結した道路は道幅も狭く2車線しかないが、幹線道路を外れ、山奥に向かう国道とは名ばかりの、鉄道沿いに曲がりく練った山沿いの道を進むたびに、濃い藍色で緩やかに流れる広い河幅沿いの険しい山道となり、健ちゃんは鉢巻をして眼光鋭く真剣な顔つきで運転していたが、誰もが話しかけることもなく、ひたすら山道を進んだ。
車窓から眺める河の流れは、時には岩に激しく当たって砕け散り白い波飛沫を飛ばして急流になり、その川に架かる赤い鉄橋を何度も繰り返して渡り、所々に杉林に囲まれた集落が見える以外は一面の白い世界で、その静穏な景色は幻想的なユートピアの様に誰の目にも映り、誰も話すことも無く景観を眺めていた。
ほぼ予定通り10時ころ、宿である梅華荘に到着すると、玄関前で老いたお婆さんが愛想よく出迎えてくれ
「ようこそ来てくださいました、こんな雪の季節にはお客様はめったに来ませんので、あなた達、貸切りみたいですわ」
「春から秋にかけては、山菜採りや渓流釣り、飯豊山への登山客、また、きのこ採りとにぎあいますが・・」
と、話相手を待ちわびて居たかのように、堰を切った様に話し出し、宿周辺の部落の様子を親切に説明してくれた。
皆が、荷物を降ろして、待合室でお茶をご馳走になったあと部屋の鍵を受け取り、案内されて大学生が合宿で利用する廊下脇の寒そうな土俵のある相撲の練習場を見て、その奥の浴場の説明を受けて二階に上がると、広いキッチンと和室の部屋6室を見て回り、最後に日帰り客用の大広間を見せてもらった。
広間の中央には、彼等のために用意された炭火が赤々とした大きい囲炉裏があり、カラオケの機器も用意されていた。
お婆さんは、囲炉裏の端に座ると、お茶を入れながら集落の歴史を朴訥な喋りで語り始めた。
美代子は、お爺さんと話し終えると、今度は両親に対し御節料理を食べる箸を丁寧に置いて伏し目がちに
「わたし、どうしても理解出来ないんだけれども、キリストには父がいないのに、マリア様は聖霊に感じておはらみになった。と、書物で読んだことがあるが・・」
「これって、不思議よネ」「想像妊娠って、本当にあるのかしら」
「わたし、学校で生物の時間に30歳位のお腹の大きい女の先生に対し質問したら、宗教的な問題は別の時間にお話いたしましょう。と、先生は顔を赤らめて恥ずかしそうに、ていよく断わられてしまったが・・」
「その時、クラスの男子生徒の声で、俺が後から実地に教えてあげるよ。と、声を上げると、皆が大笑いしてクラスが騒々しくなって授業にならず、隣の教室から保健体育の男の先生が飛び込んできて、怖い顔をして大声で騒ぎを収めたことがあったわ・・」
「この様な大事な問題になると、皆が、興味半分になり、真面目に勉強できなヮ」
と言ったあと、鬱憤が冷めやらのか、続けて
「そのあと、男子生徒達に随分からかわれたり、いじめられたりして、学校に行くのが嫌になるくらいだったワ」
「お母さん!。女の幸福って男性次第でしか築くことが出来ないものなの?」
「そんなの、何だか変で不公平だヮ。お互いに協力して、愛を育てあげてゆくものでしょう」
「本当のことを教えてョ」
と聞き始めたので、父の正雄は
「ウ~ン 難しい質問だネ。パパは腫瘍外科専門で、あとで、専門の産婦人科の先生に聞いてみるわ」
と答えをはぐらかしたところ、美代子は不満そうに両親の顔を見回しながら
「パパは、学校の先生と同じでズルイわ」「動植物は、雌雄が交配して誕生するくらいのこと、勉強してとっくに判っているわ」
と、返事をして話を止めてしまった。
お爺さんと母親のキャサリンは、一言も口を挟まず黙って聞いていた。
老医師のお爺さんは、面白くなさそうな顔をして
