これだけ偉そうにイギリスの小説をあれこれ言っておきながら、いまさら、という感じもするけれども、シャーロット・ブロンテの代表作『ジェーン・エア』を現在読んでいる。今回読み始めたきっかけは・・・ブックオフで文庫本の上下巻が各一冊105円で売っていたから。なんとも散文的な、感傷性及びロマンチックさの全く欠如した『ジェーン・エア』との出会い。全国のシャーロット・ブロンテファンのみなさまごめんなさい。
どんなストーリーかはうすうす知っているが(さすがにこれだけイギリス文学に接していると、情報が漏れてくる)、齢三十二にして初めて読むことになった。そして実際に読み始めたら、実はこの本、かなりツッコミどころ満載の小説だということに気がついた。まだ読み終わっていなくて途中なのだけれども、気がついたことを忘れないうちに書き出していきたいと思う。今回はその第一回。
* * * * *
■第一章から第四章まで(少女のジェーン・エアのゲーツヘッド邸時代)
この部分は、まあ要するに、両親を亡くしていたジェーンは、母親の兄、つまり伯父であるリード家に預けられていたが、その伯父もまた既に亡くなり、血のつながっていないリード家の他の人々(リード夫人とその三人の子供)にいじめられながら暮らしていくという場面。たしか、ディケンズにもこういう小説があったよなあと思った。子供の頃に苦労する話。いや、ディケンズに限らない。血のつながらない家族にいじめられるのは、「シンデレラ」も同じ。典型的な物語の始まりかた。果たして、ジェーンはシンデレラのようにお姫様になれるのだろうか。
ところが、このシンデレラはおとぎ話とはぜんぜん違う態度を取り出したから、読んでてびっくりしてしまった。継母たちに虐げられて、ひたすら我慢するのではないのだ。なんとガンガン反抗する。最終的には、なんとこんなことまで言ってのけてしまう。ジェーンはリード夫人に対してこう言い切る:
「わたしはあなたがわたしの血縁でないことを感謝します。わたしは一生涯、あなたをおば様とは呼びません。わたしが大人になったら、二度とあなたを訪ねるようなことはしません。わたしがあなたを好いていたかどうか、あなたがわたしをどう扱ったかどうかを訊かれた場合には、あなたのことなぞ考えただけでも気色が悪くなる、わたしをひどく残酷な目に遭わせたと言ってやります」(上巻pp58-59)
続いて、
「・・・あなたは世間では善良な夫人として通っていますが、ほんとは悪い、薄情な人です。あなたこそ、嘘つきだわ!」(上巻p59)
とっても過激だ。ジェーンはこのとき10歳。身寄りがなくて、衣食住をすべてリード家に依存して暮らしている。つまりリード夫人の庇護の下、生きていくことができる状態なのだ。それなのに、その保護者にここまで言っていいのだろうか・・・と、ヴィクトリア朝の人々は感じるはず。
当時は体制維持に熱心な、超保守的な時代。女性で(男性に対して地位が圧倒的に低い)かつ、子供(一人前とはみなされない・・・これは現代でも同じ。日本のように子供がもてはやされない)という、社会的地位の低いジェーンが、こういう不届きな反発を行うことは、時代的には絶対に容認できないことなのだ。こういう主張を認めていたら、体制維持ができないのだから。現代人の僕が読んでも、おおっ!と思うくらいだから、当時の人々には衝撃だったろう。危険な本とみなされたに違いない。でも、逆にこれが、この本の魅力でもある。何事も万事順調で、予定調和の物語では、読者は眠ってしまうのだから。
* * * * *
詳しい人がいたら教えてもらいたいのだが(それに、すでに誰かがエッセイにしているとおもうのだけれども)、『ジェーン・エア』は、心理学的に分析するとおもしろそうな気がする。冒頭のたった四章を読んだだけで、以下の箇所が気になった。
①自分のことを、愛想のない、かわいげのない、素直ではない子供と感じていること
→こういう劣等感は克服されるのか。行く末はシンデレラのようになれるのか。
②読書をする場面や、実際の風景の描写で、ことさら荒涼さが強調されていること
→場面設定が冬ということで、ジェーンの置かれた状況を暗示しているかのよう。読み進むうちに、もっと温かく、明るい季節が来るのだろうか。
③痛みや血の描写。暴力的な箇所。
→こういう暴力や血が大好きな作家もいる(無意識的に)。シャーロット・ブロンテはどうだろう?
