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A Diary

本と音楽についてのメモ

ブロウディ先生の最良の時

2006-07-02 13:17:03 | イギリスの小説
■ミュリエル・スパーク 『ミス・ブロウディの青春』 (岡照雄訳、筑摩書房1973)

エジンバラは見てまわるのにいいところだ。僕はたしか三回訪れた。日本からお客さんが来て、ちょっと小旅行をしようということになったとき、案内すると喜ばれる街。ロンドンから飛行機で行ってもいいけど、キングス・クロス駅から特急列車に乗って、何時間もかけてゆっくり行くのも悪くない。列車はドンカスター、ヨーク、ニューカッスルなどを経て、エジンバラの街に滑り込む。駅は市街の中心に位置しているのだけれども、なんだか谷間のような窪地にある。そしてその両側の見上げる谷の上に、昔ながらのヨーロッパ的なたたずまいの街が広がっている。そういうなかなか素敵な街。

エジンバラはロンドンのように大きな都市ではないから、主な観光地はみんな徒歩で巡ることができる。誰もが行くのはエジンバラ城だろう。城は高台にあって、遠く海のほうまで見渡すことができる景色の素晴らしい場所。有名なフォース鉄道橋も見える。僕が初めてエジンバラに行ったのはイースター休暇のときで、春先のまだ冷たい風が吹きすさぶ夕方だった。今回掲載した写真はそのときのもの。エジンバラの街の様子。あんまりうまく撮れていないけど、まあ、雰囲気は伝わると思う。

『ミス・ブロウディの青春』は1930年代のエジンバラが舞台の小説で、ミス・ブロウディに率いられた生徒たちもまたエジンバラの街を徒歩で巡る。でも、現在のように観光地としてこぎれいになったエジンバラの街ではない。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のつかの間の平和と、そして一方、不況で失業者があふれる不安定な時代。イタリアとドイツではムッソリーニとナチスがそれぞれ勢力を伸ばしている。この本では、ミス・ブロウディとその取り巻きの女子生徒たちの個性的なキャラクターがスパークらしくユニークに描かれているが、こういう厳しい時代背景もまた色濃く影を落としている。

* * * * *

ミス・ブロウディ(ブロウディ先生)の口癖は「人生最良の時」。これはこの作品のキーワードでもある。読んでいると何回も繰り返されるフレーズ。

「さあ、みんなこっちを向いて。人の最良の時というと、その人がまさにそのために生まれて来たような瞬間のことです。いよいよ私にもそのような時がやってきて―サンディ、またよそ見をしてるのね。何のお話をしていたか言ってごらん」
「先生の最良の時です」(pp.11-12)

このとき生徒の一人であったサンディはこのとき10歳。それから時が流れ、第二次世界大戦も終わって、やがてサンディは修道会に入り、中年になった彼女はシスター・ヘレナと呼ばれていた。

「シスター・ヘレナ、あなたの学校時代、何に一番影響をうけましたか。文学、政治、それとも個人の影響でしたか。カルヴィニズムですか」
サンディは答える。「ブロウディ先生という人がありました。先生の最良の時でしたわ」(p.124)

『ミス・ブロウディの青春』は、このユニークな教師のキャラクターを読み解いていくことにおもしろさがある。彼女が自ら「最良の時」と宣言するのは、どういうわけなのか。そして本当に、僕たちからしてみても「最良」と呼べるような人生なのだろうか。どちらかといえば、ちょっと強引かつ自己中心的で、それでいて無器用で弱みもある・・・読んでいると、そんな女性像が浮かび上がってくる。このような主人公の様子が、どちらかといえば、主に生徒たち(取り巻きの女子生徒たちは「ブロウディ・セット」と呼ばれている)の視点から、描写・批評されていく。

そして、この作品の本質的なところには、スパークの他の作品同様、宗教的な色彩がじわりと帯びてくる。十五歳の頃に、サンディは「神は事実上あらゆる人に、その生まれる以前から、死ぬときのためにちゃんと意地わるい不意打ちを計画している」とか「死の前の奇襲がいっそうこたえるように、或る人々に偽りのよろこび、救済の意識を植えつけるのも、まったく神の勝手である」(pp.105-106)などという、カルヴィニズムの宗教観(いわゆる「予定説」)にとらわれるようになった。

そしてサンディは、このカルヴィン的な視点に立ってブロウディ先生を見直したときに、「自分には神の恩寵があると勝手に決め込んでいた」ブロウディ先生には、「最良の時の行きすぎ」があると感じるようになる。その後サンディはブロウディ先生を裏切り(これがカルヴィニズムの「意地悪い不意打ち」に該当するわけだ)、その教職を辞職させて、そして、やがて先生は亡くなる。

この経緯をおそらくサンディは後悔しているせいだと思うのだが、彼女はカトリックに改宗し、修道女となる。修道女となってからのサンディが、あたかも刑務所の中から面会しているような様子に描かれるのは、ブロウディ先生への裏切りという形の「死の前の奇襲」を悔いているせいではないか・・・こう僕は想像するのだが。

* * * * *

先日スパークが亡くなった際、この場でデイヴィッド・ロッジのオービチュアリーを引用したが(2006年4月21日のブログ)、ロッジはそこで「場合によっては、たったひとつのパラグラフ内で、現在から過去、未来、そしてまた過去に戻るというよう例もあり、めまぐるしいスピードで時間が展開する」と書いていた。で、この『ミス・ブロウディの青春』は、このロッジの指摘どおり、時間の展開の面でもなかなか興味深い。実際、現在・過去・未来があちこち行き来しあう。そして、それなのに読んでも違和感がない。無理がない。

他のスパークの作品同様、あんまり長さがない。中篇小説といった程度の分量。翻訳の言葉遣いはちょっとどうかなと思うところがあるが(誤訳ということはないと思うが、別の人が違う言葉遣いで語らせたら、作品の印象がかなり変わりそうな気がする)、それでもやっぱりスパークらしい個性にあふれる良い小説。

ゴールディングの『尖塔』に挑む

2006-06-27 12:24:18 | イギリスの小説
■ウィリアム・ゴールディング『尖塔―ザ・スパイア―』
(宮原一成・吉田徹夫訳、開文社出版、2006)

もし読書に対して「わかりやすくて、面白い」ということを期待するのなら、この『尖塔』はちょっとどうだろう・・・。向いていないかもしれない。きっと、一度読んだだけでは内容がよくわからないと思うから。このゴールディングの第五番目にあたるフィクションは、僕が思うに、彼の作品の中でも一二を争う興味深い作品のひとつなのだけれども、だいぶ難解で、安易な理解を読者に拒んでいる。

『尖塔』をわかりづらくしている何よりの原因は、作品の「語り手」の視点に制約がある点。この本は14世紀のイギリスを舞台に、ジョスリンという司祭の主人公が聖堂に尖塔を建設するというヴィジョンにとりつかれ、建設を進めていくという話。舞台は中世のイギリスなのだから(ソールズベリ大聖堂の尖塔がモデルになっている・・・ゴールディングはソールズベリの近辺に住んでいた)、登場人物たちが使える言葉や発想には制約が発生する。つまり、ゴールディングはリアリズムを重んじているから、本文中の描写では、現代用語のメタファーや科学的説明を意図的に避けていて出てこない。14世紀に生きた聖職者の視点を想定して描いている。そのため、主人公ジョスリンの性的抑圧・妄想および、彼の肉体的・精神的な病状は、本来ならフロイト的文脈や精神分析用語で説明してしまえば簡単に済んでしまうことなのだが、中世的な言辞と発想のみで描きださなければならない。読者はこの表現を「解読」しながら読まなければならないので、これが『尖塔』をややこしくしている。

例えば、「ジョスリンは性的に興奮した」とか何とか表現すればいいところを、

「ただ、西のほうからせり上がってきた悪魔(サタン)だけが、ジョスリンの身廊の上に立ち、燃えあがる髪以外のものは一糸もまとわぬまま、建物に手を出してさいなんだので、ジョスリンは沼地の上、なま暖かい水の中で身悶えし、大声をあげて叫んだ」(p.79)

と書くことになるし、病気で背骨に激痛が走るときも、

「すると彼の天使が、割れた蹄の生えた足に二枚の羽を畳み込み、ジョスリンの尻から頭までを、白熱する殻竿で打ちすえた」(p.249)

と表現することになる。とまあ、こんな具合で素直に読めばいいという本ではないのだが、逆に言えば、ゴールディングは中世的な言語と発想のみで、現代的な苦悩を描くという荒業に取り組んだわけで、この点で『尖塔』は芸術的にもっと評価されるべき作品だと思う。(このような手法は彼の第二作『後継者たち』とも共通していて、こちらはネアンデルタール人の視点・発想のみから世界が描写されていた。)また、過去の舞台設定の枠組みを使いながら、現代的なものの見方を描きこむという点では、『尖塔』もまたゴールディングお得意の「寓話」(fable)手法を使っているのだとみなしてもいいのかもしれない。


* * * * *

ところで今回、翻訳が出版されて久しぶりに読み直してみると、僕は『尖塔』が想像していたよりゴールディングらしさの多い作品だなと思った。「ゴールディングらしさ」と簡単に言ってしまったが、それが何かは、僕にはまだうまく説明できない。ただ、次のような要素が『尖塔』を読んでみて僕が気になったところ。そしてこれらは、ゴールディングのフィクションに一貫して登場するポイントにも通じていると思う。


<位置エネルギーの存在>

これは物理的な高低差を示す用語として僕が勝手に使っている言葉。高い位置にある人やモノはエネルギーを有する、という意味で。ゴールディングのフィクションではこの点がいつも気になる。さらに言えば、この「高低差」については、細かく三つの意味合いがあって、まずは「高いところに登って、新たな眺望を得る」という視野のこと。『尖塔』で言えば、ジョスリンが建設中の尖塔に登り、四方の風景を見渡す場面がある。狭い聖堂の中ばかりの描写が多いなかで、一瞬にして世界が広がり、新鮮な印象を読者にもたらす。『蝿の王』でも少年たちは孤島の高台に登り、四方に広がる海を見渡す場面があったことを僕は思い出してしまう。

位置エネルギーの二つ目の意味は、「高いところは物を下に落とすことができる」という意味合いがあること。これはつまり、高いところに立てば、ある種の力を保持することができるという意味。『尖塔』では、これが次のような言葉で表現されている。

「愚かだった私は、一段一段高くなるごとに、新しい教訓と新しい権力とが待ち受けているとは考えもしなかったのだ」(p.138)

尖塔が高くなればなるほど、ジョスリンは権力が得られることに気付いている。『蝿の王』では、少年たちが島の高台から岩を下に落として遊ぶ場面があったが、一方『尖塔』では、これとは逆向きの動きとして、塔のてっぺんに取り付ける冠石を苦労して持ち上げるシーンが出てくる。また、なんとか完成した塔が風雨によって崩落してしまわないか、ジョスリンは常に気にし続けるのも位置エネルギーのテーマに通じていると思う。そして最後に三つ目の意味合いは、高いところから下へ「墜落する」=「堕落する」という精神的・比喩的なニュアンスでの「高低差」の問題だが、今回の『尖塔』では、人が一人、事故で墜落死するという言及はあったものの、このようなニュアンスでの使用は直接的には見られないようだ。


