竹村英明の「あきらめない!」

人生たくさんの失敗をしてきた私ですが、そこから得た教訓は「あせらず、あわてず、あきらめず」でした。

四万十川、敗戦記念日、広島、祝島神舞・・夏の記録

2016年08月23日 | 原発
前回ブログで少し触れましたが、この8月は9日(火)から徳島県へ。徳島地域エネルギーの研修を受け、11日(木)から高知県四万十町、四万十市と四万十川の旅、そして13日(土)から広島の実家へ。そこで二日を過ごし、15日(月)から山口県祝島の神舞へという、豪華、ハードなスケジュールの旅を楽しんでおりました。
最中の8月12日(金)には伊方原発の再稼動、8月15日(月)には、71回目の敗戦記念日もありました。本来ならブログ発信していたような<メモリアル日>にも発信する時間もなく動いていましたので、ここで少しまとめて「夏の記録」を発信したいと思います。

四万十メガソーラーは地域の人を幸せにできない

徳島地域エネルギーの研修から四万十町に入り、「しまんトロッコ」に乗って四万十川の上、中流域を見た記録が前回。今回は四万十川の中、下流域。前回少し書きましたメガソーラー計画が持ち上がっているあたりの話から始まります。
トロッコ電車ガイドさんの話によれば、もともと四万十川は「渡川」だったとか。2006年に「四万十川」が正式名称になったということです。支流が多く四万と十の川が集まるという意味で「四万十」と呼ばれていたとか。「四万渡」と書かれたケースもあり、これが略され「渡川」という説もあります。太平洋に注ぎ込む下流域は、今も「渡川」と呼ぶようです。
上、中流域は四万十町で、旧窪川町と旧大正町、旧十和村が合併した町です。海岸部には、かつて原子力発電所の立地も取りざたされたようなところ。中、下流域は四万十市で、旧中村市が西土佐村と合併してできたところです。日本一の暑さを記録した江川崎も四万十市に属します。そして、今回訪れた沈下橋とメガソーラー計画の予定地があるのも四万十市です。

四万十市の中心、中村には「土佐くろしお鉄道」で入ります。旧国鉄の分割民営化をうけた廃止線を地方の第三セクターが引き継いだものです。この中村を起点に、四万十川の三里の沈下橋、佐田の沈下橋を見に行きました。この二つの沈下橋の間に、メガソーラーの予定地があるのです。もちろん事前には予想だにしていませんでしたが。
交通機関はタクシーです。事前に沈下橋をめぐってくれる屋形船に予約を入れてありましたので、その屋形船「四万十の藍」まで向かいました。時間は20分くらいで、道の途中で、佐田の沈下橋の近くを通るので、一時下車で沈下橋を陸上から見学することができました。



欄干はないけれど、路面はわりとしっかりしたコンクリート製です。中村から比較的近く、多くの観光客が来ていました。地元の人にとっては生活道路でもあり、観光客が歩いている中を縫って、何度も自動車が通るのには驚きました。
炎天下でしたが、沈下橋の上をそよぐ風は涼しく、キラキラ光る水面と相まって「心の洗濯」にバッチリなのではないかと思いました。



この写真の正面あたりがメガソーラー予定地のようです。このあと乗る屋形船でぐるりと回る対岸のすぐ上にあたります。
タクシーを走らせてもらうと、今度は三里の沈下橋が見えてきます。ここには簡単に下りていけないので、上からパチリと写真を撮りました。



三里の船着場から屋形船に乗りました。四万十川の上からの景色はまた違う趣があります。まずは、一番近くの三里沈下橋の下を通ります。この沈下橋の下は深いので、子供達(ちょっと年の行ったのも)が橋の上から飛び込んでいます。



屋形船は下流に進み、佐田の沈下橋の上まで行きます。佐田の沈下橋の下は浅いので船は通れません。この景色の左のほうにメガソーラー予定地があります。おそらく木は切られ、見えないようにしたとしても、土の流出、風の流れ、空気の温度、匂い・・いろいろなものが変わってしまうだろうなと感じます。
上空写真を撮れば、佐田沈下橋の横にメガソーラーは歴然となりますが、横からの形状も変えないで設置することは難しいと思います。
地元の地主さんは、いくばくかのお金が入るのかもしれませんが、発電事業の収益はほぼ全て千葉県の業者に入る計画のようです。それは私たちがよく言う「地域エネルギー」とは全く違います。地域の人が、地域の人のために、地域の財産としてのエネルギーを活用するのが「地域エネルギー事業」です。
高知県が定めた「四万十川条例」でも、この辺りは許可なく形状変更することが許されない「重点地区」となっている筈です。高知県には多少の固定資産税は入るでしょうが、そんなことのために四万十川という財産を毀損することのないようにしてほしいと思います。

トンボ王国、自然公園

四万十川下流域の中村にはトンボ王国(別名「四万十市トンボ自然公園」)というのがあります。辺り一帯8.7ヘクタールをトンボ保護区として維持管理しています。その中に「四万十川学遊館」という博物館のような施設が作られています。トンボの標本がいっぱい置いてある・・みたいなイメージかと思ったら、世界中の川魚がいて水族館のような施設あり、トンボにまつわるウンチクが身につくクイズとか写真とか、ここに1日いるだけで「トンボ博士」になれるなあという趣向の施設でした。



