サンノゼ徒然草

米国はカリフォルニア在住の主婦の覚え書き。子育て、趣味、サンノゼでの暮らしのことなど。

父 5(葬儀を終えて)

2008-10-25 08:08:27 | 育児日記
とりあえず、父を無事見送る事ができました。
二日間の涙雨の中、家族や親しい人々に見守られて、父らしい落ち着いた旅立ちになったと思います。

父の一生に満足をしつつも、やはり、なかなか涙は止められませんね。父の訃報に接してから、動転と哀しみで眠る事すら忘れた毎日でしたが、体は正直で、昨日の法要の後、久方ぶりにぐっすりと眠りに落ちました。

父は自分の葬儀は親しい身内だけでこじんまりとすればいい、と言っていました。家族と親しかった親戚、親しかった友人達に囲まれた葬儀、となりました。父が別れを言いたかったであろう方は全て来てくださったと思います。

父の学生時代の親しい仲間の最期の一人となってしまった方は、大雨の中のお通夜にも告別式にも両日来てくださり、最初から最後まで父を見送ってくれました。父の棺に父に持たせる愛用品の数々とお花を入れたとき、その方が「この間迄元気だったじゃないか、なんで先に逝くんだよ。」というような表情で、悔しさを投げつけるように白い菊花を父の顔に配していたのが忘れられません。

父が、自分が死んだときにはその方にだけは連絡してほしい、と言っていた方です。

弟は父が今年の4月の友人の葬儀に出たときのショックの度合いや寂しさの様相から、その方が受けるショックを考えて連絡を入れるのをためらっていました。そういう優しい弟です。ですが、私は先方のショックはあったとしても父の願いは叶えてあげるべきだと思いましたし、弟は結局父の亡くなっている親しい友人の奥様に訃報連絡を入れたときにそのことを相談し、彼女に「お父様がそういっていらしたのなら」と言われたことで、連絡をしました。正確には私が電話を入れ、その方の奥様が電話に出られたので、一番よい形で伝わったのでは、と思います。

父の遺影には、私が昔に撮った写真が使われていました。

用意周到な父は、この5月に「そろそろ遺影用の写真を準備しなきゃなぁ。写真館にでもいって撮るか」と言っており、丁度友人からプロ用カメラを譲り受けていた私は、そのカメラを使って数枚撮影しました。
今回、その写真を使う予定でいたのですが、実家リフォームの荷物の片付け時に、義妹のお母様が満開の桜を背景に父と母がよい雰囲気で写っている写真を見つけて複製を数枚作ってくださってあった写真の顔のほうが多少若くて格好よかった(笑)ので、私が日本についたときには、それを使う事になっていました。

実は、私も気に入っていたいい写真でした。

父の棺には、私からは、私が学生時代に奈良を訪問したときから始めて今は8冊か9冊目を迎えている御朱印帳から完結している7冊(父が好きだった金比羅大権現の御朱印もある。母のときには1冊しか入れませんでしたが。)、石鹸ビジネスのパンフレットや自分が作って気に入っている石鹸数個、時代劇小説に時刻表(旅行好きだったので)、それらの間にこっそり挟んで電卓(溶けにくいだろうから入れない方がいい、と弟夫婦が判断していた生前の父の必需品)、私の結婚式からアメリカでの生活、家族写真や日本滞在時の父と息子(孫)の写真を入れたアルバム、SF空港で買ったギラデリチョコレート(晩年はチョコレートが好きだったので)などを入れました。

弟夫婦にはお願いして晩年の母が病床で裾を繕って父が大事に履いていたスラックスを用意しておいてもらい、後は弟夫婦が思い付くものを。偶然にも、遺影の父が来ていたシャツも、弟夫婦が棺にと準備したシャツとセーターも、すべて私が以前買って父が着ていてくれたものでした。