「いや~ 今年の元旦は、美代子の独演会を聞かされて、お屠蘇の味も判らんかったわ。 正雄、ワシの部屋に来て、やり直そうや」
「お前にも、この際、話しておきたいこともあるし」「キャサリン! 酒と料理をワシの部屋に運んでくれ」
と言うと、美代子が、すかさず
「お母さん。わたしが用意してあげるからいいわョ」
と言って、キャサリンが立ち上がるのを制止して、お爺さんと父親に対し
「お酒でなく、お酌の必要のない、ウイスキーと氷を御用意いたしますから・・。先程、わたしの願いとしてお話致しました通り、お二人とも、薄めのロックにして、舐める程度に嗜んでくださいネ」
「わたし、酔っ払いは、ダ~イキライ」「介抱するのは、何時も、わたしと、母さんなんだから・・」
と念を押して、お爺さんの居間にお膳を用意してあげた。
二人は、苦笑いしながらも
「おぉ 判ったよ」「お前さん達は、ゆっくり料理を楽しみなさい」
と言って座敷を離れた。
美代子とキャサリンは、その後、お節料理を楽しみながら、キャサリンが
「貴女も、いじめや差別で大分苦しんだのネ」「今迄よく、頑張ったゎ」
「あと少しで卒業して、ミッションスクールに行けば、外国人の生徒さんも沢山おり、いじめられることもないゎ」
と言うと、彼女は瞳をひときは輝かせて、キャサリンの顔を見つめニッコリと笑いながら、元気よく
「ウン! 必ず合格してみせるヮ」「なんと言っても、大助君とも近くなり、胸が弾けそうになるくらい嬉しいヮ」
と、機嫌よく返事をして、食事を終えて後片付けになると彼女も積極的に手伝いして、残った料理やお皿類を運んだが、台所でキャサリンの肩を軽く叩きながら
「男の人って、どうして、こうも、だらしない食べ方をするんでしょうネ」「イヤネェ~」
と文句を並べていたが、鯛の刺身やキントン等自分の好物をつまみ食いしているので、キャサリンが
「美代ちゃん、そんなお行儀の悪いことは、およしなさいっ!」
「ミッションスクールは、寮生活で規律は厳しいのョ」
と注意すると、彼女は母親の心配を気にせず
「承知しているヮ」「ネェ~ 母さんも、好きなものを頂きなさいョ」
「これって、女の唯一の特権ョ」
と口答えしていたが、急に
「アッ ソウダヮ。年賀状を取ってくるヮ」
と言って、玄関の方に飛び出して行ってしまった。
美代子は、100通位の年賀状を座敷のテーブルに置くや、片っ端から宛名を見ていったが、大助君からの年賀状を見つけると、「アッタ~ よかったわ~!」と大きな声で誰に知らせるともなく叫ぶと、キャリンも手を拭きながら座敷に来て「母さんにも見せて」と言うと、彼女は、不満そうな顔で差出し
「特別、目あたらしいことも書いてないヮ」「アイツ、ラブレターの書き方を知らないのかしら。つまんないヮ」
と呟くと、キャサリンが
「これっ!あなた、なんてゆう呼び方をするの」
と少し怒ったように注意すると、彼女は
「アッ イケネェ~ 学校で何時も友達同志で呼び合っているので、つい、癖が出てしまったヮ」
と弁解していたが、キャサリンが
「隅の方に小さい文字で ”機会を見て、若しかしたらスキーに行きます” と、書いてあるから、いいじゃないですか。手書きで心が伝わるヮ」
と笑って年賀状を返すと、彼女は
「大助君、本当に来てくれるといいだがナァ~」「でも、隅の方に小さく書き添えてあるので果たして本当に来てくれるかしら」
と半信半疑そうに呟きながら、彼からの年賀状を持つと、ほかの年賀状は見もせずに、手伝いをすることをやめて自室に行ってしまった。
