第0010号
*****(制作終了)*****
制作進行中の分はこちらから。
制作終了した分はこちらから。
全ての紹介分はこちらから。
新トップ画面
トップ画面
旧トップ画面
旧々トップ画面
(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』・『ギャンブル』・『信心』でお悩みの方は第0011号・第0012号と第0047号もお読み下さい。)
今後のブログの方向性を模索(モサク)しながら書き進めている第0013号も参考になると思うので、是非お読み下さい(記入順序逆転です)。
第0032号の「『植物』・『苔』と『生きた水』・『山の腐葉土』の事情」は随時書き換えていますので、安心して参照してください。
・共通の参照
(B)『内向き』か『外向き』
字数オーバーの為、以後は第0047号へ移動しました。
(A)【硬直(コウチョク)】と【膠着(コウチャク)】
『場面緘黙症』について色々言ってきましたが、早い話し、発声困難な状況について、ノドが{車が故障によってうまく前進する事が出来ないでいる様に}【硬直(コウチョク)】しているために、うまく発声する事が出来ないでいるのだと≪当人の身心における神経症であるというように『人が自身において発症している問題』だと人の目線から局所的に≫判断してしまうのは、根本的に間違いで。発声動作が{渋滞によって車が速く前進する事が出来ないでいる様に}【膠着(コウチャク)】しているために、時間ばかり掛かって早く発声に至る事が出来ないのだと≪個人の発症が問題を発生させているのではなくて『外部要因の放置による状況の悪化が問題形成の要因になっている』と大所高所から大局的に≫判断しなくては、『場面緘黙症』への適切な対処はなかなかうまく見付けられません。
『代替え言葉』の使用は〔渋滞をかわすための、バイパス道・ぬけ道の新設と積極的活用〕の、『メモ用紙治療法・“ポン”治療法や、腹式呼吸の練習』は〔渋滞解消のための、主要道路の拡幅整備〕の、『建て付けの悪い重い引き出しをうまく引き出すイメージ発声』の実践は〔渋滞にはまらないための、高速道路網の充実と上手な活用〕の言いかえと言えなくもない(!)と思いますが。それは、発声困難な状況を『神経症などによる身心への影響によってノドが【硬直】してしまい、『場面緘黙症』の当人が自身の身体において発声出来ないでいる事態』と判断して、人が起こしている発症を局所的に解消しようとするモノとは違って。『普段はスムーズな発声動作が突然に【膠着(コウチャク)】するような、『場面緘黙症』の当人がいくらその気になっても早くは発声に至れない何らかの外部要因的な問題が発生していて、いつまでも放置されている事態』と判断して、人の前に立ちはだかる問題を大局的に解決するコトを目差すモノであります。
(0)『メモ用紙治療法』・『“ポン”治療法』
2012年7月25日に放送されたNHKの『ためしてガッテン』で、【噛み続け】の癖についてやっていたのでが、特に「上下の歯が弱く触れ合っているだけでも問題があります、ヒトが普通1日に歯をあわせる時間は20分ほどしかありません。」という話しはまったくの盲点でした。放送では「《歯を離す》と書いたメモをよく目に付く場所やパソコンなど集中してしまう場所に貼り、《メモを見たらフーと息を吐く》。これによって治したい癖と両立しない新たな癖をつける」という『メモ用紙治療法』を勧めていて。さらには「《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》で、いつも歯を離そうと頑張りすぎると、逆にストレスになってしまい逆効果です。メモとメモの間は何もしなくてOKです。早い人で、1週間ほどで効果を実感できます。」とありました。
しかし、【噛み続け】の癖が原因とされる症状は「肩こり・おなら・頭痛・ゲップ・ひざ痛・首の痛み・おなかのハリ・めまい・のどの異物感・耳なり・腰痛・視力低下・息苦しさ・アゴの痛み…」とはあっても、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』はまったく含まれてはいませんので、『メモ用紙治療法』が本当に有効なのか(?)と疑う人もあるハズで、そういう方は無視して(1)以降を参照して下さい。
ちなみに、私の『大人の場面緘黙症』の為の『メモ用紙治療法』は上記と少し違っていて。メモの内容は《歯を離す》ではなく、《“ポン”と鳴らす》という言葉にして、「口を〔あ・い・う・え・お〕の形で開き、手のひらで口を敲(タタ)き、鼓(ツヅミ)のように“ポン・ポン”と数回鳴らす」という『“ポン”治療法』を、ヒマを見つけては行うようにしています。そして、《メモを見たらフーと息を吐く》の所を、当然《メモを見たら一日に何度でも〔あ・い・う・え・お〕の口の形でを“ポン・ポン”と鳴らす》として、《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》ではなくて、《メモが目につくたびに口を“ポン・ポン”と鳴らして、≪“ポン”の音が出る〔あ・い・う・え・お〕の口の開き≫をしっかりと習慣化させるコトが大事》と認識するようにしているのです。
本当に私ごとなのですが、この『“ポン”治療法』を数日続けていたダケで、以前は5秒以上あった私の『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間が、今では1秒以下に解消されました。個人差や原因の違いで、『沈黙』時間がそれ程には改善しない人もいるかと思いますが、『メモ用紙治療法』や『“ポン”治療法』の話しが、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』で悩む人たちの参考・ヒントになったとしたら幸いです。
余談ですが、もし『大人の場面緘黙症』の人で何か『発声練習』をしたいというのであれば、≪口を軽く閉じて、息を口の中に溜め、さらに下っ腹から肺に強く圧力をかけて、その状態で口先から少しずつ息を出しながら{少しこもった音で}発声をする≫という『発声練習』を試してみて下さい。『代替え言葉』の使用と合わせれば、『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間を、限りなく“ゼロ”に近づける事が出来ると思います。
又、発声時に何か注意をしたいのであれば、「建て付けの悪い{重い荷物の入った}引き出しをゆっくりと均等に力を込めて引き出す感覚で、発声を何度か繰り返す」というコトを、《バランス》と《タイミング》と《パワー》に注意して行ってみて下さい。
(1)医療情報
『場面緘黙症』による“ノドのシビレ”を軽減するのに「NHKでも放送された」注射をする方法もあるそうなので、それが身近な医療機関で出来る方はお試し下さい。
(2)栄養療法
食べ物としては、『かつお節:3gか5gのパック一袋をそのままで(何にも加えず、何も加えずに)』と『生姜:生姜糖1枚か生姜湯一杯』と『ビタミンC:錠剤かドリンクで300mg~1000mg』を一回分として一日1回~3回毎日摂取して、自律神経の高ぶりを緩和させれば、何らかの効果が有るはずです。
(3)対処療法
どうしても自分一人で『場面緘黙症』を解消させたいと考えてしまう人は、『急がば回れ』を肝に銘じて「自分が理想とする『言いたい言葉の発声』から{近づくのではなくて}だんだん遠のいていくように『拒否したい言葉の発声』を発掘・発見しては、《発声困難になる場面》で発声できるモノはないかと試していく」という“消極的連続性”の【諦(アキラ)めと再チャレンジの繰り返し】を貫(ツラヌ)いて下さい。間違っても《為せば成る為さねばならぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり》などとは考えない事です。
(4)根本療法
タイプ1
何らかの心の傷による反発心・反抗心を原因として【自分は『良い言葉の発声』をしようとしているのだから、「これでいいんだ!誰も文句は言えない筈(ハズ)だ!」だから、余計な「相手を思いやっての言葉使い」や「状況を考慮しての言葉選び」などの煩(ワズラ)わしい事から開放されているんだ!】と、思い込もおうとしすぎた為に。その無理によって《意識内での「それではいけない!!」と主張する『良心(:真心)』との葛藤(カットウ)と、そんな悪徳な自分への自己嫌悪と『良心(:真心)』の呵責による苦悩》がどんどん深層意識の奥底に埋もれていってしまい。そして、そういった『良心(:真心)』との葛藤が実際には続いているにもかかわらず、無自覚なまま徐々(ジョジョ)に心の表面に伝わってこなくなってしまって。ついには、何の自己嫌悪も『良心(:真心)』の呵責も感じないまま【単に『良い言葉の発声』をしたいだけなのに、どうしてか同じ場面で同じ言葉の発声困難に“いつもいつも”陥(オチイ)ってしまう】と、無邪気に悩むようになる。
という『場面緘黙症』のイメージを《客観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
タイプ2
自分は【他人(ヒト)の立場に立って考える】という事を一生懸命考えていて、他人(ヒト:相手)が聞いて「不満に思えない筈(ハズ)」で「納得をせざるを得ない筈(ハズ)」の、文句の言いようの無い『良い言葉の発声』を、何も疑う事無く心掛けていたのだが。本当なら、こんな《自己中心的》な事を誰かにされたとしたら、『自分だったら腹を立てないか?いや、きっと腹を立てる筈(ハズ)だ!』と疑問に思ってもいい筈(ハズ)なのに。『天』や『神仏』などの『何モノか』という神性な存在とその影響力に畏敬(イケイ)の念を永年抱いているうちに、いつの間にか【自分ではない別の『何モノか』という神性な立場に立って考える】という視野を特別視してしまって、自分も【他人(ヒト)の立場に立って考える】という{神性に近い立場に立つ}事によって《特別な力や可能性、何らかの加護や御利益(ゴリヤク)の獲得》が達成されると錯覚し、誤解してしまっていたのです。その為、私は長年『良い言葉の発声』という暴言を他人(ヒト)に浴びせようと努力していたのですが、幸いにも『場面緘黙症』のおかげでそれを実施しないでいられたのです。
という『場面緘黙症』のイメージを《主観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
・第0010号本題
・☆本題「(3)対処療法の思惟・考証」
・★『消極的連続性』が示唆(シサ)するモノとは何なのか。
それは、《出来る事が無い事》や《遣りたい事が出来ない事》をしようと頑張っているかぎり、何十年経っても出来ないモノは出来ない(!)という事であります。