父に対してさせてもらいたかった事は決してつきることはありませんが、いつも父が見たがっていた息子の写真のごく最近のものは先週弟から父に見せてもらえていましたし、結婚してアメリカに引っ越した後も自分がいかに父とたくさん過ごせたか、母に娘としてできなかった分も母が父にしてあげたかったことの分も併せて何ができたか、を考えると、やれる事はすべてやらせてもらえた気がします。

上司であった先生がお悔やみのメールで「友達が、私の父が死んだとき「いくつになっても、親の死ぬのは悲しいものだよね」と言ってくれましたが、本当にそうでした。(私の名前)のお父様も、大往生とはいえ、残された(私の名前)や弟様はやはり痛切に悲しんでおられることと拝察します。泣く時は泣き、ゆっくり立ち上がってまた元気に進まれますように。」と書いてくださいました。

本当にそうですね。
やるべきときにやるべきことをちゃんとやっていかないと、父は喜ばないと思います。

今回、実は、父は母の命日である7月6日までは自宅で頑張り、7日に病院に運ばれました。2ヶ月毎、偶数月の15日に2ヶ月分の年金を受給していたのですが、15日にそれをちゃんと受領し、19日に亡くなりました。
今回、私が滞在しているウィークリーマンションの代金は、その年金の一部で弟が支払ったそうです。知らないこととはいえ、死後も娘の滞在を助けてくれました。本当にきちんとした父です。

今回、主人は一緒に来日して私を労りながら明日まで滞在してくれています。
主人の存在は本当に心強く、私が法事に集中できるよう息子を全面的に見てくれていただけでなく、家族として不慣れな日本のしきたり全てを(おそらくその場にいた誰よりも)真摯に、誠意を以て臨んでくれました。
父は、私のおつきあい候補としての主人に面会したとき、その人間性と態度に「この男なら」と結婚話をまとめてくれた経緯があるのですが、父の眼は本当に確かだったと思います。

今後は、今のWマンションに28日まで滞在し(弟一家と父同居を前提として、実家はこの夏よりリフォームを進めており、今日完成、30日に弟一家と父は引っ越し予定でした)、おそらくその後は引っ越しの片付けが落ち着く迄、三重の母の実家に滞在すると思います。(三重ではネット環境がないのですが。)
心を慰めるのに、大好きな奈良の神社・仏閣も訪問するかもしれません。(苦笑)

お悔やみコメントのなつきさん、らんちゃん、ありがとうございました。
個別にメールを差し上げたかったのですが、メールアドレスがわからないため、この場を借りてお礼申し上げます。らんちゃん、またメールアドレスを教えてくださいね。

父の件では、まだ相続や確定申告といった煩雑な作業が待っています。ただ、父の置き土産か、日米に分かれていると色々難しい作業も、今回、私が長期滞在故にスムーズにすべて処理できると思います。

肝心の父はいなくなってしまいましたが、数ヶ月の日本長期滞在になりました。
父が報告話を喜んでくれるよう、日本に長期滞在させてくれる主人に感謝をしながら、嘆きすぎず、大好きな日本の風物と友人達との交流、息子への体験を大事に持たせながら、しっかりと過ごして行こうと思います。

父 4

2008-10-23 07:08:32 | 育児日記
母は父の事を「お父さんは本当にきちんとしている。とても立派。大事にしなきゃね」と良く言っていました。
漠然とそう感じていたものの、それを強く実感したのは、結婚準備で数ヶ月アメリカに滞在して日本に戻ったときでした。男やもめの老人の一人暮らしなのに、介護ヘルパーの手伝いがあったとはいえ、家の中は清潔にすべてがきちんとしていて、とても落ち着いたたたずまいをみせていました。

とにかく、すべてが整理されて、私がいたとき以上にきちんとされていました。

私が疲れて台所の後片付けをしていないと、ちょっと休んでいる間に全てが綺麗になっていて。本当にてきぱきとしていました。

妊娠中は、私のために弟と水天宮まで安産祈祷に出かけてくれたり、つわりのときに食べると少し楽になる食べ物を伝えると箱一杯に送ってくれたり(それも宛名の書き方や詰め方は郵便局局員さんに手伝ってもらいながら)、とにかく、出来る限りのサポートをしてくれました。

