第0027号
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(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0010号・第0011号・第0012号と第0047号もお読み下さい。)
(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0011号・第0012号もお読み下さい。)
・『ブログ』を始めるにあたって(27)
皆様こんにちは、今回より『緘黙症』と『静かな領域』についての新企画を立ち上げますので、ひき続き又お付き合い下さい。
・参照
・場面緘黙症
【『場面緘黙症』とは、“ある特定の場面でだけ全く話せなくなってしまう現象”であり、子供の時期ほど顕著に現れやすい症状ではあるのだけれども。
単なる人見知りや恥ずかしがり屋とは大きな違いがあって、症状が大変強く、何年たっても自然には症状が改善せずに長く続く場合があり、“子供の時期の適切な手当て”が遅れてしまうと、成人になってからではなかなか改善しにくい傾向にあるみたいで。
そういった、少数ではあるが大人になってもしつこく残ってしまう症状の事を、特に『大人の場面緘黙症』と呼ぶみたいです。】
・イップス
【『イップス』 とは、精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーができなくなる“運動障害や随意運動の低下”のことであり、それに類似した症状などにも広く使われる呼び名でありますし。
『ジストニア』とは、中枢神経系の障害による“不随意(ふずいい:意のままにならないコト)”で持続的な筋収縮(きんしゅうしゅく:筋肉の一定的な収縮運動)にともなって引き起こされる姿勢(シセイ)異常に対しての呼び名であると共に、全身あるいは身体の一部が“不随意”に捻(ネジ)れたり・硬直(コウチョク)したり・痙攣(ケイレン)したりするなどの症状と、それにともなう“運動障害や随意運動の低下”の総称として用いられる場合もあるのですが。
『ジストニア』以外の“不随意”な症状で、自分の意思とは無関係に生じる不合理な動作・運動としては、手足や全身の『振戦(ふるえ)』や、上下肢(シ:手足)全体の振回し運動の『バリスムス』や、手足や頭などがくねるような緩慢な旋回運動の『アテトーシス』や、痙攣的運動の『ミオクローヌス』や、口周辺部や舌の異常運動の『口ジスキネジー』などがあり、発症部位や運動の規則性や・強さや・睡眠時の運動有無などによって分類されるモノです。
身体機能的にそれらを説明すると、身体バランスの調整・運動の円滑化に重要な機能を持つ大脳基底核(だいのうきていかく:大脳皮質(だいのうひしつ)と視床(ししょう)・脳幹(のうかん)を結びつけている神経核の集まりであり、哺乳類の大脳基底核は運動調節、認知機能、感情、動機づけや学習など様々な機能を担っている)を中心とした錐体外路(すいたいがいろ:運動神経線維(ウンドウシンケイセンイ:ニューロン)の遠心性経路(エンシンセイケイロ)で錐体路(スイタイロ)以外の経路(ケイロ))が阻害された場合に、異常な筋収縮が発生して、“不随意運動”が引き起こされる現象だという事になります。】
・『緘黙症』と『静かな領域』
・『静かな領域』
まずは第0011号・第0012号における『大人の場面緘黙症』による「発声困難」に対しての一応の解決策の提示(テイジ)であった『代替え言葉の使用』による《発声の回復》についての報告ですが、第0021号『ハーブ・ガーデニング』の追伸ー17の中でも書いたように、『代替え言葉』は“使える語彙が少ない”という欠点と、知らず知らずの内に『大人の場面緘黙症』の解消ばかりを目差してしまう【『大人の場面緘黙症』の解消への執着】によって、依然として「“発声困難の緊急事態”の発生と、それにともなって無言や無視をしてしまう“トラブルの放置”状態」が、時々ではあっても発生しているものの、やはり『代替え言葉の使用』の効果は他の失敗してきた『場面緘黙症対策』とは比較にならない程に絶大で、挨拶(アイサツ)を自由に楽しむのは無理としても、たぶん日常生活をする上ではほとんど支障が起こらない程度に《発声の回復》は達成出来ていると思うのです。ただ第0021号で書いた【『大人の場面緘黙症』の解消への執着】を放置してしまっている自分の『ナマケ』者状態は依然として継続していて、『自分が許せない』という言葉をキーワードに使ってそんな自分をじっくり検証しようという試みも結局は実施されませんでした。