<「四大元素」のこと>

これはつまり、ゴールディングのフィクションでは、火、水、土(石)、空気(風)の描写が頻出することを僕は言いたかった。とくに『尖塔』ではこの点が顕著だと感じた。大聖堂に尖塔を建設するという、きわめてキリスト教の色彩の濃いはずのストーリーなのに、このような原始宗教的・異教的な要素が強く反映している。これはどうしてだろう。ジョスリンは塔の高みから、遠くストーンヘンジの遺跡(キリスト教以前の異教遺跡)を見やり、また夏のある宵には、「夏至の儀式の火で、丘の上に来た悪魔崇拝者たちが灯したもの」を見つめることになる。土については、次の箇所がとても印象深い。これは、この聖堂の建っている土地がどのくらい軟弱か、聖堂の中に試掘された穴をジョスリンが覗き込む場面。穴に落ちた小石をジョスリンは観察している。

「小石の一つが、まるで急に不安に駆られたみたいにもぞもぞした。見れば他の石もみなじっとしておらず地虫がうごめくようにゆっくり身動きしている。地虫の下で土自体が、鍋で沸きあがる寸前の粥のように動いていて、地虫をあちらへこちらへと揺り動かしているのだ。そのせいで地虫は、太鼓を叩くと革の上の埃が這いずり回るみたいに、うごめいているのだった」(p.98)

不気味にうごめく聖堂の地下の土。勝手にもぞもぞ動いている。「何らかの生命体。本来見ることも触ることも許されぬもの。地面の下に息づく暗黒、のたうち、逆巻き、沸きあがろうとしている・・・まだ息の根を止めていなかった邪教の大地、地母神がついに縛を破って目覚めたというのか。」こんな具合で、地上のキリスト教的な秩序世界とは対称的な、原始的・無秩序世界をゴールディングは描きだしている。他の「元素」として、水については、ジョスリンのいる聖堂自体が沼地の上に建てられたようなもの、とか、洪水で水浸しになる、といった箇所が出てくる。風(空気)については、建設された尖塔を大きく揺り動かす役割を演じている。これらもまた、聖堂や尖塔という「キリスト教=理性=人間」という感じの秩序世界を破壊しようとする役目だとみなしてよさそうだ。そして、こういう対立軸は他のゴールディングのフィクションでも頻出するものだと思う。


<ダーウィニズム>

文学でこういう「イズム」を使い出すのは何かと面倒で、かつ危険なのだけれども、僕は「適者生存」の法則ということ示したいだけ。つまり、肉体的欠陥とか、なんらかの弱点を持つ登場人物は子孫を残すことができない、という法則が、作者が意識しているにせよ、してないにせよ、作品中に反映している事実のこと。(僕はこの視点から本を読むのが好きだ・・・ゴールディングに限らず、実は多くのフィクションがこの法則にとらわれている。)このダーウィニズム的視点から『尖塔』を読んだ場合、パンガルがまさに該当する登場人物。パンガルは「少し左足をひきずって、ひょこひょこと進み出て」くるように、足に障害が見られるが、彼は子供を作ることができないという設定にもなっている。ゴールディングは意識してこういう登場人物を創造したのかどうかわからないが、このようにして肉体的欠陥と性的不能とがパンガルというキャラクターで結び付けられている。

さらに言えば、主人公のジョスリン自身もこの法則に該当するかもしれない。背骨を病んでいるという肉体的欠陥に加えて、尖塔建設の狂信的ヴィジョンにとらわれているという点で精神的にも正常とは言いがたい。もちろん、ジョスリンは聖職者だから禁欲を強いられているという表面的事実はあるものの、むしろ肉体的・精神的異常が、グッディとの正常な関係を妨げていると解釈することもできると思う。こうした、肉体的欠陥のあるキャラクターは他のゴールディングのフィクションにも登場しており、僕はいつも興味を感じるところ。(cf.『可視の闇』のマティー)


<暴力的な場面>

上の<四大元素>のところで引用した土のうごめく試掘の穴を見て、人々の大混乱が生じる。群集は「荒れ狂い、収拾がつかなくなった。」尖塔建設の親方、ロジャー・メイソンは大声で叫ぶ:

「落ち着け!落ち着けと言ってるだろうが!石を、どんな石でもいいから、持ってこい―坑をふさぐんだ!」
 するとまた騒音がどっと上がったが、今度は詠唱のような調子であった。
「坑ふさげ!坑ふさげ!坑ふさげ!」(p.100)

こうして大混乱の中、石やら、何やらがどんどん穴の中に投げ込まれていく。この「詠唱のような調子」で人々が異常な状態になるといえば・・・:

引き裂くような青白い稲妻によって、真っ暗な空が震え戦いた。と、その次の瞬間、巨大な鞭でぶちのめすかのように、少年たちの頭上に轟音が鳴り響いた。詠唱は苦痛にうちひしがれたような甲高い調子になった。
「獣ヲ殺セ!ソノ喉ヲ切レ!血ヲ流セ!」(平井正穂訳『蝿の王』新潮文庫p.264)

『蝿の王』では、この混乱の中でサイモンが殺されてしまう。一方『尖塔』では、この穴をふさぐ混乱の中で、パンガルもまた投げ込まれ、生き埋めにされてしまう。サイモンとパンガルは生贄にされたという意味では共通している。(この二人は類似していない点もあるので、完全に一致するフィクション内のキャラクターではないと思う。)こういう、暴力的で異常な人間集団の状態を描かせると、ゴールディングはいつもすごい。


* * * * *

そういえば、もう一つ思い出したのだけれども、この『尖塔』には「海」のイメージが時々出てくる。緑に囲まれたソールズベリの大地。海の気配は普段はまったくない。それなのに、何かノスタルジックな、感傷的なイメージが付与されて「海」の気配が現れる。(読んでみてください・・・これ以上引用するのも、どうかと思うので。)海辺育ちの僕には、こういう描かれ方は、情緒があって懐かしくて、悪くないものだ。

こうやってあれこれ書いてきたら、なんだか出来の悪い学生のレポートみたいになってしまった・・・。僕が言いたかったのは、ゴールディングに多少でも親しみのある人ならば、とくに『蝿の王』を十分に読んでいる人ならば、この本は読む価値がありますよ、ということ。ただし、最初にも書いたけれども、この本はややわかりづらく、何回か読み直す必要があると思う(でも、良書の何よりの証拠)。逆に言えば、多読に十分耐えうる本なのだ。一回買って読んだら、もうブックオフに持っていってもいいや、みたいな本が多い現在、貴重な一冊だと思うのだけれども。

付け加えれば、この翻訳は脚注がいい。ゴールディングが明確に書いていない部分の、謎解きのきっかけとなるヒントを提示してくれる。それも、完全に種明かしをするような注のつけ方ではなく、読者を多少考えさせるような程度の説明。あと、多少宣伝じみたことを言えば、これだけの内容と読み応え、翻訳・脚注などひっくるめてこの値段(1890円)はとても安い。翻訳した先生方と出版社に拍手。

抽象的な葬式

2006-06-21 13:11:47 | イギリスの小説
■ミュリエル・スパーク「詩人の家」(短編集『ポートベロー通り』より)
(小辻梅子訳、社会思想社1990)

とある方からのお問い合わせをいただいた。

「ミュリエル・スパークの短編『有名詩人の家』に出てくるキーフレーズ「抽象的な葬式」とはどういうことでしょうか」

今日はこの質問にお答えする日記。まず、そもそもこの短編はどういうストーリーか要約する。

* * * * *

1944年の夏、主人公の「わたし」はロンドンへ向かう夜行列車の車内で、エリーズという住み込みのお手伝いさんをしている女性と知り合い、そのまま彼女の働いている現代詩人の家に一緒に招かれる。そこで一泊して去ろうとする際に、一人の兵士が現れ、「抽象的な葬式」を8シリング6ペンスで買ってくれないかと頼み、「わたし」はそれを購入する。郊外へと向かう列車の中で、「わたし」はその兵士とまた出会い、この「抽象的な葬式」をエリーズも詩人も購入したことを知る。しかし「正式な葬式」のほうがいいと感じた「わたし」はそれを列車の窓から棄ててしまう。そのころ、エリーズも有名な詩人も、ドイツ軍のロケット弾で即死してしまっていた・・・。

* * * * *

ミュリエル・スパークの書くものは、リアリスティックな描写をしつつ、その中に非現実的な事柄を混ぜ込んでくる仕掛けが多い。この『有名詩人の家』でも、1944年のロンドン、それもスイス・コテージ(僕が以前住んでいたところから近い)という具体的地名が挙げられて、ストーリーに現実味を持たせている。その一方で、登場する兵士は不可解で非現実的な振る舞いをするし、「抽象的な葬式」といった、非現実的なことがらも織り交ぜられていて、読者を混乱させている。(「抽象的な葬式」という非現実的な要素が、「8シリング6ペンス」という現実的・具体的な価格と結びついているあたりが、スパークらしさを象徴していると思う。)

そこで、この「抽象的な葬式」とはどういうことか、考えてみることにする。まず「抽象的」という点だけれども、これは「捉えどころのない、形のはっきりしない、どういうふうに見えるか描写しようのない」という意味で使われていることがわかる。だから、「抽象的な葬式」と言う場合、そういう「はっきりしない、よくわからない形の葬式」ということになる。 あるいは「頭の中で想像するだけの、イメージだけの弔いの気持ち」と考えてもいいかもしれない。

次に、「抽象的な葬式」を8シリング6ペンスで購入したエリーズと詩人の運命を考えてみると、二人ともドイツのロケット弾で死んでしまったことがわかる。本文にはこういうふうに書いてある:「1944年の夏、多くの人々が突然むごたらしく殺されました」・・・つまり、スパークはこういう無残な人々の死にかたと、「抽象的な葬式」というイメージを結びつけているのではないかと想像できそうだ。

主人公の「わたし」は次のようにも言う:「わたしが欲しいのは正式な葬式だわ」・・・この「正式な葬式」とはどういう葬式だろう。僕が想像するに、霊柩車も棺もあって、ちゃんとした形で葬られることを指すのだろう。ところが、戦争の空爆で亡くなる場合はどうだろうか。ちゃんとした「正式な葬式」をしてもらえるだろうか。多くの人々がむごたらしく殺される中、そういう立派な葬式は無理なのだろうと考えていいと思う。このような無残な死に方をした人たちには、残念なことに、弔う気持ちとイメージだけから成り立つ「抽象的な葬式」しかしてあげられない。

