濱寅の好き勝手BLOG

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20年ぶり新札発行。

2004-11-01 | 社会
1984年11月1日新紙幣発行「福沢諭吉」「新渡戸稲造」「夏目漱石」から
調度20年ぶりに新しいお札が発行。
千円券には「野口英世と富士山・桜」、五千円券には「樋口一葉とかきつばた図」
一万円券には「福沢諭吉と鳳凰(ほうおう)像」が表裏それぞれに描かれている。

今回発行された三人を紹介。
野口英世(のぐち ひでよ 1876年11月9日~1928年5月21日)
福島県猪苗代町の貧しい農家の子供として生まれ、幼名は清作。
幼いころに左手に火傷を負い、治療してくれた医者の姿を見て、医学を志す。
20歳で医師免許を取得、1898年に英世と改名、北里伝染病研究所に勤め始める。
来日していたフレキスナー博士の案内役を務めていた時に、渡米の誘いを受け、
1900年、フレキスナー博士を頼り、アメリカに渡る。
1904年、ロックフェラー医学研究所に職を得る。
1911年8月、梅毒の純粋培養に成功、一躍、世界の医学界に名前を轟かせる。
1915年、日本に帰国、日本各地の講演会にひっきりなしに呼ばれることになるが、
一方、日本の医学界は、野口を一つの講演会にも呼ばず、あからさまな冷遇をする。
英世は、日本を拒絶して、以後、帰国することはなかった。
1918年、ワクチンのない黄熱病の病原菌発見のためロックフェラー財団の以降で、
パナマ運河周辺で、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。
到着後、9日後には、黄熱病と思われる病原体を特定することに成功。
エクアドルで英雄扱いを受ける。
その後、アメリカへ凱旋帰国、野口ワクチンとして生産に取り掛かる。
1928年、ガーナのアクラに研究施設を建設、アカゲザルを用い病原体特定を開始、
しかし、まもなく自身が黄熱病に感染。
1928年5月21日、アクラの病室で死亡。

樋口一葉(ひぐち いちよう 1872年3月2日~1896年11月23日)
東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(東京都千代田区)の長屋で生まれる。
父は元八丁堀同心、明治維新後に官使となり、少女時代までは恵まれて育つ。
子供時代から読書を好み草双紙の類いを読み、
曲亭馬琴の南総里見八犬伝を7歳の時に読破したと伝えられる。
1886年、14歳の時に中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門。
父が事業に失敗して病気で亡くなり、17歳にして戸主として一家を担い、
本郷菊坂(東京都文京区)に移り母と妹と三人での針仕事や洗い張り、
小店経営などで苦しい生活を送る。
転居の多い家庭で、一葉は短い生涯に12回の引っ越しをした。
同門の田辺花圃が小説『薮の鶯』で多額の稿料を得て、小説を書こうと決意し、
20歳で『かれ尾花一もと』を執筆、同年に書いた随想で「一葉」の筆名を使った。
小説家として生計をと朝日新聞小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し、
図書館に通いながら初めて小説『闇桜』を桃水が主宰する雑誌の創刊号に発表。
本郷区丸山福山町(西片一丁目)に転居して執筆を継続した。
『おおつごもり』『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』を発表、
森鴎外などに評価される。
戸籍名は奈津で、なつ、夏子とも呼ばれる。歌人としては夏子、
新聞小説の戯号は浅香のぬま子・春日野しか子として使い分け、
1872年に肺結核のため24歳で死去。

福沢諭吉(ふくざわ ゆきち 1835年1月10日~1901年2月3日)
大坂堂島にある豊前国中津藩蔵屋敷で下級武士の子として生まれる。
1歳6ヶ月のとき父の死去により帰藩し中津(大分県)で過ごす。
明治期の思想家、東京学士会院初代院長、慶應義塾創設者である。
19歳で蘭学を志し長崎に、翌年、大坂の緒方洪庵の適塾で学び、のちに塾長に。
1858年、築地で開いた蘭学塾を開き、遣外使節団などへの参加経験を通じて、
帰国後「西洋事情」などの著書を通じて啓蒙活動を開始。
1867年には、蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念する。
維新後も洋学の普及を主唱、国会開設運動が広がると、英国流憲法論を唱えた。
1881年の政変で政府要人と絶交、日刊新聞「時事新報」を創刊し世論を先導した。
1898年、脳出血で倒れ、一端は回復したものの、1901年に再発し死去した。
福沢の言った『独立自尊』の「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、
人たるの品位をはずかし辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」は、
慶應義塾大学の校訓ともなっている。


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