そんな私の『大人の場面緘黙症』なのですが、私のこの状況をもうチョット精密に表現すると。通常の反発心や猜疑心(サイギシン)や抵抗感・恐怖感・嫌悪感などの発生で「精神の異常な興奮」や「反射神経や自律神経への障害」の症状が発症する場合は、それが病的な被害妄想や疑心暗鬼であっても、たとえ深層心理の澱による精神障害であっても、普通は、自分が何に対してどういった感情なのかを自覚していて、認識できているモノであって、ただその感情が自分の意識で抑制できないで勝手に暴走してしまうために、「精神の異常な興奮」や「反射神経や自律神経への障害」の症状が突然暴発するように発症したり、一旦発症した症状を自分では制御できなかったりするモノなのですが。
私の『大人の場面緘黙症』はまったく無自覚・無認識で、しかも暴発というのではなくてサラッという感じで「特定の場面での特定の言葉の発声困難」という「精神と神経の障害」が唐突に発症するのです。そしてこの「特定の場面での特定の言葉の発声困難」を解消させよう、沈静させよう、軽減させようとする身体的努力、心理的努力、神仏への祈願、人間関係の改善努力の一切が、まったく少しも効果が無いばかりか、その「特定の場面での特定の言葉の発声困難」がドンドン悪化していくばかりだったのです。
しかし、その絶望的な状況が、少しずつではあっても改善へと一気にシフトチェンジすることが出来てしまったキッカケというのが。『代替え言葉の使用』という一時しのぎで、その場しのぎな、抜本的な解決策を考える習慣のあった私には到底思いもよらない手法を、緊急的な事態の時に咄嗟的(トッサテキ)に遣(ヤ)ってしまったにも拘(カカワ)らず、けっこうその場が治まってしまったので、その理由を考えていくと、それが一時しのぎで、その場しのぎな『代替え言葉の使用』であると判明したものの、なかなか了承できず、容認出来ず、暫(シバラ)く様子見(ヨウスミ)をしながら受け入れずに時間を過ごしていたのですが、結局万策尽(バンサクツ)きてだめ元で試してみようと重たい腰をついに持ち上げて、諦(アキラ)めを受け入れた、その【諦め】だったのです。
以上の事を踏(フ)まえて、頭をシャッフルし、もう一度私の『大人の場面緘黙症』を再構成して考えてみると、私の内面の深層心理のさらに内側にどうやら『静かな領域』と言える何かが存在し、うごめいていて、その『静かな領域』という存在の勝手な判断で、私という意識の者には無自覚・無認識なままであるにも拘らず、自分の心や体で一方的に「精神の異常な興奮」や「反射神経や自律神経への障害」が引き起こされたり、わけも分らずに和(ナゴ)んですっきりさせられたりしているという構図が見えてきます。
そして、この『静かな領域』から「私という意識」を飛び越えて、私の心や体に「勝手な作用」を及(オヨ)ぼしている「何らかの存在」の“所在位置”についてなのですが。私は精神衛生のために《かつお節》や《グラニュー糖》を毎日多めにきっちり食べたり、濃い目の《梅こぶ茶》を水とは別に少しずつ飲んだり、『生きた水』の使用を心掛けたりしていて、あまりイライラする事も無く平穏無事に日々を過ごしているつもりなのですが、それでも、「特定の場面での特定の言葉の発声困難」という「精神と反射の障害」は必ず発症しますし。「特定の場面」であるにも拘らず、「特定の言葉」ではなくて、まったくの『代替え言葉』を言おうとするのであれば、あれほど深刻だった「発声困難」がウソのように軽減して、そこそこの発声が唐突に回復するのですから。この『静かな領域』の所在位置は、脳内ではないようですし、また「私という意識」の範疇でもないみたいなのです。それではいったいこの『静かな領域』の所在位置は何処なのかという疑問ばかりが深まってしまうのですが、今回はそういう疑問が残っているという事の確認だけにしておこうと思います。
・『心のざわつき』
以前から言ってきたが、私は精神安定のために《かつお節》を多めに食べたりするなどの事を色々心掛けていて、そのおかげのせいか私はほんのチョッとの精神的な『心のざわつき』でも感知出来ると自負していたにも拘(カカワ)らず。自分の『大人の場面緘黙症』による「発声困難」の時には、不思議なコトに何の『心のざわつき』のも感知する事が出来ないのです。
具体的に言うと、普段の《イライラ》などの時は“切っ掛けや特別な理由の有る無し”に関わらず『心のざわつき』がまず初めにあって、その『心のざわつき』に後押しされるようにして【負の精神】と言われる《反発心》や《猜疑心(サイギシン)》や《焦燥感(ショウソウカン)》や《抵抗意識・恐怖認識》などが沸き起こって来て、さらには、その【負の精神】が特に強い時には自身の精神や神経に甚大(ジンダイ)な障害が引き起こされてしまうモノなのですが。『大人の場面緘黙症』による「発声困難」の時には、このあるはずの『心のざわつき』が、不思議なコトにどんなに心を穏やかにしていても、自覚するコトも認識するコトも出来なかったという事なのです。
