■「人形の家」 『マンスフィールド短篇集 幸福・園遊会』(崎山正毅・伊澤龍雄訳、岩波文庫1969)
■「人形の家」 『マンスフィールド短篇集』(西崎憲編訳、ちくま文庫2002)
「人形の家」はキャサリン・マンスフィールドの残した数多くの短編小説のひとつ。読んでみるとわかる・・・僕だとたった10分ほどで読み終える、そんなごく短いストーリー。文庫本のページ数でも14、5ページほど。電車に乗って読み出しても、目的に到着するだいぶ以前に読み終わってしまう、そんな一篇。
あっさりと、気軽に読めていいですよ、ぜひどうぞ・・・という感じの、さらりとした紹介のしかたもあるだろう。でも、僕はそうではなくて、もっと力をこめて言いたい。なんという、深みに富んだ、印象に残る作品なのだろう。それも、最後の場面で登場人物により発せられるたった一言、
「ちっちゃなランプがあった」(西崎訳)
このセリフひとつだけで、あの深い印象は生まれてくるのだから!
ストーリーはなんてことはない。キザイアという名の少女が主人公。彼女は三人姉妹の真ん中なのだが、彼女たちのもとに知り合いの老婦人から、人形遊びをするための家(ドールハウス)が届いた。大きくて、精巧に作られた本格的な人形のおうち。彼女たちは大変に喜び、学校の友達を家に連れてきて自慢する。その学校には、出自が低い身分ということで、周囲からのけものにされているケルヴィーという姉妹がいた。ところがある日、キザイアは相手にしてはいけないはずのケルヴィー姉妹を自宅に招き入れ、彼女たちにドールハウスを見せてしまう。
「ちっちゃなランプがあった」という一言は、このドールハウスの中にあるランプを見たことを、ケルヴィー姉妹の下の女の子のほうが語るセリフ。ただそれだけなのだ。ただそれだけなのに、僕は読んだとき、はっとしてしまった。
・・・こんなふうにして、僕はあらすじを全部書いてしまった。「これじゃあ、ネタバレ。もはや読んでも意味がないじゃん!」などと、そこのあなた、思ってはいないだろうか。大丈夫、ご心配なく。この短編「人形の家」の、とくにあの最後の一言に至るまでの、微妙で繊細で、観察力に富んだマンスフィールドの優れた叙述の本質を、僕はあなたに対して、こんな説明ではぜんぜん伝えられていない自信があるから!(ここの、「ぜんぜん伝えられていない自信がある」というところを、僕は太字で書きたい。)
* * * * *
他にも、そのドールハウスの中に置かれていた、
「お父さんとお母さんの人形は、気を失った人のように、手足を広げ、強ばった姿勢で客間に倒れていた」
という描写も印象的だ。この辺りの意味深さは、マンスフィールドの短編をいろいろ読むと、もうちょっと関連性が浮かびあがってくるような気がする。
* * * * *
最近いろいろ影響されてマンスフィールドを読み始めたが、この人は結構すごいかもしれない。とくに良作と評される短編を読むと思う・・・こんなふうに人間の内面に迫れる作家は、稀にしかいないということを。
「今朝はなんて素敵な朝・・・こんな風景どこかで・・・そういえば花を買ってこなくては・・・」こんな具合(違ったかな?)に、「意識の流れ」と称される方法で言葉による心理描写をする人たちがいるが、マンスフィールドはこれとはぜんぜん違うアプローチ。逆に、登場人物が、内心で思っていることをあれこれ言葉にして書いたりしない。むしろ客観的な描写が淡々と続く。それなのに、読者は知らず知らずのうちに物語の内面、そして人間の何か深いところへとはまり込んでいく。これは、いったいどうして?
