A Diary

本と音楽についてのメモ

ジェーン・エア(その2)

2006-09-04 16:41:59 | イギリスの小説
今回は、ジェーンのローウッド学校時代。(第五章から第十章)

イギリスの小説には、「寄宿学校パターン」とでも名づけたくなるような、一連のパターンがある。つまり、10歳くらいから18歳くらいまでの主人公が、パブリックスクールとか、その手の学校に預けられ、その学校であれやこれやを体験するというストーリーのこと。最近の本で言えば、要するに「ハリーポッター」もこの手のジャンルに含まれるだろう。ああいうふうに、寄宿学校が舞台になっているもののこと。

誰かが「ワーテルローの勝利はイートン校のグラウンドで獲得された」とかいう言葉を残しているくらい、こういう学校秩序はイギリス的なものだと思うが、僕にはなぜか、19世紀のイギリスの学校制度にあまりいい印象がない。読んだ本の印象が偏っているせいだろうか・・・どうもこういう寄宿学校には、暗いイメージが伴ってしまう。考えられる理由としては、ディケンズを読んだせいかもしれない。ディケンズに出てくる学校は、なんだかちょっと暗くて変な印象がいつも残った。(←このことも誰かが指摘していたよなあ、と思って、調べてみたらジョージ・オーウェルだった・・・彼の「チャールズ・ディケンズ」というエッセイをご参照)

でもって、ジェーン・エアの通うことになった「ローウッド・インスティテューション」もまた、僕のこういう期待を裏切らない、暗くて非常によろしくない学校だった。19世紀イギリスの学園ドラマの定番は:

・ご飯がまずい
・先生や生徒からいじめられる
・寒い環境とくだらない規律

という三本立てなのだが、『ジェーン・エア』のローウッド校も見事にこの三拍子がそろっている。こんな厳しい環境をがんばって耐え抜く、けなげなジェーン、という構図ができあがるわけだ。家では継母にいじめられ(『ジェーン・エア』では伯母さんだが)、学校では耐え抜く・・・どれも、いずれお姫様になるための通過儀礼。シンデレラストーリーのための典型的なパターン。(ただし僕はジェーンが本当にお姫様になれるのか、まだ読み終わっていないのでわからないが。)

* * * * *

『ジェーン・エア』のこの場面の読みどころは、個人的にはヘレン・バーンズというキャラクターだと思う。彼女はこの学校でのジェーンの友人。この女の子が(きっと14歳くらいだと思うが)、これまたかなり大人びたことを言う少女なのだ。とてもこの年齢とは思えない、悟りの境地とも言うべき人生観。彼女のセリフから名言集を作ることができる。

「憎しみに打ち勝つ最上のものは暴力ではないわ。また、傷を癒す最上のものは復讐ではないことよ」(p99)
(こういうセリフを、昨今の世界の紛争当事者にも聞かせてあげるべきだろう。)

「人に恨みを抱いたり、まちがった仕打ちを、いつまでも忘れずにすごすにしては、この人生はあまりにも短すぎるような気がするのよ」(p100)
(何かムカつくことがあったら、僕もまたこのヘレンのセリフを思い出すことにしたい。)

相変わらず当時の女性としては信じられないくらい反抗的なジェーンなのだが、こういうヘレンから「まあまあ、我慢しなさい」という感じで諭される。なんとも、ませた女の子だ。

しかしジェーンの親友であるヘレンも、やがて病死してしまう。そしてへレンがいなくなると、突然、小説内の時計は急速に進みだし、一気にジェーンは大人になってしまう。シャーロット・ブロンテもこのあたりで苦労物語を切り上げて、本題・・・つまり王子様との出会い・・・に話を持っていかなくてはいけないと気付いたようだ。ローウッド校時代はこうして幕を閉じる。