すなわち、《被害妄想》とか《疑心暗鬼》などの精神的な病気によって、『私という意識』の抑制が感情になかなか働かない人であっても、『心のざわつき』は必ずあって、そこから様々な【負の精神】が発生して暴走して障害を引き起こすというのが、通常考えられてきた人間精神の構図(:心の概念)だと思うのですが。『大人の場面緘黙症』による「発声困難」という障害はそれとはまったく違って、『静かな領域』から『心のざわつき』をまったくともなわずに『私という意識』そのものを飛び越して、人の精神や神経に対して直接的に作用を及ぼして障害をダイレクトに引き起こしてしまっているという事なのです。
詳しく言うと、通常の精神分析や心理療法では、様々な【負の精神】を引き起こす『心のざわつき』の発生原因を捜し出して、「その根本の部分を正す」という根幹対処を目指すのが当たり前なのでしょうが。『大人の場面緘黙症』による「発声困難」という障害には、肝心の『心のざわつき』の発生が無く、したがって、《反発心》や《猜疑心(サイギシン)》や《焦燥感(ショウソウカン)》や《抵抗意識・恐怖認識》などの【負の精神】も引き起こされずに、自分を制御しているはずの『私という意識』そのものを飛び越して、『静かな領域』から直接的に人の精神や神経に対して作用が及ぼされて、ダイレクトに障害が引き起こされてしまうので。従来の精神分析や心理療法で構築されてきた人間精神の構図が、『緘黙症』(:『イップス』・『ジストニア』と言われる症状や、その軽度の症状など)にはまったく通用しなかったという事なのです。
しかし不思議なのは、私の『大人の場面緘黙症』による「発声困難」という障害が、「特定の場面」ではあっても「特定の言葉」ではない『代替え言葉』の使用であれば、少しの不自由感はあるにしても、日常の生活では何の支障も無い程度には障害が軽減して、ある程度の発声が回復するものの。「特定の場面」で「特定の言葉」を言おうとしている限りは、ほぼ絶対と言っていいほど障害の解消は起こらず。さらには、「特定の場面」でなければ「特定の言葉」の使用であっても、ほぼ何の支障も無く発声出来てしまうという所であり。
すなわち、自分を制御している『私という意識』の範疇以外の『静かな領域』から、『心のざわつき』をまったくともなうコトもなく、また、『私という意識』からの干渉もまったく受けずに、人の精神や神経に対して直接的に作用を及ぼして、何かを企んでいる『何らかの存在』があると言えるのではないかと思うのです。
・『雲の上』
『緘黙症』(:『イップス』・『ジストニア』など)を“唐突に”引き起こしている『静かな領域』にある『何らかの存在』は、『心のざわつき』をともなわずに、『私という意識』からの干渉も受けずに、人の精神や神経に対して直接的に作用だけを及ぼす事の出来る、不思議な影響力を持っているのにも拘(カカワ)らず、その所在位置や目的はまったく確認不能な存在で。まるで『雲の上』から人間を見下ろしながら、自由にさせている人間に結んだ『操り糸』を要所要所で操作して、人間を好き勝手に操っているかのようなのです。
なので、いくら人間の方が『私という意識』で自分の精神や神経を制御しようとしても、まったく違うルートから働きかけてくる直接的な作用にはまったく効果が無く、何時も肝心な所では必ず『静かな領域』にある『何らかの存在』からの直接的な作用を受けてしまっていて、何らかの方向へと向かわされてしまうのです。
『心のざわつき』でさえ、『私という意識』による抑制を振りはらい、《反発心》や《猜疑心(サイギシン)》や《焦燥感(ショウソウカン)》や《抵抗意識・恐怖認識》などの【負の精神】を後押しして、人の精神や神経に作用を及ぼすモノで、かなり甚大な障害を引き起こしてしまいかねない厄介なモノであるのに。その上さらに、その上を行く『静かな領域』という『雲の上』から直接的に人の精神や神経に作用だけを及ぼして、『私という意識』には何の自覚も認識もさせず、干渉も一切させないような、『何らかの存在』という得体の知れない“意思”みたいなモノがあるという事なのです。
私の『大人の場面緘黙症』による「発声困難」という障害では、「特定の場面」で「特定の言葉」を言おうとして、その様子を頭の中で何度もハッキリとシュミレーションし、その通りにキッチリと発声しようと努力し工夫すればするほど、どんどん発声困難になってしまって、まったく発声出来なくなってしまうというのに。『代替え言葉の使用』だと、ちゃんとシュミレーションし、しっかりと練習もしていながら、その練習の通りに発声しようとしても、不思議とけっこう発声出来てしまうモノで。その「発声困難」の障害を引き起こすような精神や神経への作用を私に及ぼすか、及ぼさないかの意思決定が、何時も『私という意識』を無視した『静かな領域』という『雲の上』にある『何らかの存在』によって勝手に行われていて、私には一切手が出せないのです。