すなわち、『他人(ヒト)から「それでは古い、それは穢(ケガ)れている、そんなの面倒なだけだ、そのうち行き詰る話し」とか言われて(言われそうで)、それをする事は消極的で敗北宣言をするように感じられてしまい、“みんな”と一緒にやらないでいる事』が沢山ある上に。『“ポジティブ志向”で【その気】になって行った事が立て続けに失敗してしまった時に、「“ポジティブ”に【その気】になると失敗する(!)」という{恐怖感に近い}危険意識が無自覚で発生する様に成り、その上さらに不用意に“大丈夫(!)、出来るんだ(!)”などと自分に楽天的に言い聞かせ続けて、ついには集中して何かに取り組もうとすると途端に様々な神経障害が発症してしまい、大事な時に大事な事が実施困難になってしまう{百人百様で原因不明と言われる}神経症』のまま無意識の内に【その気】になっていて、起こるべくして起こっている《出来る事が無く、遣りたい事が出来ない》閉塞状態(ヘイソクジョウタイ)であっても。人間としてはそれが当たり前なのだから、ただ闇雲に頑張っていないで、見落としてきた“遣っていなかっただけの事”にも目を配り、自分を【その気】にさせる{出来のスコブル良い、“妖刀”のような、言葉やノウハウや思想や品物などの}モノを“ほめ殺し”的に揶揄(ヤユ)して遠ざけ。そして、『願望や執着などの{自由を奪う柵(シガラミ)でしかない}出来る様に成りたい事』よりも『何でも{拘(コダワ)り無く}出来る事』を重視しての「前だけを一方向的に見てチャレンジする前向きな姿勢を断念して、足元の見過ごして来たモノを広く掘り起こしてみる後ろ向きな姿勢でいる事」が、当たり前の人間が何かをするのに一番大切な事だというコトなのです。
しかし、『パラダイム』が動く時の『コロンブスの卵』とは、【時が満つるか、非常事態になるか】して、{“ゼロ”からの《再スタート》になってしまうからと}みんなが割りたくないと思っていた【卵の殻】を、みんなが避けずに{身を切って修練し直し、努力と工夫が求められる実験・観察を繰り返して、新たに“1”から積み上げていく《再構築》をするのを覚悟で}割って、その《再スタート》が社会的に『一般化』されるからこそ『コロンブスの卵』と呼ばれるのであり。けっして、人間や社会の常識を転換させる『画期的な考え方』や『新発見』の事などではないので。この『消極的連続性』も、【何かが起こって】みんなが必要に迫られて、{一時的にでも“野生回帰”して《積み直し》を敢行(カンコウ)する覚悟が避けられない事態に陥(オチイ)って}社会的に『一般化』されるのでなければ、到底(トウテイ)『コロンブスの卵』などとは成り得ず。自分一人で考えている内はただの【言葉の『ガレキ』の山】でしかないのです。
すなわち、この『消極的連続性』の考え方は、確かに人間の“困った性分”に考慮されたモノで、安易に考えただけでは『パラダイムシフト』のシフトチェンジを起こす条件を満たすモノだと納得してしまい兼ねないのですが。アインシュタインの『E=mc²』の公式ですら、論文発表から100年以上も経つというのに学校では依然として既存の物理学が教えられ、【質量保存の法則】や【エネルギー保存の法則】が自然の大原則としてまかり通っていて、『一般化』の兆しすら起こってはおらず。原子力エネルギーに付きまとう放射能と結びついて、『パンドラの箱』に仕立て上げられたまま一部のマニアックな物理学者の“オモチャ”になっていて。さらには、原子力発電所が宗教における{人間に“天の力”を授(サズ)けてくれる}教会やモスクや神社仏閣のように神聖視され、放射能が欲深い人間への天罰だと考えられ、『E=mc²』の公式は人目に触れてはならない『御神体』や『聖遺物』に祭り上げられて、都市伝説(?)のごとく「一般庶民は『E=mc²』の事を考えただけで罰が当って精神障害に陥る」とまで言われていて。挙句(アゲク)に、進歩を神聖視するあまり、拙速(セッソク)な原発技術者達が、{電気で消費電力を増やして光を大幅に減らして発熱を少し獲る効率の悪い発想を遭(ア)えてする要領で、原発でも核燃料の消費を増やして放射能を大幅に減らして発熱を少し獲るシステムをワザワザ考える}安全の“原点”に返る《再出発》に踏み込めないでいるのですから。この『消極的連続性』の考え方が、人間の本性の的を得た真実であろうと、なかろうと、めったな事では『コロンブスの卵』とは成り得ず、『パラダイム』はそう簡単には変動しないのです。
しかしだからと言って、「この『消極的連続性』の考え方は『コロンブスの卵』と成らないから間違っている」という分けでもないので。緘黙症や各種の神経障害のジストニア・イップスで悩んでいる方や、閉塞感やギャンブルや宗教で苦しんでいる方でも、ただ読むだけできっと何らかの得るものが有るはずだと思っています。
ただ、よく『パラダイム』の問題の解決として頻繁(ヒンパン)に使用される『パラダイムシフト』のシフトチェンジの概念が曖昧(アイマイ)で、《みんなの頑張りと向上》や《社会共通の実験・観察の新たな積み上げ》の覚悟を求めていないのに、一部の選ばれた者達による『画期的な考え方』や『新発見』による人間や社会の常識の{表面的な}転換だけで、多くの概念がネットワーク化されて形成されている『パラダイム』が変動して、{何の努力も求められる事なく、ただ待っているだけで}みんなの閉塞状況を打開する道筋が{エリート達によって、魔法のように}示されると{NHKのエリート“女性”アナウンサー達が}したり顔で連呼(レンコ)していますし。
さらには、少し昔の話しなのですが、東京都の都庁舎をめぐる高額な建設費とその過度の豪華さの問題で、現役都知事がヨーロッパの教会に例えて「後世に残る物がその国の文化を築き、評価される」と発言していて、「庶民は貧乏に苦しんでいても、立派な建築物さえ有れば文化は築かれる。政治・行政は、豪華な都市構造物を安全に速(スミ)やかに構築し、最低限の社会保障を維持して庶民を労働に駆り立てなくてはならない」と言わんばかりだったのですが。「一部のエリートや金持ちにお金と実権が{神聖に}集中して大掛かりなモノが構築されさえすれば、庶民である“みんな”が敷かれたレールの上をただ黙々と進んでいるても、{神聖な}文化が築かれていって国民は優秀だと評価されるモノだ」という{人間抜きの}神聖文化論が{多くの人々の心の中に}刷り込まれ、努力する事を免除されて{仮初めの}特権意識が庶民の中に芽生えてしまったせいなのか。庶民である“みんな”が{典型的に}なおざりにされているにも拘(カカワ)らず、【社会の閉塞】ばかりか【自分の心の硬直】の解決を求めて{悪循環のように}エリートなどの{神聖な何モノかに選ばれたモノや、何モノかそのモノの自体の}神聖な存在に期待を寄せていて、何の解決もされない現実を前にしても自分は善良で誠実な国民だと{ほとんどの呑気(ノンキ)な国民が}自負出来てしまっているモノなので。
この『消極的連続性』の考え方が、庶民である“みんな”に敷かれた{前向きな姿勢の}レールから脱線して“ゼロ”から始める{消極的な}勇気と、エリートなどの{神聖な何モノかに選ばれたモノや、何モノかそのモノ自体の}神聖な存在に依存する事なく何度でも振り出しに戻(モド)ってやり直す{連続的な}覚悟を求めるモノであるかぎり、当然『パラダイムシフト』や『神聖文化論』の{前進志向の}考え方とは合致せず、不愉快に感じる方も多いと思います。どうか、『大人の場面緘黙症』の解決策に発声困難に陥(オチイ)る『良い言葉の発声』の場面での、『代替え言葉』の使用をお勧めするのが大前提である事を承知して下さい。
☆本題「(4)根本療法 タイプ1の思惟・考証」は第0011号を参照して下さい
☆本題「(4)根本療法 タイプ2の思惟・考証」は第0012号を参照して下さい
第0030号【ちび猫が見付けた『~~~』】シリーズ、新スタート
今後のブログの方向性を模索(モサク)しながら書き進めている第0013号も参考になると思うので、是非お読み下さい(記入順序逆転です)。
~~~第0010号先頭へ~~~
・参照〈パラダイムシフト概論〉
*【『パラダイム』とは、『科学史家 トーマス・クーン』によって提唱された科学史上の概念で、1962年に刊行された『科学革命の構造』で科学史の特別な用語として用いられた事によって有名になったモノですが、多くの誤解釈や「誤解に基づく非難」に直面し[=本来の意味から逸脱(イツダツ)して、「『パラダイム』という『時代の思考を決める大きな枠組み』の概念」が安易に“一般的な言葉として理解されてしまった事”によって、ビジネス書などにも登場するほど一般化してしまい、それによって大きな転換点を社会にもたらしはしたが、それは『クーン』自身の意図した事とはかなり異なるものであり、『クーン』自身も「自然科学に対して『パラダイム』の概念を考えたのであり、社会科学には『パラダイム』の概念は適応できない」と発言しているのだが、そうした“拡大解釈のしすぎた”一般的な理解にもとづいて、『クーン』は『カール・ポパーたち』から科学の合理性と客観性を否定する相対主義者・非合理主義者と断罪され、厳しい論難を浴びてしまったいきさつがあり=]、その“概念の曖昧さなどの問題”もあったために、8年後の1970年の改訂版では『パラダイム概念』が放棄され、『《専門図式》の概念』が導入されて、『問題意識を再定式化:=例題を解くだけでは発生しえないが、実験やフィールドワークなどではよく起こる予想外の実験データや観察結果などの新しい情報を、主観的解釈を交(マジ)えずに問題意識を持って客観的事実だけで結びつけて、人間の希望と意図で集められたデータによって構築された既存の科学観に捉(トラ)われないで、自身で新たなネットワーク化をする事=』を“自然科学の研究者自信が重視する”コトの大切さが宣言された云(イ)われのある用語であります。】
*【一般的に使われる『パラダイムシフト』は、過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられるモノで、厳密な定義は特になく、「発想の転換」や「見方を変える」・「固定観念を捨てる」・「常識を疑う」などから「斬新なアイディアにより時代が大きく動くコト」まで、さまざまな意味で広義に使われるモノだが。
元々の狭義な『パラダイムシフト』の定義によると、“その時代”や“ある分野”において{主流だった「問題を抱えてしまっている」古い考え方に代わり、「その問題を解決できる」新しい考え方が主流となる事}を意味するモノであって、個人の物の見方が変わる事は意味していない。】
*【『《専門図式》の概念』とは、要約すると、『パラダイム』的に「『時代の思考を決める大きな枠組み』の概念」の論理と言ってしまうような、科学研究者が「現在進行形《から未来》において扱う諸々の科学的な理論における“段階的”な進歩についての理論」を頭で“論理立てるだけのモノ”などではなくて。『パラダイム』と同じで「科学史などの歴史家の“転換期の歴史的観点”として、『実験精度の高まりと客観的な研究姿勢』が大きな意義を持つモノである」という事はもちろんだが、今回新たに焦点が当てられたのが、「自然科学の専門にこれから携(タズサ)わっていくであろう若い研究生達が受ける{頭の中での“理論体系の反復”学習}よりも{実験機器などへの”精度の高い慣れ”と“問題意識”による確認作業に励む姿勢の両立}が重視される教育の大切さ」や「自然科学における“未知の実験データ”や“想定外のフィールドワークの観察結果”に携(タズサ)わる時の専門の科学研究者達自身の、“頭の中での既存のルールに基ずく理解と解釈と矛盾の無い論理の構築”よりも“問題となっている作業の事実問題としての適正さの確認と適正な分析と客観的反省”に重きを置く姿勢の重要性」にこそ意義があると、問題が再定義化されたモノだという事であるが。