さらにスパークが「抽象的な葬式」をどのように形容しているかも参考になると思う。

・紫がかった喪の色
・袋に入れてもいっぱいで、ポケットにも入れ、引きずって持っていく
・8シリング6ペンス
・列車の窓から棄てると「ひらひら」散っていく

とくに、8シリング6ペンスという価格の安さに目がとまる。たったそのくらいの金額でもって、エリーズと有名詩人は死んだのだ。いかにあっけない死にかたかが強調されている。さらに付け加えれば、色にとやかく言うのも軽薄な感じがするし、量がたくさんあるものも、なんだか安っぽい感じがある。また、「わたし」が「抽象的な葬式」を列車の窓から棄てると、それが「ひらひら」散っていくのだが、そんな描写も、この「抽象的な葬式」のあっけなさ、はかなさが伝わってくると思う。

* * * * *

ということで、「抽象的な葬式」とは、どういうことか。僕には「戦争中のロンドンの、無残であっけない死」と、そういう亡くなり方をした人々への形式ばらない「弔いの気持ち」を指していると思うのだけれども、どうだろう。 でもさらに一歩進んだ解釈ができそうだ。ここで十分注意したいのだけれども、スパークはこの短編『有名詩人の家』で、戦争反対、とか、戦争の無残さ、とかを単純に主張しようとしているわけではない。この短編の最後の部分はじっくり考える価値がある。

「青いタイルのひびわれた浴室、床のベッド、ひからびたインクつぼ、荒れ放題の庭、きちんと並んだ本―、わたしはこれらのものを思い出すたびにエリーズと詩人は即死したのだと思って腹立たしくなるのです。復活の天使が死んだ男や死んだ女を喚び起こすかもしません。しかし、わたしがやらなければだれが、倒壊した有名な詩人の家を復元するでしょうか?ほかにだれがその物語をしてくれるでしょうか?
 エリーズと詩人がだまされて―善意の兵士に葬式の観念を黙って買わされたことを思うとき、いつかわたしも、そして読者の方々も、抽象的な葬式を文句言わず受け入れるだろうと自分に言いきかせるのです」

有名な人々も、身近な人々も、こんなふうにあっけなく死んでしまったという事実。まずそれをスパークは述べようとしている。そして僕は最後の一文をこう解釈する・・・「彼らがあのように死ぬのもひとつの運命であったのだったことを考えれば、私たちもまた、こういう、はかない生と死の運命を受け入れていくことでしょう」

スパークの言う「抽象的な葬式」とは、「生と死の運命」とか「人生のはかなさ」みたいなものではないか。

ドリス・レッシングのこと

2006-05-27 14:09:20 | イギリスの小説
■ドリス・レッシング『破壊者ベンの誕生』(上田和夫訳、新潮文庫1994)

僕個人が興味を持っているせいか、イギリスの1950年代から70年代くらいにかけては、実力ある作家が活躍した華やかな時期のように思える。かつて勉強した英文学史の教科書がそういう記述をしていた影響かもしれないが。

20世紀を大まかに振り返ると、まずヴィクトリア朝の流れを継承するような感じの作家がいて(ゴールズワージー、ベネット、ウェルズなど)、そのあとブルームズベリー・グループとその周辺の人々がいる(フォースター、ジョイス、ウルフ、ロレンスなど)。1930年代前後は、個人的にはなんとなく韻文の時代という感じがして、イェイツとT.S.エリオットがいて、戦争詩人もいて、さらに、オーデンやディラン・トマス、シットウェルなどの詩人が続く。

1930年代くらいだと、これらの詩人たちの活躍の一方で、オーウェルやグレアム・グリーン、ウォーといった大作家が作品を出版し始めている。そして、これらの世代の人々に続くのが、僕の興味ある作家たち。すなわち、男性作家だとアンガス・ウィルソン、ゴールディング、エイミス、バージェスなど。そして、1950年代の女性作家御三家といえば、アイリス・マードック、ミュリエル・スパーク、そしてドリス・レッシング。

* * * * *

ドリス・レッシングは日本での紹介が少なくて、もったいない作家だと感じている。このブログのどこかでも書いたが、絶版ばかりとはいえ、御三家の一人のマードックの作品はまあまあ翻訳されている。そしてスパークの作品も、まずまず翻訳されている。一方、御三家の最後一人、レッシングの作品はなぜか翻訳が少ない。この理由は、僕が想像するに、彼女の作品がちょっと異色だからではないか。「ふつうの小説」みたいなものもあるが、代表作はみなちょっと「小説らしくない」特色があるように思える。良くも悪くも個性的なのだ。

処女作『草原は歌う』(1950)は社会問題や人種問題に強く関わる作品だし、代表作『黄金のノート』(1962)の内容は、女性とかフェミニズムとは切り離して語ることが難しい。またこの作品は、ちょっと「小説」と呼ぶのにはふさわしくない感じがして、エッセイっぽいところもある。1979年には『シカスタ:アルゴ座のカノープス』を出版し、作品は突然SFになってしまった。ところがまたこれが、タイトルの印象に反して典型的なSFとは一線を画す内容で、その内実は地球の現状を憂うような、社会的な作品だったりする。

レッシングの本を全般的に見れば、社会的なメッセージ性の強い作品が多いといっていいだろう。今回取り上げた『破壊者ベンの誕生』は、表面的にはそういうメッセージ性は描かれていないが、でもやはりレッシングの社会問題への意識が見え隠れしている。

ストーリーは単純で、簡単に要約できてしまう。比較的地味で健全な意識の持ち主二人が結婚し、家をローンで購入し家庭を築いていく。子供が次々と生まれ、お金は無いが、親類も集まるような賑やかな一家になる。ところが五番目に生まれた子供ベンには異常があった(この本の原題は『The Fifth Child』)。肉体的発育が早く凶暴。知能は低い。グロテスクな容姿。親戚たちも、兄弟たちも、そして父親も彼を敬遠し、母親だけがかろうじてベンの面倒を見る。そして成長していったベンは、必然的に不良グループに入っていく・・・そういうストーリー。

いくつかポイントはあるが、母親と子供という関係が焦点のひとつ。とても愛せないような、死んでくれたほうがいいと思わせるような子供でも、やっぱり自分の子供なのだ。ベンは一度母親から離され施設に入れられてしまうが、そこで非人道的な扱いを受けているベンを見つけた母親は、彼を連れて帰ってしまう。しかし、こういう母親の愛情に対して、ベンはまったく無関心なので、母親は報われない気持ちが続く。周囲の人々もそんな彼女を非難するばかりで理解しようとしない。

レッシングのやり方、つまり、社会問題(人種、経済、環境、女性など)をフィクションに混ぜ込む方法を突然読むと、ちょっと抵抗があるかもしれない。小説らしい小説として期待すると、こういう点で少々独特すぎて裏切られてしまうのだ。そういう点で、この『破壊者ベンの誕生』はレッシングのカラーがほどよく薄まっているいるので、ドリス・レッシングと仲良くなるためのきっかけとして、いい一冊なのではないかと思う。逆に言えば、『破壊者ベンの誕生』だけではレッシングという人は理解できない。この本の前後には、レッシングが手がけた深い作品世界が広がっている。

* * * * *

『破壊者ベンの誕生』には、実は続編がある。2000年に『Ben, in the World』が発表された。こちらは現在のところ英語で読むしかない。先に触れた『シカスタ:アルゴ座のカノープス』も全五作品のシリーズになっているのだが、やっぱり最初の一作品しか翻訳がない。レッシングの作品は、このほかにも『Martha Quest』のシリーズとか『Mara and Dann』のシリーズとか、連作ものが多い。時間をたっぷりかけて、こういうレッシングの世界をゆっくり楽しめたら最高だろうなと思う。

僕たちが子供だったころ

2006-05-23 17:53:18 | イギリスの小説
■カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』
(入江真佐子訳、早川書房2001)

僕が生まれ育った街は、海と山とが迫っている場所にあった。山側の高台には江戸時代に造られた城の跡があって、そこからは工場の点在する市街地が一望でき、さらにその先には太平洋がはるかに広がっていた。小学校の頃、その城跡へ幾度となく遊びに行き、そして、いつも眺めたその光景。最後に訪れてから、もう二十年くらい経過している。

小学校時代、四年生の頃まで土肥君という友達がいた。僕にとっては特に仲のいい友達の一人で、数え切れないくらい一緒に遊んだし、何回も彼の家に遊びに行った。彼の父親は警察官だったが、ということは、転勤がどうしても避けられない家庭だった。僕たち二人が四年生のとき、彼は遠い県南へと去り、一度くらいは年賀状を書いたが、それ以来一度も会っていない。引越しする直前に家に行ったとき、お父さんには内緒だったが、警察官の制帽をかぶらせてもらったことがずっと印象に残っている。

家から歩いて五分くらいのところ、「電線工場入口」のバス停のあった場所に、とてもおいしい中華料理屋さんがあった。両親に連れられて何回も食べに行った・・・とくに野菜炒めと焼きそばがおいしかった。母親はよくタンメンを食べていた。最後に食べてから二十年近い今でも、なぜかあの味だけは忘れられない。今でも中華料理屋さんで焼きそばを注文するときは、あの味を期待している自分がいる。

* * * * *

「・・・それから、ぼくたちが子供だったころ、世界がどれほどよく見えたかってことについてだけど。これは、ある意味ではまったくナンセンスだよ。大人たちがぼくたちにそう思わせたということだけのことなんだ。子供時代のことにノスタルジックになりすぎてはいけないよ」

「ノス・タル・ジック」それが彼が探そうと必死になっていた言葉であるかのように、アキラは言った。それから、彼は日本語で何か言った。おそらく〝ノスタルジック〟にあたる日本語なのだろう。「ノス・タル・ジック。ノス・タル・ジックになるというのはいいことだ。すごく大事なことだ」

「ほんとうかい?アキラ?」

「大事。とても大事だ。ノスタルジック。人はノスタルジックになるとき、思い出すんだ。子供だったころに住んでいた今よりもいい世界を。思い出して、いい世界が戻ってきてくれればと願う。だからとても大事なんだ。・・・」

(『わたしたちが孤児だったころ』第二十章より)

* * * * *

この小説がどういう小説か、一言でまとめることはできない。いろいろな要素が重層的に構成されていて、ある一面だけを取り出せばそれは正しいのだけれども、しかしそれだけでは本質を語ったことにはならない。

例えば、主人公が私立探偵であるので、イシグロによる「探偵小説」とか「冒険小説」と呼ばれることもあるが、明らかにそういう読み方では不足だ。表面的には、主人公が両親の失踪を解決していくという展開だし、かつ、失踪した母親との再会の場面もあるので「スリリングで感動的な物語」というレッテルを貼りたくなるところ。でも、これは違う。探偵ものとか、冒険ものとして期待すると、明らかに裏切られる。