私の精神や神経に対して直接的に作用だけを及ぼす、『大人の場面緘黙症』の「特定の場面での特定の言葉の発声困難」という障害が、『心のざわつき』をともなわず、『私という意識』による干渉も受け付けずに、私にとっては無自覚・無認識な情況で、何時も唐突(トウトツ)に発生するのも不思議なのですが。もっと不思議なのが、「特定の場面」ではあっても「特定の言葉」の使用を断念して、『代替え言葉の使用』を実施しようとした瞬間に、その『静かな領域』という『雲の上』にある『何らかの存在』から及ぼされていた直接的な作用が瞬(マタタ)く間に緩(ユル)んでしまうという事象で。その『何らかの存在』は、何時も私を見張っていて、単純に直接的な作用を及ぼすだけではなくて、直接的な作用を直に解消させる高度な意思決定もしているようなのです。
・“ゲームの駒”その1
考えようによっては、人間はまるで将棋やチェスなどの“ゲームの駒”のように、各種の能力を個別に持ち、個々がその場面場面で各方面にそれなりの牽制(ケンセイ)をしながら、『静かな領域』からの直接的な作用を受けながら、“ゲームの進行”に合わせて動かされているように見えるモノで。
これまでは、単に『私という意識』とは違う誰かの思惑にハメられた『心のざわつき』の後押しによって、《反発心》や《猜疑心(サイギシン)》や《焦燥感(ショウソウカン)》や《抵抗意識・恐怖認識》などの【負の精神】が発生し暴走して、それにより精神や神経に甚大な障害が引き起こされてしまい、その誰かの思惑に縛られた個人や集団の暴発によって大きな事件や深刻な社会問題が発生していると考えられていたのですが。そういった『心のざわつき』の本当の姿とは、『静かな領域』から人間に与えられた“ゲームの駒”としての「能力」や「周囲への牽制」という“ゲームの基本設定”で、事件や社会問題とはゲーム中に変化していく“ゲームの状況設定”ではないかと思うのです。
けっきょく一人一人の人間は、“ゲームの駒”としての「能力」や「周囲への牽制」としての『心のざわつき』を割り振られ、『静かな領域』に居る『何らかの存在』のために何時も“イライラ”させられていて。時々要所要所で“ゲームの進行”とともに無自覚・無認識なまま、『私という意識』からの干渉を受けずに飛び越えて発生してくる直接的な作用を受けて、精神や神経に障害を発症してしまい、特定の言動をするようにいやおう無く仕向けられているものの。
この『静かな領域』に居る『何らかの存在』は、個人をどうしようとか、社会情勢をどうしようとか、人類をどうしようとかといった具体的で明確な目的を持っているわけではないみたいで。ただ、“ゲームの基本設定”として“ゲームの駒”である人間に『心のざわつき』が割り振られ、“ゲームの進行”を図るために“ゲームの駒”である人間に直接的な作用が及ぼされているだけであり。“ゲームの進行”によって“ゲームの状況設定”が変化するように、事件や社会問題が随時発生しているみたいなのです。
そして、ある意味では『大人の場面緘黙症』というのは、『私という意識』と『静かな領域』からの直接的な作用との相違が表面化して、“ゲームの進行”としての“駒の動き”が停止してしまった珍しいケースである可能性が高く。違う言い方をすれば、『大人の場面緘黙症』とは、『私という意識』が『静かな領域』からの直接的な作用をはねつけてしまっている、あり得ない状況であるのかもしれないのです。
詳しく言うと、『静かな領域』からの直接的な作用の力が絶対的に強力であるのに対して、『私という意識』はあまりにも弱いため、『大人の場面緘黙症』による「特定の場面での特定の言葉の発声困難」が解消される事は、ほぼ絶対的に無いのですが。『代替え言葉の使用』に踏み切るコトを『私という意識』として抵抗しているという事だけでも、“ゲームの駒”が“ゲームの進行”に抵抗してイレギュラーを起こしている事になり、とんでもないコトをしでかしていると思うのです。
ただ、そんな“ゲームの進行”に逆らう“ゲームの駒”にあるまじき“駒の動き”も、『静かな領域』に居る『何らかの存在』が実施している“ゲーム”においては、“ゲーム”を盛り上げる余興でしかなく。さしずめ、ラグビーのラグビーボールが、不規則なバウンドをするような感じの面白さだと思うのです。
また、“ゲームの駒”としての個別の「能力」や個々の「周囲への牽制」が『心のざわつき』であるにも拘らず、“ゲームの駒”でしかない人間に「学習性・向上性・適応性・」や「思想・信条・信仰・習慣」や「技能・芸術性」などを保持・習得する事が出来るのは、その、人間らしいと言われる各種の知性や様々な行動特性などの『私という意識』が、“ゲームの進行”に不確定性を与え、その“ゲーム”をよりスリリングなモノにし、面白くするからで。はるか大昔に『静かな領域』によって、他の動物や植物には無い『私という意識』といった人間らしさと言われるモノが、主要な“ゲームの駒”にしようと思った人類にだけ、偶然の気まぐれで付与されてしまったのだと思うのです。
~~~第0028号へ続きます~~~
~~~第0027号先頭へ~~~
ちび猫のコメント参照
次回につづく。