にもかかわらずポパーらは、「科学知識は何よりも“理論とルール”であらわされているのだから、それらの正しい学習をせず、深く理解もしない」若い研究生達では、科学の問題を解くコトなど出来ないはずだ」という批判を繰り広げたのだが。
逆にそれでは、実験に未熟な未訓練の素人が、いくら理論とルールだけを教え込まれても、それが“実験室での実験中にどのような見え方をするのか”が分からなければ、“何に着目”すればよいのかすら分からずに「実験中の実験機器の計器の針の位置が見た目の位置や数値以上の何の意味をどう持つのかが認識出来ないまま」であっては、“精度の高い結果”と“適正な実態把握”の伴った実験や観察としての研究など何時まで経っても出来る分けがなく。
理論やルール等々を知識としていくら反復学習が出来ていようとも、「極めて厳密な一定の条件下においてだけ、予測どうりに理論やルール等が“適用される”自然科学の厳しい仕組み」の現実がわからないまま、実験そのものに習熟する事が出来ていなければ、実際の実験・研究過程においては、厳密さを欠いた手違いや勘違い・不適正で勝手な思い込みを積み重ねてしまうだけの事態から何時まででも抜け出せないという、目の前で起こる現実の事態を見落としていたみたいなのである。
それは、実験や観察の現場において、「“何に対して何がどう反応するのか”とか、“何処にどう『着目』すればよいのか”」という「実験や観察を高い精度で適正に行い、高度な問題意識で“多彩”に“用心深く”に事態の究明をする事」とかを若い研究生達が習得するコトとは。机の上だけで「問題を解く過程を“頭の中”でする」ような、「“理論や概念を適用する”手順が問答無用で決められた問題」で手順通りに間違えずに解答を出すという“反復作業”によって「“理論や概念を適用する”手順を習得するコト」とは違うモノであって。多様な実験や観察による“客観せいの高いデータ”や“実態に近い記録”を基に「実験や観察の多様な結果を『多彩な発想で用心深く』把握する」コトによって、徐々に多様な結果の一つ々々の存在場所となる“何らかの関連性”や“類似的関係性”を『発見』して、“自身で新しくネットワーク化”していくコトに習熟する事であり。この時・特に、「理論や概念を“適用する”」という“反復作業”が、もはや“意義を持たない”という事に注意しなければならないのだが。
その注意の意味とは、若い研究生達が「机の上だけで問題を解く」過程を想定条件を変えながら何千回・何万回と繰り返したとしても、習熟出来るモノとは「過去に証明されている特定の“その条件の場合”においてのみ特定の“その理論や法則などが適用出来る”という“その過去の事実一個だけ”」だという事であり。言い換えるとするならば、どんな実験や観察の研究においても「研究過程に先立って理論や概念が“事前に用意”され、その理論や概念が充分に考慮(コウリョ)されていて、失敗することもなく必ず“適用する”ように仕立て上げられた実験や観察」を何千回・何万回としようとも何の意味も発見出来ないという事であり。
まさしく、どれ程“基本的”で適用頻度の高い理論であれ、“要”となっていて欠く事の出来ない概念であれ、それは人間が人間の都合でそう判断したに過ぎず。多様な実験や観察による客観性の高い結果を多彩な発想で用心深く分析して何らかの関連性や類似的関係性に基づいて自身で新規に構築する“ネットワーク化”の上に置けたときに、そしてそう出来た時に初めて「自然界の物体の形状や性質が条件の変化とともに連続して多様に変化していく“物質の多彩さと流動性”が示す“ネットワーク的自然の形態”」と同じ意義を持てるようになるのであり。どんな理論や概念であろうとその立場は自身による新たな『ネットワーク化』を一度通した後に初めて正しく確定されるのである。
すなわち、自然科学における何らかの関連性や類似的関係性に基ずいての“自身による新たな『ネットワーク化』”とは、これまでの“人間による人間のための都合”をその時代ごとに可能な限り排除して行くコトで、「自然界の物体の形状や性質が条件の変化とともに連続して多様に変化していく“物質の多彩さと流動性”が示す“ネットワーク的自然の形態”」にその時代ごとに段階的に近ずくモノであり、“実験と観察の習熟”とは、「“ネットワーク的自然の形態”を高い精度で察知(サッチ)し適正に認識する」ためのその時代で出来る最高レベルの作業である。そして、それこそが「『時代の思考を決める大きな枠組み』の概念」の新しい枠組みとしての《専門図式》なのである。】
・日本人に何を期待するのですか
日本の優秀なはずの学識者達や知識人の多くはよく、『パラダイム(パラダイムシフト)』という{科学史上の急速な進歩が始まる時の特定の転換期で用いられる科学の進歩における特殊な概念の}“科学史の用語”を科学とは無関係な社会的な様々な取り組みにおいてまで頻繁に用いていて。
その『パラダイム(パラダイムシフト)』という言葉がかもし出している「これは『本物』だ!」という威光と、それによる『有り難み』や『御利やく』」を感じ取り、その『意味深げな言葉』を巧みに利用する事で、多様な方向性がある目の前の可能性の中で自分の都合で一つの方向性だけを取り上げる「チョットだけ識者ヅラした安易な牽制(ケンセイ)行為」や「少し怠(ナマ)けるための些細(ササイ)な威嚇(イカク)行為」の正当性の裏付け工作に安直(アンチョク)に用いる事が堂々と出来ると知っただけで。
せっかくの「沢山の有益性が期待できる多様な可能性」に見て見ぬ振りをして、狭い専門的正当性に執着(シュウチャク)して「何もしないままで多くを否定して大損失を招くような事態」を引き起こしていながら。そんな「ただの排他的で利己的な考えや行い」に『パラダイム(パラダイムシフト)』という『意味深げな言葉』を“恭(ウヤウヤ)しく”厳(オゴソ)かにくっ付けてしまい、それらしい正当性を巧みに持たせて、“歴史的英雄気取り”で自己満足してしまうような、視野の狭い集団幻想に日本中が浸ってしまい。
欧米の研究機関が資金をつぎ込んで研究をしている“メジャーな科学的研究”や、欧米諸国が主導する国際機関による世界各地での支援と言う名の社会的・経済的・政治的な干渉に、日本も莫大な資金と人材を当たり前のようにつぎ込み、欧米の特殊な経緯(イキサツ)や宗教的理由を考慮しないまま、欧米の研究機関や国際機関と“見た目に同じような”研究競争や国際支援を続けるお題目にしている「『パラダイム(パラダイムシフト)』の先駆けの奪(ウバ)い合いに競(セ)り勝つ事、そして時代と世界の本流に日本がいつも居続ける名誉を守る事が第一である」という事に、現代の日本人の多くが何の疑問も抱かなくなってしまったのです。
しかし、すでに世界的には「キリスト教による欧米主導の民主主義」の底の浅さが露呈(ロテイ)し、『パラダイム(パラダイムシフト)』という用語の威光も消えうせていて。欧米諸国の多くでは【“自分の理性を信じる合理主義”:人間の理性的考究の先にこそ、そのポテンシャルによる総ての新発見があり、キャパシティーの向上と拡大により人類の共存がもたらされるとする、『神の絶対的存在』の上に根ざした“人間至上主義思想”】を凌駕(リョウガ)する個人の“神の予言を超えるアクティブな活躍”がすでに重視されていて。人間が『神の絶対的存在』というフィルター無しに現実を直視し、その人間が人間の責任で問題への対策に取り組む時代がすでに始まっているので。
“人が人類として共存して生きていく”のに大切なコトとはどんなモノなのかを、『神の予言』に捉(トラ)われずに人間の責任で考えられるように、適正・精密・多彩な視点からもっと“アクティブに・実証的に・客観的に”日常生活から最先端学問や世界情勢の動向などへの働きかけを“問題意識を持って丹念(タンネン)に”続け、現実として人類が背負っている人間どうし間の差違や多様さや・人間自身の不純さや愚かさの事を「既存の固定観念を排除しながら」何度でも一から観察して、自分の側からではなくて“多種多様な人間”の相手の側から立って見て、誰にでも実用的で便利だと思ってもらえ・誰からも利用してもらえる事とはどういうモノなのかと、もっと多くの日本人が少しづつでも考えて見るべきで。
どのような劣等状態や困窮情況にも「『神の予言』に盲信する宗教的原理主義」や「自分の理性のみを妄信する神秘信仰」に逃避したりせずに、周囲の声に耳を傾け「現実に責任を持ち“神の予言を超えて”アクティブに取り組む」姿勢を守り。異文化圏の者達や社会的諸事情を抱える者達の立場に立って見て、そういう「被差別者とか、非主流派とか言われる側」が今後差別や不自由を感じずにすむ世界を想い描き。「差別者や、主流派の側の固定観念」に捉われた自分達を暴(アバ)くために、既存の「周囲に対しての価値観」や「自分にとっての神秘観」の縛りを越えて、「新たな働きかけと正確な観察による再研究検証」で決まりきった事や些細(ササイ)なことを何度も繰り返して分析すような、時代のひのき舞台とは見えない“裏方な取り組みの地味な積み上げ”に見える所にこそ、本当の意味で次の時代を作っていける秘密が潜んでいるといえるのだと、「もうちょっと日本人の多くが、あともう少しだけ真剣に考えられたなら良いのに」と思ってしまうのです。
しかしそうは言っても人間は人類創生より傲(オゴ)った存在であり、唯一神や仏陀の「人類救済の条件」などの高尚で高潔なはずの宗教的教義を自分達に都合よく切り取ってきては、昔から何処(ドコ)ででも宗教戦争や宗教弾圧・宗派抗争などの大義に掲(カカ)げていて。第2次世界大戦での「人類の念願だと言った、ナチスによる民族の浄化政策」の大義の裏付けともなったであろう、【“同じ人類”と言うのであれば“誰でも人間的に同じ”であるのだから、“差別者の側”からの『差別意識や差別的態度や差別的制度など』を無くしてしまって“一つの平等な統一制度”を築きさえすれば、“被差別者の側”からの『その“統一制度への”違和感や嫌悪感や、そんな差別者の側の集団と一緒に生活する不安や不満など』を“考慮しなくてもいい”はずで。仮に自分達が『差別者の側』だとして、『被差別者の側』のコトを《特別に考慮しなくてはならない》のであるならば、それはその『被差別者の側』が自分達の側の純潔優良人類とは違う劣等人類か異人類であり、いつもみんなで悪事ばかり考えるように神から呪いを掛けられた汚れた種族か不用な民族であるという証明に他ならない!!】といった論旨(ロンシ)の話しを、世界中でそう少なくはない知識人や宗教家が今も世界中で公然と主張して憚(ハバカ)る事がないのであるから。狭い日本の中でえらそうにしている自称知識人や、集票・集金団体になってしまっている宗教法人(団体)が闊歩(カッポ)しているばかりで、進むべき方向が示されずに日本全体が沈滞したままで、互いにいがみ合い、足の引っ張り合いが止められずに、多方面に渡って「あきらめの落胆によるイヤな後退」が始まっていて、誰が頼(タヨ)りになり・何を信用していいのかが見えてこない苦しい状況下の日本ではあるが、欧米諸国の一部の知識人を例外とすれば、そうそう日本人の事を悪く言えないのかもしれない。
結論:だから?何!