④赤い部屋に閉じ込められ、怪しげな光を目撃する。
→怪しい場所に幽閉されて、お化けを見る・・・ゴシック小説の典型的パターン。この小説は、これからも、こんなふうにゴシック小説仕立てで展開していくのだろうか。
なんだか、この小説、ちょっと「病んでる」と思うのだけど。作者が病んでるから?こんなふうに感じるのは僕だけ?いずれにしても、こういう、なんとも病的な部分は、今後どのようになっていくのだろうか。そういう興味で読み続けていく予定。
※使用している版:大久保康雄訳、新潮文庫1991
どんなストーリーかはうすうす知っているが(さすがにこれだけイギリス文学に接していると、情報が漏れてくる)、齢三十二にして初めて読むことになった。そして実際に読み始めたら、実はこの本、かなりツッコミどころ満載の小説だということに気がついた。まだ読み終わっていなくて途中なのだけれども、気がついたことを忘れないうちに書き出していきたいと思う。今回はその第一回。
* * * * *
■第一章から第四章まで(少女のジェーン・エアのゲーツヘッド邸時代)
この部分は、まあ要するに、両親を亡くしていたジェーンは、母親の兄、つまり伯父であるリード家に預けられていたが、その伯父もまた既に亡くなり、血のつながっていないリード家の他の人々(リード夫人とその三人の子供)にいじめられながら暮らしていくという場面。たしか、ディケンズにもこういう小説があったよなあと思った。子供の頃に苦労する話。いや、ディケンズに限らない。血のつながらない家族にいじめられるのは、「シンデレラ」も同じ。典型的な物語の始まりかた。果たして、ジェーンはシンデレラのようにお姫様になれるのだろうか。
ところが、このシンデレラはおとぎ話とはぜんぜん違う態度を取り出したから、読んでてびっくりしてしまった。継母たちに虐げられて、ひたすら我慢するのではないのだ。なんとガンガン反抗する。最終的には、なんとこんなことまで言ってのけてしまう。ジェーンはリード夫人に対してこう言い切る:
「わたしはあなたがわたしの血縁でないことを感謝します。わたしは一生涯、あなたをおば様とは呼びません。わたしが大人になったら、二度とあなたを訪ねるようなことはしません。わたしがあなたを好いていたかどうか、あなたがわたしをどう扱ったかどうかを訊かれた場合には、あなたのことなぞ考えただけでも気色が悪くなる、わたしをひどく残酷な目に遭わせたと言ってやります」(上巻pp58-59)
続いて、
「・・・あなたは世間では善良な夫人として通っていますが、ほんとは悪い、薄情な人です。あなたこそ、嘘つきだわ!」(上巻p59)
とっても過激だ。ジェーンはこのとき10歳。身寄りがなくて、衣食住をすべてリード家に依存して暮らしている。つまりリード夫人の庇護の下、生きていくことができる状態なのだ。それなのに、その保護者にここまで言っていいのだろうか・・・と、ヴィクトリア朝の人々は感じるはず。
当時は体制維持に熱心な、超保守的な時代。女性で(男性に対して地位が圧倒的に低い)かつ、子供(一人前とはみなされない・・・これは現代でも同じ。日本のように子供がもてはやされない)という、社会的地位の低いジェーンが、こういう不届きな反発を行うことは、時代的には絶対に容認できないことなのだ。こういう主張を認めていたら、体制維持ができないのだから。現代人の僕が読んでも、おおっ!と思うくらいだから、当時の人々には衝撃だったろう。危険な本とみなされたに違いない。でも、逆にこれが、この本の魅力でもある。何事も万事順調で、予定調和の物語では、読者は眠ってしまうのだから。
* * * * *
詳しい人がいたら教えてもらいたいのだが(それに、すでに誰かがエッセイにしているとおもうのだけれども)、『ジェーン・エア』は、心理学的に分析するとおもしろそうな気がする。冒頭のたった四章を読んだだけで、以下の箇所が気になった。
①自分のことを、愛想のない、かわいげのない、素直ではない子供と感じていること
→こういう劣等感は克服されるのか。行く末はシンデレラのようになれるのか。
②読書をする場面や、実際の風景の描写で、ことさら荒涼さが強調されていること
→場面設定が冬ということで、ジェーンの置かれた状況を暗示しているかのよう。読み進むうちに、もっと温かく、明るい季節が来るのだろうか。
③痛みや血の描写。暴力的な箇所。
→こういう暴力や血が大好きな作家もいる(無意識的に)。シャーロット・ブロンテはどうだろう?