小説の叙述技法とかナラティヴの技法を研究する人にはぜひ読んでもらいたい一冊。この本は主人公のクリストファーによる一人称の語り手がストーリーを進行させていくが、彼がいわゆる「信用できない語り手」であることに気がつくと思う。そして彼には「アンチ・ヒーロー」とか、「ピカレスク小説の主人公」みたいな面もある。優秀な探偵であるはずの彼は、結局、一番肝心な事件、つまり自分の両親の失踪の謎について、自力で解決することができないのだから。

これからこの本を読むという人には、クリストファー・バンクスという主人公のキャラクタライゼイション(キャラクターづくり、とか、性格構成)に注意してもらえると興味深いのではないかと思う。例を挙げると、冒頭近くに:

「わたしはナイツブリッジまで歩いていき、アン女王朝様式の茶器一揃いと、上等の紅茶の包みをいくつか、それから缶入りのビスケットを買ってきていた」

と書いてある。これは自分の部屋を訪れるゲストをもてなすために買ってきたものだ。(ちなみに、ナイツブリッジと言えば、どこにも書いていなくても、最高級百貨店「ハロッズ」のことを指している。)ここを読んで「ああ、イギリスって優雅でいいなあ」って思うのは構わない。『日の名残り』を表面的に読んだときみたいに。でも、この主人公はまだ二十歳過ぎの、一人暮らしの若者なのだ。だから、「なんでこの人はこんなに保守的で高級指向なんだろう・・・見栄を張る傾向があるのかな」と、ちょっといぶかしく思うくらいが正しい。

* * * * *

バス停の目の前の、あの中華料理屋さんは、今どうなっているのか。僕が今から食べに行っても、あのおいしさは変わらずに残っているのだろうか。というか、そもそもあの店はまだ存在するのだろうか。店の名前を検索すると、なんと、何件かヒットした。そして、そのうちの一つにはレビューがあった。こうやって何でも調べることができる、おそるべきテクノロジー万能の時代。

「店内はカウンターとテーブル3つと、こじんまりとした店。・・・まず、運ばれてきたときの量の多さに驚く。この手の店ならば量の多さが売りということは珍しくはないが。下町のラーメン屋と言った感じで昼食事の仕事人を相手にしている店である。味は正直に言うと普通だと思う。・・・麺も近所の製麺所から取り寄せている模様。老店主にはこくなことは言うまい。ただ、腕は確かで野菜の炒めかたを見ても熟練の技を感じ取れる。野菜がシャキシャキしていて美味しい。麺も最初の一口は店主の感がさえていて絶妙の茹で加減である。(ただ麺のせいだと思うがのびるのも早い)色々と言いたいことはあるが、何故かすべてを許せるような店なのである」

ちなみにこの評者による評価では、この店は総合でBマイナスだった。どうだろう、この店。僕は過去を過度に美化しているのか、あるいは、今でも変わらずにおいしいのだろうか。僕の今までの経験からすれば、やはり過去はかなり美化されていて、そのままに、そっとしてあげたほうがいいような、そんな気がしなくもない。

僕は君を守れたか

2006-05-17 01:41:25 | イギリスの小説
■スーザン・ヒル『君を守って』(原題『THE BIRD OF NIGHT』)
(今泉瑞枝訳、YMS創流社1999)

あなたの身近な人に、躁や鬱で苦しんでいる人はいるだろうか。僕にはかつていた。彼は突拍子もなく旅行に出かけたりした。かと思うと、もう死んでやる・・・と言い始めたりする。医学的に厳密な意味で躁鬱病だったのかどうかは、僕にはわからない。他の病気を抱えていて、そういう精神的な不安定さも、その病気のせいだと思われていたから。僕に対してはおおむね親切だったけど、ときには理不尽な態度を取るときもあった。

スーザン・ヒルのこの作品には、フランシスという名前の若き天才詩人が登場するのだが、彼もまた精神を病み、僕が読んだ印象だとやはりある種の躁鬱状態にある。主人公のハーヴェイはフランシスと一緒に暮らし、彼の精神状態に振り回されながらも、彼を助けてめげずに生きていく。そういうストーリー。

ヒルの他の作品にも顕著に現れる特徴がこの本にも出ている。それは孤独とか、人と人のつながりとか、そういう人間関係についてのテーマ。『君を守って』では、もちろんフランシスとハーヴェイのことだ。仮にあなたの好きな人が、こういうふうに精神を病んでいたとしよう。あなたはどう思うだろうか。突然夜中に散歩しようと言われ、一緒に出かけることになるとしたら・・・。行きたいと言っていた場所に行ってみたら、突然やっぱりもう帰りたいと言い出されたりしたら・・・。「もううんざりだ、いい加減にしてほしい!」って思っても、実際に相手にそう言えるだろうか。

きっと言えないだろう。相手は好きでそういう躁鬱状態になっているわけではないのだから。できることといえば、ただひたすら相手のために献身的になるのみ。そして相手からは必ずしも、その献身の見返りがあるとは限らない。一方的な愛情。これはある種の孤独と呼んでよかろう。

* * * * *

『君を守って』の鍵になりそうな要素:

①サフォークの海岸と作曲家ベンジャミン・ブリテン

この小説は年老いたハーヴェイがフランシスとの過去を回想するシーンから始まる。ハーヴェイが住んでいるのはサフォークのとある海岸。河口の周囲には湿原が広がっているような、そういう場所。サフォーク漁村に住んでいた実在の芸術家として、僕は作曲家のベンジャミン・ブリテンを思い出してしまう。そしてブリテンにもパートナーとして、テノール歌手のピーター・ピアーズがいた。

②フランシスとウィルフレッド・オーエンの類似

フランシスは第一次世界大戦で激戦地に派遣され生還し、最初はその戦争詩で有名になったという設定。第一次世界大戦の戦争詩人(War Poet)といえば、オーエンの他にも、ジークフリート・サスーンがいるが、『君を守って』を読むと、僕はオーエンが思い浮かんだ(ただし、オーエンは戦争中に戦死している)。というのも、前述の作曲家ブリテンは、オーエンの詩をもとに、大作『戦争レクイエム』を作曲しているから。

③アメリカ

フランシスはアメリカに渡るストーリー設定になっているが、ブリテンも詩人W.H.オーデンの後を追いかけ、ピアーズとともにアメリカに行っている。フランシスは単身アメリカに行くので、両者はまったく状況が異なるが、なんとなく印象に残ったので。

④ベネチア

フランシスとハーヴェイはベネチアに旅行するが、これはフランシスの精神状態に悪影響を及ぼしてしまった。ベネチアといえばトーマス・マンの有名な小説『ベニスに死す』を思い出すが、ブリテンはこの小説をオペラとして作曲している。

僕はフランシスのモデルがオーエンだとか、ブリテンだとか言っているわけではない。ただ、この『君を守って』を形成する諸要素に、ブリテンの影がちらついているように思えてならない。実際、この本の巻頭言はブリテンのオペラ『ビリー・バッド』からの引用になっている。もしかすると、こういう僕が感じたブリテンの印象は、誰かが研究して明確に説明済みなのかもしれないが、その辺りは調べていないのでなんとも言えない。

* * * * *

ちょっとだけ調べてみると、スーザン・ヒル自身、ベンジャミン・ブリテンの住んでいたオールドバラに1970年ごろ滞在している。このときの印象が文中のサフォークの描写に反映しているは間違いなさそうだ。(『君を守って』の出版は1972年。)ちなみに、「ちょっとだけ調べてみた」のはスーザン・ヒル自身のウェブサイトで、ここには本人(と思われる)が毎日書いているブログもあって、なかなか興味深い。ただし、このウェブサイトを読んでいたら、「よく聞かれる質問(FAQ)」のコーナーにこんなふうに書いてあった:

Have you written any books you now do not like ?

Yes. I think THE BIRD OF NIGHT is a bad novel, though there are some powerful scenes in it. But I just don`t believe in the central character any more and I think it`s a pretty unlikely story. Oddly enough, it won me the Whitbread Prize and was shortlisted for The Booker !!

「今ではあんまり好きではないと感じている作品はありますか」

「はい。私は『君を守って』は出来がよくないと思います。いくつか印象的なシーンもないこともないですが。でも、あんな主人公はちょっと信じられないし、とてもありえそうな話だとは思えませんね。しかし不思議なことに、私はこの作品でウィットブレッド賞をいただきましたし、さらにブッカー賞候補にもなったんですからね」

どうやらこの『君を守って』はヒルのお気に入りではないらしく、ここまで書いてきたのにちょっとがっかりかもしれない。でも、客観的にみて内容がどうかについては、こうした賞の類がやっぱりちゃんと裏づけしていると思う。ちなみに一番のお気に入りは、『IN THE SPRINGTIME OF THE YEAR』(邦題『その年の春に』)だそうで、今度はそっちを読んでみよう。

* * * * *

冒頭に書いた、僕の身近にいて心身の病に苦しんでいたその彼とは、やがて疎遠になってしまった。会わなくなってから約半年後、彼が亡くなったらしいことを知った。自殺、そして、二十四年の生涯。僕がどういうふうに感じているかは、ここにはうまく書けない。

※スーザン・ヒルのウェブサイト:http://www.susan-hill.com/

バイアットに『抱擁』される場合

2006-05-14 17:01:58 | イギリスの小説
■A.S.バイアット『抱擁』(栗原行雄訳、新潮社1996)

ゴールデンウィーク過ぎから読み始めたのが、この文庫本二巻にわたる有名な作品『抱擁』。A.S.バイアットの名前はこのフィクションから一気に有名になった。以前からかなり気になっていた本だったが、なぜかタイミングがなくて、最近ブックオフで第一巻・第二巻がそれぞれ105円で販売されているのを発見し、やっと購入(これはお買い得だったと思う)。翻訳が出て十年も経過してから入手しているわけで、あんまり興味がなかったんでしょう?と聞かれたら、そうだとしか答えようがない。

どんなストーリーか既に知っていたから、正直そんなに期待しないで読み始めたが、意外にも夢中になって読んでしまった。このフィクションはとてもよくできている・・・というか、ものすごい労作。英語で言えば、まさにtour de force(フランス語か?)。よくぞここまで創り上げたなあと思う。

既読の人は知っているとおり、ただ単に地の文がずっと続いてストーリーが展開していく小説ではない。『抱擁』の読者は、ヴィクトリア朝に活躍した詩人たちの詩と散文、彼らの往復書簡、彼らの同時代人たちの日記、現在これらの詩人を研究している学者たちによる伝記や論文・・・こういったさまざまな文書を与えられ、読まされることになる。そしてあたかも主人公たちと一緒に、文学史上の謎を探求するような気分にさせられていく。僕が「ものすごい労作」と思ったのは、韻文散文を問わず、こういった膨大な各種文書が、すべてバイアットの創作によるからだ。まさに、一大パスティーシュ絵巻。