息子の誕生を誰よりも喜んでくれ、息子をとても可愛がってくれ、心配してくれました。
電話の度に「(息子の名前)は宝物だからな。大事にしろよ。」と電話口で何回も繰り返し、「写真を一杯撮っておけよ。写真、送ってくれよ。」と写真をとても楽しみにしてくれていました。

主人も大事にしてくれました。「お前を大事にしてもらわなきゃ、な。」と、年金から、お小遣いを主人にくれたり、主人の来日時には私たち3人だけでの国内家族旅行の資金を主人に渡してくれたり。
主人が私を既にとても大事にしてくれるのを承知の上で、だめ押しを計っていたようです。(苦笑)

父は主人の人柄と誠実さを高く評価していて、彼の真摯な態度と畏まり方を見て、「この男なら娘をやっても間違いない」と判断を下し、更に結婚式のときに彼の両親に実際に会って更に安心したようです。

今回の訃報に友人が、その友人に対して父が「(私の名前)の結婚の後、あと2年は生きたい。(私の名前)の結婚がちゃんと落ち着くのを見届けたい」と言っていたことを教えてくれました。

結婚して3年が過ぎましたが、私の結婚生活は幸せそのもので、未だに新婚気分同様の夫婦としての仲睦まじさに、息子を交えた家族としての幸せを享受しています。父もそれは感じてくれていたと思います。私が自分の生活の事を話すたびに、「良かったね」と言ってくれ、その上で、息子を大事にするように常に諭し、また、「お前は無理をしすぎる。ちゃんと健診は受けろよ。お母さんが乳がんだったから、ガンだけには本当に気をつけろよ。」と会話をする度に気にしていました。
「男は綺麗なのが好きなんだから、いくら(主人の名)がいいと言っても、ちゃんと化粧しろよ。綺麗にしろよ。」とも。(苦笑) 

父は独身時代に叔母と一緒におしゃれをして銀座に出る事も少なくなかったようで、二人ともとても本当におしゃれで、まるでデートのように出かけて行った、と近所のおばさんが教えてくれた、と母が言ってましたっけ。
この4月にその叔母はなくなったのですが、確かにとてもおしゃれが上手な方でした。

インターネットを使って日本国内のお菓子や季節のものを父に送ると、「俺の事はいいから。お金は大事にしろよ。」とよく言われました。とにかく、自分より娘の事を心配してくれて、「家(実家)に帰るといいだろう。お父さんがいないと寂しいもんな。お父さんは頑張るよ。(私の名)のために生きているようなもんだ。」とも。

父が亡くなる数日前にケアマネージャーの方が父を見舞ってくれ、私に父の様子をメールしてくれました。「今(父の名前)さんに会って来ました。家が出来上がったら、帰りたいと言ってました。体力がもつか心配ですが受け入れ体制を整える予定です。(私の名前)の為にも生きてないとと言ってました。会える日を楽しみにしてます。」と。

「(私の名前)が帰ってくると(母の名前)が帰ってきたみたいだよ。よくやってくれるよ。」
「(私の名前)のために生きているようなもんだよ。」
「(母の名前)が亡くなったときに俺の人生も終わったよ。でも、(私の名前)がいるから、頑張るよ。」が口癖でした。

生きている父にこそ会えませんでしたが、まだ父がそこに在ること、触ることができるのに本当に救われます。

今日、6時からお通夜です。今晩は弟と従兄と一緒に斎場で寝ずの晩の予定です。

父 3

2008-10-23 05:51:10 | 育児日記
母が段々と衰弱し、私が仕事を辞めて再度介護に専念するようになった頃、弟が結婚する事になりました。

披露宴の途中で母は退席せざると得ませんでしたが、父は立派にその席をこなしました。

弟の希望であった実家近くの新居も、探し当てたのは父です。
一戸のみ余り且つ居住候補者がすでにいた新築マンションを、父が上手く話をまとめてしまいました。幸い購入時より価値は更に上がっており、ローンも弟は繰り上げ完済しており、何ら心配はありません。

