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A Diary

本と音楽についてのメモ

マキューアン『愛の続き』

2006-12-01 16:56:55 | イギリスの小説
■イアン・マキューアン『愛の続き』(小山太一訳、新潮文庫2006)

この本はつまり、こういう話だ・・・:ある草原でのこと。熱気球の事故に居合わせた主人公の「ぼく」(ジョー・ローズ)は、その場に偶然一緒にいたジェッド・パリーから、突然ずっと付きまとわれるようになる。パリーはジョーに対し、「あなたは僕を愛している」などと言い続け、家の玄関付近に長時間待ち伏せする。ジョーの行く先も追いかけ、まさにストーカー状態。

これはパリーが、ジョーから愛されていると勝手に信じ込んでしまったためで、この小説では、このように突然、まったくの他者から愛されていると信じ込んでしまう精神状態のことを「ド・クレランボー症候群」だとしている。ジョーの嘆願や行動にもかかわらず、恋人のクラリッサも、警察もジョーを助けようとしない。やがてパリーがクラリッサに危害を加えようとするにいたり、ついに警察も出動する事態となり、パリーは閉鎖病棟に収容され、小説は終わる。

ジョーの職業は、いわゆるサイエンス・ライター。科学的な出来事や話題を記事にして、雑誌などに寄稿するジャーナリスト。主人公のこの職業設定と、かつ、一人称の「ぼく」が語る形式のせいで、『愛の続き』には科学的な「小ネタ」がたくさん出てくる。相対性理論のこととか、ハッブル宇宙望遠鏡のこと、DNAのこと、などなど。

小説本文の描写や語り自体もが、こういう「科学的な」色調を帯びている。一人称のジョーが描写する場面が多いからだ。つまり、マキューアンは、この小説ではわざと「科学的な語り」を採用していると言えるだろう。例として、冒頭のエピソードに現れる熱気球の描写を読んでみると:

「巨大な気球に満ちていたのはヘリウムだった。恒星の原子炉で水素から作られた気体元素――その生成によって全宇宙の多種多様な事物生成の第一歩が踏み出されたのであり、われわれの身体や思想のすべてもその中に含まれている」(p10)

僕個人としては、この部分に決定的な事柄がさりげなく述べられていると思う。つまり、この語り手(ジョー)によれば、水素やヘリウムという分子が、根源的には僕たちの「思想」をも形作っていると指摘しているのだ。世の中のすべての事物が水素をはじめとする原子から生成されているというのは、間違いなく正しい。だから、僕たちの「身体」も当然原子から成り立っている。ここまではいい。でも・・・「思想」もまた原子から成り立っているのだろうか。よく、唯物論とか観念論という議論があって、別にどちらが正しくてもかまわないのだけれども、少なくとも、この小説『愛の続き』の主人公ジョーは、唯物論的なスタンスを取っていることがわかる。人間の精神活動や思想というのもまた、原子・分子の働きといった科学的な理由付けで説明できる事柄なのだという立場を、マキューアンはジョーに与えている。

とにかく、マキューアンはこの小説で「科学的な語り手」をわざと採用しているので、その色眼鏡を通して私たち読者はこの小説を読むことを強いられる。(強いるといっても、別に読むのが苦痛ということはないけれど。)この今日のブログの冒頭に『愛の続き』のあらすじを書いたけど、別にこういうストーリーだったら、「科学的な語り」で語らなくても、他の語り方でも描写できると思う。科学などには縁遠い、ふつうの一般人を主人公に据えることだって、やろうと思えばできるのだろうから。いずれにしても、僕が強調したいのは、『愛の続き』の読者は、マキューアンのわざと意図した「科学的な語り」で読まされることになる、ということ。

この、科学的な語り(この場合の「語り」とは、いわゆる「narrative」の意味で)が端的に現れているのは、『愛の続き』の最後に二つの付録が添付されている部分。付録の一つ目は、ジョーとパリーのケースについて科学的に研究した成果をまとめたド・クレランボー症候群についての科学論文。『イギリス精神医学研究』誌より転載、なんて書いてあり、ご丁寧に参考文献まで載っているけど、もちろんこれはマキューアンの創作だ。付録のもうひとつは、パリーの手紙。これもただ単にパリーの手紙を添えるのではなく、パリーの精神症状を裏打ちする「証拠資料」としての目的で付録になっている。論文や証拠を添えて、こんな具合に、あくまでも科学的なスタンス。

* * * * *

さて、このあたりで、一歩下がってこの小説に向き合う必要がある。つまり、こうやって、「科学的」な態度が前面に現れているので・・・そう、僕たち読者は、丸め込まれてしまっているのではないか。だって、科学的であることが、必ずしも「正しい」とは言えないこともあるだろうから。僕たちはジョーの観察し、描写する言葉をとおしてしか、この物語の出来事を理解することができない。でも、そういうジョーは、確かに科学的ではあるけど、「正しい」だろうか。

突然、見ず知らずの人から「あなたは私のことを愛していますよね?」なんて言われたら、とても驚くし、とても怖いことだ。でも本当にこんなことがあったら、あなたはこういう異常事態をどのように考えるだろうか。その相手のことを「ちょっと頭がおかしいんじゃない?」と思うのは確かだし、付きまとわれたりしたら解決しようとして、家族や警察やらの保護を求めたりするだろう。でも、まさかすぐに「ド・クレランボー症候群」という精神病だと決め付けたりはしないのではないか。

僕が思うに、わけのわからないことや、怪しげな異常事態を、なんでも科学的に説明付けてしまおうという態度が、この小説で展開される「科学的な語り」なのだ。でも、それは、人間の持つ偏見のひとつ、色眼鏡のひとつであるように思える。人間の「思想」を原子・分子の働きだけで全て説明できるとは、なかなか考えがたい。もちろん、理論上、将来的には説明できることなのかもしれないけど、少なくとも今のところは、科学がこの世の森羅万象を解決することができるとは必ずしも言いきれない。

実際のところ、この小説は、科学万能主義を主張しているわけではない。例えば、ジョーの恋人クラリッサは(キーツの詩の研究家)、ジョーがパリーに付きまとわれていると聞いて、それがすべてジョーの妄想ではないかと疑うが、こういう箇所では「科学的な語り」からは離れた視点を持っている。また、ジョー自身も、自分が正当な「科学者」ではなく、サイエンス・ライターという「疑似科学者」であることに思い悩むが、こういうの点も、ジョーの「科学的な語り」の信憑性が揺らぐきっかけにはなる。

ということで・・・なんだか今回は、「この本はいい小説だよ」とか、あんまり褒めなかったけど、別に、けなしたりするつもりはぜんぜんない。ただ、『愛の続き』については、読み方に注意するとより面白いのではないかと思ったから。ジョーの態度、つまり、マキューアンのこの小説の語りを、そのまま額面どおりに受け止めて読んでしまうのもいいが、一歩下がって、批判的に読んでみるのもおもしろい。僕たちが「科学的」であるということを、いかに素直に受け止めてしまうか、そして、いかに騙されやすいか、ということに気付かされる。そして、やっぱり最後に一言褒めるとすれば、こういう「語り」を作り上げるマキューアンの力量は、なかなか上手なわけだ。

ブライトン・ロック

2006-11-06 16:34:08 | イギリスの小説
■グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』
(丸谷才一訳、早川書房ハヤカワepi文庫2006)

五月の終わりから、六月の初めの時期、日も伸びて初夏を迎える頃の物語。舞台はブライトン。英仏海峡を望むイギリスの南部の港町。温暖で気候も良く、昔から保養地として名高いところ。この小説の舞台は、こういうイメージ。

登場するのは、ピンキーという不良少年。年齢は17歳だが、カイトという以前のリーダーが殺されたあと、この少年がブライトンのギャングを仕切っている。ストーリーは、このピンキーたちが、カイト殺しに関わったヘイルという男を、復讐のために殺すところから始まる。

ヘイルの殺人はほぼうまくいったのだった。警察はこれを自然死と判断し、捜査を行わなかった。ところが、アリバイ作りのため、ヘイルの死後に身代わりとして行動した男の顔を、レストランにウェイトレスとして勤める16歳の少女ローズが、はっきりと覚えていた。彼女は実際のヘイルの顔と、身代わりの男の顔が違うことに気付いている。ピンキーは、このローズと知り合い、なんとかして彼女の口を封じようとする。そして、その目的のためだけに、ピンキーはローズと結婚することにする。(妻帯者の犯罪を捜査するために、警察がその妻を喚問するには、妻本人が同意しないと行えないというルールがあるらしい。)

ピンキーはひたすら冷酷な男で、自分に疑いがかかるのを恐れて、ヘイルの身代わりをしていた男(スパイサー)さえ殺してしまう。さらに、ヘイルの死に疑いを持っていたアイダという女性の調査によってさらに追い詰められてしまうと、ローズが彼を深く愛していることを利用し、共に心中するというふりをして、ローズすらを殺してしまおう(自殺させる)と決意する。

* * * * *

まず、正直に言ってしまうが、僕はこの本を読み終わってかなり心が動かされた。つまり、感動した。こういう気分になる原因は、僕自身、今までの経験からだいたいわかっている・・・「愛するものの喪失」なのだ。ローズがピンキーという愛の対象を喪失した状態。そこに僕の想像力が刺激された。しかし、ここに至るまでには、文庫本約500ページ弱を、丹念に読む必要がある。こういうサスペンス風の本は、「次にどうなる?」という興味で、急いでページをめくりがちだけど、この本に関しては、ぜひ一言一言ゆっくり読んでほしい。そうすれば、やがて到達できる深い境地が最後に待っている。

とくに、じっくり「観察」しながら読んでほしいのは、ピンキーという少年について。彼はどういうキャラクターなのか。この少年をよく感じ取ることが、この本を味わう重要なポイントなのだから。僕は彼について、上で「冷徹な」と書いたけど、実際のところ、そんな一言にはとても要約できない。

例えば、彼はギャングのリーダーなのだけれども、酒は嫌い、タバコは吸わない、女は知らない(というか、両親のせいで性交という行為を非常に嫌悪している・・・しかし、彼は結婚せざるをえない状態に追い込まれて、非常に苦慮することになる)、そしてギャンブルもしない。

さらにピンキーはカトリックの信仰を持っている。表面上は「地獄に行ってしまうなんてことは心配したってしょうがない」みたいなことを言っているが、頻繁に「大罪を犯す」とか「地獄に堕ちる」なんてことを考えている。ローズもまたカトリック信者で、「善(good)」と「悪(evil)」に敏感だ。これは、彼らを追い詰めるアイダと対照的に描かれている部分で、アイダのほうはただひたすら「正(right)」と「不正(wrong)」で物事を考えている。

これだけの説明だと、なんだか潔癖で真面目な少年みたいだが、でもやっぱりピンキーは冷酷な少年なのだ。そういう部分はこのように描写されている:

「想像力が目を覚ますことがない――それが彼の強みだった。他人の目を借りてものを見ることも、他人の神経でものを感じることもできなかった」(p87)