・追伸-1:反省転嫁
どんなに高尚な意義を持った思想も、それを、自分で自分のために用いてこその高尚さであり。
敵対者を批難する事や、他者を批評して差別化を図る事に用いるような、『反省転嫁』をしてしまっては、その意義を失ってしまうと思うのです。
それは、《専門図式》に由来する【「現実に責任を持ち“神の予言を超えて”アクティブに取り組む」覚悟で「新たな働きかけと正確な観察による再研究検証」をする】という考えも同様で、自分の行いや思索のために用いてこそ、その意義が高尚さを持つのであって。よく注意せずに他人に反省を求めるような用い方で『反省転嫁』をしてしまっては、総ての有用な意義を失ってしまい、ただの悪意の発動に成り下がってしまうというコトなのです。
・追伸-2:『小乗』と『大乗』
そして、仏教でいう『“小乗”(ショウジョウ):教えを師から弟子へと相伝させる事から“少人数乗りの小さい乗り物”に例えられた比喩(ヒユ):自己の悟りを第一とする教え』的な思想形態として捉(トラ)えられている分には、たとえ『反省転嫁』としての使われ方をしたとしても、個人の悪意が対象の相手に対して直接的に発動するだけなので、精々(セイゼイ)イジメや、個人的犯罪行為や、テロ行為が行なわれるぐらいの範囲までで収まるのだが。
少しの『反省転嫁』ではあっても、ひとたび『“大乗”(ダイジョウ):一人の僧侶が大勢の一般信者に対して利他行(リタギョウ)を教え導く事から“大人数乗りの大きい乗り物”に例えられた比喩(ヒユ):利他行とは、それさえ続けていれば、誰でも未来の世において成仏(ジョウブツ:死後に悟りを開くこと)できるというモノで、自分の解脱(ゲダツ:全てを悟ること)よりも他者の救済を優先するコト』的な思想形態として安易に捉えられてしまうと、他人の悪意に便乗して自分の思惑を成し遂げようとする者達や、便乗できる事が救済される事だと信じてしまう人々が集団となり、便乗行為が暴走しだすと、人が思ったり想像したりする以上に、とんでもなくまちがった方向や悪意に満ちた方向へと大衆を誘導する手段として簡単に使われてしまう危険性が発生してしまうので、そういった意味での注意が何時の時代も本当は必要なんだと思うのです。
すなわち、どんなに高尚な思想も、『反省転嫁』として「自己反省をせずに、対象に対して反省を転嫁し、要求する使われ方」をされてしまえば、たとえ『小乗』的な思想形態として捉えられているだけだとしても、イジメや、個人的犯罪行為や、テロ行為などの理由付けに簡単になってしまうし。
そこにばかり目がいってしまっていて、『大乗』的な思想形態として捉えられる事によって他人の悪意に意図的に便乗する人達が出現したり、善良なはずの大衆が救済と信じて悪意に大挙して便乗してしまったりする危険性が見過ごされてしまうと、何時でも簡単に「ナチズム」の再来となってしまうのですが。
それを防ぐ有効な手立ては間単に言って「それは無い!」というコトであり、それはすなわち、人間が悪意を持つ生物であり、自分に都合が良ければ簡単に他人の悪意に便乗してしまう行為をはばからないばかりか、救済と信じて喜んでしまう生き物である以上は、そういった危険性が永遠に無くなる事は無いという現実を端的に表現したモノなのです。
・追伸-3:日本の姿
だからか、「欠陥があってこその人間であり、それを無くしてしまった人間は、もはや人間とは呼べない」と悪ぶるばかりで。
神(仏)の絶対的存在(:偉大な存在性)によって《世界の部分でしかない人間のためではなくて、自然と地球のために》今も造られ続けている“世界の正しさ”【:神(仏)への帰依(キエ)を優先して《“汚れた人間”である他者の都合には一切捉(トラ)われずに、“ピュアな誠実さ”を変節するコトなく追求するような》世俗の罪を犯すリスクを迷い無く背負い込む“一途さ”に、神(仏)が手厚い恩恵を与えてくれる“現在進行形の世界の道理”】に依存し。
神(仏)の御心(:人間に役割を残しておいてくれた慈愛に溢(アフ)れた寛容な存在)によって《“汚れた人間”のためではなくて、“正しい世界の在り様”を創造していくために》今も導かれ続けている“個人的理性の正しさ”【:神(仏)の後ろ盾を得た『自らの理性への信頼に基づいた合理主義』による、“光”のおかげで認識できてきたであろう知識や、“導き”のおかげで実施できてきたであろう経験を尊重し、その「利己的ではないかと批難され、楽になりたくて放棄してしまいかねない、道理や経験則」を優先して《汚れた人間達やその醜い社会活動のための公平性とか道義性とか効率性とかに少しも煩(ワズラ)わされずに、ゆるぎない自己を厳格に誇示していく事で》神(仏)の加護の元で「真実を照らし出す光をさらに感受し続けられ、真理への導きの働きを見失う事なく受け入れていける」単独理性の可能性】に過信して。
無知で無責任な現実逃避や偏見にはまり込んでいる《精神的アナグマ状態の自分》を“後生大事にしていて”いつまでも変えようとしない、【結果オーライの合理性】に基づいた「“刹那(セツナ)主義”のような風潮」が日本中に蔓延(マンエン)たり。
『反省転嫁』をデカイ態度でするような「トラの威を借るキツネ」の行為をしているうちに偉くなった気になってしまい、「多種多様な人間の、他人(ヒト)それぞれの想いや条件や生きる道の違いを顧(カエリ)みずに、ただ漫然と『反省転嫁』行為を“錦の御旗”のように振りかざすばかりの、《追いはぎ行為や恐喝などを勇んでしてしまう》ような傲慢(ゴウマン)な自己特別意識」に陥(オチイ)ってしまい、「はた迷惑な【空回り】を自分が犯している事に気付かずにいる」独(ヒト)りよがりな輩(ヤカラ)が日本中で増殖したり。
「みんなで批判的に大口をたたいていられる“自由な『反省転嫁』行為”のおかげで、弱い個人が大きな集団となれてより大きな力を発揮をする事が出来るようになれたんだ」と得意となってしまっているだけで、自分一人では「自らが判断して、自分の手を汚してでも何かを実行しようとする」気持ちも力量も無い、“口先だけの《烏合の衆》となってしまった【日和見】的な大衆”が日本中で氾濫したりしていて一向に収まらないのである。
・追伸-4:自己反省
しかし、私も未熟者なりに。
「思想形態としての『小乗』的と『大乗』的の優劣論争」や「自己正義を貫く『小乗』か、大衆の味方である『大乗』かによる善悪議論」などのような《閉鎖的な“二者択一”の事》で悩むのだけは止めておこうと考えたり。他人(ヒト)が何をしていようとも『他人(ヒト)は他人(ヒト)、自分は自分』と割り切り、『反省転嫁』だけはしないように「とりあえずは自分一人だけでも自分らしくしていよう」として寡黙(カモク)を装ったり、態度をはっきりさせないようにいつもこそこそと逃げ回ったり、一人で居られる嫌われ者を何とかして担(ニナ)おうと精一杯努力したりして。やるだけの事はやっているつもりになっていたのですが。
何時(イツ)の間にかあからさまな【高慢ちき】に陥(オチイ)ってしまっていて。
何時までも《無駄の押し付けでしかない【世界を正しく創造している『神(仏)』の絶対的存在性による「“現在進行形の世界の道理”への自分の依存体質」を棚に上げての反省転嫁】や【神(仏)の後ろ盾を得た『自らの理性への信頼に基づいた合理主義』の絶対的有用性による「“人間的な理性の可能性”への自分の過信体質」を棚に上げての反省転嫁】など》を自分がしているという事にまったく気付けないまま。“自分に都合がいい理想論”や“自分の個人的な経験則”・“信仰に似た独善的な包容の理念”そして“恩着せがましい偽善的な好意”などを善良な市民のつもりになって調子よく振りまき。
私が『高潔な気持ち【:独善的な身勝手さ】』で勧(スス)めてあげている有用な『御利益(ゴリヤク)や利得【:相手にとっては無駄で意味不明で煩(ワズラ)わしいだけの“耐え難いノイズ”の発生原因】』の良さを相手が“なぜか”まったく理解しようとせずに、いつも勝手に私の勧めとは違う別の“代替えの事”ばかりを不誠実にしていて、人生においてたえず怠惰を貪(ムサボ)ってばかりいる事態なのを、『大変もったいなく、おしい事だ』と善意で決め付け。どうして自分ばかりが物事の良し悪しの全てと真理が見えて、愚かな人達や人類の行く末を憂い気遣うような、高尚さと慈愛の心を持ち合わせてしまったのだろうかと悩み。
何時も身近な人達を、物事の道理や私の心配をよく知らずに、私の先見性と思い遣りに溢れた言動について、野蛮に「私の言動(:した事、してあげた事自体)や、言動に関わっているモノ(:して見せてあげているモノ、見せたモノの内容)を、不可解で可笑(オカ)しな理由をこじつけてわざとらしく下品に批難する」愚か者と見下してしまっていたのです。
結局は私も、『他者のコトを許容する《:相手から下品で可笑(オカ)しな反応を導き出してしまっている異常な事態を前にした時に、自分の言動の【純粋な動機の(人間的な)傲り】や【万人に共通と思われがちな感受性の(人間にありがちな)偏り】や【間違いを無くす為の最後の砦である理性の(人間らしい)未熟さ】がその原因となっているかもしれないと疑って、独善的で身勝手な自分が行なっている“言動の実態”の把握のために「相手にとっての“無意味さ”と、それによって相手がこうむっている“見えないダメージ”」などを実地調査や実験確認などの思惑の入りにくい手法によって妥協なく検証しようとする》慎重な思惟』がまったく出来ていなかった“口先だけのバカ者”でしかなかっただけなのです・・・。
「追伸-5:彼の態度は」と「追伸-6:小さな親切大きな害悪」は第0019号を見てください。
~~~第0010号先頭へ~~~
ちび猫のコメント参照
次回につづく。
*****(制作終了)*****
制作進行中の分はこちらから。
制作終了した分はこちらから。
全ての紹介分はこちらから。
新トップ画面
トップ画面
旧トップ画面
旧々トップ画面
(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』・『ギャンブル』・『信心』でお悩みの方は第0011号・第0012号と第0047号もお読み下さい。)
今後のブログの方向性を模索(モサク)しながら書き進めている第0013号も参考になると思うので、是非お読み下さい(記入順序逆転です)。
第0032号の「『植物』・『苔』と『生きた水』・『山の腐葉土』の事情」は随時書き換えていますので、安心して参照してください。
・共通の参照
(B)『内向き』か『外向き』
字数オーバーの為、以後は第0047号へ移動しました。
(A)【硬直(コウチョク)】と【膠着(コウチャク)】
