■イアン・マキューアン『愛の続き』(小山太一訳、新潮文庫2006)
この本はつまり、こういう話だ・・・:ある草原でのこと。熱気球の事故に居合わせた主人公の「ぼく」(ジョー・ローズ)は、その場に偶然一緒にいたジェッド・パリーから、突然ずっと付きまとわれるようになる。パリーはジョーに対し、「あなたは僕を愛している」などと言い続け、家の玄関付近に長時間待ち伏せする。ジョーの行く先も追いかけ、まさにストーカー状態。
これはパリーが、ジョーから愛されていると勝手に信じ込んでしまったためで、この小説では、このように突然、まったくの他者から愛されていると信じ込んでしまう精神状態のことを「ド・クレランボー症候群」だとしている。ジョーの嘆願や行動にもかかわらず、恋人のクラリッサも、警察もジョーを助けようとしない。やがてパリーがクラリッサに危害を加えようとするにいたり、ついに警察も出動する事態となり、パリーは閉鎖病棟に収容され、小説は終わる。
ジョーの職業は、いわゆるサイエンス・ライター。科学的な出来事や話題を記事にして、雑誌などに寄稿するジャーナリスト。主人公のこの職業設定と、かつ、一人称の「ぼく」が語る形式のせいで、『愛の続き』には科学的な「小ネタ」がたくさん出てくる。相対性理論のこととか、ハッブル宇宙望遠鏡のこと、DNAのこと、などなど。
小説本文の描写や語り自体もが、こういう「科学的な」色調を帯びている。一人称のジョーが描写する場面が多いからだ。つまり、マキューアンは、この小説ではわざと「科学的な語り」を採用していると言えるだろう。例として、冒頭のエピソードに現れる熱気球の描写を読んでみると:
「巨大な気球に満ちていたのはヘリウムだった。恒星の原子炉で水素から作られた気体元素――その生成によって全宇宙の多種多様な事物生成の第一歩が踏み出されたのであり、われわれの身体や思想のすべてもその中に含まれている」(p10)
僕個人としては、この部分に決定的な事柄がさりげなく述べられていると思う。つまり、この語り手(ジョー)によれば、水素やヘリウムという分子が、根源的には僕たちの「思想」をも形作っていると指摘しているのだ。世の中のすべての事物が水素をはじめとする原子から生成されているというのは、間違いなく正しい。だから、僕たちの「身体」も当然原子から成り立っている。ここまではいい。でも・・・「思想」もまた原子から成り立っているのだろうか。よく、唯物論とか観念論という議論があって、別にどちらが正しくてもかまわないのだけれども、少なくとも、この小説『愛の続き』の主人公ジョーは、唯物論的なスタンスを取っていることがわかる。人間の精神活動や思想というのもまた、原子・分子の働きといった科学的な理由付けで説明できる事柄なのだという立場を、マキューアンはジョーに与えている。
とにかく、マキューアンはこの小説で「科学的な語り手」をわざと採用しているので、その色眼鏡を通して私たち読者はこの小説を読むことを強いられる。(強いるといっても、別に読むのが苦痛ということはないけれど。)この今日のブログの冒頭に『愛の続き』のあらすじを書いたけど、別にこういうストーリーだったら、「科学的な語り」で語らなくても、他の語り方でも描写できると思う。科学などには縁遠い、ふつうの一般人を主人公に据えることだって、やろうと思えばできるのだろうから。いずれにしても、僕が強調したいのは、『愛の続き』の読者は、マキューアンのわざと意図した「科学的な語り」で読まされることになる、ということ。
この、科学的な語り(この場合の「語り」とは、いわゆる「narrative」の意味で)が端的に現れているのは、『愛の続き』の最後に二つの付録が添付されている部分。付録の一つ目は、ジョーとパリーのケースについて科学的に研究した成果をまとめたド・クレランボー症候群についての科学論文。『イギリス精神医学研究』誌より転載、なんて書いてあり、ご丁寧に参考文献まで載っているけど、もちろんこれはマキューアンの創作だ。付録のもうひとつは、パリーの手紙。これもただ単にパリーの手紙を添えるのではなく、パリーの精神症状を裏打ちする「証拠資料」としての目的で付録になっている。論文や証拠を添えて、こんな具合に、あくまでも科学的なスタンス。
* * * * *
さて、このあたりで、一歩下がってこの小説に向き合う必要がある。つまり、こうやって、「科学的」な態度が前面に現れているので・・・そう、僕たち読者は、丸め込まれてしまっているのではないか。だって、科学的であることが、必ずしも「正しい」とは言えないこともあるだろうから。僕たちはジョーの観察し、描写する言葉をとおしてしか、この物語の出来事を理解することができない。でも、そういうジョーは、確かに科学的ではあるけど、「正しい」だろうか。