ストーリーは、悪い言い方をすれば、陳腐かもしれない。ありふれた感じ。ヴィクトリア時代に密かに思いを寄せ合っていた二人の詩人がいた。そして現代、この二人の密かな愛を明らかにしようとして、資料を追跡する二人の学者がいて、彼らもまた知らず知らずのうちにお互いを意識するようになる・・・。19世紀の封印されていたロマンスが、次第にその姿を明らかにするにつれて、現代の二人にも何かしらの、恋愛のような感情が生まれてくる。

ただし、この現代の二人の学者の間に生ずる感情は、<愛>とか<ロマンス>とか、そういう言葉で言い表せるものではない。彼らは最初から素直にお互いを愛し合うことができないのだ。これは彼ら自身の個人的な問題ではなく、時代のせいで。この本では、このあたりの事情を次のように説明している:

「二人が育ったのは、愛や、恋や、<ロマンチック・ラヴ>や、ロマンスと名のつくいっさいのものに不信感を抱く文化であり、時代だった。しかもこの土壌は、まるで不信感への意趣返しのように、性的な言葉や、言葉における性現象(セクシャリティー)や、分析や、解剖や、露出や、脱構築(デコンストラクション)を限りなく増殖させた。二人は、理論の上では何でも知っていた」(第二十三章)

このように、理論ばかりで頭でっかちになってしまった現代人と、一方、ヴィクトリア朝的な道徳規範に束縛される19世紀の人たち。倫理的な束縛が薄くなってきた現代のほうが、ヴィクトリア朝の人々よりも、必ずしも恋愛しやすいということにはならないことがわかる。両者ともその時代ならではの条件下で、ぎこちなく「ロマンス」をはぐくんでいくことになる。(原題だとこの作品のタイトルは「Possession: A Romance」となっていて、サブタイトルとして「あるロマンス」と添えられている。)

* * * * *

このブログを参照いただければ明らかなように、僕が文学に少々関心を持っていることもあって、この『抱擁』に登場する英文学者たちの間で交わされる論議はなかなかおもしろい。なかでも、彼らによるメタファーについての言及は気になった箇所のひとつ:

「われわれはメタファーで世界を食いつぶしているのだと、感じたことはありませんか。もちろん、すべてに関連性があることは認めます、何もかも結びついていますよ―どんな場合も―、それにわれわれが―ぼくが―文学を研究するのは、こうした結びつきのすべてが、果てしなく刺激的で、同時に、ある意味では危険なほど強力に思えるからです―まるでわれわれが物事の本質をとらえる手がかりをつかんだとでもいうように」

そしてこのあとに、つぎのように結論づける:

「われわれは実に博識です。ところがわれわれが発見したものといえば、原始的な共感という魔術。幼稚な同質異型的(ポリモリック)倒錯。すべてを自分との関連で見、その結果、われわれは自分自身の中に閉じ込められてしまう―われわれは<もの>が見えないのです。われわれはすべてをメタファーで描いているにすぎない―」(第十三章)

すべてがメタファーだとすると、この『抱擁』もまた何かしらのメタファーなのだと言っていいのだろうか。この『抱擁』という自称<ロマンス>を読んで、僕はどう感じただろう・・・。読書という行為は結局、自分自身との関連で読み楽しむものだ。ということは、上に引用した部分の理屈だと、その結果、読者は自分自身の中に閉じ込められてしまうことになる。つまり、今回の場合で言えば、私たちはバイアットのやりかたにまんまとpossess(抱擁/憑依/所有)されてしまうことになる・・・そういうことだろうか。

『マンスフィールド・パーク』の連休

2006-05-06 12:16:08 | イギリスの小説
■ジェイン・オースティン『マンスフィールド・パーク』(大島一彦訳、中公文庫2005)

僕の2006年のゴールデンウィークはずっと『マンスフィールド・パーク』だった。連休が始まる頃から読み始めて、昨日読み終わった。休日を優雅に南の島あたりで読書しつつ過ごせれば最高だろうが、幸か不幸か世の中のカレンダーとは離れた生活を送っている。ゴールデンウィークとはいえ毎日ふつうに仕事だから、「通勤時間(往復で1時間くらい)・昼休み(30分くらい)・寝る前の布団の中(30分くらい)」という読書三点セットはいつものまま。もっとゆっくり本を読める時間があったらいいのにと思う。

たった一冊の文庫本だけれども、さすがはジェイン・オースティン。読むのに時間がかかった。言葉が多いし、じっくり読ませる本。しかし、次はどうなる・・・と、ストーリーの展開に興味を持たせ、読者をずっと追い立てる作家でもある。ゆっくり読んでいるつもりはないのに、読むのに時間がかかってしまう、オースティンとはそういう人。

『エマ』や『自負と偏見』に比べると、今回読んだ『マンスフィールド・パーク』はとても真面目な、道徳的な内容。よく指摘される点だが、前者たちに比べると、ユーモアというか、機智というか、皮肉というか、そういう視点が『マンスフィールド・パーク』にはぐっと少なくなる。ものすごく控え目で、ものすごく真面目なヒロイン、ファニー・プライスが、耐えに耐えて最終的に、准男爵家の次男エドマンド・バートラムの心を掴む物語。

この本の読みどころのひとつは、個人的にはノリス夫人というキャラクターだ。古今東西、おばさんというのはどうしてああいうふうに厚かましいのだろう。とにかく、この本の中では一番個性的・印象的に描かれている登場人物で、かなり鮮やかで際立っている。ジェイン・オースティンのほかの作品でも、ここまで「強烈な」キャラクターは登場しない。でも、こういう人物を創出できるのは、やはり女性作家ならではだと思う。普段の人間関係に起因する、大したことではないような、本当にごくささいな怒り、憎しみ、ねたみ・・・こういう細やかな感情を、正確に言葉にできるのはやはり女性作家の魅力だと思うし、オースティンはこの手の表現がものすごく上手だ。

ものすごくいい本ではあるが、ひとつだけ言いたいことがあった。誰だって「私は正しい」「私は正しい」「私は正しい」・・・と繰り返されたら、うんざりしてくるのではないか。『マンスフィールド・パーク』では、ファニーと「語り手」が、「ファニーは正しい、私たちは正しい、他の人たちは道徳的に正しくない・・・」ということを、何回も何回も、繰り返し言ってくる印象がある。そして僕の場合、性格が素直ではないせいか、「ファニーさん、本当にあなたは正しいの?」という気分になってきた。

具体的には、ヘンリー・クロフォードという身分も資産も立派な男性から、ただし、ファニー及び「語り手」からすると「道徳的によろしくない」男性から、ファニーは熱烈に求婚される場面がある。この縁談については、「道徳的に正しい」キャラクターであるエドマンドやその父サー・トーマスなども大賛成する。しかし、ファニーは自らの意見(「ヘンリーは道徳的によろしくない」)を曲げず、頑固にもそのプロポーズを固辞する。僕は、ここまで頑固で道徳的だとファニーには同情できないな、と思った。ファニーがその意思を曲げ、ヘンリー・クロフォードと結婚して、結局幸せになってしまいました、という展開のほうが僕は好きかもしれない。

ファニーはあくまでも自分の道徳的価値観に固執し続け、そして最終的には、自分が昔から好きだったエドマンドとめでたく結ばれる。僕には、彼女の「道徳的価値観」というのが、自分のエドマンドと結婚したいという意思(わがまま)を押し通すための、隠れ蓑に思えてくる。ファニーは、「すぐ泣いてしまい、弱くて繊細で、正しい価値判断ができる女性」というふうに描かれているけれども、実はそれは表面上のことで、実際には、そういう態度はすべて演技であり、「エドマンドを手に入れるためには無理してでも自らの弱さと正当性を演出する、頑固でしたたかで、わがままな女性」であると解釈したい。すでに『マンスフィールド・パーク』を読んだことのある人は、こういう視点からファニーを捉えなおして読んでいただくとどうだろう。

今回『マンスフィールド・パーク』を読むきっかけになったのは、昨年秋、中公文庫版が発売されたことによる。それまで、我が家には集英社版(世界文学全集)の『マンスフィールド・パーク』があったのだが、その翻訳が個人的にはとても読みづらくて、読むには読んだのだがあまり楽しめなかった。今回の中公文庫版の翻訳(正確にはキネマ旬報社版の文庫化)は、オースティン研究の第一人者の手によるものということもあり、かなり読みやすかった。

今日は仕事も休み。天気は爽やかだけれども、風が少し強くて、開いた窓にレースのカーテンが大きく揺れている。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

2006-04-28 13:02:21 | イギリスの小説
■カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』 (土屋政雄訳、早川書房2006)

小説にはある種の「トーン」があると思う。視覚芸術ではないから、それは「色調」ではない。小説は音楽でもないから、そのトーンは「音調」でもない。色でも音でもなく、敷き詰められた言葉の集合体が、ある種の響きを作り出す。読み終わってときにストーリー自体以外の何か印象、例えば、明るい印象とか、さびしい印象とか、そういう気分が心に残るとしたら、それは小説の持つトーンのせいだと僕は思う。

イシグロの小説には、こういうトーンが強く滲み出ている。代表作である『日の名残り』を思い返してみれば、そこには独特のトーンが残るのがわかる。それは間違っても「明るく、楽しい」ものではなかった。日の名残り、というタイトル自体が主張するように、ゆっくりと日が暮れていくような、一抹の寂寥感を伴う回想の世界だった。鮮やかな緑の木々に囲まれた大邸宅、ダーリントン・ホールは、だんだんストーリーの背景へとかすんでいき、この小説は、夕暮れの港町ウェイマスの桟橋にて終わる。読者を驚かすような展開は何もない。ただ、物事が静かに、淡々と語られていく。

このたび翻訳出版されたばかりの『わたしを離さないで』(原題『Never Let Me Go』)もまた、独特のトーンに満ちた作品だった。それがどんなものなのかは、次のような要素から推測できるのではないかと思う。
・この本でもまた、主人公(キャシー)が回想する形式が取られていること。
・キャシーの周囲の人物が時間の推移とともに次々と消え去っていくこと。
・夕方の場面が多いような気がすること。(キャシーがルースと語り合うのは、いつも夕日が沈む情景を見ながら)
・イギリスの「ロストコーナー」であるノーフォーク州への旅。
『わたしを離さないで』のトーンが、明るく楽しいものではないのは察してもらえると思う。実際のところ、描かれている世界は衝撃的で、ありえないくらい非人道的な事柄なのだけれども、それをイシグロは、あくまでも淡々と静かにキャシーに語らせている。読者である僕たちは、「この違和感のある世界は一体どうなっているのだろう」という疑問を推進力として読み進めていくことになるのだが、やはり、焦ったり、熱くなったりすることは起こらない。この本はあくまでも静かで、そんなふうに読者を煽ったりはしない。

『わたしを離さないで』の中で語られる言葉で、読んでみて僕が一番心に残ったのは次の場面だった。へールシャムという理想的な施設で育てられたキャシーとトミーが、大人になってから、かつてその施設を運営していたエミリー先生と再会し、その先生から語られる言葉:

