吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

玄界灘を越えて青井戸三十

2005年07月01日 06時12分20秒 | 玄界灘を越えて
玄界灘を越えて青井戸 三十

 宗湛の上洛は最初が天正十年、博多の同じ豪商の島井宗室の案内で本能寺の変が起こる前に織田信長に初めて接見した。
 宗湛は三十二才、はちきれる希望にもえていた。その若き宗湛と信長といかなる会話をもったのか、茶道具の蒐集については信長が先輩だが、南蛮の情報について宗湛の話に信長は深い興味と渇仰さえあったのではなかろうか。
 当時、頻繁に行われた茶の湯は戦国武将達や堺、博多の豪商逹の友好と情報交換を兼ねた精神的憩の場所でもあった。
 その頃から秀吉、山上宗二、薮内道和などによる井戸茶碗が登場してくる。
 オレは青井戸と命名されたが秀吉の使った井戸は大井戸という井戸の代表的茶碗であった。
 茶を喫するのに千利休の発案した吸い飲み方法が流行った。
 千利休はザビエルの伝導する耶蘇会が日本への布教を考慮して建物に畳部屋を採用して座る習慣の日本人が血を象徴するワインの回しのみを見て採用したのだろう。
 秀吉は人間同士が裸の付き合と連帯をの意味で回し飲みを大いに奨励した。
 今日の濃茶の回し飲みもこの時の伝統からきている。
 オレにとっては初耳の大井戸はウリナラのどこで生まれたのか、見当もつかぬが、土味はオレと全く同じなので、点柱ぢいさんの窯近くでねぇだろうか…それはオレと同じように釜山浦倭館、対馬を通ってやってきたに違いねぇが、ウリナラでは見られぬあの独特の高台、腰回りの鋭い削り…第一、ウリナラで濁酒飲むのに、あのような竹節、しかも結構高さもあり、碗の中をみてもわざわざ底にへこみなんぞの茶碗はいらねぇヨ!.
 井戸を作陶したのはウリナラの陶工だがどう見ても倭の匂いがふんぷんとするぜ!!つまりオレの言いたいのはそこなんだ。

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