だから、他人の痛みもわからないし、同情心もない。でも、こんな少年が、実はローズと出会ってから、少しだけ変化していくことがわかる。最初は彼女の機嫌をとるためだけに相手を気遣っていたが(つまり、警察に事実を暴露されないようにするため)、いつの間にか、ローズの考えていることが想像できるようになってしまっている。(「彼はふたたび彼女の存在がじぶんをどれほどまでに補っているかを感じた。彼にはローズの考えていることがわかっていたし、そしてそれが彼をいらだたせた」p329)

このようにして、ピンキーとローズの間には一種の「きずな」というか、愛が生じている・・・しかし、この二人の一見粗野な、実は非常に純粋な愛は、劇的に幕を閉じることになる。しかし、もし僕がこの本を、彼らの年齢と同じくらいの時に読んでいたらどう思っただろう。もっともっと真に迫る迫力があったかもしれないと想像してしまう。

* * * * *

最後まで読み終わったとき、ピンキーについて読者はどう思うか。二人を殺し、ローズさえも殺そうとした。これは明らかにwrongであり、evilだろう。でもそれだけだろうか。最終章、ローズの告解の場面で、年老いたカトリックの司祭は、あるフランス人の例を思い出し、語り始める:

「この男は、地獄に堕ちて苦しもうという者がある以上、じぶんも地獄に堕ちようと決心しました。彼は御ミサも受けないし、妻との婚姻も教会でおこなわなかった。わが子よ、わたしにはわからない。しかしこの男が――そう、聖者だったと考えている者もあるのです。彼はいわゆる大罪のなかで死んだと、わたしは思う――しかし確かではない。戦死でした。多分・・・」(p480)

そう、つまり、「地獄に堕ちる」ような生き方をしたって聖者とみなされうるということだ。大罪をたくさん犯すような生き方をしても、それはそれなりのカトリック信者としての人生なのだ、ということ。なぜならば「信者は、なんぴとよりも悪をなす能力がある」(p481)のだから。善悪というだけの二項対立を超えた、昇華したところにある何らかの境地。

グレアム・グリーンの小説はカトリックの信仰意識が云々・・・とされて、そういう面が、もしかすると敬遠される一面かもしれないけど、僕みたいにこの宗教のことをよくわかっていなくても、普通に読書を楽しむレベルとしては全く問題ない。それに、カトリックがどういう特性を持っているかについては、読んでいるうちに、なんとなく勉強できてしまう感じがする。(アイダが「カトリックの連中はうわついた態度で死を論ずるがいい、生よりも死のほうが大切なんだろうから」なんて語っているが、こういうところが参考になる。)

ともあれ、若き二人の愛の悲劇。せつなさ、純粋さ。さすがに、グレアム・グリーンの代表作のひとつ。

イタチがピョン

2006-10-24 18:23:10 | イギリスの小説
■イーヴリン・ウォー『大転落』(富山太佳夫訳、岩波文庫1991)
■イーヴリン・ウォー『ポール・ペニフェザーの冒険』(柴田稔彦訳、福武文庫1991)

翻訳したタイトルは違っても、同じ本。僕にとっては、何回読んでもほんとうにおもしろい。どういうところがおもしろいのだろう。

たとえば、主人公のポール・ペニフェザーは教師として三流のパブリック・スクールに赴任するのだが、その学校の校長が突然「明日、運動会をするぞ」と言い出す。たった一日ですべてを準備しなくてはならない。ましてや、その校長が、せっかくやるのだから、豪勢にやれ、音楽隊を呼んで花火を挙げて、花束にケーキにフォアグラ入りのサンドイッチに・・・なんて言うから、みんなてんてこまい。

そんなとき、スタート合図用のピストルはどうしよう・・・という話題になる。ちょうどその場に居合わせた、怪しげな執事のフィルブリックがやたらにでかい軍用拳銃を取り出す。彼は言う。「気をつけて。実弾入りですから」「それだよ、それ」と校長は答える。「ただし、下に向けて撃つように。いいかね、事故のないよう最善を尽くさなきゃいかん」・・・こんな具合でスタート用のピストルはどうするかという問題は解決する。

ふつうだったら、執事がなんでそんなピストルを持ち歩いているんだ!というおかしさを感じて、それでおしまいだろうが、やっぱりウォーは違う。せっかく「実弾入りピストル」というおもしろい小道具が出てきたのに、それを使わない手はない。校長が「下に向けて撃つように」と言ったのが次の布石だったのだ。実際に競技が始まると、スターター役の先生が、間違ってタンジェントという名前の生徒の足を撃ってしまう。だが幸いにして、彼はかかとにかすり傷を負っただけであった。

ここでは、実弾で足を撃たれたのに重傷じゃなくて良かったね、と思うところだけど、やっぱりウォーは違う。ここでおしまいにならないのだ。ウォーは、タンジェントの足の傷を治さない。そのあとのストーリーの折々で、タンジェントの状態が言及される。運動会から二日後・・・「タンジェントの足はふくれあがって黒ずんできましたよ」 約一週間後・・・「タンジェントは近くの病院で片足切断の手術を受けていた」 何ヶ月かあと・・・「タンジェントは死んだよ」という具合で。タンジェントという登場人物はこれといって活躍するようなこともない、単なる端役なのだけど、ウォーのブラックなユーモアを体現すべく、このように扱われている。運動会のピストルをどうしよう・・・じゃあ、本物の拳銃を使おう、という流れになった時点で、ウォーはここまでおもしろさを引き出してしまう。

* * * * *

この本は、遠く離れた異国の日本人でもかなり楽しめるが、実際のところイギリス人にはもっとおもしろいのだろうな、と思わせるところがある。とくに細かいところのユーモア。マーゴット・ベスト=チェトウィンドは「王の木曜日」という名前のチューダー朝式の由緒正しい屋敷を買い取るのだが、その建物を見た感想をこう述べる:「リバティ百貨店の新しいビルとは比較にならないわ」・・・これって、リバティの店がどういうふうな建物か知らないと理解できいないセリフ。ロンドンの中心、リージェント・ストリートにはリバティという店があって(本格的なデパートという感じより小規模なお店)、その建物はいわゆる「モック・チューダー」という様式。要するにチューダー様式の真似なのだ。でもこの場面で、マーゴットは、本物のチューダー式の屋敷よりリバティーのほうがずっと良いと言っているわけで、そこがユーモアのポイント。

僕が一番笑ってしまったのは(電車の中で笑顔を抑えられず、かなり怪しかった)、ポール・ペニフェザーが生徒のピーター・ベスト=チェトウィンドにオルガンを教えている場面。ポールはオルガンなんて弾けないから、ピーターが適当に好きな曲を弾いているのだが、その曲の名前が『イタチがピョン』だったところ。僕はどうも、こういう変なところで大うけしてしまって困る。「イタチがピョン」って、僕にはかなり笑える名前なんだけどなあ。これは岩波文庫版の訳がこうなっていて、一方の福武文庫版だと、ここは『いたちがぴょんと飛ぶ』になっている。さらに丁寧なことに、こちらのほうには「十九世紀後半から伝わるダンスのときに使う民謡」と注がついている。なるほど。

* * * * *

僕の読んだ印象だと、岩波文庫版のほうがおもしろく読めると思う。内容は同じなのだけれども、こちらのほうが実際に工夫もある。たとえば、チョーキーの話し方や、ジレーヌスの話し方は岩波文庫版のほうが工夫してあるのに対し、福武文庫版のほうは、そんなに工夫はしていない。一方、福武文庫版のほうには、訳注が少しついていて、これはこれですごく重要なところ。ラナバ校の校長がポール・ペニフェザーに向かって、ウェールズがイングランドにもたらした問題点を列挙する場面がある。

岩波文庫版:「カーナーヴォンのエドワードね、ペニーフェザー君、初代の皇太子プリンス・オヴ・ウェールズで、あの邪悪な生涯を送って、横死した・・・・・・。それからチューダー朝がきて、修道院の解散だろう。そのあとはロイド・ジョージと節酒運動と非国教徒と欲望が腕を組んで国中を闊歩して、破壊と荒廃をほしいままにした」

福武文庫版:「考えてみたまえ、ペニフェザー、初代プリンス・オブ・ウェールズのエドワード・オブ・カーナーヴォンを。男色の生活を送って非業の死をとげたじゃないか。それからチューダー王朝と修道院の解散、またロイド・ジョージが出ると禁酒運動に非国教主義、それに女道楽が手に手をとって国中をまかり通り、あらしまわる始末だ」
※ここで、エドワード・オブ・カーナーヴォンには「エドワード二世のこと」、チューダー王朝には「初代ヘンリー七世はウェールズ出身」という注がつけられている。

なんでチューダー朝がウェールズと関係あるのか知らなかった僕には、福武文庫版の注がありがたいのは確か。でも、ロイド・ジョージがイギリスの首相で、ウェールズ出身ということは常識なのだろうか。こっちにも注をつけてもよさそうだけれども。両者には他にも違いがあって、チョーキーの実名が、福武文庫版だと「ミスター・セバスチャン・チャムリー」になっていて、岩波文庫版だと「セバスチャン・チョルモンドレー」になっている。うーん、やっぱり岩波の名前のほうが、絶対におもしろい。

生意気ながら僕も「注」をつけてしまう・・・

※リバティーのモック・チューダーの建物については、リバティーのウェブサイトを見ると、どういうことだかわかると思う。ああいうふうに、表面に木組みが施してある建物の感じがチューダー様式。ちなみにリバティーといえば、ウィリアム・モリス風の草花による図案「リバティー・プリント」が有名で、この柄をあしらったハンカチとか、小物入れとかは、中高年女性向けのイギリスお土産にはいいと思う。

リバティー:http://www.liberty.co.uk/

※『イタチがピョン』の原題は「Pop Goes the Weasel」という。便利な時代が訪れたもので、なんとウェブサイトで聞くことができる。
こちらのサイトでどうぞ:http://www.niehs.nih.gov/kids/lyrics/weasel.htm

野の花に囲まれて

2006-10-10 13:56:24 | イギリスの小説
以前読んだときにはぜんぜん気にならなかったのに、今回読んでみたらすごく気になる部分があった・・・なんて経験が、読書にはよくある。べつに発表四百年を記念して再読したわけではないのだが、シェイクスピアの『リア王』(1605か1606の作品)を久しぶりに読んでみたら、やっぱりそういう再発見があった。

それは「花」に関する場面。長女ゴネリルのもとを追い出され、さらに次女リーガンからも冷たくあしらわれ、リア王は嵐の中を怒り狂いながらさまよう。そして、末娘コーディーリアのいるドーヴァーへと連れて行かれる。この頃には、わけのわからないことをしゃべるような、ちょっと気がふれてしまった状態にリア王はなっている。

このとき、リア王は「野の花々で身を異様に飾って登場」する(第四幕第六場)。老王が放浪の末のボロ服に、たくさん花を身につけて現れるこの姿。とても気になる。

これがどういう場面なのかは、まず、ドーヴァーという土地柄をまず思い出してみるのも悪くない。フランスとの海峡に面した、切り立った白い崖の続く土地。その崖の上には、緑いっぱいの草原が広がっていて、花々も咲き誇っている。天気は晴れて、気持の良い風が海から吹いてくる。鳥がさえずっている。こんな感じだろう。イギリスの人にとっては、イングランド南部、とくにケント州のほうは、白亜の土地がまぶしい温暖な地域という印象をみんな持っている。のどかな草原。少し前に、猛烈な冬の嵐の中をさまよった場面とはまったく逆の環境にリア王はいる。

