■ミュリエル・スパーク 『ミス・ブロウディの青春』 (岡照雄訳、筑摩書房1973)
エジンバラは見てまわるのにいいところだ。僕はたしか三回訪れた。日本からお客さんが来て、ちょっと小旅行をしようということになったとき、案内すると喜ばれる街。ロンドンから飛行機で行ってもいいけど、キングス・クロス駅から特急列車に乗って、何時間もかけてゆっくり行くのも悪くない。列車はドンカスター、ヨーク、ニューカッスルなどを経て、エジンバラの街に滑り込む。駅は市街の中心に位置しているのだけれども、なんだか谷間のような窪地にある。そしてその両側の見上げる谷の上に、昔ながらのヨーロッパ的なたたずまいの街が広がっている。そういうなかなか素敵な街。
エジンバラはロンドンのように大きな都市ではないから、主な観光地はみんな徒歩で巡ることができる。誰もが行くのはエジンバラ城だろう。城は高台にあって、遠く海のほうまで見渡すことができる景色の素晴らしい場所。有名なフォース鉄道橋も見える。僕が初めてエジンバラに行ったのはイースター休暇のときで、春先のまだ冷たい風が吹きすさぶ夕方だった。今回掲載した写真はそのときのもの。エジンバラの街の様子。あんまりうまく撮れていないけど、まあ、雰囲気は伝わると思う。
『ミス・ブロウディの青春』は1930年代のエジンバラが舞台の小説で、ミス・ブロウディに率いられた生徒たちもまたエジンバラの街を徒歩で巡る。でも、現在のように観光地としてこぎれいになったエジンバラの街ではない。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のつかの間の平和と、そして一方、不況で失業者があふれる不安定な時代。イタリアとドイツではムッソリーニとナチスがそれぞれ勢力を伸ばしている。この本では、ミス・ブロウディとその取り巻きの女子生徒たちの個性的なキャラクターがスパークらしくユニークに描かれているが、こういう厳しい時代背景もまた色濃く影を落としている。
* * * * *
ミス・ブロウディ(ブロウディ先生)の口癖は「人生最良の時」。これはこの作品のキーワードでもある。読んでいると何回も繰り返されるフレーズ。
「さあ、みんなこっちを向いて。人の最良の時というと、その人がまさにそのために生まれて来たような瞬間のことです。いよいよ私にもそのような時がやってきて―サンディ、またよそ見をしてるのね。何のお話をしていたか言ってごらん」
「先生の最良の時です」(pp.11-12)
このとき生徒の一人であったサンディはこのとき10歳。それから時が流れ、第二次世界大戦も終わって、やがてサンディは修道会に入り、中年になった彼女はシスター・ヘレナと呼ばれていた。
「シスター・ヘレナ、あなたの学校時代、何に一番影響をうけましたか。文学、政治、それとも個人の影響でしたか。カルヴィニズムですか」
サンディは答える。「ブロウディ先生という人がありました。先生の最良の時でしたわ」(p.124)
『ミス・ブロウディの青春』は、このユニークな教師のキャラクターを読み解いていくことにおもしろさがある。彼女が自ら「最良の時」と宣言するのは、どういうわけなのか。そして本当に、僕たちからしてみても「最良」と呼べるような人生なのだろうか。どちらかといえば、ちょっと強引かつ自己中心的で、それでいて無器用で弱みもある・・・読んでいると、そんな女性像が浮かび上がってくる。このような主人公の様子が、どちらかといえば、主に生徒たち(取り巻きの女子生徒たちは「ブロウディ・セット」と呼ばれている)の視点から、描写・批評されていく。
そして、この作品の本質的なところには、スパークの他の作品同様、宗教的な色彩がじわりと帯びてくる。十五歳の頃に、サンディは「神は事実上あらゆる人に、その生まれる以前から、死ぬときのためにちゃんと意地わるい不意打ちを計画している」とか「死の前の奇襲がいっそうこたえるように、或る人々に偽りのよろこび、救済の意識を植えつけるのも、まったく神の勝手である」(pp.105-106)などという、カルヴィニズムの宗教観(いわゆる「予定説」)にとらわれるようになった。