「わかりますよ、トミー。それじゃチェスの駒と同じだと思っているでしょう。確かに、そういうふうに見えるかもしれません。でも、考えてみて。あなた方は、駒だとしても幸運な駒ですよ。追い風が吹くかに見えた時期もありましたが、それは去りました。世の中とは、ときにそうしたものです。受け入れなければね。人の考えや感情はあちらに行き、こちらに戻り、変わります。あなた方は、変化する流れの中のいまに生まれたということです」

状況を受け入れなければならない、つまり、運命に従って生きなければならない、という主張がここにはある。この言葉を聞いているトミーの人生は「決められたとおりに終わる」ことになっているのだが、それは運命として甘受しなければならない、ということだ。キャシーとトミーは、エミリー先生と再会することで、この定められた運命をなんとか変えようと試みるのだけれども、結局これもむなしい努力であったことが判明してしまう。

努力してもどうしようもできない、どうにもならない・・・こういう小説の展開をあなたはどう思うだろうか。イシグロの描く世界は悲観的すぎるのだろうか。もっと人生に楽天的な世界を構築すべきではないのか。努力することこそ、成功への鍵である、みたいな。ところが逆に、人生とはそういうものだ、と感じる人も当然いるだろう。生まれつきの定めがあって、それに逆らうことには限界があるということに納得する人もいる。そう、ここには一概には決められないような、こんなふうに読者を考えさせる深いトーンがある。こうして、ただ「ものさびしい本だ」とか、「こんな非人道的な社会をもたらしてはいけない」とか、そういう単純な印象や主張を凌駕してしまう、奥行きのある世界が『わたしを離さないで』には広がっている。

最後に、この本は、上質なフィクションを楽しみたい方には絶対お勧めの一冊ではあるが、最初のほうはちょっと読みづらいかもしれない。物事が明確にされないままキャシーは語り始めていくので、しばらくは訳もわからぬまま彼女の言うことを聞いていかなければならないから。でも、そのまま読み続けていくと次第に明らかになるので心配は不要。これは翻訳の問題でもなんでもなく、一種の技法として、イシグロがわざとそのように書いているせい。

ミュリエル・スパークを追悼して

2006-04-21 10:29:51 | イギリスの小説
戦後を代表する作家のひとりであるミュリエル・スパークが先日亡くなった。今回は僕があれこれ書くのではなく(というか、このところゆっくり考える時間がちょっと作れない)、現代イギリスを代表する作家・文芸評論家のデイヴィッド・ロッジによるミュリエル・スパークについての文章を紹介したい。これは、先日17日のガーディアン紙に掲載されたもの。

なお、以下の日本語訳について、わけのわからない部分については下記の原文を参照されたし。僕自身、はっきり意味がわかっていなくて(スパークの作品を全部読みきったわけではないので)、とりあえず訳出した箇所がある。

* * * * *

ミュリエル・スパークは、まさに独創的な作家で、ある芸術形式の可能性を他の形でも実現することができる稀有な人物の一人だった。まず彼女は詩人及び伝記作家としてキャリアをスタートし、1957年、39歳にして最初の小説『Comforters』を発表した。それはあたかも小説のアイデアや技術、比喩のイメージなどを、それまでにじっくり蓄積していたかのようで、そしてその蓄えは突然、輝かしくエネルギッシュな創造力として開花したのだった。

その後、彼女は相次いで作品を発表し、そのうちの『Bachelors(改宗者)』と『The Ballad of Peckham Rye(ペッカムライのバラード)』は同じ年(1960年)に出版された。そして翌1961年の『The Prime of Miss Jean Brodie(ミス・ブローディの青春)』こそ、ミュリエル・スパークという作家の才能を証明する作品となった。

彼女がイギリスの文壇に登場したのは、ちょうど50年代の「新現実主義(neo-realist)」の小説が終息しようとしていた頃だった。そこに彼女は、私たちが後に「ポストモダニスト」と命名することになる新しいストーリーテリングのスタイルを提示したのだ。

一人称の主人公が語っていく形式に逃げ隠れたり、フローベール的な「非人称」による語りを作り出したりするのではなく、スパークの作品では、その語りの声はいつも前面に現れ、登場する人物やその行動を手短に簡潔に述べていく。ストーリーでの時間の扱いも、コンラッドやフォードの作品のようにひと時にじっくりと留まるようなことはない。場合によっては、たったひとつのパラグラフ内で、現在から過去、未来、そしてまた過去に戻るというよう例もあり、めまぐるしいスピードで時間が展開する。

罪の意識、信仰あるいは死といった深刻なテーマに対しては、彼女は鮮やかな警句(エピグラム)のスタイルで手際よく捌いた。天使や悪魔という体裁をした超自然的なものが、宗教離れをしている現代社会へ侵入してきて、人々をたびたび面食らわせる。短編のデビュー作『The Seraph and the Zambesi(熾天使とザンベシ)』にもこの様子を見てとれるが、オブザーバー短編賞受賞作であるこの作品を読んだグレアム・グリーンは、とても感銘を受けて、ミュリエル・スパークがフルタイムで作家業に取り組めるよう資金を提供したのだった。

カトリックへの改宗した若い女性を描いた第一作を書いたのは、スパーク自身が改宗してまもなくのことだった。カトリックは彼女の小説の多くにおいて重要な要素だが、ただしそれは同期間のグレアム・グリーンが描いたような、苦悶し、罪の意識にさいなまれたような信仰観とは大きく異なっている。この小説『Comforters』のヒロインが語る言葉を使えば、この違いは次のように要約できるだろう。「その『真実の教会』はひどいところでした。でも残念ながら、これを拒絶することはできないのです、ほんとうに。」小説家と神の類似性について、とくに、両者とも「全知の存在」であることと、自らが創造した世界の始まりと終わりを知ることができることに、スパークは関心を抱いていた。しかし、彼女は両者のもたらす秩序の違いを明確にする。フィクションというのは作家と読者の間で取り交わされる一種のゲームであるので、この場合の神の摂理には慈悲の余地がある。しかし、ミス・ブローディのような人々が神を演じようとすると、彼らはまさに傷を負うことになる。

60年代中頃になると彼女は主に海外で暮らすようになり、まずニューヨークで、それからイタリアでの生活を始めた。この生活の変化は、彼女の小説の舞台設定にも反映している。

『The Driver's Seat(運転席)』(1970)と『Not To Disturb(邪魔をしないで)』(1971)を見ると、彼女が「Eurofiction」とでも分類すべき作品を書き始めたのだと言えるのかもしれない。しかし、信仰と道徳的な選択という問題への関心はそれまで以前と変わらず続いている。変化したのは、これまで以上に大胆なメタフィクション技法による仕掛けを使って、これらのテーマが探求されているところだろう。前者の作品では、ある女性がローマの全域で、彼女自身を殺害しなければならないことになっている男を探し続ける。後者の作品では、神のごとき、そして同時にジーヴズのごとき執事が登場し、スイスの別荘で発生する犯罪を引き起こそうとする人々の気持ちを指揮する。両方の中篇小説ともすばらしく、こういう作品は彼女以外には誰も書くことができないものだ。

私はこれらが彼女の才能の最高水準のものだと思うが、彼女はその後も非常に高品質のフィクションを書き続けてきた。そして近年では、かつてのイギリスでの経験に基づく作品へと回帰していた。

彼女は現代の出版界に顕著な「文学賞受賞-宣伝効果」という騒々しい世界からは離れて住んでいた。そして、自らの手で小説を書き、自らが書いたものを楽しむ作家であり、いつも読者を驚かせ、また、読者に挑戦し続ける作家であった。

■原文■http://books.guardian.co.uk/comment/story/0,,1755262,00.html

ウィリアム・ゴールディング『特命使節』

2006-03-06 00:04:14 | イギリスの小説
■ウィリアム・ゴールディング『特命使節』
(宇野利泰訳、『ありえざる伝説』ハヤカワ文庫1983より)

古代ローマ帝政時代に、もし、蒸気機関と火薬と印刷術が出現していたら・・・というゴールディングによる短編小説。

古代帝政の最盛期、皇帝とその孫アミリウスは離宮でアンニュイな日々を送っている。そこにギリシア人の技術者パノクレスが現れ、皇帝に蒸気船と大砲の発明を説明し、実際に作り上げる。しかし、それらの発明品が帝位をめぐる争いを引き起こし、騒動となってしまう。混乱は収まったものの、皇帝はパノクレスに対し、二度とこれらを建造させるつもりがないこと、ただし発明への恩賞として、中国への「特命使節」に任ずることを伝えて物語は終わる。

ゴールディングといえば、人間の心に住まう「悪」とか、行き過ぎた科学技術に対する警告とかを、寓話の形式で描き出す作家、というのが一般的な印象だと思う。どの小説でも何らかの形で、現代社会やそこに生きる人間の問題点を掘り下げようとする態度が見え隠れする。この短編小説『特命使節』でも、皇帝はパノクレスに対して、技術万能の態度を警告する場面がある。パノクレスのような熱心な自然科学者によって生み出された技術が、当初はその意図がなかったとしても、「大地から生命を絶滅させることにならぬともかぎらない」という可能性を指摘している。これは明らかに、後世の科学者たちによって、当初は純粋に科学的な意図であった原子力の研究から、やがて核兵器が生み出されてしまったことを意識したせりふだ。

この短編小説は作法の面でも、いつものゴールディングのパターンが出ている。たとえば、この小説の終わりかた。もしゴールディングの言いたいことが、このような人間による際限ない技術力という問題であるならば、ローマ帝国での仮想のエピソードだけではなく、実際に火薬が中国を発端として悪用されていく過程も取り上げてよかったはずだ。でも、ゴールディングはそれを描かない。ただ、パノクレスが中国に向かうことを示しただけで、あとは読者の想像に任してしまう。小説本文は、ただエピソードを提示するだけで、本質的なところは読者が読み終わってから考えなくてはいけない。

ゴールディングの処女作『蝿の王』(1954)では、孤島に取り残された子供たちのエピソードが描かれるが、この小説も本文だけではゴールディングの意図を理解したことにはならない。子供が孤島から救出されるところで小説自体は終わるが、今度は戦争の続く現実世界で、彼らは生き延びていかなくてなならないのだから。でも、その部分は読者が読後に考えるしかない。また、遺作となったゴールディング最後の作品『二枚舌』(1995)でも、小説内では語られない世界が読後に広がっている。主人公である古代ギリシアの巫女は、アテネの街に「まだ見ぬ神へ」という銘を彫らせた碑を建てさせるが、読者はこの言葉が聖書の一節だとわかる。でも小説はここで終わってしまう。古代の神々の宗教から、現在も世界を大きく支配するキリスト教へ、時代がシフトすることをゴールディングは暗示するが、それがどういう意味かは、やっぱり読者が考える役割のようだ。