僕はこの花々が何を意味するか、とか、そういうことには興味がなくて、ただ純粋に花を身につけたそのリア王の画像が心に残ってしまう。老いて、身も心もやつれてボロボロの状態。その体に、かわいらしく咲き誇る野の花を飾って現れる。老王と野生の花々という好対照。花の持っているやさしくかわいらしい女性的なイメージが、狂乱状態にあったリア王のイメージと融合して不思議な画像を作り出す。異様さと滑稽さ。

* * * * *

シェイクスピアで野の花々といえば、今まで僕は必ずこれを思い出した。

http://www.tate.org.uk/servlet/ViewWork?workid=9506&searchid=14802&tabview=image
(これを開くと、新しいウィンドウは開きません、たぶん。絵を見終わったら、「戻る」をお願いします)

『ハムレット』のオフィーリア。多くの画家が、この場面からインスピレーションを得た。残念ながら、リア王が花を身にまとった姿を描いた絵画は、きっとどこかを探せばないわけではないのだろうが、このジョン・エヴァレット・ミレイの作品のように有名なものは見つからない。

文学に出てくる花は、美しいけどはかないとか、性的なイメージの暗喩だとか、いろいろ意味をさぐることはできるのだろうけど、やっぱり最終的には「美」としての役割を担っているのだと思う。「花を持たせる」という表現ではないが、「この場面は美しくあってほしい」とか、「この人を美しく描きたい」という作家の願いが、作品の中に花を書き込ませる。だからこそ、オフィーリアは花を手にしている。スミレを持たずにオフィーリアが溺れ死んだとしたら、彼女はこのようにまでは、悲劇のヒロインにはならなかったかもしれない。

E.M.フォースターの『眺めのいい部屋』で、主人公のルーシーがジョージ・エマースンと思わずキスをしてしまうことになる場面は、「菫が小川となり、川となり、滝となって斜面をなだれ落ちていた。・・・この棚地が菫の源だった。地上を潤すべく美を噴きだす泉だった」(第六章)・・・という具合に、野生のスミレまみれの情景。フォースターは二人の真実の感情が表れる場面に、盛大に花を添えている。

ジョージ・オーウェルの『1984年』で、主人公のウィンストンが、非常に厳しい監視の目を盗んでジューリアと落ち合う場面。ロンドン北西の郊外のその場所は、ブルーベルの花がたくさん咲きみだれる森だった。

「The bluebells were so thick underfoot that it was impossible not to tread on them. He knelt down and began picking some, partly to pass the time away, but also from a vague idea that he would like to have a bunch of flowers to offer to the girl when they met.」
(ブルーベルの花はたくさん咲いていて、踏みつけないわけにはいかなかった。彼はかがんでその花を摘み始めたが、それは時間つぶしということもあったけど、彼女と会ったときに花束をあげたいという漠然とした気持もあったからだった)

最近読んだばかりの、アイリス・マードックの『かなり名誉ある敗北』でも、若者ピーターが彼の叔母であるモーガンに対し愛を語る場面は、野の花々に囲まれた草原という設定だった。

「She stood staring up at the sloping walls of grass and flowers on either side of her. She began to see more detail, more and different flowers hidden in the grassy jungle. Flowers which the scientific farmer had long banished from his fields lingered here in secret, dazing with their variety the drunken bees who crawled laboriously among the stems, buzzing as they walked with sheer exhausted joy.」
(モーガンは左右に広がる草花の斜面の壁を見上げた。彼女はもっと目をこらし、そのうっそうと茂る草の中にさまざまな花が隠れていることに気付いた。科学的な農法からはとおの昔に追いやられてしまった花々がひっそりとたたずんでいた。彼らがあまりの感動にぐったりしながら歩いていくところを、ミツバチたちが、目のくらむようなその多種類の花の辺りをあちこち忙しそうに飛び回っていた)

作家たちは、花に囲まれた理想郷こそが、愛を語るにふさわしいと考えているらしい。上の三つの場面に共通するのは花々がたくさん咲いているということだけではない。それぞれすべてが、他人の目から隠された、ちょっと奥まった秘密の場所にあるという設定。『眺めのいい部屋』では、他の観光客からはぐれてしまい、ルーシーとジョージ二人だけで、このスミレの洪水に飲み込まれる。『1984年』のウィンストンとジューリアはもちろん二人きりになるために、わざわざ監視のない秘密の場所で落ち合ったのだった。『かなり名誉ある敗北』でも、この場所は幹線道路から離れ、木々を抜けたところにある。どの場所も、当事者の二人以外は誰もやってこない。愛を知る二人、そして花。

* * * * *

約三万年前に絶滅してしまったネアンデルタール人が、死者を悼み埋葬する習慣を持っていたとする説がある。これは、イランで発見された彼らの人骨から、いっしょに花粉も見つかったことによる。彼らは、すでに花の美しさに気がついていたのだろうか。この考え方に対しては、たまたま花粉が紛れ込んだだけという主張もあり、まだ真偽のほどは定かではない。

でも、花に人間の感情をこめるやり方が、このように古来から続いてきたものだという考え方には抗いがたい魅力がある。なぜなら、ネアンデルタール人が「人間的」であるかどうかを示す鍵であるから。そして悲劇を愛する僕たちは、あえなく滅んでしまった(それもホモ・サピエンスとの競争に敗れたとされる)彼らもまた、私たちと同様に「人間性」を持っていたと信じていたいから。いずれにしても「花」に価値を認めることは「人間らしさ」を認めることに他ならない。だから、こうやって花の場面にこだわる僕のことを、ちょっとナイーヴすぎるんじゃないの、とか言わずに、温かい目で見守ってほしいなあとか、思っていたりする。


(1) ジョン・エヴァレット・ミレイ『オフィーリア』の画像はテイト・ブリテン美術館のもの
(2) 『眺めのいい部屋』の引用箇所は、西崎憲・中島朋子訳、ちくま文庫(2001)より
(3) 『1984年』(『Nineteen Eighty-Four』)は第二部の第二章から引用、翻訳版(新庄哲夫訳、早川文庫1972)では、ブルーベルではなくヒヤシンスとなっている
(4) 『かなり名誉ある敗北』(『A Fairly Honourable Defeat』)は第十五章から引用

あいつらのジャズ

2006-10-02 16:19:30 | イギリスの小説
またもや『ジェーン・エア』と関わる読書の話。

そもそも、このシャーロット・ブロンテの傑作を読み始めたのは、何回も書いたけれども、ブックオフで210円で入手できたことにあった。でも、さらになぜ『ジェーン・エア』を欲しいと思っていたのか・・・それは、ジーン・リースの『サルガッソーの広い海』を読みたかったからだった。ジーン・リースのこの名作は、『ジェーン・エア』の中に出てくるバーサという女性を取り上げ、彼女を主人公に仕立てたものだから、原作を読んでいないと良く理解できないだろうと思って。

『ジェーン・エア』は読み終わった・・・でも『サルガッソーの広い海』に取り掛かる前に、ジーン・リースはどんなものを書く人だったかなと思い、彼女の短編を一つ試してみたのだった。手にしたのは、『20世紀イギリス短篇選(下)』(小野寺健編訳、岩波文庫1987)に入っている「あいつらのジャズ」という作品。そして・・・これがとても素晴らしかった。

人間の情念が立ちのぼるような作品・・・こういう表現を使えば、僕の感じた印象が伝わるだろうか。創った人の、何かとても強い心情が作品にしっかり刻み込まれている、そういう短編小説。嬉しさや喜びよりも、どちらかといえば、怒り、悲しみ、やるせなさ・・・みたいな心情。でも、こういう区別ははっきりつかなくて、すべてが混ざり合ったような、そんな強烈だけれども複雑な情念の世界。これに文学的な情緒――例えば、日本古来の言い方で表現するなら「おかし<趣きがある>」のニュアンス――が、ちゃんとプラスされている。

「あいつらのジャズ」には、ロンドンを舞台に、セリナ・ディヴィスという名前の黒人女性が登場する。彼女にはほとんど何もない。お金がない。仕事もない。住むところもなくて、頼るべき人もいない。誰もかまってくれないし、ただ一人でいる。孤立。疎外感。居場所のなさ。セリナは、ひたすら運命に翻弄されていくばかり。

* * * * *

こういう作品が書けるためには、ジーン・リースの実人生が当然大きく影響している。彼女の経歴は本当に興味深い。ジーン・リースは1890年、西インド諸島のひとつ、当時の英領ドミニカ島生まれ。父親はその10年ほど前にイギリス本国から渡ってきた人物で、現地で結婚。その相手であるジーン・リースの母親は現地に住み着いていた白人(クレオール)だった。

1907年に彼女は学校に通うためにイギリスに行くが、入学した学校にはなじめず、代わりに演劇学校に入り、卒業後はコーラスガールとして働いた。このころから創作を始めているらしいが、発表することはなかったらしい。1919年に結婚し、相手の仕事の関係で大陸に渡る。パリでは作家のフォード・マドックス・フォードと関係を持ったが、これが彼女の創作活動の大きなターニングポイントとなった。フォードの主催する雑誌『トランスアトランティック・レビュー』に短編を掲載し(ジョイスやヘミングウェイも寄稿した雑誌)、1927年には彼の序文を添えた短編集を出版することができた。そして続いて四篇の小説も出版し、それなりの評価も得る。しかし、まもなく戦争の時代となってしまい、彼女の名前は忘れられてしまった。

1930年代にはロンドン近郊やイギリス南西部に戻っていた彼女だったが、離婚・再婚を繰り返し、さらには極貧状態の金銭的にも苦しい境遇が続いた。1949年には近所の人に暴力を振るったという罪で、ホロウェイ監獄に入れられるという経験さえしている。今回僕が読んだ「あいつらのジャズ」には、主人公のセリナがホロウェイ監獄に収監される場面が出てくるが、これは間違いなく当時の作者自身経験に基づいて描かれたものだろう。

ということはさらに、隣人たちから理解されず、逆に蔑まされ、アルコールに依存してしまったセリナのモデルは作者自身であった公算が高い。セリナの孤独と疎外感は、黒人かクレオールかという違いこそあれ、同様に西インド出身で、貧困と無理解の中に生きるジーン・リースの実人生がそのまま反映したものであるわけだ。作者の想像力だけではなく、実体験に裏付けられた表現・・・だからこの作品はあんなふうに、読者に対しとても説得力のある印象を残すのだろう。

* * * * *

1957年、BBCがジーン・リースの小説『Good Morning, Midnight』をラジオドラマ化しようとして彼女の消息をたずね、ここから彼女は「再発見」され、復活する。それまで彼女は死亡したのではないかと思われていたくらいだった。数奇な運命。そしてついに1966年、長く温めてきたアイデアであった小説『サルガッソーの広い海』を発表、この作品は二つの文学賞をも得て、ジーン・リースは広く認められる作家となった。その後1978年にはCBEに叙されるが、1979年、未完の自伝を残し84歳で亡くなった。