『場面緘黙症』について色々言ってきましたが、早い話し、発声困難な状況について、ノドが{車が故障によってうまく前進する事が出来ないでいる様に}【硬直(コウチョク)】しているために、うまく発声する事が出来ないでいるのだと≪当人の身心における神経症であるというように『人が自身において発症している問題』だと人の目線から局所的に≫判断してしまうのは、根本的に間違いで。発声動作が{渋滞によって車が速く前進する事が出来ないでいる様に}【膠着(コウチャク)】しているために、時間ばかり掛かって早く発声に至る事が出来ないのだと≪個人の発症が問題を発生させているのではなくて『外部要因の放置による状況の悪化が問題形成の要因になっている』と大所高所から大局的に≫判断しなくては、『場面緘黙症』への適切な対処はなかなかうまく見付けられません。
『代替え言葉』の使用は〔渋滞をかわすための、バイパス道・ぬけ道の新設と積極的活用〕の、『メモ用紙治療法・“ポン”治療法や、腹式呼吸の練習』は〔渋滞解消のための、主要道路の拡幅整備〕の、『建て付けの悪い重い引き出しをうまく引き出すイメージ発声』の実践は〔渋滞にはまらないための、高速道路網の充実と上手な活用〕の言いかえと言えなくもない(!)と思いますが。それは、発声困難な状況を『神経症などによる身心への影響によってノドが【硬直】してしまい、『場面緘黙症』の当人が自身の身体において発声出来ないでいる事態』と判断して、人が起こしている発症を局所的に解消しようとするモノとは違って。『普段はスムーズな発声動作が突然に【膠着(コウチャク)】するような、『場面緘黙症』の当人がいくらその気になっても早くは発声に至れない何らかの外部要因的な問題が発生していて、いつまでも放置されている事態』と判断して、人の前に立ちはだかる問題を大局的に解決するコトを目差すモノであります。
(0)『メモ用紙治療法』・『“ポン”治療法』
2012年7月25日に放送されたNHKの『ためしてガッテン』で、【噛み続け】の癖についてやっていたのでが、特に「上下の歯が弱く触れ合っているだけでも問題があります、ヒトが普通1日に歯をあわせる時間は20分ほどしかありません。」という話しはまったくの盲点でした。放送では「《歯を離す》と書いたメモをよく目に付く場所やパソコンなど集中してしまう場所に貼り、《メモを見たらフーと息を吐く》。これによって治したい癖と両立しない新たな癖をつける」という『メモ用紙治療法』を勧めていて。さらには「《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》で、いつも歯を離そうと頑張りすぎると、逆にストレスになってしまい逆効果です。メモとメモの間は何もしなくてOKです。早い人で、1週間ほどで効果を実感できます。」とありました。
しかし、【噛み続け】の癖が原因とされる症状は「肩こり・おなら・頭痛・ゲップ・ひざ痛・首の痛み・おなかのハリ・めまい・のどの異物感・耳なり・腰痛・視力低下・息苦しさ・アゴの痛み…」とはあっても、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』はまったく含まれてはいませんので、『メモ用紙治療法』が本当に有効なのか(?)と疑う人もあるハズで、そういう方は無視して(1)以降を参照して下さい。
ちなみに、私の『大人の場面緘黙症』の為の『メモ用紙治療法』は上記と少し違っていて。メモの内容は《歯を離す》ではなく、《“ポン”と鳴らす》という言葉にして、「口を〔あ・い・う・え・お〕の形で開き、手のひらで口を敲(タタ)き、鼓(ツヅミ)のように“ポン・ポン”と数回鳴らす」という『“ポン”治療法』を、ヒマを見つけては行うようにしています。そして、《メモを見たらフーと息を吐く》の所を、当然《メモを見たら一日に何度でも〔あ・い・う・え・お〕の口の形でを“ポン・ポン”と鳴らす》として、《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》ではなくて、《メモが目につくたびに口を“ポン・ポン”と鳴らして、≪“ポン”の音が出る〔あ・い・う・え・お〕の口の開き≫をしっかりと習慣化させるコトが大事》と認識するようにしているのです。
本当に私ごとなのですが、この『“ポン”治療法』を数日続けていたダケで、以前は5秒以上あった私の『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間が、今では1秒以下に解消されました。個人差や原因の違いで、『沈黙』時間がそれ程には改善しない人もいるかと思いますが、『メモ用紙治療法』や『“ポン”治療法』の話しが、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』で悩む人たちの参考・ヒントになったとしたら幸いです。
余談ですが、もし『大人の場面緘黙症』の人で何か『発声練習』をしたいというのであれば、≪口を軽く閉じて、息を口の中に溜め、さらに下っ腹から肺に強く圧力をかけて、その状態で口先から少しずつ息を出しながら{少しこもった音で}発声をする≫という『発声練習』を試してみて下さい。『代替え言葉』の使用と合わせれば、『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間を、限りなく“ゼロ”に近づける事が出来ると思います。
又、発声時に何か注意をしたいのであれば、「建て付けの悪い{重い荷物の入った}引き出しをゆっくりと均等に力を込めて引き出す感覚で、発声を何度か繰り返す」というコトを、《バランス》と《タイミング》と《パワー》に注意して行ってみて下さい。
(1)医療情報
『場面緘黙症』による“ノドのシビレ”を軽減するのに「NHKでも放送された」注射をする方法もあるそうなので、それが身近な医療機関で出来る方はお試し下さい。
(2)栄養療法
食べ物としては、『かつお節:3gか5gのパック一袋をそのままで(何にも加えず、何も加えずに)』と『生姜:生姜糖1枚か生姜湯一杯』と『ビタミンC:錠剤かドリンクで300mg~1000mg』を一回分として一日1回~3回毎日摂取して、自律神経の高ぶりを緩和させれば、何らかの効果が有るはずです。
(3)対処療法
どうしても自分一人で『場面緘黙症』を解消させたいと考えてしまう人は、『急がば回れ』を肝に銘じて「自分が理想とする『言いたい言葉の発声』から{近づくのではなくて}だんだん遠のいていくように『拒否したい言葉の発声』を発掘・発見しては、《発声困難になる場面》で発声できるモノはないかと試していく」という“消極的連続性”の【諦(アキラ)めと再チャレンジの繰り返し】を貫(ツラヌ)いて下さい。間違っても《為せば成る為さねばならぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり》などとは考えない事です。
(4)根本療法
タイプ1
何らかの心の傷による反発心・反抗心を原因として【自分は『良い言葉の発声』をしようとしているのだから、「これでいいんだ!誰も文句は言えない筈(ハズ)だ!」だから、余計な「相手を思いやっての言葉使い」や「状況を考慮しての言葉選び」などの煩(ワズラ)わしい事から開放されているんだ!】と、思い込もおうとしすぎた為に。その無理によって《意識内での「それではいけない!!」と主張する『良心(:真心)』との葛藤(カットウ)と、そんな悪徳な自分への自己嫌悪と『良心(:真心)』の呵責による苦悩》がどんどん深層意識の奥底に埋もれていってしまい。そして、そういった『良心(:真心)』との葛藤が実際には続いているにもかかわらず、無自覚なまま徐々(ジョジョ)に心の表面に伝わってこなくなってしまって。ついには、何の自己嫌悪も『良心(:真心)』の呵責も感じないまま【単に『良い言葉の発声』をしたいだけなのに、どうしてか同じ場面で同じ言葉の発声困難に“いつもいつも”陥(オチイ)ってしまう】と、無邪気に悩むようになる。
という『場面緘黙症』のイメージを《客観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
タイプ2
自分は【他人(ヒト)の立場に立って考える】という事を一生懸命考えていて、他人(ヒト:相手)が聞いて「不満に思えない筈(ハズ)」で「納得をせざるを得ない筈(ハズ)」の、文句の言いようの無い『良い言葉の発声』を、何も疑う事無く心掛けていたのだが。本当なら、こんな《自己中心的》な事を誰かにされたとしたら、『自分だったら腹を立てないか?いや、きっと腹を立てる筈(ハズ)だ!』と疑問に思ってもいい筈(ハズ)なのに。『天』や『神仏』などの『何モノか』という神性な存在とその影響力に畏敬(イケイ)の念を永年抱いているうちに、いつの間にか【自分ではない別の『何モノか』という神性な立場に立って考える】という視野を特別視してしまって、自分も【他人(ヒト)の立場に立って考える】という{神性に近い立場に立つ}事によって《特別な力や可能性、何らかの加護や御利益(ゴリヤク)の獲得》が達成されると錯覚し、誤解してしまっていたのです。その為、私は長年『良い言葉の発声』という暴言を他人(ヒト)に浴びせようと努力していたのですが、幸いにも『場面緘黙症』のおかげでそれを実施しないでいられたのです。
という『場面緘黙症』のイメージを《主観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
・第0010号本題
・☆本題「(3)対処療法の思惟・考証」
・★『消極的連続性』が示唆(シサ)するモノとは何なのか。
それは、《出来る事が無い事》や《遣りたい事が出来ない事》をしようと頑張っているかぎり、何十年経っても出来ないモノは出来ない(!)という事であります。
すなわち、『他人(ヒト)から「それでは古い、それは穢(ケガ)れている、そんなの面倒なだけだ、そのうち行き詰る話し」とか言われて(言われそうで)、それをする事は消極的で敗北宣言をするように感じられてしまい、“みんな”と一緒にやらないでいる事』が沢山ある上に。『“ポジティブ志向”で【その気】になって行った事が立て続けに失敗してしまった時に、「“ポジティブ”に【その気】になると失敗する(!)」という{恐怖感に近い}危険意識が無自覚で発生する様に成り、その上さらに不用意に“大丈夫(!)、出来るんだ(!)”などと自分に楽天的に言い聞かせ続けて、ついには集中して何かに取り組もうとすると途端に様々な神経障害が発症してしまい、大事な時に大事な事が実施困難になってしまう{百人百様で原因不明と言われる}神経症』のまま無意識の内に【その気】になっていて、起こるべくして起こっている《出来る事が無く、遣りたい事が出来ない》閉塞状態(ヘイソクジョウタイ)であっても。人間としてはそれが当たり前なのだから、ただ闇雲に頑張っていないで、見落としてきた“遣っていなかっただけの事”にも目を配り、自分を【その気】にさせる{出来のスコブル良い、“妖刀”のような、言葉やノウハウや思想や品物などの}モノを“ほめ殺し”的に揶揄(ヤユ)して遠ざけ。そして、『願望や執着などの{自由を奪う柵(シガラミ)でしかない}出来る様に成りたい事』よりも『何でも{拘(コダワ)り無く}出来る事』を重視しての「前だけを一方向的に見てチャレンジする前向きな姿勢を断念して、足元の見過ごして来たモノを広く掘り起こしてみる後ろ向きな姿勢でいる事」が、当たり前の人間が何かをするのに一番大切な事だというコトなのです。