美代子は、おせち料理が豪華に並べられたテーブルを家族で囲み美味しそうに食べながら、お爺さんや両親に対して、彼女なりに自分が上京した後に気になることを話したところ
お爺さんとキャサリンは、彼女が改まって言い出したことを、一寸、いぶかしげな目で見て強張った顔で聞いていた。
父の正雄は、返事に少しとまどったが、直ぐに
「美代子も、精神的に立派に成長したね」
「お父さんは、そんなつもりは全然なかったが、美代子の言うことは良く判ったよ。心配しないで勉強しなさいね」
と、少し照れ笑いしながら答えていた。
キャサリンは、数日前、化粧中に鏡に映った二人の顔の相似性について思いがけないことを、彼女が口にしたことを思い出して、また、同じことを言い出すのかと気が気でなかった。
一方、老医師は、最近、彼女が急に大人びいて来たので、近い将来に、彼女の出生の秘密を正直に話さなければならないと、常々、心に思いとめていたが、そのタイミングが難しくその機会を探しあぐねていた。
思案の結果、女学生を長年職業として扱ってきた山上健太郎先生に相談して、思春期の彼女の心理を教えてもらってから話すことにしよう。と、考えながら聞いていた。
幸い、健太郎とは普段から親しい交際をしており、それに、彼の奥さんである節子さんが、正雄とも大学病院時代からのコンビで、彼のたっての希望で診療所の看護師として勤めてもらっており、何よりも正雄と美代子からも厚く信頼されているので、とにかく健太郎に一部始終を話して、彼の意見を聞いて熟慮してから美代子に話そうと考えた。
美代子は話終えて、お爺さんの少し震える手首を軽く押さえて手に持つ杯にお屠蘇をついでやると、キャサリンが
「美代ちゃん、お母さんも努力するヮ」「お正月なので、お父さんにもお酌をしてあげたら・・」
と優しく言うと、彼女は「ハイッ」と気持ちよく返事をしてお銚子を持ったが、何を思ったのか直ぐに手を引き込めて
「お父さんの手は震えていないので、御自分でなされば・・」
「それに、なんと言っても、お母さんのお酌が、一番、お酒が美味しいらしいゎ」
「わたし、悪いけどホステスではナイノョ。ゴメンナサ~イ」
と、少し恥ずかしげに首をすくめて言ったあと
「お父さんの手は、神の手と言われていて、患者さんの身体を縦横無尽に切り開いているんでしょう」
「その結果、病が治り喜んで感謝する患者さんもおれば、反対に、寿命が尽きて、この世を去る患者さんもいるだろうし、わたし、お父さんの手を見ていると不気味に思うことがあるヮ」
と言いつつも、父親の左手を取り、指先を見つめて、自分の爪とを見比べていたが
「お父さんの爪は丸型で指も細く器用そうだが、わたしと母さんの爪は細長くて、お父さんと全然似ていないヮ」
と、小声で一人語との様に呟いたので、困惑して返事に窮している正雄と少し表情を曇らせたキャサリンに代わり、お爺さんが
「幾ら親子だからと言って、必ずしも似ているとは限らないもんだよ」
と、静かな声で諭す様に語りかけていた。
美代子の話に、キャサリンは思わず手を隠すようにエプロンの下に引き込めてしまったが、彼女とキャサリンの数日前の会話のいきさつを知らない正雄は
「遺伝と言うものは全てが似ることはないんだよ」「隔世遺伝とか優性遺伝ってゆうこと学校で習って、わかるでしょう。お爺さんの言う通りだよ」
とだけ、言葉少なに医師らしい説明をしないまま話をそらしてしまった。
彼女も、キャサリンの目をチラット見て以前忠告されたことを思い出して、それ以上深く聞くのを止めてしまった。
彼女は、今度はお爺さんに対し、般若心経の経本に書いてあった”色即是空”の熟語の部分について、一字一字を丁寧に紙に書いて、お爺さんの顔を覗き見しながら