なんとも劇的な人生。運命に翻弄されてきた一人の女性。こういう人が書いた小説を、僕なら、ぜひとも読んでみたいと思う。

かなり名誉ある敗北

2006-09-30 00:21:23 | イギリスの小説
■ Iris Murdoch 『A Fairly Honourable Defeat』
(アイリス・マードック 『かなり名誉ある敗北』1970)

八月後半から九月にかけて、このブログで紹介していたとおりずっと『ジェーン・エア』を読む一方、実はもう一冊、同時進行で読んでいた小説があった・・・アイリス・マードックの『A Fairly Honourable Defeat』という作品。英語でタイトルを書いたのは、そう、やむなく英語で読んでいたから。僕は「翻訳で楽しむ英文学」という方針(というか、英語で読むと能力不足のせいでやたらに時間がかかるから)、なのだけれども、この本はどうしようもなかった。だって、翻訳がないのだから。

実際のところ、この本を読むのに超難儀したかといえば、おかげさまでそんなことはなかった。会話も多く、マードックらしい比較的読みやすい英語。もしレベル分類するとすれば、僕の能力だと:

①辞書がなくてもほぼ全体が理解できる
②わからない単語がないわけではないが、ストーリーを楽しむぶんには辞書は不要
③わからない単語が多すぎて、辞書を引かないと十分な理解ができない

という感じに分類できるけど、『かなり名誉ある敗北』はこのうちの②のレベルに該当する感じ。ちなみに今読んでいる本があるのだけど、これがレベル③。まさに苦戦中。いずれまたこの場で紹介したいとは思っているけれども、やっぱり時間がかかりそう。

『A Fairly Honourable Defeat』はどんなストーリーかというと、ロンドンで仲良く生活しているルパートとヒルダという中年の夫婦が登場する。そしてマードックの小説にはよく出てくるが、同性愛者も出てくる。サイモンとアクセルという二人で同棲関係にある。この二組のカップルに対して、ジュリアスという中年の、圧倒的な存在感を誇るキャラクターが現れ、こういう愛し合う人間関係が実はいかに脆弱であるかを示そうとして、それぞれのカップル内を仲違いさせようとする。基本的にはそんな話。

* * * * *

「Why is stealing wrong?」・・・つまり、なぜ盗むことは悪いことなのか。あなたらどう説明するか。というのも、この小説では、この問いが三回持ちかけられる。

まず、ルパートとヒルダの息子ピーターは、ときどきスーパーで万引きを働いているようなのだが、悪びれた様子がない。そのピーターに対し、タリス(ヒルダの妹モーガンの夫)は止めるよう彼を諭すのだが、逆にピーターから「盗みを働くことは何故悪いことなのか」と尋ねられると、うまく答えることができない。


‘... What does it mean to say stealing is wrong? I only take things from big shops. No one is hurt. What's wrong with that?’
‘It's wrong.’
‘But what does that mean?’
‘Oh hell,’ said Tallis. He felt very weary and aching with unsatisfied desire. Right and wrong were as shadowy as bats. ‘It's undignified.’
‘Suppose I reject dignity as a value?’
‘You should respect other people's property.’
‘I'm prepared to respect other people. But under capitalism these things are not the property of the people, they are property of big impersonal combines which are already making far too much money.’

「盗むことが悪いことっていうのは、どういう意味で言ってるの?僕は大きな店からしか物を取ってこないんだ。誰も傷つけたりしない。いったい何が悪いわけ?」
「それは悪いことなんだ」
「でもそれはどういう意味で?」
「ああ、だからさ」とタリスは言った。満たされない欲求から生じる強い疲労感と痛みを感じた。善と悪というのは、まるでこうもりみたいな、ぼんやりとしたものなのだ。「そういうことは品位を損ねる」
「品位になんて価値が感じられないとしたら?」
「他の人たちの所有物には敬意を払うべきだろう」
「僕は他の人たちには敬意を払うようにしている。でも資本主義のもとだと、こういう物なんて人々の所有物でもなんでもない。もう十分すぎるくらい儲けてしまっている、非人間的な大会社の所有物だよ」


このようなピーターに対して、タリスはうまく答えられなかったことがずっと気になった。、そして、別の機会にルパートに会った際、この問いに対する答えを彼にに尋ねる。このときルパートは財産所有権を持ち出して長たらしい説明をするが、必ずしも説得力のある説明ができたわけではなかった。さらにタリスはその後、ジュリアスにも同じ質問をして、「盗み」についての答えを得ようとする:


‘Why is stealing wrong?'
‘It's a tautology. “Steal”is a concept with a built-in pejorative significance. So to say that stealing is wrong is simply to say that what wrong is wrong. It isn't a meaningful statement. It's empty.'

「なぜ盗むことは悪いことなのか」
「それはトートロジーだよ。『盗む』という概念には元から悪い意味合いが込みこまれている。だから、盗むことは悪いこと、と言うことは単に、悪いことは悪いこと、と言うことに等しい。とくに意味のある表現ではないんだよ。中身のない表現さ」


あなたはジュリアスのこの説明で納得するだろうか。僕がピーターだったらしないと思う。もっとも、ジュリアスの言うことも、そしてルパートの言うことも決して間違ってはいない。でも、より実際的なこと、つまり、スーパーで万引きをする少年に対して、なぜいけないのか、ということを納得させるような説明にはなっていない。むしろ、善悪について「こうもりのようにぼんやりとしている」ということを感じるタリスこそ、一番真実に近いところにいるように思える。

* * * * *

当たり前だが、この小説は万引きの善悪を問うことが主題ではない。上のエピソードは、善悪そのものの性質について考えるように読者を仕向ける一例なのだ。このような倫理的な、というか、善悪にまつわるような読者への暗示的な問いかけは、この小説の他の場面も含めて、さまざまな形でマードックの小説に頻出する。マードックはなんといっても、オクスフォードのセント・アンカレッジにて哲学の先生をしていたのだ。こういう道徳的・倫理的な問いかけは、むしろ得意分野だったとも言える。

ただ読んでおもしろかった、という本もいいけど、そういうストーリー的な楽しみにプラスして、ちょっと堅苦しくなってしまうけれども、何らかの問題意識のある本が僕はやっぱり好きだと思う。ゴールディングの作品なんかもこういうところは似ていて、原罪とか、悪(evil)とかを探るようなフィクションを書く。こんなテーマを扱う両作家が、スタートするアプローチこそ違えど、最終的に寓話的なニュアンスが出てしまうところも面白い。今回の『かなり名誉ある敗北』でも、例えばルパートとヒルダの家にあるプールなんかは、なかなか意味深な存在だ(どうやら、マードックの作品では、「水」とか「溺れる」というのが象徴的に扱われているのが読み取れる)。

アイリス・マードックは比較的翻訳されてきたほうだが、それでも未翻訳の作品がいくつもある。今回はその小説群にチャレンジする初めて試みだったが、充実した読書になった。ということで、今読んでいる本が一段落したら、次もまたどれか選んでペーパーバックを読んでみたくなった。いいきっかけになった。

ジェーン・エア(その4)

2006-09-26 15:03:49 | イギリスの小説
ジェーンのマーシュ・エンド時代とロチェスターとの再会(第28章から最後まで)

* * * * *

「この方の腕には指も爪もないのだ」と彼は上着の下から、切断した残りの部分を引き出して私に見せながら言った。「まるで木の切り株だ――気味の悪い格好だ!そう思わないかね、ジェーン?」(下巻p402)

* * * * *

今日はちょっとぜんぜん関係ないことを、長々と始めに書いてしまう・・・。

どういう機会でもいいのだけれど、自己紹介のようなアンケートには、「好きな食べ物は?」とか「好きな音楽は?」みたいな質問に答えるというものがよくある。「好きな○○○」に、その人の個性が見えてくるからだろう。もちろん、逆に「嫌いな○○○」にも個性は現れると思う。

そんなとき、僕は「じゃあ、なんでそれが好きなんですか」というふうに質問したくなる。感覚や感性で好きなのだろうか。きっと「好きな食べ物」だったら、そんなふうな説明のしようしかない。僕も「どうしてコーヒーが好きなんですか」って聞かれても、最終的には「おいしいから」としか答えようがない気がする。(ただし僕にとってコーヒーは、朝に飲まないと頭が痛くなるという、実際的な問題もあったりする。)

でも、好きな音楽・絵画・映画・小説、等々だったら、もうちょっと具体的な説明が施せると思う。もちろん、こういう芸術だって、感性や直感で好き嫌いを判断していいのだが、僕が思うに、こういう好き嫌いであっても、実際のところ言葉による理由付けが可能なはず。「ターナーの絵は好きじゃない」「どうして?」「だって好きじゃないから」・・・という人であっても、もう一方にある誰かの「好きな絵」と比較すれば、なんでターナーが嫌いなのか、その具体的な理由が見えてくるだろう。それは、あまりにも対象が曖昧模糊と描かれていることかもしれないし、色使いが変だからかもしれない。でもいずれにしても、ちゃんと言葉で説明しうる理由があるように思える。

僕はかつての日記に「ブラームスの交響曲第二番には違和感を覚える」と書いたことがある。要するに、なんだかあんまり好きになれないぞ、ということだ。そして、その理由をこう説明している:


ブラームスはなんでこんなに単純にオプティミスティックなのだろう。
これがその時の彼の心境だろうか。第1番が成功して喜びの絶頂なのだろうか。
もしそうなら、それでもいい。でも僕の気分とはぜんぜんマッチしない。
そんな純粋に、いっしょに楽観的になれる気分になんかなれない。
全く悩みの除去された、100%の楽観なんてありえない。
言っとくけど僕はぜんぜん悲観主義者ではない。いつもお気楽に過ごしている。
でも言いたい。誰でも何かしらの悩みや不安を持って生きているはずだよね、と。
そういうにみんな、どこかさいなまされるからこそ、
本当にうれしいときに表情が生き生きとしてくる。
こういう悩みや不安といった影の部分を描いてほしかった。
そうしないから、あの最後のファンファーレが本物に聞えてこない。

さらにつけ加えれば、この曲にはアイロニーがない。率直すぎる。
アイロニカルになってこの音楽自らを振りかえろうとか、
ものごとを客観的に見ようという態度がない。
だから、このオプティミズムを提示されても、
説得力なく主観的主張を押し付けるばかりに思えてくる。
さらに終楽章がさらっと終わってしまうこともあり、
聴き手はその主張を内省する時間も与えられない。


長々と引用してしまったりして、もしかして真面目に読んで下さっているような方がいたらごめんなさい。これは今から5年前、2001年の12月11日にブラームスのこの交響曲のコンサートを聴いたときに僕が感じたこと。なんだか詩みたいに改行しているが、これは当時自分のウェブサイトに載せるにあたり、読みやすくするためにこのような体裁にしたため。そして、五年前の僕は次のように続けている:


