吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウラィ男の随想 二十三 

2005年11月01日 08時38分06秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十三  
 
 大本営は十二月三十一日、ソロモンの主島、ガダルカナルから軍の撤退を発表。
…開戦一年目にしてこうなったとは…O君は深刻な表情で告げた。 彼の頭脳は冷静に戦況を分析している。
…君のお父さんが朝鮮の役所にいた頃、どんな仕事じゃった?とある時私は訊ねた。小樽にいた中学三年生の頃、F高等女学校生で朝鮮の美人が姉の友達にいて、時々家に訪ねてきたので淡い憧れに似た感情を抱いていた。
…姉の話によれば彼女の両親が亡くなって小樽、龍徳町で材木店を営む伯父にひきとられて来たと言う。もとは朝鮮で両班と呼ばれる貴族の家柄で名は李順淑(イスンスク)で日本名は高山桔梗と姉は言った。
…親父は文部関係の部署にいて、各道の州役人と連絡をとり朝鮮の教育関係組織の研究をしよったと聞いちょったが…。とO君は答えた。…この間の青磁もそんな関係で貰うたんやな…。
…だろうと思うが、わしにはさっぱり分からんきのう…。
『日本陶磁史』なる本が職員室の書棚の隅においてあった。
 だれも見てないらしく、頁をめくると新しい印刷の薫りがした。 私の本能が騒いだのか、その本を一晩で読み終えた。
 すると今まで歴史に出てきた須恵器が朝鮮から伝わったやきもの技術の影響で七百年も西国地方を中心に焼かれていることを知った。…お前は美術に詳しいのう、上野ねらったらどうや!お前の嫌いな数学試験はないきのう…とO君は言った。
 私は上級学校への進学は九割かたあきらめていた。理由は自信がないのもひとつだが、肝心の学費問題でどうにもならなかった。
 私はもう一年、西峰に残ろうとおもったが、タヌキ精神のM校長はまだ転勤しない情報を耳にして、思い切って東京にでることにしたのだ。

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