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(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0010号・第0011号・第0012号と第0047号もお読み下さい。)
(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0011号・第0012号もお読み下さい。)
・『ブログ』を始めるにあたって(27)
皆様こんにちは、今回より『緘黙症』と『静かな領域』についての新企画を立ち上げますので、ひき続き又お付き合い下さい。
・参照
・場面緘黙症
【『場面緘黙症』とは、“ある特定の場面でだけ全く話せなくなってしまう現象”であり、子供の時期ほど顕著に現れやすい症状ではあるのだけれども。
単なる人見知りや恥ずかしがり屋とは大きな違いがあって、症状が大変強く、何年たっても自然には症状が改善せずに長く続く場合があり、“子供の時期の適切な手当て”が遅れてしまうと、成人になってからではなかなか改善しにくい傾向にあるみたいで。
そういった、少数ではあるが大人になってもしつこく残ってしまう症状の事を、特に『大人の場面緘黙症』と呼ぶみたいです。】
・イップス
【『イップス』 とは、精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーができなくなる“運動障害や随意運動の低下”のことであり、それに類似した症状などにも広く使われる呼び名でありますし。
『ジストニア』とは、中枢神経系の障害による“不随意(ふずいい:意のままにならないコト)”で持続的な筋収縮(きんしゅうしゅく:筋肉の一定的な収縮運動)にともなって引き起こされる姿勢(シセイ)異常に対しての呼び名であると共に、全身あるいは身体の一部が“不随意”に捻(ネジ)れたり・硬直(コウチョク)したり・痙攣(ケイレン)したりするなどの症状と、それにともなう“運動障害や随意運動の低下”の総称として用いられる場合もあるのですが。
『ジストニア』以外の“不随意”な症状で、自分の意思とは無関係に生じる不合理な動作・運動としては、手足や全身の『振戦(ふるえ)』や、上下肢(シ:手足)全体の振回し運動の『バリスムス』や、手足や頭などがくねるような緩慢な旋回運動の『アテトーシス』や、痙攣的運動の『ミオクローヌス』や、口周辺部や舌の異常運動の『口ジスキネジー』などがあり、発症部位や運動の規則性や・強さや・睡眠時の運動有無などによって分類されるモノです。
身体機能的にそれらを説明すると、身体バランスの調整・運動の円滑化に重要な機能を持つ大脳基底核(だいのうきていかく:大脳皮質(だいのうひしつ)と視床(ししょう)・脳幹(のうかん)を結びつけている神経核の集まりであり、哺乳類の大脳基底核は運動調節、認知機能、感情、動機づけや学習など様々な機能を担っている)を中心とした錐体外路(すいたいがいろ:運動神経線維(ウンドウシンケイセンイ:ニューロン)の遠心性経路(エンシンセイケイロ)で錐体路(スイタイロ)以外の経路(ケイロ))が阻害された場合に、異常な筋収縮が発生して、“不随意運動”が引き起こされる現象だという事になります。】
・『緘黙症』と『静かな領域』
・『静かな領域』
まずは第0011号・第0012号における『大人の場面緘黙症』による「発声困難」に対しての一応の解決策の提示(テイジ)であった『代替え言葉の使用』による《発声の回復》についての報告ですが、第0021号『ハーブ・ガーデニング』の追伸ー17の中でも書いたように、『代替え言葉』は“使える語彙が少ない”という欠点と、知らず知らずの内に『大人の場面緘黙症』の解消ばかりを目差してしまう【『大人の場面緘黙症』の解消への執着】によって、依然として「“発声困難の緊急事態”の発生と、それにともなって無言や無視をしてしまう“トラブルの放置”状態」が、時々ではあっても発生しているものの、やはり『代替え言葉の使用』の効果は他の失敗してきた『場面緘黙症対策』とは比較にならない程に絶大で、挨拶(アイサツ)を自由に楽しむのは無理としても、たぶん日常生活をする上ではほとんど支障が起こらない程度に《発声の回復》は達成出来ていると思うのです。ただ第0021号で書いた【『大人の場面緘黙症』の解消への執着】を放置してしまっている自分の『ナマケ』者状態は依然として継続していて、『自分が許せない』という言葉をキーワードに使ってそんな自分をじっくり検証しようという試みも結局は実施されませんでした。
そんな私の『大人の場面緘黙症』なのですが、私のこの状況をもうチョット精密に表現すると。通常の反発心や猜疑心(サイギシン)や抵抗感・恐怖感・嫌悪感などの発生で「精神の異常な興奮」や「反射神経や自律神経への障害」の症状が発症する場合は、それが病的な被害妄想や疑心暗鬼であっても、たとえ深層心理の澱による精神障害であっても、普通は、自分が何に対してどういった感情なのかを自覚していて、認識できているモノであって、ただその感情が自分の意識で抑制できないで勝手に暴走してしまうために、「精神の異常な興奮」や「反射神経や自律神経への障害」の症状が突然暴発するように発症したり、一旦発症した症状を自分では制御できなかったりするモノなのですが。