およそ現代と呼ばれる時代に生きている人たちならば、
この曲が今生きている世界を正確に反映しているとはいえないだろう。
みんな個々がそれぞれ何かしらのストレスやら、疲れやら、悩みやらを抱えている。
そして社会や世界もまた、絶えない争い、環境のこと、貧しいこと、などなど、
問題を山ほど抱えている。
この曲が描くような楽観的で輝かしい将来は、はっきり言って、ない。
この曲が書かれた19世紀にはあったのかもしれない。
でも今はない。だから「現代的な」曲とは言えない。
僕には「現代」を反映していない、時代遅れの音楽に思えてしまう。


この、今になって読んでみると、なんて生意気なことを書いているのだろうと思ってしまうような、ちょっと赤面するコメントだが(だって、あのブラームスにいちゃもんをつけているのだから!)、でも、ここに書いた気持ちは今でも変わっていない。ブラームスの交響曲第二番に対する僕の「好き嫌い」は、五年経った今でも同じように感じている。あの曲には「現代性」が欠けている感じがする。現在を生きる人間に訴えかけるような内容が、僕にはもの足りなく思える。

* * * * *

そして、僕はこういう「現代性」みたいなものを読書にも明らかに求めていると思う。だって当たり前ではないか。現代に通じる内容でなければ、その本と僕との間に、「理解」や「共感」は起こりえないのだから。もちろん、この「現代性」は程度の問題で、昔の小説でも優れているものもあるし、現代に書かれた小説でもぜんぜん訴えかけてこないような、つまらない本もある。

今回ブックオフで210円で出会い、こうして読んでみた『ジェーン・エア』だったが、僕はすごく現代性を感じた。読んでみて、なかなか面白かった。なんと言っても、シャーロット・ブロンテが当時の時代思潮におもねっていないところがいい。もしかすると、ブロンテは『ジェーン・エア』を書いたとき、かなりひねくれていたんじゃないかと想像してしまう。僕にはこの小説、「倒錯」という言葉が似合うと思うから。

読めば誰でも気がつくのだが、主人公のジェーンとロチェスターは、どちらも美男美女ではない。ふつう、結婚にいたるおとぎ話は、美男美女であるべきなのだ。でも、ジェーンもロチェスターも「容姿は大したことありません、むしろ良くないくらいです」という設定になっている。これはブロンテがひねくれた気分だったとか、そういう理由で、わざと伝統をあべこべにして書いたということだ。

それに、よくあるおとぎ話だと、醜い姿に魔法で変えられていた主人公は、ヒロインの愛を得て魔法を解かれ、かっこいい姿に変身する・・・みたいなパターンだが、この『ジェーン・エア』だとどうだろう。ロチェスターはジェーンと再会するとき、以前よりもっと醜い姿、つまり盲目となり、片方の腕を切断してしまうという不具になった、より悪い方向に変身してしまっている。

それに前回も書いたけど、この小説では、ジェーンがロチェスターを助ける。本来なら、王子様がお姫様を助けなければならない。でもこの小説では逆なのだ。ヒーローはヒロインに助けられる。(こういうのをアンチ・ヒーローとかアンチ・ヒロインとか呼ぶのだろうか・・・文芸批評用語に詳しい方、説明を乞う。)ブロンテは意識してか無意識的にか、ジェーンがロチェスターと再会する場面で、またもや、彼女の肩に彼を助けさせるという、初めての出会いのときと同じような情景を反復させている:


それから彼は手を伸ばして案内を求めた。わたしは、そのいとしい手をとって、ちょっと唇に押し当ててから私の肩にまわした。わたしは彼よりもずっと背が低いので、彼の案内人として、杖として、役に立った。(下巻p427)


もちろん、一方で『ジェーン・エア』は当時の伝統的な小説作法の枠にしっかりと収まっているという事実はある。19世紀以前の小説にありがちな、幼少時から描き出される自伝的スタイル。結婚をめぐるテーマ。それに、おどろどろしいゴシックノベルの色濃い影響。でも、この手の従来的な枠組みを忘れさせるような、新鮮な倒錯的小説設定がある。

* * * * *

虐げられていたお姫様を、王子様が現れて苦闘の末助け出し、二人は幸せな結婚を得る・・・そういう絵に描いたようなハッピーエンドを求める人を、別に僕は否定しない。僕自身、そういうストーリーを楽しむことだってあるのだから。でも、それって、普段の生活を鑑みたとき、まさに夢物語。現実逃避にしかならない。現代の実人生は、もっと複雑で、単純に描き出せるものではない。もっともっと深みがある。だからこそ、『ジェーン・エア』みたいなユニークな小説が、僕を含めて多くの人から、発表から150年以上経過した現在でも、人気があるのだと思う。

人形の家

2006-09-24 01:15:46 | イギリスの小説
■「人形の家」 『マンスフィールド短篇集 幸福・園遊会』(崎山正毅・伊澤龍雄訳、岩波文庫1969)
■「人形の家」 『マンスフィールド短篇集』(西崎憲編訳、ちくま文庫2002)


「人形の家」はキャサリン・マンスフィールドの残した数多くの短編小説のひとつ。読んでみるとわかる・・・僕だとたった10分ほどで読み終える、そんなごく短いストーリー。文庫本のページ数でも14、5ページほど。電車に乗って読み出しても、目的に到着するだいぶ以前に読み終わってしまう、そんな一篇。

あっさりと、気軽に読めていいですよ、ぜひどうぞ・・・という感じの、さらりとした紹介のしかたもあるだろう。でも、僕はそうではなくて、もっと力をこめて言いたい。なんという、深みに富んだ、印象に残る作品なのだろう。それも、最後の場面で登場人物により発せられるたった一言、

「ちっちゃなランプがあった」(西崎訳)

このセリフひとつだけで、あの深い印象は生まれてくるのだから!

ストーリーはなんてことはない。キザイアという名の少女が主人公。彼女は三人姉妹の真ん中なのだが、彼女たちのもとに知り合いの老婦人から、人形遊びをするための家(ドールハウス)が届いた。大きくて、精巧に作られた本格的な人形のおうち。彼女たちは大変に喜び、学校の友達を家に連れてきて自慢する。その学校には、出自が低い身分ということで、周囲からのけものにされているケルヴィーという姉妹がいた。ところがある日、キザイアは相手にしてはいけないはずのケルヴィー姉妹を自宅に招き入れ、彼女たちにドールハウスを見せてしまう。

「ちっちゃなランプがあった」という一言は、このドールハウスの中にあるランプを見たことを、ケルヴィー姉妹の下の女の子のほうが語るセリフ。ただそれだけなのだ。ただそれだけなのに、僕は読んだとき、はっとしてしまった。

・・・こんなふうにして、僕はあらすじを全部書いてしまった。「これじゃあ、ネタバレ。もはや読んでも意味がないじゃん!」などと、そこのあなた、思ってはいないだろうか。大丈夫、ご心配なく。この短編「人形の家」の、とくにあの最後の一言に至るまでの、微妙で繊細で、観察力に富んだマンスフィールドの優れた叙述の本質を、僕はあなたに対して、こんな説明ではぜんぜん伝えられていない自信があるから!(ここの、「ぜんぜん伝えられていない自信がある」というところを、僕は太字で書きたい。)

* * * * *

他にも、そのドールハウスの中に置かれていた、

「お父さんとお母さんの人形は、気を失った人のように、手足を広げ、強ばった姿勢で客間に倒れていた」

という描写も印象的だ。この辺りの意味深さは、マンスフィールドの短編をいろいろ読むと、もうちょっと関連性が浮かびあがってくるような気がする。

* * * * *

最近いろいろ影響されてマンスフィールドを読み始めたが、この人は結構すごいかもしれない。とくに良作と評される短編を読むと思う・・・こんなふうに人間の内面に迫れる作家は、稀にしかいないということを。

「今朝はなんて素敵な朝・・・こんな風景どこかで・・・そういえば花を買ってこなくては・・・」こんな具合(違ったかな?)に、「意識の流れ」と称される方法で言葉による心理描写をする人たちがいるが、マンスフィールドはこれとはぜんぜん違うアプローチ。逆に、登場人物が、内心で思っていることをあれこれ言葉にして書いたりしない。むしろ客観的な描写が淡々と続く。それなのに、読者は知らず知らずのうちに物語の内面、そして人間の何か深いところへとはまり込んでいく。これは、いったいどうして?

その答えはプロに調べていただくこととして、僕はただただ感心しながらページをめくっていくだけ。長く長く物語を書き連ねれば、深い余韻とか、感動とかが得られるわけではないということだ。キャサリン・マンスフィールドという女性による、たったこれだけの分量にまとめられたささやかなエピソードが、あたかも水に青いインクをたらしたときのような、深くて透明に、じんわりと広がるような印象を僕に残す。

そして、こういう機会にまた再認識するのだ・・・読書っておもしろい。そして奥が深い。僕がしているのは、ただ紙に印刷された文字の羅列を目で追うことだけ。でもそれだけのことなのに、こういう得がたい経験ができてしまうのだから。

ジェーン・エア(その3)

2006-09-18 14:04:12 | イギリスの小説
続いて今回は、ジェーンのソーンフィールド時代(第11章から第27章まで)

* * * * *

「あのような身分の殿方が、家庭教師と結婚するなんて、例のないことですからね」(下巻p55)

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ここまでの部分は結局『ジェーン・エア』の前奏曲にすぎなかった。ジェーンがソーンフィールドにガヴァネス(家庭教師)として赴き、ロチェスターと出会うところから、この小説の本筋がやっと始まる。お待たせしました、という感じ。

19世紀以来のイギリス小説、とくに女性を主人公として扱う小説は、いかに結婚するか、がメインテーマになっているものが多い。僕の好きなジェイン・オースティンの小説もみんなそういう主題だし、同じ時期に発表されたサッカレーの『虚栄の市』もまたそう。当時の中産階級以上の女性は、職業に就いたり、金銭を稼いだりすることが是とされなかったから、生きていくには結婚するしかなかった。唯一認められていた職業はガヴァネスだが、これも積極的にガヴァネスとしてがんばろうなんて人はいなくて、ジェーンもそうだが、生活費を稼ぐためにやむを得ずガヴァネスになるという具合。だから、ソーンフィールドの館を訪れたイングラム未亡人が、「家庭教師連中なんかとは付き合いたくない」みたいな、軽蔑めいたことをあからさまに言うが、こういう事情を考えれば別に違和感はない。

以前のブログで見てきたけれども、ジェーンという人は、はっきりと物事を主張してしまうという、ヴィクトリア期の一般的な価値観から逸脱した、驚くべき特異なキャラクター。だから、ロチェスター氏と恋愛に陥るまでの関係も、ふつうに、素直に描かれるはずがない。というか、ああいう感じの女の子が平凡な恋愛をするはずがない・・・。きっと「ジェーン・エア」のいろいろな研究者がすでに指摘しているのだろうと思うが、彼ら二人が初めて出会う場面にこそ、この二人の奇異な関係が、極めて象徴的に描かれている。引用中の「未知の人」とはロチェスター、「わたし」はもちろんジェーン。