そしてサンディは、このカルヴィン的な視点に立ってブロウディ先生を見直したときに、「自分には神の恩寵があると勝手に決め込んでいた」ブロウディ先生には、「最良の時の行きすぎ」があると感じるようになる。その後サンディはブロウディ先生を裏切り(これがカルヴィニズムの「意地悪い不意打ち」に該当するわけだ)、その教職を辞職させて、そして、やがて先生は亡くなる。
この経緯をおそらくサンディは後悔しているせいだと思うのだが、彼女はカトリックに改宗し、修道女となる。修道女となってからのサンディが、あたかも刑務所の中から面会しているような様子に描かれるのは、ブロウディ先生への裏切りという形の「死の前の奇襲」を悔いているせいではないか・・・こう僕は想像するのだが。
* * * * *
先日スパークが亡くなった際、この場でデイヴィッド・ロッジのオービチュアリーを引用したが(2006年4月21日のブログ)、ロッジはそこで「場合によっては、たったひとつのパラグラフ内で、現在から過去、未来、そしてまた過去に戻るというよう例もあり、めまぐるしいスピードで時間が展開する」と書いていた。で、この『ミス・ブロウディの青春』は、このロッジの指摘どおり、時間の展開の面でもなかなか興味深い。実際、現在・過去・未来があちこち行き来しあう。そして、それなのに読んでも違和感がない。無理がない。
他のスパークの作品同様、あんまり長さがない。中篇小説といった程度の分量。翻訳の言葉遣いはちょっとどうかなと思うところがあるが(誤訳ということはないと思うが、別の人が違う言葉遣いで語らせたら、作品の印象がかなり変わりそうな気がする)、それでもやっぱりスパークらしい個性にあふれる良い小説。
エジンバラは見てまわるのにいいところだ。僕はたしか三回訪れた。日本からお客さんが来て、ちょっと小旅行をしようということになったとき、案内すると喜ばれる街。ロンドンから飛行機で行ってもいいけど、キングス・クロス駅から特急列車に乗って、何時間もかけてゆっくり行くのも悪くない。列車はドンカスター、ヨーク、ニューカッスルなどを経て、エジンバラの街に滑り込む。駅は市街の中心に位置しているのだけれども、なんだか谷間のような窪地にある。そしてその両側の見上げる谷の上に、昔ながらのヨーロッパ的なたたずまいの街が広がっている。そういうなかなか素敵な街。
エジンバラはロンドンのように大きな都市ではないから、主な観光地はみんな徒歩で巡ることができる。誰もが行くのはエジンバラ城だろう。城は高台にあって、遠く海のほうまで見渡すことができる景色の素晴らしい場所。有名なフォース鉄道橋も見える。僕が初めてエジンバラに行ったのはイースター休暇のときで、春先のまだ冷たい風が吹きすさぶ夕方だった。今回掲載した写真はそのときのもの。エジンバラの街の様子。あんまりうまく撮れていないけど、まあ、雰囲気は伝わると思う。
『ミス・ブロウディの青春』は1930年代のエジンバラが舞台の小説で、ミス・ブロウディに率いられた生徒たちもまたエジンバラの街を徒歩で巡る。でも、現在のように観光地としてこぎれいになったエジンバラの街ではない。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のつかの間の平和と、そして一方、不況で失業者があふれる不安定な時代。イタリアとドイツではムッソリーニとナチスがそれぞれ勢力を伸ばしている。この本では、ミス・ブロウディとその取り巻きの女子生徒たちの個性的なキャラクターがスパークらしくユニークに描かれているが、こういう厳しい時代背景もまた色濃く影を落としている。