「お爺さん、これって、具体的にどうゆう意味なの?」
「わたし、お爺さんが、お経を唱えているとき見ながら考えたのだけれども、簡単に言って、色恋は即ち空っぽとゆうことなの?」
「随分、色っぽいお経だと思ったけど、昔はともかく、現代では、間違いではないかしら?」
「わたし、若し、そうだとしたら、生きる意欲を失って仕舞いそうだヮ」
と聞き出したので、お爺さんはやっと我に帰り、我が意を得たとばかりに
「美代子、いいところに気がついたね」
「何事でも、問題意識を持って見て考えるとゆうことは、勉強する上では、とっても大切なことだよ」
と言って笑ったあと、表情を崩しにこやかな顔で、彼女を見ながら
「これは、今から約2千年前に、ほら、孫悟空で有名な三蔵法師、正確には玄奘法師とゆう人が、インドから経典を中国に持ち帰って、インドの古い言語サンスクリットの経典を漢字に翻訳したもので、日本人にはポピュラーなお経なんだよ」
「”般若”とは、仏様即ち先人達が得た生活の”知恵”のことで、我々が勉強して得た”知識”とは違うんだよ」
「そこで”色”とは、動植物はじめ、全て形のあるもののことで、それらは因縁によって成り立っているもので、”空”とは、それらの形は本質的に実態がない、とゆことだよ」
「簡単に言へば、、全て形があるようだけれども、実際は、何の形、価値もなく、我々には、ある様に見えるだけなのだよ」
「別な言葉で言えば、”仮有”とか”権現”とも言って、全てが因縁に基ずき、仮の姿で現れていると言うことなのさ」
「例えば、村の神社の神様を、権現様と言うが、あれは、普段、姿を現さない神様が、山とか掛け軸の絵などで、仮の姿で現れているのだよ」
と話したあと、なおも彼女の疑問をとくために
昔、東大哲学科の偉い先生が弟子を連れて、ポリネシヤの島に行き夜の浜辺で小さい子供に対し、君のお母さんは何処にいるの?。と、聞いたところ、その子は、僕のお母さんは、あの遠い空で瞬くオリオンのお星様にいるんだよ。と、澄んだ目をして答えたので、先生は弟子に対し、信仰とはこうゆう様に穢れない純粋な心で自然を見て信じることなのだ。
先生は更に弟子に向かい、今、お握りと一万円札を並べて、この子の前に出したとしたら、この子はお握りを手にするよ。なぜなら、この島ではお札は貨幣として通用せず、唯の紙切れでしかないので、何の価値もないからだ。 我々は、約束ごとで一万円札を一万円の価値があると観念を持っているだけで、実際には、その価値がないとゆうことだ。と、教えた話が残っている。
美代子が、先程、”心が豊かになることだ”と、言ったが、美代子の豊かな心を、お爺さんが美代子の脳や心臓を解剖して見ようとし ても、それは形がないので見ることは出来ないが、美代子の心の中には厳然とあるのだよ。
お経の解釈は、その当時の歴史とか地域の生活風習や文字に秘められた”語意”を理解するなど、難しくて簡単に説明できないが、少しは判ったかね。
と、なんとか少しでもわかってもらおうと話したところ、彼女は半信半疑な顔をしながらも聞いていたが、<信じて努力すれば夢が叶う>と、ゆうことに共感を覚え
「ウ~ン 判ったような、判らぬようだが・・やっぱり、全然、ワカラナイ ワ!」
「けれども、信じて努力すれば、夢が叶い、心が豊かな人間になれるとゆうことなのネ。それならば、理解出来るヮ」
と、自分なりに都合よく解釈して返事をすると、ニコット笑みを零して家族を和やかな雰囲気につつんだ。
美代子は、お爺さんの説教に勇気ずけられて、大助君との蒼い恋を必ず実らせ、豊かな心を育んで幸せな人間になってみせる。と、改めて堅く心に誓った。
..