突然、見ず知らずの人から「あなたは私のことを愛していますよね?」なんて言われたら、とても驚くし、とても怖いことだ。でも本当にこんなことがあったら、あなたはこういう異常事態をどのように考えるだろうか。その相手のことを「ちょっと頭がおかしいんじゃない?」と思うのは確かだし、付きまとわれたりしたら解決しようとして、家族や警察やらの保護を求めたりするだろう。でも、まさかすぐに「ド・クレランボー症候群」という精神病だと決め付けたりはしないのではないか。
僕が思うに、わけのわからないことや、怪しげな異常事態を、なんでも科学的に説明付けてしまおうという態度が、この小説で展開される「科学的な語り」なのだ。でも、それは、人間の持つ偏見のひとつ、色眼鏡のひとつであるように思える。人間の「思想」を原子・分子の働きだけで全て説明できるとは、なかなか考えがたい。もちろん、理論上、将来的には説明できることなのかもしれないけど、少なくとも今のところは、科学がこの世の森羅万象を解決することができるとは必ずしも言いきれない。
実際のところ、この小説は、科学万能主義を主張しているわけではない。例えば、ジョーの恋人クラリッサは(キーツの詩の研究家)、ジョーがパリーに付きまとわれていると聞いて、それがすべてジョーの妄想ではないかと疑うが、こういう箇所では「科学的な語り」からは離れた視点を持っている。また、ジョー自身も、自分が正当な「科学者」ではなく、サイエンス・ライターという「疑似科学者」であることに思い悩むが、こういうの点も、ジョーの「科学的な語り」の信憑性が揺らぐきっかけにはなる。
ということで・・・なんだか今回は、「この本はいい小説だよ」とか、あんまり褒めなかったけど、別に、けなしたりするつもりはぜんぜんない。ただ、『愛の続き』については、読み方に注意するとより面白いのではないかと思ったから。ジョーの態度、つまり、マキューアンのこの小説の語りを、そのまま額面どおりに受け止めて読んでしまうのもいいが、一歩下がって、批判的に読んでみるのもおもしろい。僕たちが「科学的」であるということを、いかに素直に受け止めてしまうか、そして、いかに騙されやすいか、ということに気付かされる。そして、やっぱり最後に一言褒めるとすれば、こういう「語り」を作り上げるマキューアンの力量は、なかなか上手なわけだ。
この本はつまり、こういう話だ・・・:ある草原でのこと。熱気球の事故に居合わせた主人公の「ぼく」(ジョー・ローズ)は、その場に偶然一緒にいたジェッド・パリーから、突然ずっと付きまとわれるようになる。パリーはジョーに対し、「あなたは僕を愛している」などと言い続け、家の玄関付近に長時間待ち伏せする。ジョーの行く先も追いかけ、まさにストーカー状態。
これはパリーが、ジョーから愛されていると勝手に信じ込んでしまったためで、この小説では、このように突然、まったくの他者から愛されていると信じ込んでしまう精神状態のことを「ド・クレランボー症候群」だとしている。ジョーの嘆願や行動にもかかわらず、恋人のクラリッサも、警察もジョーを助けようとしない。やがてパリーがクラリッサに危害を加えようとするにいたり、ついに警察も出動する事態となり、パリーは閉鎖病棟に収容され、小説は終わる。
ジョーの職業は、いわゆるサイエンス・ライター。科学的な出来事や話題を記事にして、雑誌などに寄稿するジャーナリスト。主人公のこの職業設定と、かつ、一人称の「ぼく」が語る形式のせいで、『愛の続き』には科学的な「小ネタ」がたくさん出てくる。相対性理論のこととか、ハッブル宇宙望遠鏡のこと、DNAのこと、などなど。
小説本文の描写や語り自体もが、こういう「科学的な」色調を帯びている。一人称のジョーが描写する場面が多いからだ。つまり、マキューアンは、この小説ではわざと「科学的な語り」を採用していると言えるだろう。例として、冒頭のエピソードに現れる熱気球の描写を読んでみると:
「巨大な気球に満ちていたのはヘリウムだった。恒星の原子炉で水素から作られた気体元素――その生成によって全宇宙の多種多様な事物生成の第一歩が踏み出されたのであり、われわれの身体や思想のすべてもその中に含まれている」(p10)
僕個人としては、この部分に決定的な事柄がさりげなく述べられていると思う。つまり、この語り手(ジョー)によれば、水素やヘリウムという分子が、根源的には僕たちの「思想」をも形作っていると指摘しているのだ。世の中のすべての事物が水素をはじめとする原子から生成されているというのは、間違いなく正しい。だから、僕たちの「身体」も当然原子から成り立っている。ここまではいい。でも・・・「思想」もまた原子から成り立っているのだろうか。よく、唯物論とか観念論という議論があって、別にどちらが正しくてもかまわないのだけれども、少なくとも、この小説『愛の続き』の主人公ジョーは、唯物論的なスタンスを取っていることがわかる。人間の精神活動や思想というのもまた、原子・分子の働きといった科学的な理由付けで説明できる事柄なのだという立場を、マキューアンはジョーに与えている。
