サンノゼ徒然草

米国はカリフォルニア在住の主婦の覚え書き。子育て、趣味、サンノゼでの暮らしのことなど。

日経 春秋(10/15)を読んで

2009-10-15 21:00:35 | つれづれ
出典:http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20091014AS1K1400614102009.html

「5年前は、事件も裁判もずいぶん騒がれた。難病患者や家族を支える仕組みや終末医療のあり方も問題になった。でも、また悲劇が起きた。二つの殺人は罰せられねばならないが、どんな境遇にあっても「生きたい」と思える社会が当たり前である。それはないものねだりだ、という空気がありはしないか、怖い。」

…ここだけを引用すると、誤解を招くかもしれない。
ただ、「どんな境遇にあっても「生きたい」と思える社会が当たり前である。」と言い切れるこの筆者は、難病や老人介護をしたことがあるのだろうか。

「死なせてくれ」と本気で言う患者がいる。
患者本人自身が死んだほうが楽だと思う病状がある。

死を選ぶことを肯定はしないが、「尊厳死」という言葉があるように、「生きたいと思えない状況・人生」の存在も認めるべきだ。

がんの末期患者だった母が、「もう勘弁してほしい、死なせて欲しい」と懇願することがあった。がんの末期だとはまだ思えず、まだ数年は生きてくれるのだと信じていた私は、「何をいっているの、生きていたほうがいいことって絶対あるよ」、とそういう弱音を吐く母を哀しく思っていた。彼女の病状が末期ということを、まだ生きてくれるという希望に眼を曇らせて、日々の彼女の衰えを微塵も感じていなかった。

母が亡くなり、それが末期であったこと、若い頃の手紙や周囲の人の話から、母がそういう弱音を吐いたのは本当に辛い状態であり、弱音ではなく、自分の病状と人生に対する本音だったのだと悟った。辛さをわかってあげられず、本当に申し訳なかったと思う。

まだ緩和ケアが始まる前に、「お母さんは本当に幸せだったから、死んでも悲しまなくてもいいからね」と言ってくれていたのが、少しだけその申し訳なさを軽くしてくれる。反面、寝たきりになり、字も書けなくなっていた頃に書いたであろう、枕元にあった雑誌の裏表紙などの余白に「○○、美味しい料理をありがとう」「○○さん ありがとう」と感謝の言葉が書かれているのを彼女の没後に見つけたとき、何で新しいノートの一冊や二冊くらい枕元においておいてあげなかったのだろう、と未だに涙が止まらなくなる。

病気で死にいく立場にいる人を介護するということは、される側もする側も余裕なんてない。

母の発病と介護で、人生に対する考え方、価値観、すべてががらりと変わった。母自身の死を持って、自分の今後の生き方を考えさせられた。

その母が逝って4年後、父が逝った。

その母の介護の反省から、父には母にはできなかったこと、母の介護時にはわからなかった家族だからこそできる時間の使い方に工夫を費やした。
死に目には会えなかったけれど、お葬式で父の顔を見て最後のお別れをすることはできた。まだ父が元気なときに可能な限り里帰りをさせてもらい、思う存分一緒に過ごせたことは幸いだった。

生きている父と過ごした最後の一ヶ月の里帰りの数週間後、脳梗塞と狭心症の予後管理に勤しんでいた父に老人性の血液病が発症し、定期的な輸血が必要な状況になってしまった。その数ヵ月後、それは白血病になり、そのため、体がしんどいことはあったようだが、死因も脳幹の破裂のため、最初に意識がなくなり、母のように闘病で苦しむことはまったくなかったようだ。

「年とってみろよ、結構大変なんだぞ」と言っていた父。没後、主治医達に「よくここまで寿命があったものだ」と驚かれた病状。苦しくはなくとも、かなりシンドイことはあったのかもしれない。

あと5日足らずで、その父の一周忌が来る。

母没後まもなく決まった結婚話をとても喜んでくれ、アメリカに送り出してくれると同時に、子供の誕生と結婚生活が落ち着くのを母の分もしっかりと見届けてから逝った父。親としての義務(?)をきっちりと果たした。

子供のことをとても大事に、自由に育て、愛してくれた両親だった。晩婚であったにも関わらず、私達が地に足をつけ、自分の家庭を持つまで生きてくれたことは凄い。そこに彼らがいなくとも、彼らの遺してくれた「様々なモノ」が私を支え、導いてくれる。子供の笑顔を見るたびに両親を思い、両親に感謝の念が絶えない。