今冬は、東北地方の山沿いが豪雪で交通が混乱している様だが、越後の平地は近年にない積雪の少ない珍しい正月である。
けれども、俗に言う爆弾低気圧のせいか、奥羽山脈に連なる飯豊山や大日岳の麓にある診療所の町は、例年通り雪が深く寒風もつよい。
診療所の老医師は、若き日に経験した軍隊生活の習慣と、老人特有の性癖から、早寝のため朝寝ているのに飽きて薄暗いうちにコッソリ起き出し、玄関前の除雪を黙々としていたら、近所の顔馴染みの老人達3人が夫々に白い息混じりに「ヤァー」と元気な声を弾ませて近寄って来て、子供達の通学路を踏み固めたあと、除雪の手を休めてタバコを燻らせながら雑談に花を咲かせていた。
「近頃、紅白歌合戦も、歌っているのか騒いでいるのか、俺等にはチットも面白くなく、北島三郎が愚痴を零していたいた様に、日本人の心が失われて来た様だな」
「やはり、一昔前の様に時代を映し出す、西条八十の心に残る歌詞や、それに相応しい服部一郎や古関メロデーがなくなり、我々には寂しい歳の暮れの世の中になったもんだなぁ」
と、老医師達が夫々にボソット呟くように大晦日の夜の感想を話しだしたら、ほかの老人も合いずちを打って共感していた。
老医師は誰に向って言うわけでもなく
「本当になぁ~、時代の移り変わりが早いとはいえ、ワシも何事につけ近頃つくずくそう思えてならんわ」
「全てが失われた戦後、その後の経済成長一本やりで一億総中流と各人が思ってたころ、それがどうじゃ、今は、無縁社会とやらで、人々いや家族の絆も薄れて、なんともやりきれない世の中になったもんじゃな」
「ほれ、考えてみろ。昭和40年頃までは、葬式も家庭でとり行われていたが、10年位前からは、近隣の各町にセレモニーが雨後の竹の子の様に林立し、葬儀が商業化されて、大事な戒名も故人を偲ばせるようなものもなく、正に葬式佛経になってしまい情けないシャバになったもんだ」
「最近、都会では直葬と言って誰にも世話にならずに、先祖の墓を捨てて寺とも縁を切り、この世を静かに去るといった様に、価値観が20年単位で変遷している様に思えるよ」
「まぁ~、考えようによっては、合理的かも知れんが、ワシは戦後教員が赤旗を振ったり国旗に背を向けたりする、教育の欠陥が齎し出した当然の帰結だと思うな」
「政治の劣化。そのため、欧米をはじめ世界各地で保護主義や.自国優先の専制主義の台頭。 我が国も二極化して国の進むべき方向が不透明で、この先どうなるのかなぁ」
「昔、歴史は60年位で戦争があり、それに伴い先端技術の発達、人口減等で、価値観も自然の摂理で変化すると言われていたが、近代はグローバル的に大きな外部要因を受けて、日本もこの先大きく変化すると思えるなぁ。 此の儘では、老人国家で生産人口が減り、国力が衰退の道を辿る以外になく、必然的に移民を受け入れざるを得ないだろうなぁ~」
「最近、テレビで放送していたが、中国等は一人っ子政策の結果、今ではオナゴが少なく嫁さんのなりてが3000万人も足りないそうだ。最も大都市に住む教養の高いオナゴは相手の資産状態を結婚の条件にするらしいが・・」
「戦前に流行した、蘇州夜曲の”君が手折し桃の花・・♪”と言う心に響く名曲とか、”月落ちて烏啼き霜天に満つ・・”。なんてゆう有名な漢詩も忘れ去られ、それらはみんな遠い昔のことになったが、統制の厳しい軍国主義下とわいえ、人間の温かみを感じた李香蘭の全盛時代が一番よかったようだなぁ」
と喋ったあと急に表情を和ませて
「でも、横手駅では列車が到着するたびに、構内に”青い山脈”のメロデーを流しているが、あれを聞くと往時を懐かしく想い出され心が明るくなってしまうなぁ」「この地方はまだまだ捨てたもんではないわ」
と、外国生活を経験した軍人上がりの厳しい世想感と郷土愛を話していた。
