吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

玄界灘を越えて青井戸三十三

2005年07月02日 10時13分51秒 | 玄界灘を越えて
玄界灘を越えて青井戸 三十三

 寒山は豊前国のもと日田藩の下級武士だった。
 褓負商(ポプサン=李朝の行商人)の欽玄とは数年前から友人つきあいが始まり、慶州南北道をまたにかけけて怪しげな商売をする欽玄から様々な情報を得ていた。
 寒山は同じ藩の某なる下級武士と碁の争いから刃傷沙汰をおこし、藩から追放されて筑後と国境の築豊山中の山伏の群れに身を投じて厳しい修験道にあけくれ、やがて卜占術を体得して、里に出ては卜占で飯を喰むことになったが、天性の器用さから、博多の茶人、長井宗元なる人物から茶の湯も学んでいた。
 人づてに耳にした朝鮮人蔘の高価なるを知って密かに非公式船に賄賂を使ってまんまと渡鮮に成功し、たまさか対馬藩の出先の釜山浦倭館の周辺邑に潜入し、朝鮮語も習得、恒居倭人として邑人に卜占をもって重宝がられるようになり、そんな時に欽弦と知り合った。「朝鮮のやきものは倭国に比べて窯は立派であるが、ひとつ銭にな る焼き物を何とかできないか?」寒山は欽玄と天幕で濁酒を飲みながら訊いた。
「銭になる!いってぇなにを焼くんだ」欽玄がずるそうに濁った眼をむいて言った。
「じつはな!こんな茶碗がどこかで焼けまいか…」
 寒山は朝鮮紙に筆で図を描いて欽玄に見せた。
「こんなのわけもねぇだろ…分院の焼き物はワシには手が出んが、 知り合いに飴釉で壷を焼いてる男がいる…訊いて見よう…」
 欽玄はふたつ返事で答えた。
 釜山浦倭館から西南の裙屯面、水下里(クントンミョンスウハリ)の権漢竜(コンハンユゥ)なる男の窯をその翌日、二人は訪ねた。 陽焼けした漢竜は粘土のこびりついた手で額を拭いながら
「とにかくロクロをひいて見よう!」と返事した。
 寒山はぬけめなく窯の位置がもう少し南に変えるほうがよい!と 卜占した。
 二つ返事した理由は茶碗一点が銀一匁で…と言った欽玄の言葉に意欲がでたのだ。農家の味噌入れに使う飴釉面取り壷は乾燥に無駄がでやすい上に、面取削りに手間もかかるし、値段も注文茶碗のほうが三倍もしたからだ。


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