しかし、『パラダイム』が動く時の『コロンブスの卵』とは、【時が満つるか、非常事態になるか】して、{“ゼロ”からの《再スタート》になってしまうからと}みんなが割りたくないと思っていた【卵の殻】を、みんなが避けずに{身を切って修練し直し、努力と工夫が求められる実験・観察を繰り返して、新たに“1”から積み上げていく《再構築》をするのを覚悟で}割って、その《再スタート》が社会的に『一般化』されるからこそ『コロンブスの卵』と呼ばれるのであり。けっして、人間や社会の常識を転換させる『画期的な考え方』や『新発見』の事などではないので。この『消極的連続性』も、【何かが起こって】みんなが必要に迫られて、{一時的にでも“野生回帰”して《積み直し》を敢行(カンコウ)する覚悟が避けられない事態に陥(オチイ)って}社会的に『一般化』されるのでなければ、到底(トウテイ)『コロンブスの卵』などとは成り得ず。自分一人で考えている内はただの【言葉の『ガレキ』の山】でしかないのです。
すなわち、この『消極的連続性』の考え方は、確かに人間の“困った性分”に考慮されたモノで、安易に考えただけでは『パラダイムシフト』のシフトチェンジを起こす条件を満たすモノだと納得してしまい兼ねないのですが。アインシュタインの『E=mc²』の公式ですら、論文発表から100年以上も経つというのに学校では依然として既存の物理学が教えられ、【質量保存の法則】や【エネルギー保存の法則】が自然の大原則としてまかり通っていて、『一般化』の兆しすら起こってはおらず。原子力エネルギーに付きまとう放射能と結びついて、『パンドラの箱』に仕立て上げられたまま一部のマニアックな物理学者の“オモチャ”になっていて。さらには、原子力発電所が宗教における{人間に“天の力”を授(サズ)けてくれる}教会やモスクや神社仏閣のように神聖視され、放射能が欲深い人間への天罰だと考えられ、『E=mc²』の公式は人目に触れてはならない『御神体』や『聖遺物』に祭り上げられて、都市伝説(?)のごとく「一般庶民は『E=mc²』の事を考えただけで罰が当って精神障害に陥る」とまで言われていて。挙句(アゲク)に、進歩を神聖視するあまり、拙速(セッソク)な原発技術者達が、{電気で消費電力を増やして光を大幅に減らして発熱を少し獲る効率の悪い発想を遭(ア)えてする要領で、原発でも核燃料の消費を増やして放射能を大幅に減らして発熱を少し獲るシステムをワザワザ考える}安全の“原点”に返る《再出発》に踏み込めないでいるのですから。この『消極的連続性』の考え方が、人間の本性の的を得た真実であろうと、なかろうと、めったな事では『コロンブスの卵』とは成り得ず、『パラダイム』はそう簡単には変動しないのです。
しかしだからと言って、「この『消極的連続性』の考え方は『コロンブスの卵』と成らないから間違っている」という分けでもないので。緘黙症や各種の神経障害のジストニア・イップスで悩んでいる方や、閉塞感やギャンブルや宗教で苦しんでいる方でも、ただ読むだけできっと何らかの得るものが有るはずだと思っています。
ただ、よく『パラダイム』の問題の解決として頻繁(ヒンパン)に使用される『パラダイムシフト』のシフトチェンジの概念が曖昧(アイマイ)で、《みんなの頑張りと向上》や《社会共通の実験・観察の新たな積み上げ》の覚悟を求めていないのに、一部の選ばれた者達による『画期的な考え方』や『新発見』による人間や社会の常識の{表面的な}転換だけで、多くの概念がネットワーク化されて形成されている『パラダイム』が変動して、{何の努力も求められる事なく、ただ待っているだけで}みんなの閉塞状況を打開する道筋が{エリート達によって、魔法のように}示されると{NHKのエリート“女性”アナウンサー達が}したり顔で連呼(レンコ)していますし。
さらには、少し昔の話しなのですが、東京都の都庁舎をめぐる高額な建設費とその過度の豪華さの問題で、現役都知事がヨーロッパの教会に例えて「後世に残る物がその国の文化を築き、評価される」と発言していて、「庶民は貧乏に苦しんでいても、立派な建築物さえ有れば文化は築かれる。政治・行政は、豪華な都市構造物を安全に速(スミ)やかに構築し、最低限の社会保障を維持して庶民を労働に駆り立てなくてはならない」と言わんばかりだったのですが。「一部のエリートや金持ちにお金と実権が{神聖に}集中して大掛かりなモノが構築されさえすれば、庶民である“みんな”が敷かれたレールの上をただ黙々と進んでいるても、{神聖な}文化が築かれていって国民は優秀だと評価されるモノだ」という{人間抜きの}神聖文化論が{多くの人々の心の中に}刷り込まれ、努力する事を免除されて{仮初めの}特権意識が庶民の中に芽生えてしまったせいなのか。庶民である“みんな”が{典型的に}なおざりにされているにも拘(カカワ)らず、【社会の閉塞】ばかりか【自分の心の硬直】の解決を求めて{悪循環のように}エリートなどの{神聖な何モノかに選ばれたモノや、何モノかそのモノの自体の}神聖な存在に期待を寄せていて、何の解決もされない現実を前にしても自分は善良で誠実な国民だと{ほとんどの呑気(ノンキ)な国民が}自負出来てしまっているモノなので。
この『消極的連続性』の考え方が、庶民である“みんな”に敷かれた{前向きな姿勢の}レールから脱線して“ゼロ”から始める{消極的な}勇気と、エリートなどの{神聖な何モノかに選ばれたモノや、何モノかそのモノ自体の}神聖な存在に依存する事なく何度でも振り出しに戻(モド)ってやり直す{連続的な}覚悟を求めるモノであるかぎり、当然『パラダイムシフト』や『神聖文化論』の{前進志向の}考え方とは合致せず、不愉快に感じる方も多いと思います。どうか、『大人の場面緘黙症』の解決策に発声困難に陥(オチイ)る『良い言葉の発声』の場面での、『代替え言葉』の使用をお勧めするのが大前提である事を承知して下さい。
☆本題「(4)根本療法 タイプ1の思惟・考証」は第0011号を参照して下さい
☆本題「(4)根本療法 タイプ2の思惟・考証」は第0012号を参照して下さい
第0030号【ちび猫が見付けた『~~~』】シリーズ、新スタート
今後のブログの方向性を模索(モサク)しながら書き進めている第0013号も参考になると思うので、是非お読み下さい(記入順序逆転です)。
~~~第0010号先頭へ~~~
・参照〈パラダイムシフト概論〉
*【『パラダイム』とは、『科学史家 トーマス・クーン』によって提唱された科学史上の概念で、1962年に刊行された『科学革命の構造』で科学史の特別な用語として用いられた事によって有名になったモノですが、多くの誤解釈や「誤解に基づく非難」に直面し[=本来の意味から逸脱(イツダツ)して、「『パラダイム』という『時代の思考を決める大きな枠組み』の概念」が安易に“一般的な言葉として理解されてしまった事”によって、ビジネス書などにも登場するほど一般化してしまい、それによって大きな転換点を社会にもたらしはしたが、それは『クーン』自身の意図した事とはかなり異なるものであり、『クーン』自身も「自然科学に対して『パラダイム』の概念を考えたのであり、社会科学には『パラダイム』の概念は適応できない」と発言しているのだが、そうした“拡大解釈のしすぎた”一般的な理解にもとづいて、『クーン』は『カール・ポパーたち』から科学の合理性と客観性を否定する相対主義者・非合理主義者と断罪され、厳しい論難を浴びてしまったいきさつがあり=]、その“概念の曖昧さなどの問題”もあったために、8年後の1970年の改訂版では『パラダイム概念』が放棄され、『《専門図式》の概念』が導入されて、『問題意識を再定式化:=例題を解くだけでは発生しえないが、実験やフィールドワークなどではよく起こる予想外の実験データや観察結果などの新しい情報を、主観的解釈を交(マジ)えずに問題意識を持って客観的事実だけで結びつけて、人間の希望と意図で集められたデータによって構築された既存の科学観に捉(トラ)われないで、自身で新たなネットワーク化をする事=』を“自然科学の研究者自信が重視する”コトの大切さが宣言された云(イ)われのある用語であります。】
*【一般的に使われる『パラダイムシフト』は、過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられるモノで、厳密な定義は特になく、「発想の転換」や「見方を変える」・「固定観念を捨てる」・「常識を疑う」などから「斬新なアイディアにより時代が大きく動くコト」まで、さまざまな意味で広義に使われるモノだが。
元々の狭義な『パラダイムシフト』の定義によると、“その時代”や“ある分野”において{主流だった「問題を抱えてしまっている」古い考え方に代わり、「その問題を解決できる」新しい考え方が主流となる事}を意味するモノであって、個人の物の見方が変わる事は意味していない。】
*【『《専門図式》の概念』とは、要約すると、『パラダイム』的に「『時代の思考を決める大きな枠組み』の概念」の論理と言ってしまうような、科学研究者が「現在進行形《から未来》において扱う諸々の科学的な理論における“段階的”な進歩についての理論」を頭で“論理立てるだけのモノ”などではなくて。『パラダイム』と同じで「科学史などの歴史家の“転換期の歴史的観点”として、『実験精度の高まりと客観的な研究姿勢』が大きな意義を持つモノである」という事はもちろんだが、今回新たに焦点が当てられたのが、「自然科学の専門にこれから携(タズサ)わっていくであろう若い研究生達が受ける{頭の中での“理論体系の反復”学習}よりも{実験機器などへの”精度の高い慣れ”と“問題意識”による確認作業に励む姿勢の両立}が重視される教育の大切さ」や「自然科学における“未知の実験データ”や“想定外のフィールドワークの観察結果”に携(タズサ)わる時の専門の科学研究者達自身の、“頭の中での既存のルールに基ずく理解と解釈と矛盾の無い論理の構築”よりも“問題となっている作業の事実問題としての適正さの確認と適正な分析と客観的反省”に重きを置く姿勢の重要性」にこそ意義があると、問題が再定義化されたモノだという事であるが。
にもかかわらずポパーらは、「科学知識は何よりも“理論とルール”であらわされているのだから、それらの正しい学習をせず、深く理解もしない」若い研究生達では、科学の問題を解くコトなど出来ないはずだ」という批判を繰り広げたのだが。