朝の雪かきを終わり、一風呂浴びて汗を流した老医師は、毎朝欠かさず勤行を務める、二階の大広間に設けられた仏壇と神棚それに向かい合ってマリア像を祀った小さな神殿がある、なんとも荘厳で静寂の漂う和室で、家族を従えて、毎年恒例の元旦のお祈りを厳かにはじめた。
老医師は、団扇太鼓と鐘を叩きながら、寒気を突き裂く様な威勢の良い声で”南無妙法蓮華経”と、お題目とお経を朗々とした張りのある声で唱え、続いて”般若心経”の経本を各自に与えて読経したが、その間に叩く鐘の音が部屋中に余韻をもって響き渡り、このときだけ、美代子は幽玄の世界に導かれる様に不思議な雰囲気に包まれた。
美代子は、お爺さんが熱心に唱える、訳の判らぬ長いお経に聞き飽きて、お爺さんの後ろで見られないことをいいことに、合掌して頭を垂れている両親の脇で、痺れてきた足を横崩しにして、何気なく開いて見た般若心経の最初の部分に”色即是空”の4文字熟語に目を奪われた。
彼女は、これって一体何の意味なのかしら、”色”って、”艶”の意味で女の色気のことなのかしら、そして、すなわち”空”ってあるが、恋や色気なんて空っぽなものかしら。
これはもしかして昔の若いお坊さんが、何か勘違いして書き残したものではないのかしら。と、彼女なりに考えて解釈し、昔のお坊さんも憎めない人間的な愛嬌があったもんだなぁ~。と、可笑しくなり、こみ上げる笑いを必死に堪えた。
一通りの勤行が終って家族が部屋を出て行ったあと、母親のキャサリンと美代子は毎朝晩祈祷しているマリア様の像の前で祈りを捧げたが、美代子は大助君との恋が叶います様にと胸に十字を切り祈った。
元旦の朝の行事が終わり、待望の朝食を今朝は何時ものキッチンでなく座敷で頂くことになったが、お爺さんと父の正雄は、お屠蘇を酌み交わしながら、春から隔日おきに大学病院から診療所に来ることになった医師のことで、それを実現させた正雄の尽力に、お爺さんも礼を言って褒めていた。
一方、母親のキャサリンは清々しいお化粧をして珍しく和服姿で、時々、二人にお酌をしながら、美代子には「赤ワインは頭と胃腸に良いらしいヮ」と言って、彼女にもついでやり、自分も少し飲んでいたが、お屠蘇で気分全快のお爺さんが、満面に笑みをたたえて
「美代子は、今年はどんなことをお祈りしたのかな」「高校合格の祈願かな」
と機嫌よく聞いたので、彼女はお爺さんの少し振るえる手首を軽く押さえて、お屠蘇の酒をついでやりながら
「わたしは、決まってるじゃない!」「高校入試なんて当たり前のことでしょう。それより、もっと努力して、人生で一番難しいことを乗り越えて、心が豊かになれることョ」
と至極当然のことだと言わんばかりに、澄ました顔で答えたので、両親達三人が互いに顔を見合わせて笑みを零したが、お爺さんは
「その通り、人間は何事も目的意識をきちんともって努力するることだな」
「ところで、大助君とは、今、どの様になっているんだね」
と尋ねると、美代子はそんな大人達に対し真面目くさった顔で、座布団から降りて正座し畳みに両手をついて姿勢をただすと
「仲良くお付き合いしているゎ」 「お爺さんも、彼のこと、わたし以上に可愛いんでしょう」
と言って、口に手を当ててフフッと微笑んだあと、続けて
「お気遣い下さいまして本当に嬉しいゎ。わたしからも、改めてお礼致しますゎ」
「わたしは、春から、なんとしても東京のミッションスクールに入り家を留守に致しますが、そこで、わたしからのお願いですが」
「今年は、お爺さんもお医者様ですので、患者さん同様に、お酒とタバコを控えめにしていただくこと。
お父さんは、病院の冷たい手術室の空気を家庭に持ち込まず、お帰りになられたらお母さんに暖かく接して欲しいこと。
お母さんは、節子小母さんのように、もっと、積極的に御自分の意見を主張して家庭の主婦として振舞って下さい。
以上、至らない娘の拙いお願いを是非聞き入れて下さい」
と、日頃、感じていることを、この際と思って話終えると、畳に両手をついて丁寧に頭を下げた。