こういう作風だから、ゴールディングは読者に歴史の知識を期待している。たとえば今回の『特命使節』であれば、火薬や印刷術が史実としては中国の発明であることを読者が知っていることを前提としている。もちろん知らなくてもとりあえず読むことはできるだろうが、ゴールディングの本来の意図は、やはり歴史を知っていないと理解できない。第二作目の作品『後継者たち』(1955)でも、ネアンデルタール人がホモ・サピエンス(つまり、私たちのこと)に滅ぼされる知識が前提となっている。ブッカー賞を得た『通過儀礼』(1980)でも、小説の舞台は19世紀初頭の、植民地へと向かう帆船内に設定されている。このように、自らの「寓話」を完成させるために、小説内でのエピソートだけでなく、歴史というコンテクストをも使ってしまうのがゴールディングの重要なポイントだと僕は思う。

ところで『特命使節』には、ゴールディングのギリシア・ローマ文化の愛好とその知識が遺憾なく発揮されている。パノクレスの造る船の名前は「アムピトリーテ」、パノクレスの妹の名前は「エウプロシュネー」・・・こういう固有名詞の由来を調べるだけでも、ギリシア神話のいい勉強になりそうだ。とくに「モスクス、エリンナ、ミムネルムス等の諸詩人」という箇所は、文脈上マニアックな人々を選んでいて笑ってしまう。

最後に、ここまでまあまあ真面目に書いてきたが、上に「笑ってしまう」と書いたとおり、この短編小説がかなりコミカルであることも付け加えておきたい。ゴールディングは明らかに「うけ」を狙って、かなり楽しんで書いている。だから、ゴールディングだからといってあまりかしこまらず、僕たちも楽しく読んでいいはず。

アイリス・マードック『砂の城』

2006-02-22 13:09:10 | イギリスの小説
■アイリス・マードック『砂の城』(栗原行雄訳、集英社文庫1978)

今回の旅行ではこの文庫本、マードックの『砂の城』を持っていった。どうせ飛行機の中では眠れないのだ。だったら、こういうまとまった時間には読書でもするしかない。それに旅先に本を持っていくと、旅行の記憶と読書の記憶が不思議なかたちで融合して、印象に残ることがある。家にあるいくつかの文庫本は、こういう経緯でとくに愛着のあるものだ。一人旅だと、飛行機でも鉄道でもホテルでもずっと一人だし、飛行機を乗り継いだりする待ち時間とかもあるから、むしろ本は必需品ともいえる。今回の旅は一人ではなかったから、往復の飛行機と、ホテルで夜寝る前くらいしか読む機会はなかったが、さすがは往復30時間の長旅。余裕で読み終わってしまった。

この『砂の城』はマードックの長編小説としては第三作目で、1957年に発表されたもの。この一つ後の作品が、代表作『鐘』(1958)である。こういうふうに書きながら思うのだが、「現代小説」と分類されるこれらの作品も、もう半世紀も時間が経過していることに気がつく。そろそろ「クラシック」となるかどうかの、時代の試練を迎える頃かもしれない。

どんなストーリーの作品であるか・・・いつだったか、マードックの『ブラックプリンス』についてもこの場で書いたことがあるが、大まかに言えば、『砂の城』も似たようなストーリーを持っている。つまり、それなりの年齢の(中年の)男性が、二十歳そこそこくらいの若い女性を熱愛してしまう、というパターン。こんなふうに書いてしまうと、なんとも他愛のない話だと思われる危険性があるが、実際には、具体的・現実的な事柄を十分表現しつつ、象徴的・神秘的なイメージが随所に散りばめられ、さすがはマードックの小説、「文学作品」として読み応えがある仕上がり。

現実的なことがらといえば、これは個人的な感想だが、作品中に「フォートナム・アンド・メイソン」が言及されていて、読んでいてにやりとしてしまった。主人公の男性モアは、愛する若き女性画家レインに「フォートナム・アンド・メイソンで食事しましょう」と誘われて、「駆り立てられるような深い喜びに、心がいっぱいになった」。モアはとある学校の教師をしている。妻と一男一女、地味でつつましい暮らしだ。そういうモアが、ロンドンの、それこそ誰もが知る最高級デパートのレストランで、好きな女性レインと一緒に(レインには資産もある)食事をするというのだ。このように嬉しくないはずがない。

ただこれだけのことなら別に言及するまでもないのだが、僕自身も「フォートナム・アンド・メイソン」には何回も出かけたのだ。なので、とても親近感がある。ただし、食事しにではない。たしかここでは、アフタヌーンティーも楽しめるのだが、当然最高級デパートにふさわしい出費が見込まれる。常識的な金銭感覚では行くべきところではない。むしろ、当時の職場が近かったので、時々、プレゼントとかお土産を買いに出かけたのだ。建物の中には「フード・ホール」という食品売場があって、自社ブランドの紅茶やら、ビスケットやら、ジャムやら、あれやこれやが売られている。日本でもフォートナム・アンド・メイソンは知名度があるから、お土産としても好適で、こういう買い物には便利な場所だった。(というか実際、観光客が山のように押し寄せている。)こういうわけで、「フォートナム・アンド・メイソン」という現実のデパートが、この小説を僕にとって身近なものにしてくれている。

一方、神秘的というか、象徴的な表現として、タロットカードが描かれる場面がある。この小説で、モアの娘フェリシティは非常に神秘的というか、一風変わった存在なのだが、彼女はタロットカードを使った「儀式」を行う。そこでは「塔」のカード、「ハングド・マン」のカードなどが出現する。その「儀式」のときは明らかにはならないが、この小説を読み進むうちに、実はそれらのカードがちゃんと未来を、すなわち、その後のストーリー展開を予見していることがわかる。もちろん、これらのカードの意味についてはいろいろな解釈の余地はあるだろうが、たとえば、モアの息子は学校の「塔」に登ろうとする。そして、失敗する。(「塔」のタロットカードは崩れる塔から人が落ちるところが描かれている。)リアリスティックな世界を表現する一方で、こういうちょっと非現実的な、神秘性を帯びた事柄を織り込んでいるところが、マードックの興味深いところのひとつ。

『砂の城』は、いい年をした男性(モア)が、若い女性(レイン)に惹かれてしまう話だと書いた。どうして彼は、社会的体裁にもかかわらず夢中になってしまうのか。その理由をモア自身が考えている場面がある:

「ぼくが彼女自身に求めているものは一体なんなのだろう。彼は今までに何百回となく繰り返してきた問いを、また心につぶやいた。ただたんにこの小さいエキゾチックな女性の所有者になることではなかった。彼はレインの手をかりてまったく新しい人間になりたいのだ。レインが彼の中から引き出してくれた、自由で創造的で、快活で、愛情に満ちた人間のままでいたいのだ。彼女は愚鈍な彼からこうして奇跡を生み出したのだ」(316ページ)

人を好きになるときは、誰でもこういう「奇跡」を期待していないだろうか。僕自身のことを言えば、正直言って、期待していると思う。「奇跡」とまではいかなくても、この人を通して、新しい自分が実現できるのではないだろうか、新しい視野が開けるのではないだろうか、みたいな、無意識の期待感がある。ある種の変身願望かもしれない。というわけで、初めてこの小説を読み、一番印象に残った表現がこの部分だった。

最後に余計なお世話ですが、タロットカードになどぜんぜん興味がなかったのに、ある程度理解できるようになったのは、イタロ・カルヴィーノの小説『宿命の交わる城』のおかげ。文学を楽しみつつ、タロットカードにも接することができて、そういう必要のある人にはおすすめ。またもっと余計なお世話ですが、フォートナム・アンド・メイソンとはこういうブランドです→http://www.fortnumandmason.com/

アイリス・マードックの『ブラック・プリンス』

2006-01-16 03:08:39 | イギリスの小説
■アイリス・マードック『ブラック・プリンス』(上下巻)
(鈴木寧訳 講談社1976)

果たして現在、この本を日本語で楽しみのために(研究のためにではなく・・・研究目的だと楽しめなくなるから)読む人は、いったい何人いるのだろうか。というか、そもそも現在の日本に、アイリス・マードックの本を純粋に楽しむために読んでいる人が、いったいどのくらいいるのだろうか。

戦後のイギリス文学はアイリス・マードックの名前なくして語ることはできない。彼女はそのくらい、実力と重要性を認められている。きっと英語圏では愛読する人がまだそれなりに多いのではないかと想像する。

日本でもかつて「アイリス・マードック・ブーム」のような時期があったらしい。その「ブーム」の始まりは僕のまだ生まれる前の頃。だから「らしい」としか表現できないのだが、1960年代後半から1980年代初頭にかけて彼女の本が相次いで翻訳出版されている。処女作『網のなか』(1954、邦訳は1965年)から第19番目の作品『海よ、海』(1978、邦訳1982)まで、途中の2作品を除くと、なんと他は全て翻訳されている。これは現代作家としては異例の扱いだ。こんなにたくさん翻訳が揃っている戦後のイギリス作家は、他にはグレアム・グリーンくらいだろう。

グリーンの作品が最近装いも新たに発売されている(ハヤカワepi文庫)のに対し、マードックのほうは、1992年に『本をめぐる輪舞の果てに』の邦訳が刊行されたのと、2002年に公開された映画『アイリス』に合わせて彩流社から刊行された『ジャクソンのジレンマ』があるのみ。あんなにたくさん邦訳が出版されたのに、ここ20年くらいはだいぶさびしい状況になってしまった。

マードックが読まれない理由・・・読んでみるとわかるような気がする。大変残念なのだが、現代の日本はこういう本を好むような雰囲気ではない。風潮が違いすぎる。まず第一にマードックは言葉数がとても多いと思う。さらに内容も濃い。日本語なのに読むのが大変なのだ。僕自身はかなり速読なほうだと思うが、マードックは時間がかかる。あれこれたくさん書き込む作家だからだ。これは同じように人気作家のミュリエル・スパークが、少ない言葉数でイメージを膨らませ、どちらかというとアイデア勝負でばっさりと小説を仕上げるのと対照的だ。

また二番目の点として、登場人物も多くなりがちでそれぞれが複雑に絡み合い、わかりづらい傾向があるかもしれない。さらに三番目の点としては、ともすると哲学的・心理学的な描写が長々と続いたりして、純粋に面白おかしいというストーリーではないことも挙げられる。・・・こういう「面倒」で「しんどい」小説が、今の日本の風潮、つまり、「楽しい」「わかりやすい」「感動できる」みたいな、英語で言うと何でもかんでもeasyなものを尊ぶ風潮に合致するはずがない。なんでも飽きられやすく、次々と新しいものへ飛び移っていく世相の下、じっくり腰を据えて読書するなんて、流行りそうにもない。