逆にそれでは、実験に未熟な未訓練の素人が、いくら理論とルールだけを教え込まれても、それが“実験室での実験中にどのような見え方をするのか”が分からなければ、“何に着目”すればよいのかすら分からずに「実験中の実験機器の計器の針の位置が見た目の位置や数値以上の何の意味をどう持つのかが認識出来ないまま」であっては、“精度の高い結果”と“適正な実態把握”の伴った実験や観察としての研究など何時まで経っても出来る分けがなく。
理論やルール等々を知識としていくら反復学習が出来ていようとも、「極めて厳密な一定の条件下においてだけ、予測どうりに理論やルール等が“適用される”自然科学の厳しい仕組み」の現実がわからないまま、実験そのものに習熟する事が出来ていなければ、実際の実験・研究過程においては、厳密さを欠いた手違いや勘違い・不適正で勝手な思い込みを積み重ねてしまうだけの事態から何時まででも抜け出せないという、目の前で起こる現実の事態を見落としていたみたいなのである。
それは、実験や観察の現場において、「“何に対して何がどう反応するのか”とか、“何処にどう『着目』すればよいのか”」という「実験や観察を高い精度で適正に行い、高度な問題意識で“多彩”に“用心深く”に事態の究明をする事」とかを若い研究生達が習得するコトとは。机の上だけで「問題を解く過程を“頭の中”でする」ような、「“理論や概念を適用する”手順が問答無用で決められた問題」で手順通りに間違えずに解答を出すという“反復作業”によって「“理論や概念を適用する”手順を習得するコト」とは違うモノであって。多様な実験や観察による“客観せいの高いデータ”や“実態に近い記録”を基に「実験や観察の多様な結果を『多彩な発想で用心深く』把握する」コトによって、徐々に多様な結果の一つ々々の存在場所となる“何らかの関連性”や“類似的関係性”を『発見』して、“自身で新しくネットワーク化”していくコトに習熟する事であり。この時・特に、「理論や概念を“適用する”」という“反復作業”が、もはや“意義を持たない”という事に注意しなければならないのだが。
その注意の意味とは、若い研究生達が「机の上だけで問題を解く」過程を想定条件を変えながら何千回・何万回と繰り返したとしても、習熟出来るモノとは「過去に証明されている特定の“その条件の場合”においてのみ特定の“その理論や法則などが適用出来る”という“その過去の事実一個だけ”」だという事であり。言い換えるとするならば、どんな実験や観察の研究においても「研究過程に先立って理論や概念が“事前に用意”され、その理論や概念が充分に考慮(コウリョ)されていて、失敗することもなく必ず“適用する”ように仕立て上げられた実験や観察」を何千回・何万回としようとも何の意味も発見出来ないという事であり。
まさしく、どれ程“基本的”で適用頻度の高い理論であれ、“要”となっていて欠く事の出来ない概念であれ、それは人間が人間の都合でそう判断したに過ぎず。多様な実験や観察による客観性の高い結果を多彩な発想で用心深く分析して何らかの関連性や類似的関係性に基づいて自身で新規に構築する“ネットワーク化”の上に置けたときに、そしてそう出来た時に初めて「自然界の物体の形状や性質が条件の変化とともに連続して多様に変化していく“物質の多彩さと流動性”が示す“ネットワーク的自然の形態”」と同じ意義を持てるようになるのであり。どんな理論や概念であろうとその立場は自身による新たな『ネットワーク化』を一度通した後に初めて正しく確定されるのである。
すなわち、自然科学における何らかの関連性や類似的関係性に基ずいての“自身による新たな『ネットワーク化』”とは、これまでの“人間による人間のための都合”をその時代ごとに可能な限り排除して行くコトで、「自然界の物体の形状や性質が条件の変化とともに連続して多様に変化していく“物質の多彩さと流動性”が示す“ネットワーク的自然の形態”」にその時代ごとに段階的に近ずくモノであり、“実験と観察の習熟”とは、「“ネットワーク的自然の形態”を高い精度で察知(サッチ)し適正に認識する」ためのその時代で出来る最高レベルの作業である。そして、それこそが「『時代の思考を決める大きな枠組み』の概念」の新しい枠組みとしての《専門図式》なのである。】
・日本人に何を期待するのですか
日本の優秀なはずの学識者達や知識人の多くはよく、『パラダイム(パラダイムシフト)』という{科学史上の急速な進歩が始まる時の特定の転換期で用いられる科学の進歩における特殊な概念の}“科学史の用語”を科学とは無関係な社会的な様々な取り組みにおいてまで頻繁に用いていて。
その『パラダイム(パラダイムシフト)』という言葉がかもし出している「これは『本物』だ!」という威光と、それによる『有り難み』や『御利やく』」を感じ取り、その『意味深げな言葉』を巧みに利用する事で、多様な方向性がある目の前の可能性の中で自分の都合で一つの方向性だけを取り上げる「チョットだけ識者ヅラした安易な牽制(ケンセイ)行為」や「少し怠(ナマ)けるための些細(ササイ)な威嚇(イカク)行為」の正当性の裏付け工作に安直(アンチョク)に用いる事が堂々と出来ると知っただけで。
せっかくの「沢山の有益性が期待できる多様な可能性」に見て見ぬ振りをして、狭い専門的正当性に執着(シュウチャク)して「何もしないままで多くを否定して大損失を招くような事態」を引き起こしていながら。そんな「ただの排他的で利己的な考えや行い」に『パラダイム(パラダイムシフト)』という『意味深げな言葉』を“恭(ウヤウヤ)しく”厳(オゴソ)かにくっ付けてしまい、それらしい正当性を巧みに持たせて、“歴史的英雄気取り”で自己満足してしまうような、視野の狭い集団幻想に日本中が浸ってしまい。
欧米の研究機関が資金をつぎ込んで研究をしている“メジャーな科学的研究”や、欧米諸国が主導する国際機関による世界各地での支援と言う名の社会的・経済的・政治的な干渉に、日本も莫大な資金と人材を当たり前のようにつぎ込み、欧米の特殊な経緯(イキサツ)や宗教的理由を考慮しないまま、欧米の研究機関や国際機関と“見た目に同じような”研究競争や国際支援を続けるお題目にしている「『パラダイム(パラダイムシフト)』の先駆けの奪(ウバ)い合いに競(セ)り勝つ事、そして時代と世界の本流に日本がいつも居続ける名誉を守る事が第一である」という事に、現代の日本人の多くが何の疑問も抱かなくなってしまったのです。
しかし、すでに世界的には「キリスト教による欧米主導の民主主義」の底の浅さが露呈(ロテイ)し、『パラダイム(パラダイムシフト)』という用語の威光も消えうせていて。欧米諸国の多くでは【“自分の理性を信じる合理主義”:人間の理性的考究の先にこそ、そのポテンシャルによる総ての新発見があり、キャパシティーの向上と拡大により人類の共存がもたらされるとする、『神の絶対的存在』の上に根ざした“人間至上主義思想”】を凌駕(リョウガ)する個人の“神の予言を超えるアクティブな活躍”がすでに重視されていて。人間が『神の絶対的存在』というフィルター無しに現実を直視し、その人間が人間の責任で問題への対策に取り組む時代がすでに始まっているので。
“人が人類として共存して生きていく”のに大切なコトとはどんなモノなのかを、『神の予言』に捉(トラ)われずに人間の責任で考えられるように、適正・精密・多彩な視点からもっと“アクティブに・実証的に・客観的に”日常生活から最先端学問や世界情勢の動向などへの働きかけを“問題意識を持って丹念(タンネン)に”続け、現実として人類が背負っている人間どうし間の差違や多様さや・人間自身の不純さや愚かさの事を「既存の固定観念を排除しながら」何度でも一から観察して、自分の側からではなくて“多種多様な人間”の相手の側から立って見て、誰にでも実用的で便利だと思ってもらえ・誰からも利用してもらえる事とはどういうモノなのかと、もっと多くの日本人が少しづつでも考えて見るべきで。
どのような劣等状態や困窮情況にも「『神の予言』に盲信する宗教的原理主義」や「自分の理性のみを妄信する神秘信仰」に逃避したりせずに、周囲の声に耳を傾け「現実に責任を持ち“神の予言を超えて”アクティブに取り組む」姿勢を守り。異文化圏の者達や社会的諸事情を抱える者達の立場に立って見て、そういう「被差別者とか、非主流派とか言われる側」が今後差別や不自由を感じずにすむ世界を想い描き。「差別者や、主流派の側の固定観念」に捉われた自分達を暴(アバ)くために、既存の「周囲に対しての価値観」や「自分にとっての神秘観」の縛りを越えて、「新たな働きかけと正確な観察による再研究検証」で決まりきった事や些細(ササイ)なことを何度も繰り返して分析すような、時代のひのき舞台とは見えない“裏方な取り組みの地味な積み上げ”に見える所にこそ、本当の意味で次の時代を作っていける秘密が潜んでいるといえるのだと、「もうちょっと日本人の多くが、あともう少しだけ真剣に考えられたなら良いのに」と思ってしまうのです。
しかしそうは言っても人間は人類創生より傲(オゴ)った存在であり、唯一神や仏陀の「人類救済の条件」などの高尚で高潔なはずの宗教的教義を自分達に都合よく切り取ってきては、昔から何処(ドコ)ででも宗教戦争や宗教弾圧・宗派抗争などの大義に掲(カカ)げていて。第2次世界大戦での「人類の念願だと言った、ナチスによる民族の浄化政策」の大義の裏付けともなったであろう、【“同じ人類”と言うのであれば“誰でも人間的に同じ”であるのだから、“差別者の側”からの『差別意識や差別的態度や差別的制度など』を無くしてしまって“一つの平等な統一制度”を築きさえすれば、“被差別者の側”からの『その“統一制度への”違和感や嫌悪感や、そんな差別者の側の集団と一緒に生活する不安や不満など』を“考慮しなくてもいい”はずで。仮に自分達が『差別者の側』だとして、『被差別者の側』のコトを《特別に考慮しなくてはならない》のであるならば、それはその『被差別者の側』が自分達の側の純潔優良人類とは違う劣等人類か異人類であり、いつもみんなで悪事ばかり考えるように神から呪いを掛けられた汚れた種族か不用な民族であるという証明に他ならない!!】といった論旨(ロンシ)の話しを、世界中でそう少なくはない知識人や宗教家が今も世界中で公然と主張して憚(ハバカ)る事がないのであるから。狭い日本の中でえらそうにしている自称知識人や、集票・集金団体になってしまっている宗教法人(団体)が闊歩(カッポ)しているばかりで、進むべき方向が示されずに日本全体が沈滞したままで、互いにいがみ合い、足の引っ張り合いが止められずに、多方面に渡って「あきらめの落胆によるイヤな後退」が始まっていて、誰が頼(タヨ)りになり・何を信用していいのかが見えてこない苦しい状況下の日本ではあるが、欧米諸国の一部の知識人を例外とすれば、そうそう日本人の事を悪く言えないのかもしれない。
結論:だから?何!