中でも四万十川をはじめとする、川とトンボの深い関係の解説には目から鱗でした。いちばん記憶に残ったのは、「トンボは川の清流度をはかる虫」ということです。日本には約200種類のトンボがいて、世界でも有数のトンボ社会なのですが、その中には清流にしか住まないトンボ、比較的汚れた川でも住んでいるトンボ、そしてトンボもいないということは・・。トンボそのものを見るのではなく、トンボから見えてくる社会があるということを教えられたような気がします。

びっくりしたのは川魚の展示でした。まさにミニ水族館で、四万十川の魚だけでなく、アマゾンやミシシッピーなど、世界中の川魚が集められています。小さな水槽の中で、しかも複数種を一緒に飼育という方法で、魚にとってどうなのかなと思ったら、ちゃんとこだわりが書いてありました。魚の多くは「群れ」であることが必要なこと。単一種にすると、興奮時には強い魚が弱い魚に対して攻撃的になること。他種、部外者がいることで、魚たちも心の安定を確保しているのだなと。

「四万十学遊館」から北にはるか彼方までトンボ保護区が作られています。保護区といっても、人を入れないというものではなく、田んぼやため池、用水路など昔からの日本の農村風景が残されているのです。さすがに40℃近い気温の中、この保護区全域を歩いてみる勇気も時間もなく、ちらりと田園の香りを嗅いだだけでおいとましたが、水と昆虫と人間という大きな関係を気付くための素晴らしい学習の場であることを感じました。こんなすごいものを作った高知の人の、深い自然への理解に感嘆です。

しまなみ鉄道を経て広島へ

高知県西南端の中村から広島までは意外に早い。9時24分の土佐くろしお鉄道の特急南風12号に乗って、広島には14時30分頃着きました。一度だけ、岡山で新幹線に乗り換えましたが、中村から岡山までは乗り換えなし。
広島には私の両親がいます。90歳を越えた父と90歳近い母。まだ健在なので、私も長寿の家系なのかもしれません。母は認知症で、時に私が誰かもわからなくなります。こうして時々帰らないと、永遠に忘れ去られてしまうかもしれません。身体は元気で、食事もよく食べますが、自分で料理を作ったりはできません。料理は90歳を越えた父が、今も一手に作っています。
その父も最近はずいぶん弱ってきて、認知症も少しはじまっているようです。パンを焼いているのを忘れて真っ黒にしたり、トマトを切って冷蔵庫に入れたのを忘れて、また切ったり・・と。でも、普通にみんなやってることですよね。心配なのは、むしろ足腰の弱まり。父にご飯を作ってもらう母の身体は丈夫そうなのですが、父はよろよろしてきました。かつては、母をベッドから起こしたりの介護もしていたのですが、今は到底無理。朝からヘルパーさんをお願いしています。
近くには妹がいて、父母を助けています。それで私も、安心して東京で仕事をしていられるというわけですが。二人とも、施設に入るのはイヤという感じで、この超老老介護でいつまで続けられるのか、もう時間の問題かなと感じています。私はあまり頼りにならないお兄ちゃんなので、妹もあてにはしていないかもしれませんが、こうして実家に戻った時には、ヘルパーさんと挨拶したり、母のデイサービス出発を見送ったりと、介護の日常を少し経験させられています。

71年目のヒロシマ、敗戦記念日、そして伊方原発再稼働

広島には毎年、夏には帰るようにしています。それは父母のこともありますが、もう一つは慰霊の季節だからです。私自身は被曝していませんが、被曝から6年目の広島で生まれました。母は井口(いのくち)というところにいて、「ピカ」のあとは、ぞろぞろと市内から被曝した人たちが逃げてきたと、認知症ではない時に語っていました。
被曝した人たちを介抱し、体を洗ったり包帯を巻いたりしたようです。「熱い、熱い」という訴えや、傷口から「蛆がわく」ありさまを実経験しています。「黒い雨」(原爆雲から広島周辺に降った雨)も降ったと言っています。その母から生まれ、幼稚園から小学校までは、広島市内爆心地近くの大手町で育った私は、いろいろと放射能の影響を受けているのかもしれません。
当時、原爆ドームは放置状態で、その中に入って遊ぶことも出来ました。原爆ドームの瓦礫をつかみ、投げ合って遊んだ?少年少女は、今どうなっているのでしょう。私の場合は、40歳代にいろいろな毒が身体の中から出てきたような気がします。様相としては、かなり多くの人が「がんで早死にするに違いない」と、私のことを思っていたようです。ところがなぜか復活して、今は食べ物やら健康に気をつける生活で、長寿の家系もあいまって100歳まで行くんじゃないかという元気さです。
でも、いつもヒロシマは原点だという思いがあります。何が・・というと、うまくは言えないのです。アメリカへの怒りは特にないし、被曝後遺症で苦しんでいるわけでもありません。おそらく小さな子供の時から見ていた、8月6日の灯籠流しの無数の灯が、原爆を受けて亡くなった何十万という人の魂の重圧を私にかけているのかもしれません。
この世界を変えよ、戦争をなくせ、本当に平和な社会を作れ!と。