④赤い部屋に閉じ込められ、怪しげな光を目撃する。
→怪しい場所に幽閉されて、お化けを見る・・・ゴシック小説の典型的パターン。この小説は、これからも、こんなふうにゴシック小説仕立てで展開していくのだろうか。
なんだか、この小説、ちょっと「病んでる」と思うのだけど。作者が病んでるから?こんなふうに感じるのは僕だけ?いずれにしても、こういう、なんとも病的な部分は、今後どのようになっていくのだろうか。そういう興味で読み続けていく予定。
※使用している版:大久保康雄訳、新潮文庫1991
僕の同級生がちょうど『ジェーン・エア』で卒論を書いていることろです。①の視点にも関連すると思うのですが、『ジェーン・エア』はヴィクトリア朝期の女性像を考える上で、かなり画期的な作品らしいですね。ブロンテ姉妹の中でも、長女シャーロットはかなり女性の権利を主張していたようです(いわゆるフェミニスト?)。ただ彼女も男性のペンネームで本作を発表したようなので、まだまだ女性が小説を書くという行為が社会に認知されていなかったのかもしれません。
僕はいつもシャーロット・ブロンテのことを考えるたびに、ジョージ・リッチモンドが描いた肖像画を思い浮かべます。http://en.wikipedia.org/wiki/Image:CBRichmond.jpg
英米の女性作家の中でもかなり美人ですよね・・・。
でも一方で、ゴシックロマンスみたいな古くさい印象もかなり目立ちます。オースティンのように理性的に淡々と筆を進めるのではなく、どちらかといえばバリバリのロマン派のような筆遣いで、豊かに感情描写を折り込んでいく傾向ですね。(とはいえ、途中までしか読んでいないので、この印象は今後変化するかも。)
英米の女性作家の容姿については・・・今後ナショナル・ポートレイト・ギャラリーのウェブサイト等をじっくり吟味して、別途報告したいと思います。
ジェーンの生意気さ…は、逆にリアルでした。
ヴィクトリア時代、確かに女性は自分を抑えた「家庭の天使」であれ…というのが建前だったかも知れませんが、いつの時代にも人間(男女問わず)性格は様々…と考えると、すべての女性がそんなふうであったとは考えにくいので。
なので「こんな反時代的な人も、もしかしたらいたかもしれないなぁ…」という感じです。
(周囲からの風当たりは…そりゃ半端じゃないだろうけど^^;;)
あと、私は「病的」というよりは、逆に健康的な印象を受けました。
1つ1つの描写や場面は確かに暗く悲惨なところもあるけれど、全体的な印象はなぜかそんな感じなのです。
(妹のエミリーの書いた「嵐が丘」と比べてしまうから、そう思えるのかもしれませんが…)
人によって印象がこんなに違うなんて、やっぱり面白いです。
閉じこめられて赤い光…のところは、子供ならこういうことあるかな?という感じ。
(日本でも「押し入れにいれられてお化けが…」なんてありますし^^;;また俗っぽくてすみません。)
ただおっしゃるとおり、当時の時代性を考えると、この小説に対する大衆の反応はどうだったのかな?とは思います。
(昔レポートを書くのにも使ったので、どこかで目にしているはずですが、記憶が薄いのです…
引き続き感想を楽しみにしております。
とても興味深いコメントで、いろいろ刺激になりました。
まず、ジェーンのああいう態度が逆に「リアル」だという点、確かにそうだと思いました。つまり、自分を押し殺してぐっとこらえているほうが、なんだかわざとらしくて、嘘っぽいということでしょう。言いたいことを言うほうが「自然」とでも言うか・・・。
また、僕とは逆に「健康的」という印象を持ったという点も、なるほどと思いました。もちろん『嵐が丘』と比較してしまうと『ジェーン・エア』が健康的な印象なのは当然ですが、やはり、言いたいことを遠慮せずに言うジェーンの態度こそがすっきりして健康的だと思います。いじいじとして、言いたいことを言わないでいるほうが、なんだか不健全なので。
(ただし、「病的」とか「健康的」という表現はメタファーなので・・・つまり、実際に小説が病気にかかったりするわけはないということ・・・厳密な文学研究の表現としては不適切なのだろうと想像します。)
何かで読んだのですが、当時この『ジェーン・エア』はかなりの人気を勝ち得たそうです。一方で、「こんな不心得な小説を書いたのは一体誰なんだ!」みたいな反発もあったそうです(当然ですね)。
シャーロット・ブロンテが『ジェーン・エア』を発表したのは1847年ですから、今からだいたい160年前に書かれた小説です。こんなに時間が経過しているにもかかわらず、僕も含めていろんな人がこの本について、いまだに、ああだこうだと言っているわけです。これって、それだけの価値がある、つまり、読み継がれる十分な価値があるという何よりの証拠ですね。