* * * * *

最後に二点だけ気付いたことを。

①「不健康、あるいは病的な感じ」

前回の『ジェーン・エア』のブログでも指摘したが、今回もちょっと「病的な」ニュアンスに気がついた。ジェーンは冬にローウッド校に入れられて、寒いし、ご飯は超まずいし・・・みたいな経験をする。季節は変わり、春、そして夏が訪れる。緑の森と草原に囲まれたローウッド校、気持ちの良い季節・・・ところが、その一方でこの時期から学校全体にチフスが流行するのだ。ここでは、健康的な季節と環境なのに、チフスという不健康さが組み合わせれている。素直に健康的な場面をシャーロット・ブロンテが創造していない点が僕は気になった。

②「私」という語り手

この『ジェーン・エア』は一人称の主人公が、自分の人生を語るというパターン。「リード夫人がいけないんです、私は間違ってません」とか、「ブロックルハーストさんが誤解しているんです、私は嘘をついてません」というようなジェーンの申し開きを、僕たち読者はずっと読み続けている。そこで、問題は(僕が素直ではないせいか)、21世紀の、もはやナイーブではない読者にとっては、こういう「私は正しい」「私は間違っていない」という連呼が、逆にちょっと耳障りというか、嘘っぽいというか、とにかく素直に受け止められない感じになってくること。この人、ちょっと自分を正当化しようとムキになっていないか・・・と思ってしまったりする。

次回は、やっとロチェスター氏が登場予定。

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8 コメント

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「一人称」の鬱陶しさ (KAFKA)
2006-09-08 00:32:06
一人称の「私」というものが18世紀の小説ではかなり重要だと言われているようです。

タイセイさんの仰るように、



>耳障りというか、嘘っぽいというか、とにかく素直に受け止められない感じ



というのは間違いありませんが、語り手が顕在化するということは、語っている「今」を喚起することで、語られている内容をメタ的に説明することになるわけですから、語っている今と語れている時点での「私」の齟齬が明るみに出るのですね。



だから、タイセイさんのような感じ方は、きっと作者の思う壺なのだと思います(笑)というか、タイセイさんに限らず、読者はそう読むべく書かれているようです。



「あぁ、この人は変わったなぁ」とか、「この語り手の判断は自己欺瞞だ」などと僕らが感じるのは、語る主体「私」が自らの過去を回想する一人称小説にしかない現象です。デヴィッド・カッパーフィールド」や「ライ麦畑でつかまえて」に至るまで、その語り方はそれぞれ異なるのですが、今の私と過去の私の実存的な関係がミソなのだと思われます。

やはり「私」は鬱陶しい(笑)



余談ですが、



・ご飯がまずい

・先生や生徒からいじめられる

・寒い環境とくだらない規律



僕は中学時代、まさにこういう学生寮に住んでいました。寮長がレスラーで、毎日、レスリングマットの上に軍隊のように整列し、列ごとに「一、二、三、四、五、全員います!」と大声で叫ぶのです。ご飯を残すと先輩に叩かれ、門限は7時、夜十時以降に洗濯機を回すと坊主、部屋は二人部屋で、冬の早朝は恐ろしく寒く、当然テレビは禁止・・・冗談のようですが、上記の項目をすべて満たしていました。それなりに楽しかったこともありますが、周りが殆ど体育会系の人間なのは辛かった、と「私」は苦々しくあの日々を思い出しました。寮が暗いのは、連綿と続く伝統なのかもしれません(笑)
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オーウェル (まいすたー)
2006-09-08 17:11:05
オーウェルがイートンについて述べていたのは、『あの楽しき日々』という評論でしたよね。「ワーテルローの勝利はイートン校のグラウンドで獲得された」というのはチャーチル。



オーウェルは、「確かにワーテルローの勝利はイートンのグランドで獲得されたかもしれない。しかし、それ以降のイギリスの栄光は全てイートンの運動場で失われたのである」というように言っていたように思います。

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現代人の読む『ジェーン・エア』 (たいせい)
2006-09-11 16:54:27
>カフカさん