私の『大人の場面緘黙症』はまったく無自覚・無認識で、しかも暴発というのではなくてサラッという感じで「特定の場面での特定の言葉の発声困難」という「精神と神経の障害」が唐突に発症するのです。そしてこの「特定の場面での特定の言葉の発声困難」を解消させよう、沈静させよう、軽減させようとする身体的努力、心理的努力、神仏への祈願、人間関係の改善努力の一切が、まったく少しも効果が無いばかりか、その「特定の場面での特定の言葉の発声困難」がドンドン悪化していくばかりだったのです。
しかし、その絶望的な状況が、少しずつではあっても改善へと一気にシフトチェンジすることが出来てしまったキッカケというのが。『代替え言葉の使用』という一時しのぎで、その場しのぎな、抜本的な解決策を考える習慣のあった私には到底思いもよらない手法を、緊急的な事態の時に咄嗟的(トッサテキ)に遣(ヤ)ってしまったにも拘(カカワ)らず、けっこうその場が治まってしまったので、その理由を考えていくと、それが一時しのぎで、その場しのぎな『代替え言葉の使用』であると判明したものの、なかなか了承できず、容認出来ず、暫(シバラ)く様子見(ヨウスミ)をしながら受け入れずに時間を過ごしていたのですが、結局万策尽(バンサクツ)きてだめ元で試してみようと重たい腰をついに持ち上げて、諦(アキラ)めを受け入れた、その【諦め】だったのです。
以上の事を踏(フ)まえて、頭をシャッフルし、もう一度私の『大人の場面緘黙症』を再構成して考えてみると、私の内面の深層心理のさらに内側にどうやら『静かな領域』と言える何かが存在し、うごめいていて、その『静かな領域』という存在の勝手な判断で、私という意識の者には無自覚・無認識なままであるにも拘らず、自分の心や体で一方的に「精神の異常な興奮」や「反射神経や自律神経への障害」が引き起こされたり、わけも分らずに和(ナゴ)んですっきりさせられたりしているという構図が見えてきます。
そして、この『静かな領域』から「私という意識」を飛び越えて、私の心や体に「勝手な作用」を及(オヨ)ぼしている「何らかの存在」の“所在位置”についてなのですが。私は精神衛生のために《かつお節》や《グラニュー糖》を毎日多めにきっちり食べたり、濃い目の《梅こぶ茶》を水とは別に少しずつ飲んだり、『生きた水』の使用を心掛けたりしていて、あまりイライラする事も無く平穏無事に日々を過ごしているつもりなのですが、それでも、「特定の場面での特定の言葉の発声困難」という「精神と反射の障害」は必ず発症しますし。「特定の場面」であるにも拘らず、「特定の言葉」ではなくて、まったくの『代替え言葉』を言おうとするのであれば、あれほど深刻だった「発声困難」がウソのように軽減して、そこそこの発声が唐突に回復するのですから。この『静かな領域』の所在位置は、脳内ではないようですし、また「私という意識」の範疇でもないみたいなのです。それではいったいこの『静かな領域』の所在位置は何処なのかという疑問ばかりが深まってしまうのですが、今回はそういう疑問が残っているという事の確認だけにしておこうと思います。
・『心のざわつき』
以前から言ってきたが、私は精神安定のために《かつお節》を多めに食べたりするなどの事を色々心掛けていて、そのおかげのせいか私はほんのチョッとの精神的な『心のざわつき』でも感知出来ると自負していたにも拘(カカワ)らず。自分の『大人の場面緘黙症』による「発声困難」の時には、不思議なコトに何の『心のざわつき』のも感知する事が出来ないのです。
具体的に言うと、普段の《イライラ》などの時は“切っ掛けや特別な理由の有る無し”に関わらず『心のざわつき』がまず初めにあって、その『心のざわつき』に後押しされるようにして【負の精神】と言われる《反発心》や《猜疑心(サイギシン)》や《焦燥感(ショウソウカン)》や《抵抗意識・恐怖認識》などが沸き起こって来て、さらには、その【負の精神】が特に強い時には自身の精神や神経に甚大(ジンダイ)な障害が引き起こされてしまうモノなのですが。『大人の場面緘黙症』による「発声困難」の時には、このあるはずの『心のざわつき』が、不思議なコトにどんなに心を穏やかにしていても、自覚するコトも認識するコトも出来なかったという事なのです。
すなわち、《被害妄想》とか《疑心暗鬼》などの精神的な病気によって、『私という意識』の抑制が感情になかなか働かない人であっても、『心のざわつき』は必ずあって、そこから様々な【負の精神】が発生して暴走して障害を引き起こすというのが、通常考えられてきた人間精神の構図(:心の概念)だと思うのですが。『大人の場面緘黙症』による「発声困難」という障害はそれとはまったく違って、『静かな領域』から『心のざわつき』をまったくともなわずに『私という意識』そのものを飛び越して、人の精神や神経に対して直接的に作用を及ぼして障害をダイレクトに引き起こしてしまっているという事なのです。