その後、母が遂に寝たきりになり、緩和ケアでの入院には意欲的でなかったものの、万一を考えた緩和ケアの病院を探した当てたのも父でした。予約がいっぱいでなかなか空きがないという聖路加病院を抑え、遂にはそこで緩和ケア対応をしてもらえるようにしてしまいました。

母は最後は聖路加病院の緩和ケア病棟にお世話になり、そこで息を引き取りました。緩和ケアへの入院は嫌がっていましたが、実際に入ってみると予想より居心地は良かったようです。

母が亡くなったとき、私の主人は当時親しい友人として日本を訪問して我が家に滞在しており、その主人のお通夜出席に同意したのも父でした。主人はそのときの体験をきっかけに、私との付き合いや結婚を意識し始めたようです。

母がなくなり、弟夫婦に息子が生まれ、私と主人の間におつきあいの話がでるかでないかになり、主人は再度日本に来ました。その主人に私とのおつきあいをどうしたいのか、結婚を考えているのか、と詰め寄ったのも父です。
主人は既にそのことをよく覚えていませんが、私の結婚は父と主人の話し合い、父の肝いりで決まりました。
私も、父が実際に彼にあって「娘を嫁に出しても良い」と判断してくれたことで結婚に何ら心配がありませんでした。当時彼との友人付き合いは彼のご両親も含め10年以上になっており、「あのご両親なら間違いない」と思ってはいても、やはり父親の太鼓判なしには決断できなかったと思います。

また、30半ばを過ぎて特に相手もいない娘に対してどれだけ心配していたことか、と思います。父は、娘を手元に置いておくよりもさっさと嫁に出して娘が自分の家庭を作る事を願った人でした。

主人の両親が来日くださっての結婚式の後、待合室に戻って席に座ったとたん、父は「Finally」と言ったそうです。義母にはそれがとても印象的だったと。
父は海外営業も経験がありましたから、私が米国留学をするまでは我が家で唯一の英語話者でした。退職して久しいとはいえ、主人や主人の両親とは自力で会話ができる人で、英語で出たその感慨は本当に「やっと」ではなく、「Finally」だったのだと思います。

父 2

2008-10-23 05:28:48 | 育児日記
私が小学校高学年になった頃、地元の公立では校内暴力があるとかないとか(実際、学区外とはいえ、深川三中問題等がありました)、また、私は怠け者だから普通に学校に行ったのではきっと受験に失敗して高校も大学も行けないとか、色々思案の結果、私立受験をすることになり、中学から私大付属の女子校に送ってくれました。

中高時代、数学や英語の宿題をよく手伝ってもらいましたっけ。(笑)

弟も、中学は公立だったものの、高校から私大付属へ。弟は私立受験をとても嫌っていましたが、「親がやってやるのが大事なんだ」とごり押ししたようです。母に言わせれば、「きっと自分が小さい頃に親に色々やってもらったから、自分もやらなきゃと思っているに違いない」でした。(苦笑)

この頃から弟と父の物事に対する意見の食い違いは始まっていたかもしれません。

中学や高校のときから、学校の行事で帰宅が遅くなるときがありましたが、そのときは必ず最寄りの駅迄迎えにきてくれていました。学生になり、私が漫画を描いていたり印刷所の締め切りに間に合わせるために夜中に東京駅裏の中央郵便局に行きたがると、着いて来てくれました。
友人と旅行に出るときは旅程と滞在先をきちんと残していくのが我が家の常識でしたが、私たちが宿泊先の宿に着く頃には挨拶の電話が入っていたほど。