しかし、苦労は報われるもの。マードックを読み終わったあとの印象の深さは、easyな本では絶対に得られないものだ。この『ブラック・プリンス』は、58歳の作家ブラッドリーが30歳以上年下の若い女性に狂ったように恋してしまう顛末を、彼自身の独白として描いた物語なのだが、内容はこんなに単純にまとめられるものではない。独白という形式上、私たち読者はブラッドリーの言うことをそれなりに信用して読み進めていく。ところがブラッドリーが逮捕されるに至り、やっと最後になってこの「独白」が獄中で書かれたものなのだということが判明する。そしてまた本の最後のほうになって、ブラッドリーの恋愛の顛末の認識と、周囲の登場人物たちの認識が180度異なることもわかる。ブラッドリーが良かれと思って行ったことが、周囲からは信じがたい行為として受け止められていたわけだ。

このように、読者の認識を惑わせる「仕掛け」が物語の最初からたくさん仕込まれていて、最後のほうになってやっとその存在が読者にも明らかになってくる。まんまとマードックの術中にはまってしまって、ちょっとくやしいような気もするくらい。でもこれはマードックがいかに優れた作家かを示す技量の現れでもある。さらに、この『ブラック・プリンス』では、シェイクスピアの『ハムレット』がとても多く言及され、作品の隅々まで重層的に響いている。マードックの小説はたいがいそうなのだが、読者に印象を強く残すように細かく計算されたプロットがまずしっかりあって、さらにそれにプラスして思想的・哲学的なバックボーンが展開されている。計算されたプロットの仕掛けを納得するのにも時間がかるし、作品全体に通奏低音のように響いている思索的な部分を理解していくのもそうそう容易ではない。

付け加えるなら、私たちが時間を費やし、作品内容をある程度理解する段階までたどり着いたとしても、その理解はその一冊の本についてのみにすぎない。私たちは取り組んでいたただ一冊の作品の中で、マードックの意のままに操られ、振り回されたのであって、全部で二十作を超える小説を通して展開される彼女の総合的な思想や考え方を掴み取るところまでは至っていないことに気がつく。彼女の本をいくつか読むうちに「アイリス・マードックの世界観」みたいなものが確かに存在するのは体感できる。しかしマードックは、私たちが一冊の本と格闘している間に、するりと抜け出し、もうどこか遠くまで行ってしまう。そんな感じがする。

でも、この硬くて歯ごたえがあり、「面倒」で「しんどい」読書であることがとてもアディクティヴで、マードックの作品をどうしても好きになってしまう理由なのだ。とても気軽に読んで楽しめる小説ではない。真剣に読まないとマードックについていけなくなる。『ブラック・プリンス』はそういう本だし、彼女はそういう作家なのだ。

そしてまた、冒頭の質問に戻ってくる。果たして今現在この本を読んでいる人は、日本にいったい何人いるのだろうか。時は移ろい、あれだけあったマードックの邦訳本も、今や全て絶版。比較的最近刊行されたものはまだ書店に並んでいるが、重刷はされまい。残っているものだけでおしまい。こうしてマードックを愛好する人もいずれ消滅していく・・・のだろうか。

サボテンの針が刺さるとき

2005-12-25 14:19:12 | イギリスの小説
■マーガレット・ドラブル『碾臼』
(小野寺健訳、河出書房新社、河出文庫1980)

今年のテレビコマーシャルで一番評価された作品なのだと思うけど、あの、サボテンの針が飛んできて、電話口で逡巡する若者に「会いたい!」と言わせるものがあった。「あ、痛い!」を「会いたい!」とさせる発想はとてもおもしろいアイデアだと思う。ともかく、あのコマーシャルではないが、好きな人に好きだとか、一緒にいたいという気持ちを伝えるのは、なかなか勇気のいることだ。

言いたいことを言い出せない気持ちという体験は誰にでもあるのだろうと想像する。「好きだ」とか「一緒にいたい」と言えない気持ち。僕にさえあった。もう、だいぶ以前のことだが、まだ印象に残っている。「今晩はもっとずっと一緒にいたい」と思いながらも、どうにもうまく言い出せない。そして、そのまま二人で駅の改札口まで進んでしまい、「ああどう言えばいいんだろう」と真剣に考えながらも、惰性で進む家路への流れがもう止められない。あるいは、止める勇気がない。さらに、気持ちに反して自動券売機で帰りの切符を買ってしまう・・・そして、「もっと一緒にいようよ」と言いたいはずなのに「じゃあ、また今度ね」言ってしまう・・・こんな出来事。僕の思い込みかもしれないが、二人の目は「もっと一緒にいよう」という気持ちで一致していた。でも、何かが邪魔をしていた。社会的な体裁だろうか。きれいごとにしばられていたのだろうか。僕は、あるいは僕たちは、言いたいことが言えなかった。相手も僕も、あそこでどちらかが一歩踏み出すのを待っていたのではないか・・・そう考えると、今思い出しても少し複雑な気分になる。

そのときの帰り道、一人で乗っている電車の中で、ものすごく複雑な気分の中で思い出した本がマーガレット・ドラブルの『碾臼』だった。僕は主人公のロザマンドと同じ気持ちだなと思った。彼女も言いたい思いを切り出すことができず、久しぶりに再会したジョージに気持ちを伝えることができないでいる:

「わたしは今にも大声で泣き出しそうな気がした。椅子の腕にしがみついて、彼の前に跪きたくなるのをこらえていた。彼の愛を、彼の許しを、憐みを、何でもいいから彼をわたしのそばにつなぎとめてくれるものを与えてほしい、税金の申告書しかない孤独、彼のいない淋しさから救いだしてほしいと哀願したいのを。頭の中には、ジョージ、あなたを愛しているわ、とか、ジョージわたしを棄てないでといった言葉が、つぎからつぎへ湧いてきた。こういう言葉を一つでも吐きだしてしまったらどうなるだろう、とわたしは考えていた。どういう災難に見舞われることになるのだろうか、と」

当時の僕の相手への気持ちは、こんなふうにすがるような、熱い愛情ではなかったかもしれない。でも、自分の気持ちを言ってしまったらどうなるのだろうと考えてしまうところは同じだった。そして、ロザマンドがジョージにこの気持ちを伝えられずに、二人が別れ終わるところも同じだった。

どちらかが一歩踏み出さなければいけないのはわかっている。お互いがためらっているだけでは、永遠にその壁は崩れない。「わたしたちのどちらかが相手に近づいていかなければ、わたしたちは離ればなれになるほかない」とロザマンドが言っているとおり。そして今、この文章を書きながらちょっと考えてしまうのだ・・・あのときの僕にも、もしどこからかサボテンの針が飛んできたならば、今頃どのような人生を歩んでいたのだろうか。またそれは、現在の境遇と同じように素晴らしいものだっただろうか、と。

善良な読者

2005-12-15 17:11:45 | イギリスの小説
■フォード・マドックス・フォード『かくも悲しい話を・・・・・・情熱と受難の物語』
(武藤浩史訳、彩流社1998)

自分が信用している人から「あの人はいい人だよ」と言われたとしよう。そうすると、会ったことも話したこともないのに手放しで「あの人はいい人なんだ」と思うようになってしまうかもしれない。本も同じで、学校の先生や好きな本の中に「この本は傑作です」と言われたり、書いてあったりすると「そうかあ、傑作なら読んでみなきゃ」なんて思うようになる。

フォード・マドックス・フォードもそういう紹介から出会いが始まった作家のひとり。彼の名前を知ったのは、もうかれこれ10年くらい前のこと。ゼミの先生が彼に詳しかったという事情もあり、フォードが「イギリス文学での重要な作家のひとり」であるという印象はそのときに植えつけられた。本来ならそのときから彼の作品に親しめばよかったのだが、問題があって、それは翻訳がなかったこと。当時は自分の卒論の作家の作品や批評を読むのにせいいっぱいで、他の作家の小説を英語で楽しむ余裕はなかった。

その後社会人となって働き始め、やがてフォードの小説『The Good Soldier』(『善良な兵士』、翻訳出版名『かくも悲しい話を・・・・・・』)の翻訳が出版されたのは知った。ただ、購入して楽しもうというところまでは至らなかった。日本では、イギリスの近現代文学を勉強している人以外ではほとんど名前も知られていない作家。本当に読みがいのある本かどうか、ちょっと納得できていなかったのだろうと思う。ところがあるとき、アントニイ・バージェスがフォード・マドックス・フォードの小説『Parade's End』(この本のタイトルは『行列の終り』『観兵式の終焉』などと訳される)と『The Good Soldier』の二作について触れられている部分に読み当たった:

「彼の生み出した二作は紛れもない傑作で、『善良な兵士』と『行列の終り』はおそらくイギリスの(アイルランドと区別して)二十世紀小説中最優秀作であろう。」
~アントニイ・バージェス『バージェスの文学史』(人文書院1982)より

もしバージェスが、なんでもかんでも褒めまくっている人ならば、このようなフォードへの賛辞もインフレーションを起こして価値の下落を招くだろう。しかしバージェスはつまらないものもはつまらないとはっきり書く人だから、この評価はなかなか期待させるものがある。(ちなみに話がそれるけど、上のバージェスの評価の書き方は、アイルランドにも二十世紀小説の「最優秀作」が存在することを示唆している・・・これはもちろん、ジェイムズ・ジョイスのことに違いない。)その後この本を購入する機会があり、何回か読んだあと、現在は我が家の本棚に鎮座している。

バージェスも言っているが、フォード・マドックス・フォードの本は楽な読みものではない。これはジョイスのように翻訳不可能に近い実験的な内容であるということではなく、またヴァージニア・ウルフのように「意識の流れ」の表現が読者を混乱させるということでもない。表面的な表現自体はとてもクリアーだ。『The Good Soldier』ではアメリカ人ジョン・ダウアルの視点から、ダウアルの友人であるアシュバーナム大尉というイギリス人の不倫やら悲劇やらが一人称で語られていくが、問題は、このダウアルの「語り」が信用できないのものであるという点。つまり読者は、ダウアルの語ることから、彼の言葉で描写されるできごと以上のことを理解して読んでいく必要があるということだ。こういうのはいわゆる「当てにならない語り手」とか、「信用できない語り手」という技法で、他の作家の本でもときどきある。

こういうこともあって、文学的には評価が高いが、楽しみで読むにはちょっとチャレンジャブルな本といえる。読んでみたけどつまらなかった、という意見も実際に存在する。さて、ということで、ここまでこの文章を読んでいただいたそこのあなた、私は今回このように『善良な兵士』をあなたに紹介してみた。あなたもこの本を読んでみたいと感じただろうか。もし、読んでみたいと思うのならひとつ条件があって、それはあなたが「善良な読者」であること。ただし、この本のメインの登場人物であるアシュバーナム大尉が「The Good Soldier」と表現されていたのと同様の意味で、あなたもGood readerでなくてはならない。つまり、この場合のGoodの意味は、素直に「善良な」ではなく、ポーズとしての「善良さ」であって、すなわち、ダウアルの語りを真に受けない、したたかな読者であるということ。