詳しく言うと、通常の精神分析や心理療法では、様々な【負の精神】を引き起こす『心のざわつき』の発生原因を捜し出して、「その根本の部分を正す」という根幹対処を目指すのが当たり前なのでしょうが。『大人の場面緘黙症』による「発声困難」という障害には、肝心の『心のざわつき』の発生が無く、したがって、《反発心》や《猜疑心(サイギシン)》や《焦燥感(ショウソウカン)》や《抵抗意識・恐怖認識》などの【負の精神】も引き起こされずに、自分を制御しているはずの『私という意識』そのものを飛び越して、『静かな領域』から直接的に人の精神や神経に対して作用が及ぼされて、ダイレクトに障害が引き起こされてしまうので。従来の精神分析や心理療法で構築されてきた人間精神の構図が、『緘黙症』(:『イップス』・『ジストニア』と言われる症状や、その軽度の症状など)にはまったく通用しなかったという事なのです。
しかし不思議なのは、私の『大人の場面緘黙症』による「発声困難」という障害が、「特定の場面」ではあっても「特定の言葉」ではない『代替え言葉』の使用であれば、少しの不自由感はあるにしても、日常の生活では何の支障も無い程度には障害が軽減して、ある程度の発声が回復するものの。「特定の場面」で「特定の言葉」を言おうとしている限りは、ほぼ絶対と言っていいほど障害の解消は起こらず。さらには、「特定の場面」でなければ「特定の言葉」の使用であっても、ほぼ何の支障も無く発声出来てしまうという所であり。
すなわち、自分を制御している『私という意識』の範疇以外の『静かな領域』から、『心のざわつき』をまったくともなうコトもなく、また、『私という意識』からの干渉もまったく受けずに、人の精神や神経に対して直接的に作用を及ぼして、何かを企んでいる『何らかの存在』があると言えるのではないかと思うのです。
・『雲の上』
『緘黙症』(:『イップス』・『ジストニア』など)を“唐突に”引き起こしている『静かな領域』にある『何らかの存在』は、『心のざわつき』をともなわずに、『私という意識』からの干渉も受けずに、人の精神や神経に対して直接的に作用だけを及ぼす事の出来る、不思議な影響力を持っているのにも拘(カカワ)らず、その所在位置や目的はまったく確認不能な存在で。まるで『雲の上』から人間を見下ろしながら、自由にさせている人間に結んだ『操り糸』を要所要所で操作して、人間を好き勝手に操っているかのようなのです。
なので、いくら人間の方が『私という意識』で自分の精神や神経を制御しようとしても、まったく違うルートから働きかけてくる直接的な作用にはまったく効果が無く、何時も肝心な所では必ず『静かな領域』にある『何らかの存在』からの直接的な作用を受けてしまっていて、何らかの方向へと向かわされてしまうのです。
『心のざわつき』でさえ、『私という意識』による抑制を振りはらい、《反発心》や《猜疑心(サイギシン)》や《焦燥感(ショウソウカン)》や《抵抗意識・恐怖認識》などの【負の精神】を後押しして、人の精神や神経に作用を及ぼすモノで、かなり甚大な障害を引き起こしてしまいかねない厄介なモノであるのに。その上さらに、その上を行く『静かな領域』という『雲の上』から直接的に人の精神や神経に作用だけを及ぼして、『私という意識』には何の自覚も認識もさせず、干渉も一切させないような、『何らかの存在』という得体の知れない“意思”みたいなモノがあるという事なのです。
私の『大人の場面緘黙症』による「発声困難」という障害では、「特定の場面」で「特定の言葉」を言おうとして、その様子を頭の中で何度もハッキリとシュミレーションし、その通りにキッチリと発声しようと努力し工夫すればするほど、どんどん発声困難になってしまって、まったく発声出来なくなってしまうというのに。『代替え言葉の使用』だと、ちゃんとシュミレーションし、しっかりと練習もしていながら、その練習の通りに発声しようとしても、不思議とけっこう発声出来てしまうモノで。その「発声困難」の障害を引き起こすような精神や神経への作用を私に及ぼすか、及ぼさないかの意思決定が、何時も『私という意識』を無視した『静かな領域』という『雲の上』にある『何らかの存在』によって勝手に行われていて、私には一切手が出せないのです。