学生時代に中国留学を希望したときは「日本の大学もでておらず、社会で働いてもいないのに何が海外だ。日本が一番安全なんだ」と徹底的に反対され、あきらめました。ですが、就職して3年目、やはり諦めきれずに中国留学を準備し、父は反対していたものの私が会社迄辞めてしまったのでしぶしぶ同意。ただ、最初から留学に賛成してくれていた母が私の中国滞在を心配し、また私の不在を寂しく思っていたのに対し、「心配するくらいなら賛成しなきゃよかったんだ。賛成して出してしまったんだから、心配するな。」と。一度賛成した父は、私を全面的に応援してくれました。

中国から帰り、引き続き米国留学を希望したときはもう反対せず。
ただ、最初のホームステイ先に着いたときには、既に父から挨拶の電話が先方に入っており、それには驚かされました。

一緒にいようがいまいが、常にサポートをしてくれていました。

晩婚でしたから、私が大学生になってしばらくした頃には既に定年退職をしていましたが、私たちがまだ学生・高校生だったため、再就職。
私が大学を卒業した頃には、その仕事の他に、友人に頼まれて禰宜(ねぎ)のバイトもし始めました。父の親友の一人が東儀家の方で、結婚式の雅楽演奏を担当していた関係です。700組以上のご夫婦を誕生させています。
その関係で、私も就職後の週末は結婚式の巫女さんのバイトをさせていただいた時期がありました。

ですが、その頃に心臓の発作で倒れ、元々狭心症を患ってはいましたが、バイパス手術をすることになりました。手術は成功し、普通の生活にも戻りましたが、それをきっかけに禰宜の仕事は自分から辞めています。結婚式の際中に倒れては縁起が悪いですから。

働く事を完全に辞めたのは、1999年に脳梗塞で倒れてからだったと思います。もしかしたら記憶違いかもしれませんが。

煙草やお酒を完全に辞めたのはこのときです。減塩生活も開始しました。

9月に父が脳梗塞で倒れてまだそのリハビリの最中の12月に今度は母が乳がんで緊急手術となりました。リハビリに行く父を伴って病院に通ったのを覚えています。
当時私はまだ留学帰りの大学院生で、かなり時間の融通が利くのが幸いでした。
私自身は大学院卒業後はそのまま自宅介護の生活となりましたが、1年後にはその生活にも慣れたため、自宅近所の派遣勤務先を見つけ、仕事も開始しました。

元気120%だった母が徐々に衰弱していくのを、父はどんなに寂しくみていたかと思います。自分自身の健康のためという理由はあったにしろ、それを見るのがいやで、父は毎日定期的に外出していました。朝9時半に外出し、夕方4時に帰宅。出先はいつも汐留で、かかりつけの虎ノ門病院がすぐですから、何かあったらそこに運んでもらえるよう、胸には既往症とカルテナンバー、名前を書いた札を下げて。



父 1

2008-10-23 04:51:06 | 育児日記
父は大正15年に東京で生まれました。長男で、親の愛情をたくさん受け、大事に可愛がられながら育ったようです。

婿養子として東京に引っ越してきた祖父は、父が生まれた頃は不動産や船舶業で成功しており、地元(出身地・山形県鶴岡市)でもその羽振りの良さは聞こえるほどで、父はお手伝いさんが普通にいる環境で「お坊ちゃん」的に育ったような感じです。

前回5月の里帰り時に、父が長らく懸念していた母の実家に預けたままになっていた佐藤の古いアルバム達を持ち帰りました。父は大変喜んでくれ、私にどれが彼でどれが祖父母かなどを説明してくれましたが、特に驚いたのが父の節句写真。羽織袴の祖父に抱えられた同じく羽織袴の3歳?くらいの父の後ろには、父の干支である寅の掛け軸や、5段はあると思われる五月人形の段飾りが写っていました。また、そのアルバムのいずれの写真も立派なものでした。

青春時代は戦争真っ直中でしたが、戦争には行かず、体を壊しながらも友人に助けられながら大学を卒業し、戦後のどさくさの中で色々な体験をしたようです。
戦争で祖父の不動産や船舶は全て消失、借金のみが残り、駅弁売りから進駐軍絡み?から、とにかく生き残るために色々な仕事と経験を乗り越えたようです。