この未知の人が、わたしが言葉をかけたとき、機嫌よくほほえみかけさえしたら――わたしの助力したいという申し出を愉快そうに感謝しながら巧みに辞退したのであったら、わたしは、改めて問いかける義務なぞ感じないで、そのまま、さっさと行ってしまったであろう。けれども、この旅人の、しかめっつらと、ごつごつした感じとが、わたしの気持を気安くした。彼が行ってくれと手をふったときも、なおまだわたしは立ちどまったまま言った――「あなたが馬にお乗りになれるところを見届けるまでは、こんな寂しい小径に、こんなに遅く、あなたをほうっておくことはできないように存じます」(上巻p203)

そしてこのあと、ジェーンはけがをしたロチェスターの腕を肩にかけながら、彼が馬に乗るのを助けるのだ。とっても、とっても重要なポイントだと思うのだけれども、この二人の出会いの場面からもうすでに、ジェーンのほうが、ロチェスターを助けている。女性が男性を助けている。なんて斬新な場面なんだろう。当時の、つまり、ヴィクトリア期には普通だった「女性を助ける男性」という価値観を見事にひっくり返してしまった。シャーロット・ブロンテは『ジェーン・エア』がちゃんと売れるように、わざと過激な内容にしたのだろうか。

というわけで、こういう出会いから始まった二人であったから、このあともずっと「ジェーンの助けがないとダメなロチェスター」という力関係が維持されてしまう。放火で死にそうになったロチェスターを助けるのもジェーンだ。そしてこの小説を読み終わった方ならわかるのだけれども、二人の出会いの最初の場面にしてすでに、二人の最終的な結婚の形態が暗示されてしまう。

* * * * *

ヴィクトリア期は往々にして「偽善的」という言葉が似合うと思う。きれいごとばかりが述べられる。性に関することがら一切タブー。そんなことは世の中には存在しないかのように振舞わなくてはならない。でも、こうした抑圧された環境で、非常に素直ではない鬱屈したかたちで、こうした性的な事柄が無意識的に表現されていたりする。こういうのは深読みかもしれないが、当時の読者もまた意識的/無意識的に嗅ぎ取っていたのではないかと僕は想像する。

「わたしは自分のベッドに戻ったけれど、ちっとも眠る気にはなれなかった。ほのぼのと戸外が白みはじめるまで、かろやかな、しかも波立ち騒ぐ海の上にゆられていた。そこでは苦悩の荒波が、歓喜の大波の底でのたうっていた」(上巻p277)

「愛撫の代わりには渋面を見せつけられ、手を握られる代わりに腕をつねられ、頬に接吻される代わりに耳たぶをぎゅっと引っぱられたりした。これはわたしにとって、まことに申し分なかった。いまのところは、この手荒い愛の表現のほうが、もっと優しい愛撫よりも、はるかにわたしの気に入っていた」(下巻p74)

こういう感じところに、なんともいやらしい何かの気配を嗅ぎつけてしまうのは、僕だけだろうか。ということは、僕自身の意識に問題があるということかな(妙に敏感?)・・・ということで恥ずかしい思いをさらけだしながら、今回はおしまい。

次は『ジェーン・エア』読書シリーズの最終回。

ジェーン・エア(その2)

2006-09-04 16:41:59 | イギリスの小説
今回は、ジェーンのローウッド学校時代。(第五章から第十章)

イギリスの小説には、「寄宿学校パターン」とでも名づけたくなるような、一連のパターンがある。つまり、10歳くらいから18歳くらいまでの主人公が、パブリックスクールとか、その手の学校に預けられ、その学校であれやこれやを体験するというストーリーのこと。最近の本で言えば、要するに「ハリーポッター」もこの手のジャンルに含まれるだろう。ああいうふうに、寄宿学校が舞台になっているもののこと。

誰かが「ワーテルローの勝利はイートン校のグラウンドで獲得された」とかいう言葉を残しているくらい、こういう学校秩序はイギリス的なものだと思うが、僕にはなぜか、19世紀のイギリスの学校制度にあまりいい印象がない。読んだ本の印象が偏っているせいだろうか・・・どうもこういう寄宿学校には、暗いイメージが伴ってしまう。考えられる理由としては、ディケンズを読んだせいかもしれない。ディケンズに出てくる学校は、なんだかちょっと暗くて変な印象がいつも残った。(←このことも誰かが指摘していたよなあ、と思って、調べてみたらジョージ・オーウェルだった・・・彼の「チャールズ・ディケンズ」というエッセイをご参照)

でもって、ジェーン・エアの通うことになった「ローウッド・インスティテューション」もまた、僕のこういう期待を裏切らない、暗くて非常によろしくない学校だった。19世紀イギリスの学園ドラマの定番は:

・ご飯がまずい
・先生や生徒からいじめられる
・寒い環境とくだらない規律

という三本立てなのだが、『ジェーン・エア』のローウッド校も見事にこの三拍子がそろっている。こんな厳しい環境をがんばって耐え抜く、けなげなジェーン、という構図ができあがるわけだ。家では継母にいじめられ(『ジェーン・エア』では伯母さんだが)、学校では耐え抜く・・・どれも、いずれお姫様になるための通過儀礼。シンデレラストーリーのための典型的なパターン。(ただし僕はジェーンが本当にお姫様になれるのか、まだ読み終わっていないのでわからないが。)

* * * * *

『ジェーン・エア』のこの場面の読みどころは、個人的にはヘレン・バーンズというキャラクターだと思う。彼女はこの学校でのジェーンの友人。この女の子が(きっと14歳くらいだと思うが)、これまたかなり大人びたことを言う少女なのだ。とてもこの年齢とは思えない、悟りの境地とも言うべき人生観。彼女のセリフから名言集を作ることができる。

「憎しみに打ち勝つ最上のものは暴力ではないわ。また、傷を癒す最上のものは復讐ではないことよ」(p99)
(こういうセリフを、昨今の世界の紛争当事者にも聞かせてあげるべきだろう。)

「人に恨みを抱いたり、まちがった仕打ちを、いつまでも忘れずにすごすにしては、この人生はあまりにも短すぎるような気がするのよ」(p100)
(何かムカつくことがあったら、僕もまたこのヘレンのセリフを思い出すことにしたい。)

相変わらず当時の女性としては信じられないくらい反抗的なジェーンなのだが、こういうヘレンから「まあまあ、我慢しなさい」という感じで諭される。なんとも、ませた女の子だ。

しかしジェーンの親友であるヘレンも、やがて病死してしまう。そしてへレンがいなくなると、突然、小説内の時計は急速に進みだし、一気にジェーンは大人になってしまう。シャーロット・ブロンテもこのあたりで苦労物語を切り上げて、本題・・・つまり王子様との出会い・・・に話を持っていかなくてはいけないと気付いたようだ。ローウッド校時代はこうして幕を閉じる。

* * * * *

最後に二点だけ気付いたことを。

①「不健康、あるいは病的な感じ」

前回の『ジェーン・エア』のブログでも指摘したが、今回もちょっと「病的な」ニュアンスに気がついた。ジェーンは冬にローウッド校に入れられて、寒いし、ご飯は超まずいし・・・みたいな経験をする。季節は変わり、春、そして夏が訪れる。緑の森と草原に囲まれたローウッド校、気持ちの良い季節・・・ところが、その一方でこの時期から学校全体にチフスが流行するのだ。ここでは、健康的な季節と環境なのに、チフスという不健康さが組み合わせれている。素直に健康的な場面をシャーロット・ブロンテが創造していない点が僕は気になった。

②「私」という語り手

この『ジェーン・エア』は一人称の主人公が、自分の人生を語るというパターン。「リード夫人がいけないんです、私は間違ってません」とか、「ブロックルハーストさんが誤解しているんです、私は嘘をついてません」というようなジェーンの申し開きを、僕たち読者はずっと読み続けている。そこで、問題は(僕が素直ではないせいか)、21世紀の、もはやナイーブではない読者にとっては、こういう「私は正しい」「私は間違っていない」という連呼が、逆にちょっと耳障りというか、嘘っぽいというか、とにかく素直に受け止められない感じになってくること。この人、ちょっと自分を正当化しようとムキになっていないか・・・と思ってしまったりする。

次回は、やっとロチェスター氏が登場予定。

ジェーン・エア(その1)

2006-08-25 14:52:03 | イギリスの小説
これだけ偉そうにイギリスの小説をあれこれ言っておきながら、いまさら、という感じもするけれども、シャーロット・ブロンテの代表作『ジェーン・エア』を現在読んでいる。今回読み始めたきっかけは・・・ブックオフで文庫本の上下巻が各一冊105円で売っていたから。なんとも散文的な、感傷性及びロマンチックさの全く欠如した『ジェーン・エア』との出会い。全国のシャーロット・ブロンテファンのみなさまごめんなさい。

どんなストーリーかはうすうす知っているが(さすがにこれだけイギリス文学に接していると、情報が漏れてくる)、齢三十二にして初めて読むことになった。そして実際に読み始めたら、実はこの本、かなりツッコミどころ満載の小説だということに気がついた。まだ読み終わっていなくて途中なのだけれども、気がついたことを忘れないうちに書き出していきたいと思う。今回はその第一回。

* * * * *

■第一章から第四章まで(少女のジェーン・エアのゲーツヘッド邸時代)

この部分は、まあ要するに、両親を亡くしていたジェーンは、母親の兄、つまり伯父であるリード家に預けられていたが、その伯父もまた既に亡くなり、血のつながっていないリード家の他の人々(リード夫人とその三人の子供)にいじめられながら暮らしていくという場面。たしか、ディケンズにもこういう小説があったよなあと思った。子供の頃に苦労する話。いや、ディケンズに限らない。血のつながらない家族にいじめられるのは、「シンデレラ」も同じ。典型的な物語の始まりかた。果たして、ジェーンはシンデレラのようにお姫様になれるのだろうか。

ところが、このシンデレラはおとぎ話とはぜんぜん違う態度を取り出したから、読んでてびっくりしてしまった。継母たちに虐げられて、ひたすら我慢するのではないのだ。なんとガンガン反抗する。最終的には、なんとこんなことまで言ってのけてしまう。ジェーンはリード夫人に対してこう言い切る:

「わたしはあなたがわたしの血縁でないことを感謝します。わたしは一生涯、あなたをおば様とは呼びません。わたしが大人になったら、二度とあなたを訪ねるようなことはしません。わたしがあなたを好いていたかどうか、あなたがわたしをどう扱ったかどうかを訊かれた場合には、あなたのことなぞ考えただけでも気色が悪くなる、わたしをひどく残酷な目に遭わせたと言ってやります」(上巻pp58-59)

続いて、

「・・・あなたは世間では善良な夫人として通っていますが、ほんとは悪い、薄情な人です。あなたこそ、嘘つきだわ!」(上巻p59)

とっても過激だ。ジェーンはこのとき10歳。身寄りがなくて、衣食住をすべてリード家に依存して暮らしている。つまりリード夫人の庇護の下、生きていくことができる状態なのだ。それなのに、その保護者にここまで言っていいのだろうか・・・と、ヴィクトリア朝の人々は感じるはず。

当時は体制維持に熱心な、超保守的な時代。女性で(男性に対して地位が圧倒的に低い)かつ、子供(一人前とはみなされない・・・これは現代でも同じ。日本のように子供がもてはやされない)という、社会的地位の低いジェーンが、こういう不届きな反発を行うことは、時代的には絶対に容認できないことなのだ。こういう主張を認めていたら、体制維持ができないのだから。現代人の僕が読んでも、おおっ!と思うくらいだから、当時の人々には衝撃だったろう。危険な本とみなされたに違いない。でも、逆にこれが、この本の魅力でもある。何事も万事順調で、予定調和の物語では、読者は眠ってしまうのだから。

* * * * *

詳しい人がいたら教えてもらいたいのだが(それに、すでに誰かがエッセイにしているとおもうのだけれども)、『ジェーン・エア』は、心理学的に分析するとおもしろそうな気がする。冒頭のたった四章を読んだだけで、以下の箇所が気になった。

①自分のことを、愛想のない、かわいげのない、素直ではない子供と感じていること
→こういう劣等感は克服されるのか。行く末はシンデレラのようになれるのか。

②読書をする場面や、実際の風景の描写で、ことさら荒涼さが強調されていること
→場面設定が冬ということで、ジェーンの置かれた状況を暗示しているかのよう。読み進むうちに、もっと温かく、明るい季節が来るのだろうか。

③痛みや血の描写。暴力的な箇所。
→こういう暴力や血が大好きな作家もいる(無意識的に)。シャーロット・ブロンテはどうだろう?