私の精神や神経に対して直接的に作用だけを及ぼす、『大人の場面緘黙症』の「特定の場面での特定の言葉の発声困難」という障害が、『心のざわつき』をともなわず、『私という意識』による干渉も受け付けずに、私にとっては無自覚・無認識な情況で、何時も唐突(トウトツ)に発生するのも不思議なのですが。もっと不思議なのが、「特定の場面」ではあっても「特定の言葉」の使用を断念して、『代替え言葉の使用』を実施しようとした瞬間に、その『静かな領域』という『雲の上』にある『何らかの存在』から及ぼされていた直接的な作用が瞬(マタタ)く間に緩(ユル)んでしまうという事象で。その『何らかの存在』は、何時も私を見張っていて、単純に直接的な作用を及ぼすだけではなくて、直接的な作用を直に解消させる高度な意思決定もしているようなのです。
・“ゲームの駒”その1
考えようによっては、人間はまるで将棋やチェスなどの“ゲームの駒”のように、各種の能力を個別に持ち、個々がその場面場面で各方面にそれなりの牽制(ケンセイ)をしながら、『静かな領域』からの直接的な作用を受けながら、“ゲームの進行”に合わせて動かされているように見えるモノで。
これまでは、単に『私という意識』とは違う誰かの思惑にハメられた『心のざわつき』の後押しによって、《反発心》や《猜疑心(サイギシン)》や《焦燥感(ショウソウカン)》や《抵抗意識・恐怖認識》などの【負の精神】が発生し暴走して、それにより精神や神経に甚大な障害が引き起こされてしまい、その誰かの思惑に縛られた個人や集団の暴発によって大きな事件や深刻な社会問題が発生していると考えられていたのですが。そういった『心のざわつき』の本当の姿とは、『静かな領域』から人間に与えられた“ゲームの駒”としての「能力」や「周囲への牽制」という“ゲームの基本設定”で、事件や社会問題とはゲーム中に変化していく“ゲームの状況設定”ではないかと思うのです。
けっきょく一人一人の人間は、“ゲームの駒”としての「能力」や「周囲への牽制」としての『心のざわつき』を割り振られ、『静かな領域』に居る『何らかの存在』のために何時も“イライラ”させられていて。時々要所要所で“ゲームの進行”とともに無自覚・無認識なまま、『私という意識』からの干渉を受けずに飛び越えて発生してくる直接的な作用を受けて、精神や神経に障害を発症してしまい、特定の言動をするようにいやおう無く仕向けられているものの。
この『静かな領域』に居る『何らかの存在』は、個人をどうしようとか、社会情勢をどうしようとか、人類をどうしようとかといった具体的で明確な目的を持っているわけではないみたいで。ただ、“ゲームの基本設定”として“ゲームの駒”である人間に『心のざわつき』が割り振られ、“ゲームの進行”を図るために“ゲームの駒”である人間に直接的な作用が及ぼされているだけであり。“ゲームの進行”によって“ゲームの状況設定”が変化するように、事件や社会問題が随時発生しているみたいなのです。
そして、ある意味では『大人の場面緘黙症』というのは、『私という意識』と『静かな領域』からの直接的な作用との相違が表面化して、“ゲームの進行”としての“駒の動き”が停止してしまった珍しいケースである可能性が高く。違う言い方をすれば、『大人の場面緘黙症』とは、『私という意識』が『静かな領域』からの直接的な作用をはねつけてしまっている、あり得ない状況であるのかもしれないのです。
詳しく言うと、『静かな領域』からの直接的な作用の力が絶対的に強力であるのに対して、『私という意識』はあまりにも弱いため、『大人の場面緘黙症』による「特定の場面での特定の言葉の発声困難」が解消される事は、ほぼ絶対的に無いのですが。『代替え言葉の使用』に踏み切るコトを『私という意識』として抵抗しているという事だけでも、“ゲームの駒”が“ゲームの進行”に抵抗してイレギュラーを起こしている事になり、とんでもないコトをしでかしていると思うのです。
ただ、そんな“ゲームの進行”に逆らう“ゲームの駒”にあるまじき“駒の動き”も、『静かな領域』に居る『何らかの存在』が実施している“ゲーム”においては、“ゲーム”を盛り上げる余興でしかなく。さしずめ、ラグビーのラグビーボールが、不規則なバウンドをするような感じの面白さだと思うのです。
また、“ゲームの駒”としての個別の「能力」や個々の「周囲への牽制」が『心のざわつき』であるにも拘らず、“ゲームの駒”でしかない人間に「学習性・向上性・適応性・」や「思想・信条・信仰・習慣」や「技能・芸術性」などを保持・習得する事が出来るのは、その、人間らしいと言われる各種の知性や様々な行動特性などの『私という意識』が、“ゲームの進行”に不確定性を与え、その“ゲーム”をよりスリリングなモノにし、面白くするからで。はるか大昔に『静かな領域』によって、他の動物や植物には無い『私という意識』といった人間らしさと言われるモノが、主要な“ゲームの駒”にしようと思った人類にだけ、偶然の気まぐれで付与されてしまったのだと思うのです。
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ちび猫のコメント参照
次回につづく。
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