祖父がなくなり、今の私の実家がある場所に自力で家を立て、叔母(妹)を嫁に出し、祖母がなくなり、一人っきりになったところに母がお嫁にきました。

祖母も当時には珍しく教育をきちんと受け、針仕事も上手く、きちんとした人だったようですが、晩年は何かと借金を作ったようで、当時は父の勤務先に借金取りからの赤紙が届くくらい。それが父の出世を妨げたこともあるようで、祖母は交通事故で他界しましたが、それは自殺だったかもしれないと考えた事がある、と聞いたことがある気がします。

母によれば、結婚式の夜、父は母に涙を流しながら「僕もお袋を不幸にしたかもしれないが、お袋も俺を不幸にした」と語ったそうです。
父によると、誰もいなくなったものの母と結婚して私が生まれ、弟が生まれ、段々と家の中が賑やかになっていったのがとても良かったとか。私たちが小さい頃は、本当に子煩悩だったようです。

私と弟が子供の頃は、教育にはあまり参与しない方で、母に任せっきり。
なのに、母が長時間外出中のときに限って何かで怒られ、姉弟でよく立たせられたり、母が帰ってくるときに泣いていた事もよくあった気がします。(苦笑)

ですが、残されている写真を見ると、どれを見ても父が本当に私たち姉弟を可愛がってくれていたことが見て取れます。私たちも父に遠慮なく甘えていました。

母と結婚後しばらくして借地だった今の実家がある場所を買い受けました。私たちの最初の家は、木造平屋で部屋が3つにお風呂と台所と廊下、お庭がある家でしたが、私が小学校5年になった頃、「これではこれから手狭になる」と同じ場所に鉄筋コンクリートの3階建てを新築しました。

それまでは年に一度は父がすべてを計画してくれた家族旅行に行っていたのに、家を建て替えた後は残念ながら家族旅行はなくなってしまいました。

ですが、母の実家の三重には母と私と弟をよく送り出してくれました。
母の実家は田舎ですから家も広く、学校の休み中は丸々滞在するのが常でした。私たちが通信簿を持って帰宅するや否や田舎に出かけ、始業式前日や当日に東京に戻った事も少なくありません。田舎の伯父や伯母達が遊園地やサーキット、キャンプなどに連れて行ってくれ、私たちは田舎の自然と良さを存分に満喫しながら育ちました。

父も子供たちが自然の中で育つのを喜び、一ヶ月ほど妻や子供たちが不在でも良し、としていました。母の兄弟や母の母(祖母)がいるところにいれば間違いない、と思っていたようです。反面、気楽な一人暮らしを楽しんでいたのでは、とも思いますが。(苦笑)







父 逝く

2008-10-20 22:54:27 | 育児日記
急変でした。82歳でした。

こちらの18日夜、夜中の2時間ほど前から弟からテキストメッセージが続きました。

今日、あと2時間ほどで日本に向けて発ちますから、日本着は火曜日です。
数日のことで間に合いませんでした。(先週日程を今日に変更したばかり。)
主人も一緒です。お通夜とお葬式は木曜・金曜です。

父は、脳梗塞と狭心症を長らく患っていましたが、この夏に血液関係の病気にかかり、それが先日白血病になってしまいました。それによって血管が弱り、脳幹の血管破裂が死因だそうです。
その日の午前中に弟は父に呼ばれて病院に面会に行ったそうで、そのときはまったく普通だったそうです。
いずれにしろ、痛みもなく、最後に弟と話ができていたのも良かったと思います。

訃報からひっきりなしに涙が止まらず、今もまた涙がこぼれ始めています。
今年の5月に親子水入らずで一ヶ月ほど過ごしてきたのが本当によい思い出に
なりました。また、主人がいてくれるのが本当に救いです。