④赤い部屋に閉じ込められ、怪しげな光を目撃する。
→怪しい場所に幽閉されて、お化けを見る・・・ゴシック小説の典型的パターン。この小説は、これからも、こんなふうにゴシック小説仕立てで展開していくのだろうか。

なんだか、この小説、ちょっと「病んでる」と思うのだけど。作者が病んでるから?こんなふうに感じるのは僕だけ?いずれにしても、こういう、なんとも病的な部分は、今後どのようになっていくのだろうか。そういう興味で読み続けていく予定。

※使用している版:大久保康雄訳、新潮文庫1991

ドラブルを語るという暴挙

2006-08-13 20:27:28 | イギリスの小説
■マーガレット・ドラブル『滝』(鈴木健三訳、晶文社1974)

今までに僕が読んだ(と言ってもたった三冊だが)、マーガレット・ドラブルの小説の主人公は:

1.若い女性(20歳代)
2.どちらかというと、美貌の外見を持つ
3.才能に恵まれていて、専門職や知的職業に就く能力がある
4.中流階級(ミドルクラス)ないしは、アッパーミドルクラス出身

という点で共通している。そして恋愛の問題、つまり愛している相手とは不倫関係だったり、結婚という絆を持ち得ない相手だったりして、あれこれ悩んでしまうというストーリーも共通している。こういう抽出をしてしまうと、一歩間違えると、ちょっと鼻につくような「イヤな感じ」の女性主人公像ができあがってしまいそうだ。実際、ドラブルの小説が嫌いだという人がいたら、こんなふうに美しくて家柄が良くてあれこれ恵まれているのに、そんな人の悩みなんか聞きたくない!みたいな点に発端がありそうな気がする。

今回読んでみた『滝』の主人公、ジェイン・グレイは28歳。自分は美しいなんて、はっきり書いてはいないけれど、自分の容姿に悩んでいる様子はない。そして、ジェインには詩作の才能があり、既に詩集を出版したこともある。彼女の出自については、こう書いている:

「わたしの父も母も、ジェイン・オースティンならすごく容易に書き上げたと思われる、いわゆる中流階級の出身だった。母の家庭のほうがまあ繁栄していて、彼女の兄の一人は法廷弁護士で、もう一人は国教会の牧師だった。一方父の側は、祖父の代にちょっとした災難があったので、三人の息子はいくぶん―といっても上品な暮らしをしてはいたが―貧乏な雰囲気の中で育てられた。父は三人兄弟の末っ子で、最終はサセックスのパブリック・スクールのための私立小学校の校長だった」

個人的には「ジェイン・オースティンならすごく容易に書き上げたと思われる」というたとえが何ともわかりやすい。とにかく、こういう環境の下で、ジェインの母は父より家柄が良いことをいつも知らせたがるし、父のほうは父のほうで、自分の家柄は本来ならもっと良いはずだったということに言及するのだった。(こんな両親にジェインはほとほとうんざりしている。)

ということで、上に書いた1から4までのポイントがこの小説『滝』にもぴったり当てはまるが、これって、マンガやアニメのヒロインの条件としても該当しそうな気がする。伝統的な、いわゆる「ヒロイン」像にかなり合致するのではないか。もしかするとドラブルの作家としての人気の秘訣は、こういうお姫様像にあるのかもしれない。良い家柄のお嬢様が恋愛についてあれこれ悩み出す。僕たちはそういう「あれこれ」に付き合わされるわけだ。

しかし、マーガレット・ドラブルによる現代版お姫様苦悩物語は、単なるラブストーリーでは終わらない。「文学」を称するに値するドラブルのクリエイションがちゃんと存在する。

第一に、主人公の苦悩の描き方。とくに、人を好きになってしまったときの、苦しい感情の描写。これはうまい。どの作品を読んでも上手だなと思う。『碾臼』でのステイシーもそうだし、『滝』のジェインの悩み方も(彼女は半端ではないくらい悩みまくるが)、個人的にはなかなか共感できる。

第二に、人間関係の機微に敏感なところ。例えば、上に引用したような、イギリスならではの階級社会の問題にはどの小説でも敏感だ。そしてこの階級意識がまた恋愛と絡んできて主人公を苦悩させる一因にもなる。(主人公自身より階級がちょっと下の相手のことを愛してしまうパターンが多いような気がする・・・そして、主人公はその自分の「いい出自」を負担に感じてしまったりする。)

第三に、現代的なストーリーの解決方法。つまり、おとぎ話のようにハッピーエンドで終わったりしない。これは作品によって違うが、じんわりとした印象を残すようにして小説は幕を閉じる。もっとはっきり言ってしまえば、主人公は愛する人とハッピーになってめでたしめでたし、にはならないということ。しかし一方で、もう一方のドラマチックな展開、つまり悲劇にもなったりはしない。『滝』ではジェインの愛するジェイムズは交通事故で死んでしまうという展開もできたはずだが、生き延び、ハッピーエンドでもなく悲劇でもない、オールタナティヴな結末を迎えることになる。

初期の作品たった三冊(『碾臼』『ギャリックの年』そしてこの『滝』)でドラブルを語るのはやはり暴挙と思われるので、これに引き続き『夏の鳥かご』『黄金の王国』『黄金のエルサレム』『氷河時代』『針の眼』を読んだ上で最終的な意見をまとめてみたいと思う・・・というのも、残念ながら翻訳があるのはこれだけ。あとはがんばって英語で読むしかない。

アイリス・マードックの小説『鐘』

2006-08-01 14:09:03 | イギリスの小説
■アイリス・マードック『鐘』(丸谷才一訳、集英社文庫1977)

よくできた小説というのは、どうやら小説技法の教科書みたいな感じになる。登場人物の描きかた、よく考えられたストーリー展開、次はどうなるんだろうと読者をそそのかせるサスペンス、意味深な象徴的技法、ラブロマンス・・・などなど。こんな具合の一読してすぐわかる技法もあるし、隠されたテクニック、つまり、意識して読まないと気がつかないような作家の細工もいろいろある。それは、小説内の天候や時間配分とか、さりげなく他の小説や詩に言及してみるテクニック(インターテクスチュアリティー)とか。

アイリス・マードックの『鐘』は、こういう意味でとてもよくできている。純粋に読み物として楽しめる上に、細かいところまで上手くできている小説だなあと感心してしまう。フィクションの技法を勉強する人は、こういう小説を分析対象にするとおもしろいと思うのだけれども、どうだろう。

おせっかいながら、こういう要素をちょっと指摘してしまうと、『鐘』の第一章で、主人公の若い女性、ドーラ・グリーンフィールドは夫の待っているインバー修道院へいやいや向かうことになる。インバーへ向かう列車の客室の中、そろそろインバーへの最寄り駅に着くかという頃になって、彼女は客室内に蝶を見つけて捕まえる。手の中でつぶさないように細心の注意を払う一方で、列車は駅に到着し、ドーラは慌てて降りる。ホームには彼女の恐れる夫ポールが待っていた。ドーラはポールとぎこちなく再会する。しかし、ドーラは慌てて列車から降りたので、手荷物を車内に置き忘れてしまったのだった。その際、ポールは彼女の手を見て次のように語る:


‘Why are you holding your hands like that?' he said to Dora.‘Are you praying, or what?'
Dora had forgotten about the butterfly. She opened her hands now, holding the wrists together and opening the palms like a flower. The brilliantly coloured butterfly emerged. It circled round them for a moment and then fluttered across the sunlit platform and flew away into the distance. There was a moment's surprised silence.

「どうして、手をそんふうにしてるんだ?」と彼はドーラに言った。「お祈りか何か、してるのかい?」
ドーラは蝶のことを忘れていた。彼女は、手首をあわせたまま両手をあけ、双の掌を花のように開いた。派手な色の蝶が姿をあらわす。それはちょっとのあいだ、両手のまわりをまわってから、日の光に輝いているプラットフォームをひらひらと横切り、遠くへ飛び去った。驚きに満ちた一瞬の沈黙があった。(p.30)


偉そうに解説してしまうと、まず、蝶というのはもろい存在だから、手の中でつぶしてしまわないように、やさしく持っていてあげないといけない。しかし一方で、手をしっかり合わせていないと蝶は逃げてしまう。だから、蝶を持ち続けるというのは、かなり気を遣う緊張する作業だといえる。小説『鐘』ではドーラはこの場面で、嫌な夫ポールと再会するという、かなり緊張する場面を迎えている。この再会の緊張感と、蝶を捕まえているというもう一方の緊張感とが同時に現れて、相乗効果をもたらすようマードックは仕掛けているのがわかる。

さらに、蝶を自由に飛んでいくことができる人生の象徴とみなせば、ポールに捕まえられた状態で生活していかなければならないドーラの苦しい心情が対比的に強調されるという効果もある。ドーラはポールからひらひら飛び去ることができないのだから。また、ドーラの両手が花にたとえられているのも興味深い(「掌を花のように開いた」)。蝶にはやっぱり花の比喩がふさわしい。

* * * * *

ドーラは最終的にどうなるのだろう。これはぜひこの本を読んで、楽しんでみてほしい。


Soon all this would be inside the enclosure and no one would see it any more. These green reeds, this glassy water, these quiet reflections of pillar and dome would be gone forever. It was indeed as if, and there was comfort in the thought, when she herself left it Imber would cease to be. But in this moment, and it was its last moment, it belonged to her. She had survived.