一人称で語られる小説についてですが、どうでしょう、19世紀の出版された当時の読者の反応と、現代の読者の反応とでは、反応が違ってくるのだと思います(当然ですが)。



出版された当時だって、主人公ジェーンの変節(小説が進んでいくうちに、「私」という人物は都合よく人格が変わっていく)を「なんだか変だぞ、おかしいぞ」と感じた人は当然たくさんいたと思います。



そして、モダニズム頃の作家たちを経て、その後もあれやこれやの小説手法にさらされた上、さらにそうした技法についての解説・分析をもある種のフィクションのひとつとして享受するような成熟した時代の、極度にナイーブさを失った現在の読者には、もはやジェーンの振る舞いを素直に受け止めることができません。僕がどこかで『ジェーン・エア』を「つっこみどころ満載の小説』と生意気にも評してしまったのは、そういうところが発端です。



で、今回のブログにはそういう感想を少しでも述べることができたらと思っています。ただし、いざ書くとなると、なかなかうまく伝えることができないのですが。



ところで、寮生活って、なんだかすごいですね。僕だったら中学生みたいな微妙な時期に、そういう生活って絶対に出来なかっただろうと思います。「夜10時以降に洗濯機を回すと坊主」ってことですが、本当に坊主させられた人はいるのでしょうか。こういう規律ある制約的な生活は、カフカさんの人格形成に、良くも悪くも何か影響した点があると思いますか。



>まいすたーさん



なんといってもオーウェルですからね・・・ああいう人ですから。パブリックスクールなんて嫌だもん、って感じですよね。でも、今のイギリスでも、団体規律を重んじる風潮は、まだ他国よりはあると思いますよ。僕は学校の制服って日本とかだけかなと思っていましたが、現代のイギリスの子供も、かなりの割合で制服を着て学校に行っていました。



パブリックスクール自体は、やはり時代の変化を受けて、少しずつ変わってきているようですね。男子オンリーの伝統校でも、女性の先生や女生徒を受け入れ始めているようです。
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一人称と寮生活 (KAFKA)
2006-09-11 18:34:39


作家というものは、意識的にせよ無意識的にせよ、ある程度狙って書いているのだと僕は考えていますが、語り手の「私」を鬱陶しく思う要因に、やはり僕らのモダナイズされた感性に起因するところもあるのでしょう。18、19世紀ものと、カズオ・イシグロの小説を読んだ時の感触とは恐ろしいほどに、別物ですよね。



ただ、語り手というのは多かれ少なかれ、信用できないものではないかと最近は考えています。だから、僕は「信用できない語り手」という概念も、かなり微妙ではないかと思っていたりします。(Art of Fictionでは、一つの技巧ということになっていますが。)オースティンも僕は全く信用できていません(笑)



>夜10時以降に洗濯機を回すと坊主」ってことですが、本当に坊主させられた人はいるのでしょうか。こういう規律ある制約的な生活は、カフカさんの人格形成に、良くも悪くも何か影響した点があると思いますか。



冗談のような話ですが、規律違反で坊主になっている人間は8割強でした。規律が厳しい環境ほど、人間はルールを破りたがるものです。部屋にはカギをかけることができなかったので、窃盗も横行していました。僕はどういうわけか、難なく隙間を潜り抜け(いえ、当時は真面目だったのです)、坊主にならずにすみましたが、常に怯えていました。他にも理解不能なルールが山のようにありました。お風呂場のシャワーが空いているにもかかわらず、湯船に浸かっている先輩に許可を求めるルールなどは、時折忘れそうになってゾッとしたものです。悪い冗談のように聞こえるかもしれませんが、本当ですよ。