アメリカの友人数名と日本の友人には連絡しましたが、再度、この場を借りてご連絡まで。

色々なご心配や励ましの言葉、ありがとうございました。
また、日本で。

緊急帰国と石鹸イベント

2008-10-17 05:53:53 | イベント
来週の月曜日に日本へ緊急帰国することとなりました。帰国は2月5日(当初のアメリカ帰国日)を予定しています。

実は、日本の父の病状データが芳しくなく、見た目は元気なのですが、いつ急変してもおかしくないという主治医の話が弟からありました。
突然の話で、まだ気が動転してこの数日ありえないミスなどもしていますが、とにかく、なるべく落ち着いてやるべきことを済ませて日本へ迎えるように、またその間父に何も起きないように祈りながら、帰国の準備をしています。

まず、来週以降の石鹸教室は全てキャンセルさせていただきました。

そして、11月1日からの紀伊國屋書店サンノゼ店(そうです、紀伊國屋書店で開催していただきます!)での石鹸イベントは、紀伊國屋書店と友人の協力で変わりなく開催されます。

私自身も折角の初ビッグイベントをとても心待ちにしていたのですが…。今回のイベントを皆さんのご協力とお力で成功させていただき、是非、次回もイベントをさせていただけるように繋げていただけたら、と願っています。

紀伊國屋書店内でも、近日中にイベントポスターが掲示されます(私が作成しました)し、ベイスポ10/31号にもお知らせが掲載されます。是非、ご覧になってくださいね。

また日本につきましたら改めて、ブログをアップします。
よろしくお願いいたします。

日本への里帰り 再び

2008-10-09 10:15:05 | イベント
2008年12月4日(5日着)から2009年2月5日まで日本に帰国します。
Mr.Jは12月23日(24日着)より翌1月6日まで合流です。

7月に倒れた父はまだ入院をしており、週末は自宅滞在が許されているとはいえ、今は3日に一度の輸血治療を受けているそうです。
その父がかねてより切望していた私の2ヶ月滞在が実現することになります。

父が独居していた実家は8月よりリフォームが進んでおり、10月末に完成予定。
完成後は、弟夫婦が引越し、父と同居になります。
そこに、私達一家が合流することになります。

今回も父とたくさんの時間を一緒に過ごすことが主目的ですが、三重の伯母達を訪問したり、Mr.Jと一家水入らずの家族旅行も予定しています。

今回、東京にいる間は、もっぱら息子クンを遊ばせることと、ウェブサイト仕事をしていることになると思います。その頃には、父は通院治療になるようなので、その父の付き添いやお世話をするつもりです。


息子クン 2歳!

2008-10-09 10:07:37 | 育児日記
今月3日、無事、2歳を迎えました。

体重(30.4パウンド)も身長(35 5/8インチ)も平均より少し高めで、上手に育っているようです。2語文もとりあえず言いますし、単語も25くらいは日英混合でありそうなので、バイリンガルだと発育が遅くなるという言語も極端に遅れている心配はない様子。

この6日の健診でも「非常に結実した体で、バランスもよく、僕はとても満足です。 貴女(達)はとても素晴らしい仕事をしましたよ!」と小児科の先生よりお褒めの言葉を頂きました。

ちなみに、彼が言える2語文は、「桃 おいし~」と「All gone」と「桃 プリ(Please)」くらい。微妙ですが、小児科医の先生もそれでよい、と励ましてくれました。(苦笑)

毎日、7時半起床の夜9時寝。1時位からお昼寝2時間が基本的な生活リズムですが、PGなどで遊んでいるとお昼寝は4時か5時位から2時間ほどです。それでも、9時には寝てくれます。

絵本が大好きで、動物が大好きで、ぬいぐるみも大好きで、日本から帰ってきて以降、パンダのぬいぐるみと一緒に寝るのが習慣になっています。お誕生日にとても大きなペンギンのぬいぐるみを頂いて、数日、そのペンギンがパンダの立場を奪ったように見えましたが、パンダの立場は健在でした。(笑) 

おせんべいや砂場も大好きです。ピアノも大好きです。歩くのも大好きです。

始終笑顔が絶えない、素直ないい子に育っています。(魔の2歳児はいつ始まるのかしら?というところ。(笑))