とにかく、マキューアンはこの小説で「科学的な語り手」をわざと採用しているので、その色眼鏡を通して私たち読者はこの小説を読むことを強いられる。(強いるといっても、別に読むのが苦痛ということはないけれど。)この今日のブログの冒頭に『愛の続き』のあらすじを書いたけど、別にこういうストーリーだったら、「科学的な語り」で語らなくても、他の語り方でも描写できると思う。科学などには縁遠い、ふつうの一般人を主人公に据えることだって、やろうと思えばできるのだろうから。いずれにしても、僕が強調したいのは、『愛の続き』の読者は、マキューアンのわざと意図した「科学的な語り」で読まされることになる、ということ。
この、科学的な語り(この場合の「語り」とは、いわゆる「narrative」の意味で)が端的に現れているのは、『愛の続き』の最後に二つの付録が添付されている部分。付録の一つ目は、ジョーとパリーのケースについて科学的に研究した成果をまとめたド・クレランボー症候群についての科学論文。『イギリス精神医学研究』誌より転載、なんて書いてあり、ご丁寧に参考文献まで載っているけど、もちろんこれはマキューアンの創作だ。付録のもうひとつは、パリーの手紙。これもただ単にパリーの手紙を添えるのではなく、パリーの精神症状を裏打ちする「証拠資料」としての目的で付録になっている。論文や証拠を添えて、こんな具合に、あくまでも科学的なスタンス。
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さて、このあたりで、一歩下がってこの小説に向き合う必要がある。つまり、こうやって、「科学的」な態度が前面に現れているので・・・そう、僕たち読者は、丸め込まれてしまっているのではないか。だって、科学的であることが、必ずしも「正しい」とは言えないこともあるだろうから。僕たちはジョーの観察し、描写する言葉をとおしてしか、この物語の出来事を理解することができない。でも、そういうジョーは、確かに科学的ではあるけど、「正しい」だろうか。
突然、見ず知らずの人から「あなたは私のことを愛していますよね?」なんて言われたら、とても驚くし、とても怖いことだ。でも本当にこんなことがあったら、あなたはこういう異常事態をどのように考えるだろうか。その相手のことを「ちょっと頭がおかしいんじゃない?」と思うのは確かだし、付きまとわれたりしたら解決しようとして、家族や警察やらの保護を求めたりするだろう。でも、まさかすぐに「ド・クレランボー症候群」という精神病だと決め付けたりはしないのではないか。
僕が思うに、わけのわからないことや、怪しげな異常事態を、なんでも科学的に説明付けてしまおうという態度が、この小説で展開される「科学的な語り」なのだ。でも、それは、人間の持つ偏見のひとつ、色眼鏡のひとつであるように思える。人間の「思想」を原子・分子の働きだけで全て説明できるとは、なかなか考えがたい。もちろん、理論上、将来的には説明できることなのかもしれないけど、少なくとも今のところは、科学がこの世の森羅万象を解決することができるとは必ずしも言いきれない。
実際のところ、この小説は、科学万能主義を主張しているわけではない。例えば、ジョーの恋人クラリッサは(キーツの詩の研究家)、ジョーがパリーに付きまとわれていると聞いて、それがすべてジョーの妄想ではないかと疑うが、こういう箇所では「科学的な語り」からは離れた視点を持っている。また、ジョー自身も、自分が正当な「科学者」ではなく、サイエンス・ライターという「疑似科学者」であることに思い悩むが、こういうの点も、ジョーの「科学的な語り」の信憑性が揺らぐきっかけにはなる。
ということで・・・なんだか今回は、「この本はいい小説だよ」とか、あんまり褒めなかったけど、別に、けなしたりするつもりはぜんぜんない。ただ、『愛の続き』については、読み方に注意するとより面白いのではないかと思ったから。ジョーの態度、つまり、マキューアンのこの小説の語りを、そのまま額面どおりに受け止めて読んでしまうのもいいが、一歩下がって、批判的に読んでみるのもおもしろい。僕たちが「科学的」であるということを、いかに素直に受け止めてしまうか、そして、いかに騙されやすいか、ということに気付かされる。そして、やっぱり最後に一言褒めるとすれば、こういう「語り」を作り上げるマキューアンの力量は、なかなか上手なわけだ。