間もなくこれらはすべての僧園の囲い込みのなかにはいって、誰も見ることができなくなるだろう。この緑の葦も、この鏡のような湖も、この円柱や円天井の静かな反映も、すべて永遠になくなってしまうのだ。まるで、ドーラが離れるとインバーが存在しなくなるみたいな気がし、そう考えることで慰められた。しかし、この一瞬、この最後の最後の一瞬、インバーはあたしのものだ。あたしは生き延びたのだ。(p.418)


『鐘』のこの最後のページで、ドーラはあれだけ嫌だったこのインバーのことを「自分のもの」として感じている。そして「survive」つまり、「生き残る」という言葉が使われているが、つまり、ドーラはここインバーで繰り広げられたサバイバルに生き残ったということだけれども、これは何が繰り広げられたということなのか。読む価値は大いにあると思うのだけれども。

さて、この『鐘』はマードックの作品群では一二を争う傑作だと思うが、日本ではすでに絶版。古本屋では探せば手に入る。今回は英語も引用したが、このように比較的平易なので読みやすい。英語のペイパーバックは簡単に入手可能。

イーヴリン・ウォーの風刺と哀愁

2006-07-30 15:23:54 | イギリスの小説
■イーヴリン・ウォー『囁きの霊園』(吉田誠一訳、早川書房1970)

イーヴリン・ウォーの本には、何か独特の情緒があると読むたびに思う。いや、情緒という言葉では十分に伝えられない・・・しんみりとさせられるような、そういうある種の情景。

有名な『一握の塵』では、主人公のトニィ・ラーストが愛着を感じていた家族は離散してしまうことになるし、そして彼の住むヘットンの館からも離れなくてはならなくなってしまう。こういう、喪失の物語。同じく名高い『ブライヅヘッドふたたび』では逆に、中年の主人公チャールス・ライダーが20年以上前の学生時代、友人のセバスチャンと親しんだブライヅヘッドの館を回想する物語。

こういう「失われた情景」みたいな雰囲気が、どの作品にもじんわりと広がっている。『ブライヅヘッドふたたび』では、この要素が前面に打ち出され、良くも悪くもちょっとセンチメンタルな物語になっている。『一握の塵』では、ウォー独特の風刺とかブラック・ユーモアがぐっと前に出てきて、こういう哀愁の調子はかなり陰に隠れている。

そしてこの『囁きの霊園』の場合、アメリカの軽薄な文化を嘲笑する調子と、そしてやたらと品格を重視したがるイギリス人の態度を皮肉る態度がほとんど全面に出てきていて、こういうしんみりする要素はかなり薄い。内容もグロテスクなところがある。しかしそれでも、なんとなく切ないような一抹の印象がある。皮肉に満ちたストーリーの陰に、ごく目立たなく、途切れることなく流れる哀調の通奏低音。霊園とか、動物の火葬とか、この話がそういう「死」についてあれこれ扱っていることに、この要素の発端はあるように思う。

『囁きの霊園』の最後のほうで、エイメ・タナトジェノスが自殺し、その死体をデニス・バーロウは彼の働く動物用の火葬場で火葬する。彼は「すっかり燃えきるまで待たねばならぬ。赤くなって燃えている遺骨を掻き出し、頭蓋骨とおそらく骨盤はたたいて砕き、処分しなければならないだろう」・・・こんなことを考えながら「愛されし人の焼きあがるのを待った。」(ちなみに『囁きの霊園』の原題は『The Loved One』つまり『愛されし人』となる。)

こういうふうにここだけ引用すると、なんだかグロテスクな物語のような気がしてしまうけど、やっぱり違う。エイメは頭は良くないかもしれないが、二人の男ジョイボーイ氏とデニス・バーロウのどちらを愛すべきか悩み、二人に翻弄された末自殺したのだった。そういう経緯を知っていると、この火葬はなんともやるせないような、それでいて風刺が強くかかっていて、複雑な読書経験になる。こういう「やるせなさ」については、ちょうど、『一握の塵』の最後で、トニィ・ラーストがひたすらディケンズを読まされ続けるような、複雑な読後感を呼び起こす結末になっているのと似ている。

『囁きの霊園』を読むと、詩の引用が多い。これもまた、この本を単なるおもしろいだけの風刺物語にするのではなく、哀愁の調子や、深い情感を添えるのに役立っている。引用元の詩のイメージがストーリーの世界にも染み渡ってくるような感じがあるということだろう。タイトルの「囁きの霊園」とは葬儀と埋葬をも産業化したカリフォルニアのとある霊園の名前のことだが、そこには『湖島』という最高級クラスの霊園区画がある。その湖島の名前はイニスフリーと言う。その湖島に渡る船の中で、デニス・バーロウは説明される:

「この島の名前はロマンチックな詩にちなんだ名前だそうだし。ミツバチの巣があってね。以前はハチもいたんだが、お客さんがやたらにハチに刺されたんで、今じゃすべて機械仕掛け、万事科学的でね」(pp85-86)

そして上陸したデニスはミツバチの巣箱をのぞきこむと、「どの巣箱にも赤い豆ランプが点いており、音響発生装置が順調に作動している」ことに気がつく。この場面はもちろん、W.B.イェイツのあまりにも有名な詩「イニスフリーの湖島」に基づいている。イェイツの詩ではミツバチの羽音を聞きながら穏やかな日々を暮らしたいものだ・・・みたいなことが述べられるわけだが、この「囁きの霊園」ではその羽音も人工的に演出されている。これがウォーの風刺。でも一方で、イェイツの詩が本来持っている叙情も、読者にはしんみり伝わってくることになる。

上で書いたエイメ・タナノジェノスの死に際しては、エドガー・アラン・ポーの詩『ヘレンに』(『To Helen』)が引用される。

Helen, thy beauty is to me
Like those Nicean barks of yore,
That gently, o'er a perfumed sea,
The weary, wayworn wanderer bore
To his own native shore.

『囁きの霊園』では、この詩をデニスが「ヘレン」の名前を「エイメ」に変えて読み上げる。

エイメよ、きみの美しさ
さながらに、いにしえのニケアの小舟のごと
香りよき海原をたおやかに
旅に疲れし漂泊人(さすらいびと)を
古里の浜へと運ぶ

『囁きの霊園』は、日本では「ブラックユーモア選集」というシリーズの第二巻に収められている。確かに、ウォーらしいそういう鋭い風刺に満ちた作品なのだけれども、こういう深いところの叙情性のほうに僕は、どちらかといえば、関心が向かうかもしれない。

戦後イギリス小説のベスト10

2006-07-26 14:51:55 | イギリスの小説
戦後イギリスで発表された小説から、特に重要なもの、意義のあるもの、面白いものなどの観点からトップ10を挙げてみるとする。人によって何を選ぶかはいろいろだろう。僕なら次のような感じになる:

・イーヴリン・ウォー 『ブライヅヘッドふたたび』(1945)
・ジョージ・オーウェル 『1984年』(1949)
・ドリス・レッシング 『草は歌う』(1950)
・グレアム・グリーン 『情事の終わり』(1951)
・キングズリー・エイミス 『ラッキー・ジム』(1954)
・ウィリアム・ゴールディング 『蝿の王』(1954)
・アイリス・マードック 『鐘』(1958)
・ミュリエル・スパーク 『ミス・ブロウディの青春』(1961)
・アントニー・バージェス 『時計仕掛けのオレンジ』(1963)
・マーガレット・ドラブル 『碾臼』(1965)

年代順に挙げてみた。良い順とかではないので。するとウォーの『ブライヅヘッドふたたび』が一番上にくる。ウォーがここに入るべきかどうかは悩むところだった。『ブライヅヘッドふたたび』と並んで知られる本に『一握の塵』がある。この作品は1934年のもので、個人的にはこちらのほうが面白いような気がする。今回、「戦後」というくくりをつけたので、ウォーを取り上げるべきかどうかは考えるちょっとだけ必要があったが、個人的には好きな作家なのでトップ10に入選。ちなみに、彼の『囁きの霊園』(1948)も面白いし、翻訳されていないけど「Sword of Honour」という三部作もあって、これも戦後の作品。

おそらくジョージ・オーウェルを入れることに疑問を感じる人はいないと思うのだけど・・・なんて感じるのは僕だけかもしれないが。『1984年』ではなくて『動物農場』(1945)のほうを入れたほうが良いという人もいるかもしれない。また、彼の両作品がフィクションという観点から芸術的に価値があるかどうか・・・という疑問を感じる人がいるとしたら(確かに政治的社会的示唆に富んだ作品ではあるので)、彼の数あるエッセイを読んでみてと言いたい。非常に良質な散文。

ドリス・レッシングを入れるなら、他の人を入れたほうがいいという意見は、かなり的を得ていると言える。おそらく上の十作品のうちで、彼女の『草は歌う』の地位はかなり危うい。むしろ、アラン・シリトーやジョン・ファウルズ、ロレンス・ダレル、アンガス・ウィルソン、アントニー・パウエルの作品のほうがいいかもしれない。僕自身、多少女流作家ひいきのところはあるかもしれないが(そういう教育を受けたので)、それでも、エリザベス・ボウエンやフラン・オブライエン、アイヴィ・コンプトン=バーネットという大家たちがまだ控えている。それでもレッシングを入れたい理由は・・・1919年生まれながらまだご活躍中という点に敬意を表して。去年2005年にも新作が発表されている。

グレアム・グリーン・・・彼をこのリストから除外するのは難しい。あえて問題点を探すとしたら、イーヴリン・ウォー同様、戦前から活躍している作家という点。この二人を入れるなら、時期的にはジョイス・ケアリーとL.P.ハートレーも考えるに値する人たちだ。また、グリーンは非常に作品を書くのがうまいので、こういうときにどの本を選べばいいかとても迷ってしまう。晩年の作品『ヒューマン・ファクター』(1978)なんかも僕は好きだ。

戦後のイギリス小説史、いや、文学史・文化史を説明している本のうち、キングズリー・エイミスの『ラッキー・ジム』について言及しない本はない。もしあったら、その本のほうがおかしい。エポックメイキングというか、新たな時代の到来を告げるような作品なのだから。同様に、ゴールディングの『蝿の王』に言及しないような文学史の本もおかしい。ゴールディングの場合は、『蝿の王』という作品自体が非常に強烈な衝撃をはらんでいるせい。

グレアム・グリーン同様、アイリス・マードックもまた、こういうときにどれを代表作に選んだらよいか迷ってしまう作家。一般的には、初期の四作品、『網のなか』(1954)、『魅惑者から逃れて』(1956)、『砂の城』(1957)、『鐘』(1958)が良いとされているし、実際、この順番でだんだん面白くなっていく。でも、その後の作品も十分読ませるものだし、晩年の作品、たとえば『本をめぐる輪舞の果てに』(1987)もなかなか面白かった。とはいえ、僕はアイリス・マードックびいきなので、その点は差し引いてもらってかまわないけど。

アントニー・バージェスの『時計仕掛けのオレンジ』が有名なのは、キューブリックの映画のおかげであることは間違いない。でも、こういうふうにして知られるようになった本がトップ10に入っていたっていいと思うし。というか、この本は読むとなかなか興味深い。マーガレット・ドラブルはこのトップ10の中では実際に一番若い(1939生まれ)。デビューからしばらくは、ちょっと「流行作家」という感じがしていて、若い女性の本音の生き様を描く・・・みたいな作品傾向だけれども、現在では文壇で確固たる地位を占めている印象。イギリス文学界の大御所のひとり。

* * * * *

そのうちまた別の機会に、イギリス文学の「20世紀ベスト10」とか、「20世紀女性作家によるベスト10」とか、「最近30年間のベスト10」とかをやってみたいなと思った。