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ミス・ブロウディ(ブロウディ先生)の口癖は「人生最良の時」。これはこの作品のキーワードでもある。読んでいると何回も繰り返されるフレーズ。
「さあ、みんなこっちを向いて。人の最良の時というと、その人がまさにそのために生まれて来たような瞬間のことです。いよいよ私にもそのような時がやってきて―サンディ、またよそ見をしてるのね。何のお話をしていたか言ってごらん」
「先生の最良の時です」(pp.11-12)
このとき生徒の一人であったサンディはこのとき10歳。それから時が流れ、第二次世界大戦も終わって、やがてサンディは修道会に入り、中年になった彼女はシスター・ヘレナと呼ばれていた。
「シスター・ヘレナ、あなたの学校時代、何に一番影響をうけましたか。文学、政治、それとも個人の影響でしたか。カルヴィニズムですか」
サンディは答える。「ブロウディ先生という人がありました。先生の最良の時でしたわ」(p.124)
『ミス・ブロウディの青春』は、このユニークな教師のキャラクターを読み解いていくことにおもしろさがある。彼女が自ら「最良の時」と宣言するのは、どういうわけなのか。そして本当に、僕たちからしてみても「最良」と呼べるような人生なのだろうか。どちらかといえば、ちょっと強引かつ自己中心的で、それでいて無器用で弱みもある・・・読んでいると、そんな女性像が浮かび上がってくる。このような主人公の様子が、どちらかといえば、主に生徒たち(取り巻きの女子生徒たちは「ブロウディ・セット」と呼ばれている)の視点から、描写・批評されていく。
そして、この作品の本質的なところには、スパークの他の作品同様、宗教的な色彩がじわりと帯びてくる。十五歳の頃に、サンディは「神は事実上あらゆる人に、その生まれる以前から、死ぬときのためにちゃんと意地わるい不意打ちを計画している」とか「死の前の奇襲がいっそうこたえるように、或る人々に偽りのよろこび、救済の意識を植えつけるのも、まったく神の勝手である」(pp.105-106)などという、カルヴィニズムの宗教観(いわゆる「予定説」)にとらわれるようになった。
そしてサンディは、このカルヴィン的な視点に立ってブロウディ先生を見直したときに、「自分には神の恩寵があると勝手に決め込んでいた」ブロウディ先生には、「最良の時の行きすぎ」があると感じるようになる。その後サンディはブロウディ先生を裏切り(これがカルヴィニズムの「意地悪い不意打ち」に該当するわけだ)、その教職を辞職させて、そして、やがて先生は亡くなる。
この経緯をおそらくサンディは後悔しているせいだと思うのだが、彼女はカトリックに改宗し、修道女となる。修道女となってからのサンディが、あたかも刑務所の中から面会しているような様子に描かれるのは、ブロウディ先生への裏切りという形の「死の前の奇襲」を悔いているせいではないか・・・こう僕は想像するのだが。
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先日スパークが亡くなった際、この場でデイヴィッド・ロッジのオービチュアリーを引用したが(2006年4月21日のブログ)、ロッジはそこで「場合によっては、たったひとつのパラグラフ内で、現在から過去、未来、そしてまた過去に戻るというよう例もあり、めまぐるしいスピードで時間が展開する」と書いていた。で、この『ミス・ブロウディの青春』は、このロッジの指摘どおり、時間の展開の面でもなかなか興味深い。実際、現在・過去・未来があちこち行き来しあう。そして、それなのに読んでも違和感がない。無理がない。
他のスパークの作品同様、あんまり長さがない。中篇小説といった程度の分量。翻訳の言葉遣いはちょっとどうかなと思うところがあるが(誤訳ということはないと思うが、別の人が違う言葉遣いで語らせたら、作品の印象がかなり変わりそうな気がする)、それでもやっぱりスパークらしい個性にあふれる良い小説。