まだ四国の中村にいた8月12日は四国電力の伊方原発再稼働の日、祝島入りした8月15日は71回目の敗戦記念日でした。
福島原発事故の惨状を目の当たりにしても、原発依存をやめない(やめられない)日本企業の意思決定の仕組みと、無条件降伏という形で戦争を終わらせるほかないところまで追い込まれた日本という国の意思決定の仕組みはとても似ているように思います。
「一度産道に入った子は戻せない」とは、再処理をもう少しでやめようとしていた時の東電勝俣会長の言葉だと聞いています。そこは「産道」ではないのですが、産道と思うことで「あきらめる」、打つべき手を打たなくする、そんなおまじないの言葉ではないでしょうか。四国電力のお歴々も、長期にわたる原発停止による経営悪化に、もう悪魔と契約する道しかない・・と錯覚しておられるのでしょう。道はいくつもあるのに。
戦争を止められなかった国民も、その責任を毎年毎年確認し、その愚挙を二度と再び繰り返させぬと、全国民の思いを一つにするための日が8月15日であると思います。その日に「エネルギー政策」という国策によって、福島県民が被った悲劇、広域の東日本一帯の国民が受けている静かな放射能汚染、その愚挙をもう一度繰り返しても良いという、ほんの一部の人々の「いびつ」な思いを、その他の全国民の思いによって際立たせても良いのではないかと思います。福島原発事故で亡くなった吉田所長はじめ、事故により放置され亡くなった震災被害者、避難中に亡くなった方々、事故後に怒りの自殺をされた方々など、多くの魂に、思いをはせましょう。

1000年の歴史、祝島神舞



この長い夏ツアーの最後の締めは山口県の祝島でした。中国電力の上関原発建設予定地の対岸に位置するハート型の小さな島です。原発計画から34年、この島の人たちの抵抗によって、原発建設はまだ着手もできていません。ただ2011年の2月に、予定地の海水面埋め立てのため、反対する人たちと中国電の激しい攻防戦がありました。たまたまガードマンの暴力で、島のお母さんが怪我をしたため攻防戦が小休止となり、その直後に東日本大震災と福島第一原発事故が起こりました。それ以来、中国電力側は攻めては来れませんでした。
しかし、この夏、山口県知事が公有水面埋め立ての「3回目の」延長許可を出しました。上関原発は作るのだという中国電力の意志を受けてのことだと思います。現地には緊張が走りましたが、またすぐに埋め立て攻勢がはじまるということでもないようです。
現地では埋め立て攻勢の可能性を睨みつつ、1000年以上続く「神舞」が開催されました。神舞は任和二年(886年)に、豊後国伊美の人々が近くの海で嵐にあい、祝島三浦湾に漂着し、三浦の人々がそれを助けもてなしたという故事に由来しています。伊美の人から種を授かり農耕をはじめ、祝島は豊かになったと言います。そのお礼にと「お種戻し」として、今の大分県にある伊美別宮社に毎年参拝するようになり、それへの返礼として別宮社の神職が祝島に神楽を奉納するというもの。4年に1度のペースで、すでに1000年以上の歴史を刻んでいる神事です。



島のまわりは豊かな漁場です。上関の自然を守る会という、この地域一帯の、魚介類、藻類、海鳥などの生態を調査している人たちによれば、ここでは世界でも珍しいカンムリウミスズメやオオミズナギドリの周年活動が見られるといいます。普通は大きな飛距離で、夏冬を別の地で過ごす鳥たちが、ここでは一年中見られるということは、それだけ餌となる魚が豊富ということです。
豊かな海に放射能を流されてはたまらない。放射能以前に、高温の温排水が流れ出るだけで、この海の生態系は変わってしまう。何よりも島の正面、朝日を拝むところに原発など許せない・・。いろいろな思いで、島の人々は原発に反対してきました。
しかし一方で、島の人々は高齢化しています。島には漁業と農業以外に産業がありません。子供達は、大人になると、ほぼ100パーセント島を出て行きます。長い反対運動の中では、島の漁業や農業をどう発展させていくのかという対策もできませんでした。漁に出られる漁師さんも少なくなりました。耕作放棄地も増えてきています。埋め立て大攻勢は、そんな島の事情を読んでのことだったかもしれません。
でも、長い反対運動の歴史は、それを本や写真集にし、映画にする人々を生み出しました。日本中で祝島の映画が上映され、本が読まれています。そして3.11の衝撃も手伝って、多くの若者達が島に移住してきています。1000年の昔からの島民ではないですが、この人たち、そしてこの人たちの子供達が、再び島を活性化させてくれるのではないかと思います。


この写真は、左側が祝島の北端。ここに人々が暮らしています。その反対側、右側から伸びて真ん中くらいまで来ているのが、上関側の長島。この先端部に田ノ浦という、上関原発の計画地点があります。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