その答えはプロに調べていただくこととして、僕はただただ感心しながらページをめくっていくだけ。長く長く物語を書き連ねれば、深い余韻とか、感動とかが得られるわけではないということだ。キャサリン・マンスフィールドという女性による、たったこれだけの分量にまとめられたささやかなエピソードが、あたかも水に青いインクをたらしたときのような、深くて透明に、じんわりと広がるような印象を僕に残す。
そして、こういう機会にまた再認識するのだ・・・読書っておもしろい。そして奥が深い。僕がしているのは、ただ紙に印刷された文字の羅列を目で追うことだけ。でもそれだけのことなのに、こういう得がたい経験ができてしまうのだから。
■「人形の家」 『マンスフィールド短篇集』(西崎憲編訳、ちくま文庫2002)
「人形の家」はキャサリン・マンスフィールドの残した数多くの短編小説のひとつ。読んでみるとわかる・・・僕だとたった10分ほどで読み終える、そんなごく短いストーリー。文庫本のページ数でも14、5ページほど。電車に乗って読み出しても、目的に到着するだいぶ以前に読み終わってしまう、そんな一篇。
あっさりと、気軽に読めていいですよ、ぜひどうぞ・・・という感じの、さらりとした紹介のしかたもあるだろう。でも、僕はそうではなくて、もっと力をこめて言いたい。なんという、深みに富んだ、印象に残る作品なのだろう。それも、最後の場面で登場人物により発せられるたった一言、
「ちっちゃなランプがあった」(西崎訳)
このセリフひとつだけで、あの深い印象は生まれてくるのだから!
ストーリーはなんてことはない。キザイアという名の少女が主人公。彼女は三人姉妹の真ん中なのだが、彼女たちのもとに知り合いの老婦人から、人形遊びをするための家(ドールハウス)が届いた。大きくて、精巧に作られた本格的な人形のおうち。彼女たちは大変に喜び、学校の友達を家に連れてきて自慢する。その学校には、出自が低い身分ということで、周囲からのけものにされているケルヴィーという姉妹がいた。ところがある日、キザイアは相手にしてはいけないはずのケルヴィー姉妹を自宅に招き入れ、彼女たちにドールハウスを見せてしまう。
「ちっちゃなランプがあった」という一言は、このドールハウスの中にあるランプを見たことを、ケルヴィー姉妹の下の女の子のほうが語るセリフ。ただそれだけなのだ。ただそれだけなのに、僕は読んだとき、はっとしてしまった。
・・・こんなふうにして、僕はあらすじを全部書いてしまった。「これじゃあ、ネタバレ。もはや読んでも意味がないじゃん!」などと、そこのあなた、思ってはいないだろうか。大丈夫、ご心配なく。この短編「人形の家」の、とくにあの最後の一言に至るまでの、微妙で繊細で、観察力に富んだマンスフィールドの優れた叙述の本質を、僕はあなたに対して、こんな説明ではぜんぜん伝えられていない自信があるから!(ここの、「ぜんぜん伝えられていない自信がある」というところを、僕は太字で書きたい。)
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他にも、そのドールハウスの中に置かれていた、
「お父さんとお母さんの人形は、気を失った人のように、手足を広げ、強ばった姿勢で客間に倒れていた」
という描写も印象的だ。この辺りの意味深さは、マンスフィールドの短編をいろいろ読むと、もうちょっと関連性が浮かびあがってくるような気がする。
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最近いろいろ影響されてマンスフィールドを読み始めたが、この人は結構すごいかもしれない。とくに良作と評される短編を読むと思う・・・こんなふうに人間の内面に迫れる作家は、稀にしかいないということを。
「今朝はなんて素敵な朝・・・こんな風景どこかで・・・そういえば花を買ってこなくては・・・」こんな具合(違ったかな?)に、「意識の流れ」と称される方法で言葉による心理描写をする人たちがいるが、マンスフィールドはこれとはぜんぜん違うアプローチ。逆に、登場人物が、内心で思っていることをあれこれ言葉にして書いたりしない。むしろ客観的な描写が淡々と続く。それなのに、読者は知らず知らずのうちに物語の内面、そして人間の何か深いところへとはまり込んでいく。これは、いったいどうして?
その答えはプロに調べていただくこととして、僕はただただ感心しながらページをめくっていくだけ。長く長く物語を書き連ねれば、深い余韻とか、感動とかが得られるわけではないということだ。キャサリン・マンスフィールドという女性による、たったこれだけの分量にまとめられたささやかなエピソードが、あたかも水に青いインクをたらしたときのような、深くて透明に、じんわりと広がるような印象を僕に残す。
そして、こういう機会にまた再認識するのだ・・・読書っておもしろい。そして奥が深い。僕がしているのは、ただ紙に印刷された文字の羅列を目で追うことだけ。でもそれだけのことなのに、こういう得がたい経験ができてしまうのだから。