僕の人格形成・・・残念ながら深く影響していると思います。寮生活をすると、早い時期に親元を離れるため、「良くも悪くも」早く大人になります。どのタイミングで人に媚を売るか、誰に付けば得をするか、そんなことも14、15ですでに習得してしまうのです。当然イジメのようなものもありました。僕は参加しないように努めましたが、傍観者であったことは間違いありません。チームで暮らしていくためには自分を殺さなければなりません。まずは、自分の身を守ることから始まるのです。僕は一年間で寮を出て、親戚の家で暮らし始めたので(これもこれで難儀しましたが)、染まりきることはありませんでしたが、あの環境はまさに『蝿の王』でした。上品な寄宿舎もあるかもしれませんが、生憎僕はそういう環境を知りません。10代の僕の体験をここに書いたら本筋から大きく離れ、小説になってしまうかもしれません(笑)いずれにせよ・・・もし、タイセイさんが将来お子さんを寄宿舎に入れるかどうかで悩まれることがあったら、できれば、17までは親元で育ててあげてほしいなと、個人的には思います。
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読者と語り手のコンフリクト (タイセイ)
2006-09-12 23:39:58
なんだか、読書のおもしろさのひとつには、こういう読者と語り手(それが「私」であれ、誰であれ)の間の摩擦関係にあるような気がしてきました。読み手の意識とフィクションの中で実際に語られる声との間には、多かれ少なかれ軋轢が生じてきて、それこそが読書経験から発生する「反応」で、その反応を楽しむことに意義がある・・・というような感じです。まあ、偉そうに書きましたが、きっと誰かがどこかでこのようなことを既に述べていることでしょう。



寮生活についてですが、逆に「先輩」という立場になると、どうなんでしょう。けっこう気分のいいものかもしれません。



>10代の僕の体験をここに書いたら本筋から大きく離れ、小説になってしまうかもしれません



機会があったらどこかで書いてみてください・・・ここでご紹介いただいた内容だけでも興味津々ですので。
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もうご存じかも知れませんが… (asami)
2006-09-15 15:47:29
シャーロット・ブロンテは、子供の頃にローウッドみたいな寄宿舎に入れられてたことがあり、そこの環境が原因でお姉さんを亡くしています。

(だから結局、こんなところに子供達を置いておけない!と父親に呼び戻されることになる。)

なので…小説で寄宿学校のひどい実体を事細かく描いたのには「告発」みたいな意図もあったのかも。

当時の時代性もあるんでしょうかね…曖昧ですが、医学も今ほど発達していないし、衛生状態も…ということで。



Helenは…幼くしてそこまで人間ができていたからこそ、早く亡くなってしまうキャラだったのかな?という気もします。

もうこの世でやるべきことを、早いうちにやりつくしてしまったと言うか。



「語り手」については…そういうふうに意識したことはなかったなぁ…。

まあ一人称小説だと「主人公目線」になることはやむを得ないので、ある程度は「私は正しい」みたいになりがちですけどね。

(ドラブルの「碾臼」も、確か一人称じゃなかったかな?あれでも「私は…」に対し、突っ込んでしまったこともあったような。)



もうロチェスター氏との恋愛部分にまで行ったのかな。

ここも、もしかしたら、かなり突っ込みたくなるかも>主人公の態度
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↑Nekoです。>asami (Neko)
2006-09-15 15:48:36
誤って、他の場所で使用しているHNを使用してしまいました。

すみませんm(__)m
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コメントありがとうございます。 (タイセイ)
2006-09-17 00:08:23
>Nekoさん



『ジェーン・エア』は僕の想像以上に読み応えのある小説でした。もっとつまらない本かと思っていたのです。ここまでみなさんといろいろ語りあえるような本だとは思っていませんでした。



寄宿学校については、そういう告発の面もあったと思います。この流れでしょうか。子供には苦労をさせろ、みたいな面は、現在のイギリスにも多少残っているような気がします。「苦労をさせろ」というよりは、「甘やかすな」みたいな感じでしょうか。具体的にどうとか、うまく例が挙げられませんが、僕が住んでいたときにちょっと感じたことです。



『碾臼』他、ドラブルの小説もまた一人称なので(全部がではありませんが)、「私」が全面に出てきますね。彼女についてもまた、素直に読むことができません。でも、どちらかといえば、ドラブルの主人公はみんなちょっと無器用なので、あんまり嫌いにはなりません。



ロチェスター氏については、次のブログにでも、そろそろ書いてみたいと思っています。だんだんネタはまとまりました・・・。『ジェーン・エア』のヤマ場ですね。
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