・追伸-1:反省転嫁
どんなに高尚な意義を持った思想も、それを、自分で自分のために用いてこその高尚さであり。
敵対者を批難する事や、他者を批評して差別化を図る事に用いるような、『反省転嫁』をしてしまっては、その意義を失ってしまうと思うのです。
それは、《専門図式》に由来する【「現実に責任を持ち“神の予言を超えて”アクティブに取り組む」覚悟で「新たな働きかけと正確な観察による再研究検証」をする】という考えも同様で、自分の行いや思索のために用いてこそ、その意義が高尚さを持つのであって。よく注意せずに他人に反省を求めるような用い方で『反省転嫁』をしてしまっては、総ての有用な意義を失ってしまい、ただの悪意の発動に成り下がってしまうというコトなのです。
・追伸-2:『小乗』と『大乗』
そして、仏教でいう『“小乗”(ショウジョウ):教えを師から弟子へと相伝させる事から“少人数乗りの小さい乗り物”に例えられた比喩(ヒユ):自己の悟りを第一とする教え』的な思想形態として捉(トラ)えられている分には、たとえ『反省転嫁』としての使われ方をしたとしても、個人の悪意が対象の相手に対して直接的に発動するだけなので、精々(セイゼイ)イジメや、個人的犯罪行為や、テロ行為が行なわれるぐらいの範囲までで収まるのだが。
少しの『反省転嫁』ではあっても、ひとたび『“大乗”(ダイジョウ):一人の僧侶が大勢の一般信者に対して利他行(リタギョウ)を教え導く事から“大人数乗りの大きい乗り物”に例えられた比喩(ヒユ):利他行とは、それさえ続けていれば、誰でも未来の世において成仏(ジョウブツ:死後に悟りを開くこと)できるというモノで、自分の解脱(ゲダツ:全てを悟ること)よりも他者の救済を優先するコト』的な思想形態として安易に捉えられてしまうと、他人の悪意に便乗して自分の思惑を成し遂げようとする者達や、便乗できる事が救済される事だと信じてしまう人々が集団となり、便乗行為が暴走しだすと、人が思ったり想像したりする以上に、とんでもなくまちがった方向や悪意に満ちた方向へと大衆を誘導する手段として簡単に使われてしまう危険性が発生してしまうので、そういった意味での注意が何時の時代も本当は必要なんだと思うのです。
すなわち、どんなに高尚な思想も、『反省転嫁』として「自己反省をせずに、対象に対して反省を転嫁し、要求する使われ方」をされてしまえば、たとえ『小乗』的な思想形態として捉えられているだけだとしても、イジメや、個人的犯罪行為や、テロ行為などの理由付けに簡単になってしまうし。
そこにばかり目がいってしまっていて、『大乗』的な思想形態として捉えられる事によって他人の悪意に意図的に便乗する人達が出現したり、善良なはずの大衆が救済と信じて悪意に大挙して便乗してしまったりする危険性が見過ごされてしまうと、何時でも簡単に「ナチズム」の再来となってしまうのですが。
それを防ぐ有効な手立ては間単に言って「それは無い!」というコトであり、それはすなわち、人間が悪意を持つ生物であり、自分に都合が良ければ簡単に他人の悪意に便乗してしまう行為をはばからないばかりか、救済と信じて喜んでしまう生き物である以上は、そういった危険性が永遠に無くなる事は無いという現実を端的に表現したモノなのです。
・追伸-3:日本の姿
だからか、「欠陥があってこその人間であり、それを無くしてしまった人間は、もはや人間とは呼べない」と悪ぶるばかりで。
神(仏)の絶対的存在(:偉大な存在性)によって《世界の部分でしかない人間のためではなくて、自然と地球のために》今も造られ続けている“世界の正しさ”【:神(仏)への帰依(キエ)を優先して《“汚れた人間”である他者の都合には一切捉(トラ)われずに、“ピュアな誠実さ”を変節するコトなく追求するような》世俗の罪を犯すリスクを迷い無く背負い込む“一途さ”に、神(仏)が手厚い恩恵を与えてくれる“現在進行形の世界の道理”】に依存し。
神(仏)の御心(:人間に役割を残しておいてくれた慈愛に溢(アフ)れた寛容な存在)によって《“汚れた人間”のためではなくて、“正しい世界の在り様”を創造していくために》今も導かれ続けている“個人的理性の正しさ”【:神(仏)の後ろ盾を得た『自らの理性への信頼に基づいた合理主義』による、“光”のおかげで認識できてきたであろう知識や、“導き”のおかげで実施できてきたであろう経験を尊重し、その「利己的ではないかと批難され、楽になりたくて放棄してしまいかねない、道理や経験則」を優先して《汚れた人間達やその醜い社会活動のための公平性とか道義性とか効率性とかに少しも煩(ワズラ)わされずに、ゆるぎない自己を厳格に誇示していく事で》神(仏)の加護の元で「真実を照らし出す光をさらに感受し続けられ、真理への導きの働きを見失う事なく受け入れていける」単独理性の可能性】に過信して。
無知で無責任な現実逃避や偏見にはまり込んでいる《精神的アナグマ状態の自分》を“後生大事にしていて”いつまでも変えようとしない、【結果オーライの合理性】に基づいた「“刹那(セツナ)主義”のような風潮」が日本中に蔓延(マンエン)たり。
『反省転嫁』をデカイ態度でするような「トラの威を借るキツネ」の行為をしているうちに偉くなった気になってしまい、「多種多様な人間の、他人(ヒト)それぞれの想いや条件や生きる道の違いを顧(カエリ)みずに、ただ漫然と『反省転嫁』行為を“錦の御旗”のように振りかざすばかりの、《追いはぎ行為や恐喝などを勇んでしてしまう》ような傲慢(ゴウマン)な自己特別意識」に陥(オチイ)ってしまい、「はた迷惑な【空回り】を自分が犯している事に気付かずにいる」独(ヒト)りよがりな輩(ヤカラ)が日本中で増殖したり。
「みんなで批判的に大口をたたいていられる“自由な『反省転嫁』行為”のおかげで、弱い個人が大きな集団となれてより大きな力を発揮をする事が出来るようになれたんだ」と得意となってしまっているだけで、自分一人では「自らが判断して、自分の手を汚してでも何かを実行しようとする」気持ちも力量も無い、“口先だけの《烏合の衆》となってしまった【日和見】的な大衆”が日本中で氾濫したりしていて一向に収まらないのである。
・追伸-4:自己反省
しかし、私も未熟者なりに。
「思想形態としての『小乗』的と『大乗』的の優劣論争」や「自己正義を貫く『小乗』か、大衆の味方である『大乗』かによる善悪議論」などのような《閉鎖的な“二者択一”の事》で悩むのだけは止めておこうと考えたり。他人(ヒト)が何をしていようとも『他人(ヒト)は他人(ヒト)、自分は自分』と割り切り、『反省転嫁』だけはしないように「とりあえずは自分一人だけでも自分らしくしていよう」として寡黙(カモク)を装ったり、態度をはっきりさせないようにいつもこそこそと逃げ回ったり、一人で居られる嫌われ者を何とかして担(ニナ)おうと精一杯努力したりして。やるだけの事はやっているつもりになっていたのですが。
何時(イツ)の間にかあからさまな【高慢ちき】に陥(オチイ)ってしまっていて。
何時までも《無駄の押し付けでしかない【世界を正しく創造している『神(仏)』の絶対的存在性による「“現在進行形の世界の道理”への自分の依存体質」を棚に上げての反省転嫁】や【神(仏)の後ろ盾を得た『自らの理性への信頼に基づいた合理主義』の絶対的有用性による「“人間的な理性の可能性”への自分の過信体質」を棚に上げての反省転嫁】など》を自分がしているという事にまったく気付けないまま。“自分に都合がいい理想論”や“自分の個人的な経験則”・“信仰に似た独善的な包容の理念”そして“恩着せがましい偽善的な好意”などを善良な市民のつもりになって調子よく振りまき。
私が『高潔な気持ち【:独善的な身勝手さ】』で勧(スス)めてあげている有用な『御利益(ゴリヤク)や利得【:相手にとっては無駄で意味不明で煩(ワズラ)わしいだけの“耐え難いノイズ”の発生原因】』の良さを相手が“なぜか”まったく理解しようとせずに、いつも勝手に私の勧めとは違う別の“代替えの事”ばかりを不誠実にしていて、人生においてたえず怠惰を貪(ムサボ)ってばかりいる事態なのを、『大変もったいなく、おしい事だ』と善意で決め付け。どうして自分ばかりが物事の良し悪しの全てと真理が見えて、愚かな人達や人類の行く末を憂い気遣うような、高尚さと慈愛の心を持ち合わせてしまったのだろうかと悩み。
何時も身近な人達を、物事の道理や私の心配をよく知らずに、私の先見性と思い遣りに溢れた言動について、野蛮に「私の言動(:した事、してあげた事自体)や、言動に関わっているモノ(:して見せてあげているモノ、見せたモノの内容)を、不可解で可笑(オカ)しな理由をこじつけてわざとらしく下品に批難する」愚か者と見下してしまっていたのです。
結局は私も、『他者のコトを許容する《:相手から下品で可笑(オカ)しな反応を導き出してしまっている異常な事態を前にした時に、自分の言動の【純粋な動機の(人間的な)傲り】や【万人に共通と思われがちな感受性の(人間にありがちな)偏り】や【間違いを無くす為の最後の砦である理性の(人間らしい)未熟さ】がその原因となっているかもしれないと疑って、独善的で身勝手な自分が行なっている“言動の実態”の把握のために「相手にとっての“無意味さ”と、それによって相手がこうむっている“見えないダメージ”」などを実地調査や実験確認などの思惑の入りにくい手法によって妥協なく検証しようとする》慎重な思惟』がまったく出来ていなかった“口先だけのバカ者”でしかなかっただけなのです・・・。
「追伸-5:彼の態度は」と「追伸-6:小さな親切大きな害悪」は第0019号を見てください。
~~~第0010号先頭へ~~~
ちび猫のコメント参照
次回につづく。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます