第0047号
*****(制作終了)*****
『ちび猫のつぶやき』のホーム ページ参照
『簡易ホームページ』と『本文ジオログ』も参照して下さい。
≪上記の『簡易ホームページ』と『本文ジオログ』はYahooで作成したモノなのですが、最近になって当ブログからの新たな“リンク”が、『gooブログ』の管理者から【不正な書式】として時々制限されるようになってしまいました。以前に制作したブログ第0048号からは“リンク”が確実なので、当ページからのアクセスが出来なかった場合はページを第0048号へ変えてから再度『ホームページ』か『本文ジオログ』をクリックしてアクセスしてみて下さい。≫
~~~~第0010号・第0011号・第0012号からの続きです~~~~
~~~第0047号の続きは第0053号へ移りました~~~
***神様〔使徒〕からの予言***
人間の人格〔自分〕とは、各個人で個別に形成されていく、能動的に精神活動をしている主体的な『精神〔優柔不断な私〕』と、人類共通の基準で基本的には反応するモノだが各個人の個別な状況に合わせて反応が変わる部分も多少は有している、受動的に心理活動をしている客体的な『心理〔頑固な俺〕』とで構成されている複合的なモノでありますから。
『大人の場面緘黙症』の《発声困難》や『人類の《見本》本位特性』の《被害妄想》や、諸々の精神・神経疾患などを解決したいと考えるのであるなら、「人間の人格〔自分〕を構成するモノには、主体的な『精神〔私〕』と、客体的な『心理〔俺〕』とが、別個に存在している」という“矛盾”を内包した“問題”を人間〔人類〕が抱えている実態と、それによって「“不条理”な必然性が起こっているのに、“不条理”に無視されてしまう必然性」が起こっている“不条理”な事実を、よく認識する必要があります。
また、同じ理屈で「『科学革命』や『歴史上の革命』は、大げさな『革命』という{以前の枠組みを壊してからでないと再構築が始められない}“払う犠牲の大きい形”を取らざるを得ず、その実施は思うに任せないモノであるのだが。かといって、従来の【革新】で行われる形での進歩では、何時まで進んでも《閉塞(ヘイソク)》したままで、状況の打開は難しい」と言ってたいした事もしていないうちに、「『パラダイム シフト』の『シフトチェンジ』と言う『革命』を実施すれば、これまでの【革新】によって生じた《閉塞》が打破されて、『革命』がすぐにでも起こせるのです」と安易に言って、すぐに『革命』を起こそうと浮き足立ち、先走ってしまう“問題〔矛盾〕”も、人間の人格〔自分〕が、主体的な『精神〔私〕』と客体的な『心理〔俺〕』とで、混在して構成されているという“矛盾”に起因して起こっていて。
そして、同じ理由で「最先端で活躍する物理学者ほど自己過信に陥(オチイ)って、≪『E=mc²』の普遍化≫という“重大問題”の承認・開示・啓蒙を、《パンドラの箱》だからと言って先延ばしにして、『革命』の実践に浮き足立ったり。生命の安全を担う生物学者ほど功をあせって、≪『自然のバクテリア群』による『瞬間的な浄化サイクル』と『有益な薬品耐性』の普遍化≫という“重大問題”の承認・公表・啓蒙を、雑菌の【消毒・殺菌】と『遺伝子操作』の組み合わせの方が《有効》だからと言って先延ばしにして、『革命』の実践に浮き足立ったり。日本の安全保障を危惧する日本の改憲論者ほど外国の動静に懸念を抱いて、≪今の日本国憲法の存在が担ってきた日本を取り巻く極東地域の平和と繁栄へのこれまでの貢献とその意義の普遍化≫という“重大問題”の承認・言及・啓蒙を、日本国が直面している《危急の問題の早期解決を優先》したいからと言って先延ばしにして、『革命』の実行に先走ったり。宗教の未来に責任を負っているハズのイスラム原理主義者ほどイスラム圏が世界最大の宗教圏を有している事実の責任を自覚できずに、≪ユダヤ教やキリスト教の勢力を差し置いてイスラム世界が世界最大に拡張した要因の普遍化≫という“重大問題”の承認・言及・啓蒙を、イスラム教徒がこうむっている不当な侮辱と不利益を《正義の名の下に早急に回復させる》のが先だと言って先延ばしにして、『革命』の実行に先走ったり。してしまう必然的出来事」が惹(ヒ)き起こす諸々の“問題〔不条理〕”も、人間の人格〔自分〕が、主体的な『精神〔私〕』と客体的な『心理〔俺〕』の絡み合いによって、“不条理”に構成されている事による必然であると言えるでしょう。
平成25年度版
【宣言】『場面緘黙症』バージョン(随時訂正)
『場面緘黙症』の『発声困難』〔または『ジストニア』や『イップス』などの反射的な神経の麻痺症状〕の時に起こっている
≪人間の“脳の酸欠”と。全体性〔全体というモノの、関係性を組み合わせるコトによる、有用性を秘めた形成〕と個別性〔個別というモノの、関係性を高度に多様に秘めた構成〕による事象で出来た世界観を、幻覚世界の中での打算的で英雄気取りな『スタンド・プレイ』による“ストレス”の積み重ねによって、無自覚なまま見失ってしまう重大な【社会性の欠落】≫というのは、
≪『自然のバクテリア群』による瞬間的〔臨機応変で円滑〕な浄化サイクル〔薬品耐性獲得能力〕を維持するのに欠かせない“酸素”が足りなくて、有毒なバクテリア集団〔浄化サイクルの各段階を形成する各バクテリアが、浄化サイクルを形成できずに雑菌化してしまった、各種の細菌のタダの集まり〕が大量発生して、有害環境〔雑菌の繁殖〕を構築してしまった自然界の危篤(キトク)な状況において、
長年に及(オヨ)ぶ科学の『スタンド・プレイ』により自然との格闘を続けて来た“ストレス”の積み重ねによって、そういった自然界の危篤さを想像できなくなった人間〔人類〕が、{‘酸化を諸悪の根源’とする}衛生学的見地の刷り込みに基づいて、{‘有酸素活動’した分だけ毒性を発揮する}雑菌の繁殖を抑止し、細菌の‘有酸素活動’を抑制しようとして、【消毒・殺菌】の徹底を薬品で図って一線を越えてしまい、
“酸素を大量消費”する『自然のバクテリア群』による円滑〔臨機応変で瞬間的〕な薬品耐性獲得能力が“酸欠”によって失われている有毒なバクテリア集団を、ワザワザ薬品にさらしてしまって、薬品耐性能力を獲得した各種の単独薬品耐性菌〔水虫の『白癬菌』や殺人バクテリアとなる『連鎖球菌・ブドウ球菌』など〕を【純粋培養】してしまっている状況≫
にとても似ていて、まるで眠れる悪魔を呼び起こしているかのようなのです。
“酸素が脳に充分に補充”されている状況であれば、
≪個別な人間が、様々に能力を発揮し補(オギナ)い合うという、関係性を多様に秘めたモノとして構成されているからこそ。全体としての人間社会が、個人の関係性の様々な組み合わせが可能となって、多様な有用性を秘めたモノとして形成される≫という
『全体性と個別性の事象で構築されている世界の理屈』がその人間にも理解できて、思考から発声〔動作〕までの脳の反応〔伝達〕も円滑〔瞬間的〕に起るので、その人間は【社会性】を充分に発揮するコトが出来て、『発声困難』〔反射的な神経の麻痺症状〕に陥(オチイ)ってしまうという事にはならないのですが。
『場面緘黙症』〔『ジストニア』や『イップス』など〕の人たちは、“脳の酸欠”による重大な【社会性の欠落】に陥(オチイ)っている状況を、
≪競争社会では他者〔自分以外の競争相手〕を{偽善を駆使(クシ)して騙(ダマ)してでも}蹴落として、結果を出せた者だけが{最終的な}勝者である≫と学校〔学習塾〕や会社〔研修〕などで{執拗(シツヨウ)に}刷り込まれた事によって、
脳の反応〔伝達〕が円滑〔瞬間的〕に上手く伝わらなくなって、バラバラに神経が反応する『発声困難』〔反射的な神経の麻痺症状〕に陥(オチイ)っている事態であるにも拘らず、
≪競争相手である他者〔周囲の者から不特定多数の人間にいたる人たち〕がみんな{本当は}攻撃的である為に、自分ばかりが不信感や恐怖感が止まらなくなってしまっているのだ≫と勘違いしてしまい。
《綺麗事(キレイゴト)を言う者ほど裏で何を企(タクラ)んでいるか判らない》というような【反省転嫁〔責任転嫁などの不徳行為〕の相手への転嫁】から抜け出せないまま、
自分が“脳の酸欠”による『発声困難』〔反射的な神経の麻痺症状〕と、『被害妄想』のような【社会性の欠落】に陥(オチイ)っている、危険な人物になっているという事を、適切に想像するコトが出来なくなっているのです。
極端な言い方をすれば、“酸欠”による脳の足掻(アガ)きである『発声困難』〔反射的な神経の麻痺症状〕に陥(オチイ)るほどの、{心ではなくて}脳自体の苦しみであるにも拘(カカワ)らず、
《過去の対人関係における何らかの縺(モツ)れ〔非道な他者によって暴力や言葉などによる蹂躙(ジュウリン)を被(コウム)った時の精神的受傷〕による精神的・神経的な疾患》が『場面緘黙症』だと{他者を悪く見る競争社会の習慣で}決め付けてしまい、
その“ストレス”により【社会性の欠落】に陥って、
≪自分は、様々な関係性を秘めた個別なモノであり、社会は、個人の関係性の組み合わせによって有用なモノとなる全体であるという、全体性と個別性からなる事象の世界観≫を持てずに、
見本〔ビジョン〕本位の独善に陥り、打算的で英雄気取りな『スタンド・プレイ』を、ゴリ押ししようとしていて。
『発声困難』〔反射的麻痺症状〕に陥(オトシイ)れた{終わるコトのない}犯人探しと、{全ての他者を対象にしたかのような}責任追及に奔走(ホンソウ)してしまっているという、{危険な頑張りに執着している}自分の状況を想像するコトも出来ずに、
自分を【悲劇的な苦労人】と自画自賛するばかりで、
≪たいていは【悪意を持って使う言葉】が発声困難に陥っている≫という事にさえ気が付けず、
他の言葉の使用に考えが至れないでいるのが、『場面緘黙症』〔『ジストニア』や『イップス』など〕の人たちなのです。
・“酸欠”対策と、『社会性』の回復【5月12日・日】
大人の『場面緘黙症』の『発声困難』とは、“酸欠”による脳の反応〔伝達〕の混乱と、『社会性』の欠落に同時に陥(オチイ)り、その事態を想像できないまま、自分を≪悲劇的な苦労人≫と自画自賛してしまう的外れな頑張りに執着(シュウチャク)しているモノですが、
“脳の酸欠”の効果的な解消方法の実施と平行して、《綺麗事(キレイゴト)を言う者ほど裏で何を企(タクラ)んでいるか判らない》というような【反省転嫁〔責任転嫁などの不徳行為〕の相手への転嫁】をしている自分を自覚し、人間世界が社会性によって構築されている事を理解していくコトで、不思議と『発声困難』は解消されていきます。
・平成25年度版【宣言】『場面緘黙症』(発声困難は解消するモノ)
≪大人の『場面緘黙症』とは『天』の定めで『発声困難』に陥ったモノで、無理をして解消させようとしても症状が悪化するだけだし、大人しく無言でいる事を拒んで出しゃばっても、周囲に【天罰の片棒を担がせる】だけで、ハタ迷惑なだけである。先(マ)ずは支援を広げ、そしてその範囲内で大人しく生きて行くのが、賢明な判断と言えるではないでしょうか≫などと言うチンプな理屈で『場面緘黙症』の実態を隠蔽(インペイ)してしまう事は、この【ちび猫】が許しません。大人の『場面緘黙症』による『発声困難』は、改善させて行く事の出来る“解消するモノ”なのですから。
・ゆっくりコンパクトに動き、微細動を止める【4月17日・水】
今までは大人の『場面緘黙症』の対処策として、【誠実さの積み上げの効果】を完全否定し、【代替え言葉の使用】を1番に掲(カカ)げて勧めてきていたのですが。最近は『脳の酸欠』を『場面緘黙症』の原因に挙(ア)げ、『発声困難』も『脳の酸欠』から逃れるための『反射反応』を長年続けてしまった結果だと言う結論を出して、【脳に酸素を積極的に送る手段を色々と模索(モサク)しながら、時間をかけて『反射反応』を消していく】という解消策を【代替え言葉の使用】と併用する形で推奨(スイショウ)していました。
そしてこのほど、『脳の酸欠』の原因が【体を早くてオーバーに動かしすぎていた上に、体を常時微細動させていた為(タメ)】だという事に行き着き、『脳の酸欠』の防止策として【ゆっくりコンパクトに動き、微細動を止(ヤ)める】というコトを先日から試しているのですが、【代替え言葉の使用】と【脳に酸素を積極的に送るコト】にまで【ゆっくりコンパクトに動き、微細動を止める】というコトを徹底させる事で、ほぼ完全に大人の『場面緘黙症』の『発声困難』が解消されています。意外かもしれませんが、トッサの時や電話対応でも『発声困難』が解消されているので、チョット感激しています。
・第二の治療②【2月26日・火】
カラオケ治療法の所では、歌を歌うのが好きな人を対象にした内容にしてしまったので、今回は歌抜(ヌ)きの話しをします。ノドの練習治療法で最も有効なのは「口を閉じて、鼻から息を勢いよく吸い込んで、それを途中でノドの弁を閉じて急停止し、そのまま吸引しようとする状態を一瞬チョットだけ維持する」という呼吸動作を、一息で{思いっきり}1回する事を繰り返す事をスムーズに行えるようにするコトです。上手く出来るようになれれば、会話の前のウォーミングアップにも使えますし、一生懸命に早く行えれば過呼吸にもなるので、第三の練習(酸欠防止)にもなります。
・【No.23-『場面緘黙症』の治療と『科学革命』 (その1)】要点転写
『場面緘黙症』とは極度の緊張によって頭が酸欠となり【シビレテいる脳】が苦しくて発した“警告反応”の症状であり、【発声困難】とは慢性的にノドの【麻痺(マヒ)反応】の反射状態に陥(オチイ)ってしまっている状況のコトであると、二つに分けて考えてみるのも面白いかもしれないと{長年の放蕩(ホウトウ)の果(ハ)てに}思い当たり。【発声困難】をノドの【麻痺反応】の反射状態であると仮定して、それを軽減させる事を主眼に置いた治療の転換をダラダラと繰り返していた結果、「『特定の場面』で『特定の言葉』の【発声困難】が惹(ヒ)き起こされる状況をスムーズに最大限軽減させる為に≪選定して置いた『特定の言葉』に代(カ)わる《「おはようございます」のつもりで「わよございます」と発声する》などの『代替え言葉』を、《足を開こうとする》などの『体を引っ張る』動作と合わせつつ、キッチリと『アゴを上げて』発声する≫という〔第一のリハビリ〕に{特に『代替え言葉』の使用に}覚悟を決めて取り掛かるコトから治療が始まる」という{馬鹿になり切れる人向きの}結果と、「一人の時にもカラオケやCDを聞きながらでいいので≪アゴの力を抜き“ノドの緊張状態を維持(安定)”させたままで歌を歌う≫という〔第二の治療〕をして置くと【発声困難】を軽減させるのに掛かる期間を短縮出来る」という{カラオケ好きには嬉しい}結果に至り。『場面緘黙症』を極度の緊張によって酸欠となった【シビレテいる脳】が発する“警告反応”であると仮定して、それを改善させる事を主眼に置いた治療の転換をグズグズと繰り返していた結果、「【シビレテいる脳】へ酸素を何時でも速(スミ)やかに送れるようにする為に≪意識して静かに瞬間的に『過呼吸』に成れるように、普段から『過呼吸』を意識した呼吸動作を考えるようにする≫という〔第三の練習〕をして置けば、【発声困難】に陥る前からはもちろんのコト、【発声困難】に陥ってからでも速やかに脳に酸素を送って“警告反応”を改善させる事が出来る」という{誰も見向きもしない安直な}結果に至りました。
『場面緘黙症』とは、極度の緊張で脳が酸欠に陥った事による【脳のシビレ】が≪脳に酸欠の危機が迫っている事を知らせる“警告反応”として『ノドの麻痺』を発症させていた症状≫であり。【発声困難】とは、脳の酸欠を惹(ヒ)き起こす“緊張状態”を生命の危機と感じるほどに極度に嫌がった脳の過剰な“警告反応”による≪“緊張状態”から逃げたくて、ノドを【一時的麻痺】に陥(オチイ)る事が繰り返されている内に、ノドが【麻痺動作】を反射反応として覚えてしまったコトで生じる、ノドの【麻痺反応】の反射状態と。ノドの筋肉が“緊張状態”での【麻痺反応】の連続反射で、発声機能自体を一時的に低下させてしまった状態との、慢性的な合併症≫であったのです。ただ、〔第一のリハビリ〕でも書いたように、原因や治療法が分かっても相応の{馬鹿になり切る}覚悟が無ければ、治せるモノも治せないのです。
参考までに、『ジストニア』や『イップス』などの原因も、“緊張状態”の脳が酸欠に陥ってしまった事による過剰な“警告反応”であり。その症状も、【麻痺反応】の反射状態と、機能の一時的な低下との、慢性的な合併症である可能性があると思います。
最後に、最初に記述した〔第一のリハビリ〕と〔第二の治療〕と〔第三の練習〕という順番は、その順番の通りに取り掛かった方が治療の効果が得やすいという個人的な目安であり、必ずしも順番の通りにしなくては効果が無いと言うモノではありません。また、治療に取り掛かってからその効果が現れるのにどれ程の期間が掛かるのかは、個人差があるのでハッキリとは言えないのですが、考え過ぎた私が『場面緘黙症』を自覚してから『代替え言葉』の使用を決断するまでに28年間を費(ツイ)やし、『代替え言葉』を使い始めてから{とても完全とは言えないまでも}満足のいく【発声困難】の軽減が達成されたと思えるまでにも、さらに3年間を費やしてしまったのですが、それよりは期間が短くて済むのではないかと思います。
・『過呼吸』練習法【2月16日・土】
下記の≪『代替え言葉』を『体を引っ張る』動作をしながら『アゴを上げて』発声する≫第一のリハビリを続けていて、≪“ノドの硬直状態を維持(安定)”させたままカラオケで歌う≫第二の治療を始めてみて、それぞれにある程度の効果は実感出来たが、何か【頭がスッキリしない】という人の為に第三の練習を紹介しておきます。
『場面緘黙症』で【発声困難】に陥(オチイ)る時に【頭がシビレる】というような違和感を抱くと思うのですが、この症状は頭の脳が一時的に酸欠を起こしているサインなので、そういう時には『過呼吸』の状態を作れば直に治ります。しかしそうは言っても、現実問題として【発声困難】に陥りそうな時に『過呼吸』の状態を作るのはなかなか難しいので、普段の時から静かに瞬間的に『過呼吸』の状態を作る練習をしておく事をお勧めします。そうすれば、実際に【発声困難】に陥ってしまった時でも『過呼吸』を意識するだけで【頭の違和感】はス~ッと消えてなくなります。ただしこれは第三の練習なので、第一のリハビリや、第二の治療を{後からでも良いので}やった上でなくては、第三の練習だけではそれ程の効果が実感出来るモノではないという事をご了承下さい。
・カラオケ治療法【2月13日・水】~【2月15日・金】
もしカラオケが好きで、歌うコトで『場面緘黙症』の治療が出来たらいいのにとお考えの方は、“ノド(のど仏)”に手を当てて『声が裏返った時』や『テンパッタ時』の“ノドが硬直した時の触感”を覚えて、アゴには力を入れずに“ノドの硬直状態を維持(安定)”させたままカラオケで{最初はギコチナクていいので}歌って下さい。時間はかかるかもしれませんが、スラスラと歌えるようになる程に【発声困難】も徐々に解消されていきますので、気長にチャレンジしてみて下さい。ただし、下記に有る≪『代替え言葉』を『体を引っ張る』動作をしながら『アゴを上げて』発声する≫第一のリハビリをやった上での追加の第二の治療だという事をご了承下さい。
・私の『代替え言葉』【1月30日・水】~【2月8日・金】
代替え言葉①
「おはようございます」がいえない時に、「わよございます」を使います。
≪不特定多数の人たちに挨拶する時には効果絶大です。≫
代替え言葉②
「おつかれさまでした」がいえない時に、「ごくろうさまでした、おつかれさまです」を使います。
≪屋外などで大きな声を出す時には効果絶大です。≫
リハビリ
正式な場面などで【発声困難】になってしまう“形通りの挨拶の言葉”を言わなければならない時に、“アゴを引かない”で、≪お腹を引っ込め、背筋を伸ばし、足を広げる方向に踏ん張る“一連”の『体を引っ張る』動作≫をしながら待機していて、そのままの姿勢を維持しつつ“アゴを上げる”事を心掛けた会釈をしながら【発声困難】であった挨拶の言葉を発声をする。
≪普段の挨拶や電話口でも効果絶大です。≫
補足
極端な話し、『場面緘黙症』を治そうとするのは足を切断した人にそのままで歩けと言っているようなモノで無理なモノは無理なのです。
なので、『義足』に当たる『代替え言葉』を沢山用意して【発声困難】に陥る言葉の代わりにどんどん使うべきであり、さらには“必要以上にアゴを上げる”事をリハビリとして何時も心掛けておき、そして≪お腹を引っ込め、背筋を伸ばし、足を広げる方向に踏ん張る“一連”の『体を引っ張る』動作≫を完全修得するべきなのです。
それは、歩けなくて【寝たきり】に陥(オチイ)っていた人が『義足』を使う事で健常者に近い生活を取り戻せて、その結果「どんどん外出する事が出来るだけの≪体力の回復≫が成しとげられた」というコトと同じ理屈のモノなのです。
したがって、『義足』の使用と≪体力の回復≫しだいで【寝たきり】からの復帰が可能であるように、『代替え言葉』の使用と≪お腹を引っ込め、背筋を伸ばし、足を広げる方向に踏ん張る“一連”の『体を引っ張る』動作≫の完全修得によって【発声困難】の解消も決して夢物語な話しではないのです。
『本文ジオログ』の【No.22-『場面緘黙症』と『モラトリアム』と『民間科学』】の中でも書いたが、問題なのは『正統科学』の継承者である医者が『場面緘黙症』について「『精神』が問題なのか、『自律神経』が問題なのか、それともそれらが複合して『場面緘黙症』を引き起こしているのか」などと“すっ呆けた原因究明”を何時までもダラダラとやっていて、『場面緘黙症』でコミュニケーションが難しくなっている人を孤独な【発声困難】の状況から緊急に救出する為の{精神的な、知識的な、環境整備的な}支援を怠っている事なのです。しかたがないので私が当ブログの『民間科学』の理念に基づいて、『代替え言葉』を受け入れる気持ちの重要性と、“アゴを下げない”リハビリを継続する有効性と、≪お腹を引っ込め、背筋を伸ばし、足を広げる方向に踏ん張る“一連”の『体を引っ張る』動作≫の完全修得の必要性を訴(ウッタ)えているのです。
『場面緘黙症』の情況②【1月26日・土】(テスト)
当初から『場面緘黙症』について言ってきたように、発声が出来ない言葉は発声出来ないのですから、やはり『代替え言葉』の使用は欠かせませんが。練習のつもりで甘えていたり、馬鹿にされたくないと中途半端な気持ちでいたりして、労を惜(オ)しんでしまうと、気持ちが沈んでしまって、本当は出せるハズの声も出てきません。軽やかに浮くイメージで、すすんで言葉を発すれば、本当に出せない言葉以外の言葉なら、たいていは発声出来るものなのです。
『場面緘黙症』の情況【1月23日・水】(テスト)
今まで『場面緘黙症』について何だかんだと言ってきたが、結局は自分がどう見られているのかを気にしすぎていただけの「自意識過剰で自己PRに欠けた心理情況」であった場合が多くて、『聞いて、聞いて(!)、聞いて(!!)』と真剣に念じてさえいれば、出にくかっただけの言葉なら、自然と声が出てくるように為るモノなんです。
平成25年度版
~~~~~『場面緘黙症』について~~~~~
(N)『ラット』の浄化よりも大切な事が・・・(!)
アゴを閉じようとする“力み方”による『気分の落ち込み』はハンパではなくて、ついに断念せざるを得ない{ノイローゼのような}精神状態に追い込まれてしまい。やむを得ず、アゴを開こうとする{首の後ろに“力”を込めるような}“力み方”による≪ノドの緊張の『ドタキャン』の防止≫に切り替えたのですが。これがとっても気分が良いモノで、今では{ハマッテしまって}止められなくなってしまいました。そうすると不思議な事に、『場面緘黙症』も{なんだか}軽くなってきたみたいなのです・・・(!)
(M)『ラット』の浄化はシンドイです・・・(!)
ノドの緊張の『ドタキャン』を防止する“力み方”のポイントとしては、アゴを閉じようとする“力み方”がベストなのですが。それをすると、とても気分が落ち込んでしまって、滅入(メイ)ってしまいます。本当にシンドくて、まいっています・・・(!)
(L)『ラット』の浄化は困難だが・・・(訂正)
ノドの緊張がどうしても“いざという時”ほど『ドタキャン』してしまって、上手く発声出来ない事がチョクチョクあって、私も困っているのですが。舌を上に丸めて上アゴに下アゴごと舌の裏側を強く押し付けて、その“力み”を保ったまま発声する練習をするようにしてから、ノドの緊張の『ドタキャン』が減りました。『場面緘黙症』だと色々大変です・・・(!)
(K)より確かに『ラット』を浄化させる為に・・・(!)
『場面緘黙症』というのはなかなかしつこくて、ノドの緊張だけを持続させようといくら頑張っても、そうそう思い通りには行かないモノなのです。しかしそんな時に、発声のときに全身も{“一呼吸”置かずに、継続して、安定させて}緊張させてみたところ、ノドがスムーズに緊張するように為ったのです。その後いろいろ試してみたのですが、『お尻』と『脇』と『首』と『上アゴ』を同時に緊張させた時が一番安定してノドが緊張して声が出せるように為りました。
皆さんの参考になったら幸いです。
(J)確実に『ラット』を浄化するために・・・(!)
≪途中で声を途切れさせない発声≫を目指すと言ってもそう簡単に出来るモノではないので、もう少し自分為りの要点を参考までに二つ言って置きますと。一つ目が、発声の瞬間に緊張を解いてしまう癖があったので、ノドに一定の力を込め続けて発声するコトを心がけた事で。二つ目が、発声をしている時に頭がボ~ッとして一言々々の発音がいい加減に為ってしまっていたので、ノドの動きに意識を集中してマヨネーズやケチャップをチューブから押し出す繊細さで一言ずつ発声するように心がけた事です。
『場面緘黙症』と言うと緊張が解けないと言うイメージがありますが、本当はまったく逆で、緊張が維持出来ない事による症状なのです。ノドに向かって「緊張しろ!」とカツを入れるのも良いかも知れませんね・・・(?)
(I)ついに『ラット』が浄化された・・・(?)
私も『場面緘黙症』なので、「“一呼吸”を置かずに、途中で声を途切れさせないで、発声を続ける事」が、そうそう容易(タヤス)く出来る訳ではないのですが。≪上下のアゴから“ノドの奥下を含む首の前面”と後頭部にかけての範囲に【力】を緩(ユル)やかに強く“込め続け”≫て発声するために、そのイメージトレーニングを兼ねて、カラオケで好きな曲を≪【力】を緩やかに強く“込め続け”≫て、【力】を小刻(コキザ)みに抜(ヌ)いたり込めたりせずに歌い続ける練習をしていますと。≪途中で声を途切れさせない発声≫が少しずつですが確実にスムーズに出来るように為(ナ)りました。
みなさんも、自分なりの≪途中で声を途切れさせない発声≫を目指してみませんか(!)。
(H)『ラット』は浄化される・・・(追加しました)
出来るか出来ないかを問題にしなければの(本人が“一呼吸”についての『勘違い』に気が付き、『意気込み過ぎ』を自覚する事が出来るとした上での)話なのですが。「“一呼吸”遅らせて(何が何でも必ず!と意気込まず)発声を(スッと)始めて、(発声の途中では逆に“一呼吸”置きたくなっても『声を止めてはいけない』とだけ意識しながら)声が小さくなっていく(事や、声がダブってしまう事を受け入れる)」というイメージ練習を日頃からしておいて、そのイメージどおりに(ぎこちなくても、みっともなくても、怯(ヒル)むコトなく!などとは気張らずに)発声を(“一呼吸”置いて遅れて始めたり、“一呼吸”置いて途中で途切れさせたりしないように注意するだけで)するならば、たぶん『場面緘黙症』はすぐに解消されると思うのです。しかし、それを誰も(が、尻込みしてしまって)しようとは思えないので、『場面緘黙症』はなかなか解消させられないモノに為っているのです(!)。
(G)『ラット』の浄化の影響・・・(?)
好きなカラオケで歌を歌いながら背筋を伸ばし、お腹を引っ込めるだけではなく上に引き上げて、上アゴを動かして発声する練習を積み重ね。『場面緘黙症』の【発声困難】による《沈黙時間》では頭を少し下げて、顔と体に於(オ)いて身体の中央・中心線に向かって左右から神経を集中させるようにしぼり、緊張が緩(ユル)んで下げていた頭がさらに下がるのを待ってから、『代替え言葉』を間を置いて言おうとするコトで、《沈黙時間》を0.1秒づつ日々短縮させるコトが出来ています。『ラット』の憑依(ヒョウイ)が浄化しつつあるのかも(!)。
(F)『ラット』の浄化の一進一退・・・(!)
はっきり言って、“なせば成る”の気持ちを捨てての≪『代替え言葉』の使用≫や、≪素早く肩の力を抜いて、シッカリお腹を引っ込めて、前歯を引いて上下の前歯を擦(コス)り合わせるようにして、気持ちの落ち着く“自分の型”を{カラオケで好きな歌を歌いながら}作っていって、『場面緘黙症』の【発声困難】による《沈黙時間》の短縮を{0.1秒単位で}楽しみながら図る≫によっても、『場面緘黙症』が軽減したと思える時はあっても、『場面緘黙症』を完全解消させる事はなななか出来ません。しかし、そんな一進一退を30年も続けきて、【電話応対】や【挨拶】が上手く出来なくて仕事や住居を何度も替えてきて、口はダメでも行動や思考で頑張ろうと《オートバイや自動車での旅》をしてきて、《哲学や宗教や自然の考察》を続けてきたからこそ思えるのかもしれませんが、「人とは違う人生を歩んで来たからこそ出来るコトって{誰にでも}必ずあるんだろうな」と考えてしまうのです。『ラット』の憑依(ヒョウイ)から開放されて{思考から}毒気が抜けたかな(?)。
(E)『ラット』の浄化が始まった・・・(?)
カラオケが好きなのですが、まったくのオンチで、イヤになってしまうのですが。先日は、鼻からも少し息を出しながら少し上を向いてしっかりと声を出し、右の耳で自分の声を聞きながら歌うと、何だか気持ちよく歌えました。するとその翌日、『場面緘黙症』の【発声困難】の場面で、{『代替え言葉』を混ぜてですが}“0.1秒”ほど『沈黙時間』が短くなったようなのです。本当に『ラット』の浄化が始まったのかも(?)。
(D)『ラット』の完全浄化が近い・・・(?)
後日談ですが。しばらくするとまた右目が痛くなってきて、声が出ないような気がしてくると、やはりまた【発声困難】に陥(オチイ)ってしまったのです(!)。ただし、肩の力をスッと抜き、{奥歯を噛まずに浮かせて}アゴを軽く引く感じで、お腹をグイッと引っ込め、立っても座っても足を開く感じで{少し力を入れて}カラオケをしたのですが。とっても良い感じで歌う事が出来たので、『場面緘黙症』の【発声困難】の場面で同じ様に試してみると、“0.1秒”ほどなのですが、シッカリと『沈黙時間』が短くなったようなのです。『ラット』の完全浄化が近いのでしょうか(?)。
(C)逃げた『ラット』が浄化すると・・・(!)
私は泊まりの仕事をしているのですが。先日、昔からの【おかしな持病】が発症して、右目の奥が痛み、体がやたらと重くなり、気(ケ)だるかった時に、外灯の灯かりだけの薄暗い部屋の中に居ると。突然、自分の体から猫ほどの大きなの黒い影のような『ラット』が逃げ出したので、たまたま持っていた懐中電灯を点灯させて照らすと、スッと浄化するように消えてしまったのです。
するとその後、右目の痛みや体のだるさが無くなっただけではなくて、『場面緘黙症』による【発声困難】の症状も、なんとなくですが、消えてなくなってしまったようなのです。『場面緘黙症』が『ラット』などの動物が憑依(ヒョウイ)して起こるモノだとでも言うのでしょうか(?)、信じられません(!)。
(B)『内向き』か『外向き』
聡明な方でも(A)の話しだけでは、≪発声困難な状況の責任転嫁を、『大局的に解決するコトを目差すモノ』と力説していて。『代替え言葉』を使用して、『メモ用紙治療法・“ポン”治療法や、腹式呼吸の練習』をして、『建て付けの悪い引き出しをイメージしての発声』の実践をすれば、『場面緘黙症』が解決すると豪語している≫だけの大バカ者の戯言(ザレゴト)にしか読み取れないと思うので、少し現実的な具体例を交(マジ)えて補足させていただきます。
まず始めに、スポーツ(:団体競技)を例にしますと、≪自分という個人の“技量”を向上させ、その“技量”をもってチームに貢献し、そしてチームの勝利を目差す≫というのが、局所的スポーツ観の一例であり。≪一つの競技を音楽で言う【クラッシック】や【ジャズ】や【ロック】などのジャンルのように捉(トラ)え。自分の所属チームが『ザ・ビートルズ』のように“活躍”すれば、その競技の認知度が【ロック】のように高まると認識し。自分が『ポール・マッカートニー』や『ジョン・レノン』または『ジョージ・ハリスン』ほどは無理としても、なんとか頑張って『リンゴ・スター』のように上手く“活躍”すれば、『ザ・ビートルズ』が【ロック】のジャンルを超えて世界一の音楽と称賛(ショウサン)されたように、自分の所属チームが世界一の栄冠を掴む事だって可能であると考える≫のが、私の言う大局的スポーツ観であります。[:『リンゴ・スター』本人及び、フアンの方々、失礼を御詫びいたします]
次に、『場面緘黙症』の当人にとっての発声(:最大のコミニュケーション手段)を例にしますと、≪自分の“会話能力”を高め、その“会話能力”をもって周囲の人達と上手にコミュニケーションを深め、自分が関係する人々の成功や幸福に貢献する≫というのが、局所的発声観の一例であり。≪コミュニケーションをとり合うコトをチーム競技でのチームワークと捉(トラ)え。チーム競技においてはチームワークで個々の弱さが補(オギナ)われて強いチームと成るように、他者と“コミュニケーションのとり合える関係”であってこそ、その他者との協力・協調や共存共栄がうまくいくモノと認識し。たとえ自分の“会話能力”がどれほど劣っていても、相手と“コミュニケーションのとり合える関係”が構築されていれば、その相手との協力・協調や共存共栄の成果に何の見劣りも無いと考える≫のが、私の言う大局的発声観であります。
すなわち、スポーツ選手が自分の“技量”向上ばかりを意識して、内向きの努力や工夫に取り組んでいて、何をしていいのかがよく見えてこなかったモノが。世界を舞台にした“活躍”を意識した瞬間から、取り組むべき外向きの努力や工夫が、ハッキリと見えてくるモノであるように。『場面緘黙症』の人も、自分の“会話能力”の向上ばかりを意識し過ぎて、ノドの【硬直】への対処という内向きの努力や工夫に取り組んでしまい、道義や天啓や格言などによる諸々(モロモロ)の制約を真に受けてしまって、{真面目なだけの}限られた取り組みしか見えていなかったモノが。他者との“コミュニケーションのとり合える関係”の構築の重要性が認識出来て、発声動作の【膠着(コウチャク)】を上手く迂回したり適当にやり過ごしたりしてもいいんだと意識した瞬間から、取り組んでもいい外向きの努力や工夫が、何の制約も受けない形で見えるようになるモノなのです。ただ、≪世界を舞台にした“活躍”を意識するコト≫が出来るスポーツ選手(:アーティストやクリエイターなども)は、すでに一流になっているだろうし、≪他者との“コミュニケーションのとり合える関係”の構築の重要性が認識出来て、発声動作の【膠着(コウチャク)】を上手く迂回したり適当にやり過ごしたりしてもいいんだと意識するコト≫が出来る人であれば、初めから『場面緘黙症』には陥らないでしょう・・・。
(A)【硬直(コウチョク)】と【膠着(コウチャク)】
『場面緘黙症』について色々言ってきましたが、早い話し、発声困難な状況について、ノドが{車が故障によってうまく前進する事が出来ないでいる様に}【硬直(コウチョク)】しているために、うまく発声する事が出来ないでいるのだと≪当人の身心における神経症であるというように『人が自身において発症している問題』だと人の目線から局所的に≫判断してしまうのは、根本的に間違いで。発声動作が{渋滞によって車が速く前進する事が出来ないでいる様に}【膠着(コウチャク)】しているために、時間ばかり掛かって早く発声に至る事が出来ないのだと≪個人の発症が問題を発生させているのではなくて『外部要因の放置による状況の悪化が問題形成の要因になっている』と大所高所から大局的に≫判断しなくては、『場面緘黙症』への適切な対処はなかなかうまく見付けられません。
『代替え言葉』の使用は〔渋滞をかわすための、バイパス道・ぬけ道の新設と積極的活用〕の、『メモ用紙治療法・“ポン”治療法や、腹式呼吸の練習』は〔渋滞解消のための、主要道路の拡幅整備〕の、『建て付けの悪い重い引き出しをうまく引き出すイメージ発声』の実践は〔渋滞にはまらないための、高速道路網の充実と上手な活用〕の言いかえと言えなくもない(!)と思いますが。それは、発声困難な状況を『神経症などによる身心への影響によってノドが【硬直】してしまい、『場面緘黙症』の当人が自身の身体において発声出来ないでいる事態』と判断して、人が起こしている発症を局所的に解消しようとするモノとは違って。『普段はスムーズな発声動作が突然に【膠着(コウチャク)】するような、『場面緘黙症』の当人がいくらその気になっても早くは発声に至れない何らかの外部要因的な問題が発生していて、いつまでも放置されている事態』と判断して、人の前に立ちはだかる問題を大局的に解決するコトを目差すモノであります。
(ゼロ)『メモ用紙治療法』・『“ポン”治療法』
2012年7月25日に放送されたNHKの『ためしてガッテン』で、【噛み続け】の癖についてやっていたのでが、特に「上下の歯が弱く触れ合っているだけでも問題があります、ヒトが普通1日に歯をあわせる時間は20分ほどしかありません。」という話しはまったくの盲点でした。放送では「《歯を離す》と書いたメモをよく目に付く場所やパソコンなど集中してしまう場所に貼り、《メモを見たらフーと息を吐く》。これによって治したい癖と両立しない新たな癖をつける」という『メモ用紙治療法』を勧めていて。さらには「《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》で、いつも歯を離そうと頑張りすぎると、逆にストレスになってしまい逆効果です。メモとメモの間は何もしなくてOKです。早い人で、1週間ほどで効果を実感できます。」とありました。
しかし、【噛み続け】の癖が原因とされる症状は「肩こり・おなら・頭痛・ゲップ・ひざ痛・首の痛み・おなかのハリ・めまい・のどの異物感・耳なり・腰痛・視力低下・息苦しさ・アゴの痛み…」とはあっても、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』はまったく含まれてはいませんので、『メモ用紙治療法』が本当に有効なのか(?)と疑う人もあるハズで、そういう方は無視して(1)以降を参照して下さい。
ちなみに、私の『大人の場面緘黙症』の為の『メモ用紙治療法』は上記と少し違っていて。メモの内容は《歯を離す》ではなく、《“ポン”と鳴らす》という言葉にして、「口を〔あ・い・う・え・お〕の形で開き、手のひらで口を敲(タタ)き、鼓(ツヅミ)のように“ポン・ポン”と数回鳴らす」という『“ポン”治療法』を、ヒマを見つけては行うようにしています。そして、《メモを見たらフーと息を吐く》の所を、当然《メモを見たら一日に何度でも〔あ・い・う・え・お〕の口の形でを“ポン・ポン”と鳴らす》として、《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》ではなくて、《メモが目につくたびに口を“ポン・ポン”と鳴らして、≪“ポン”の音が出る〔あ・い・う・え・お〕の口の開き≫をしっかりと習慣化させるコトが大事》と認識するようにしているのです。
本当に私ごとなのですが、この『“ポン”治療法』を数日続けていたダケで、以前は5秒以上あった私の『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間が、今では1秒以下に解消されました。個人差や原因の違いで、『沈黙』時間がそれ程には改善しない人もいるかと思いますが、『メモ用紙治療法』や『“ポン”治療法』の話しが、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』で悩む人たちの参考・ヒントになったとしたら幸いです。
余談ですが、もし『大人の場面緘黙症』の人で何か『発声練習』をしたいというのであれば、≪口を軽く閉じて、息を口の中に溜め、さらに下っ腹から肺に強く圧力をかけて、その状態で口先から少しずつ息を出しながら{少しこもった音で}発声をする≫という『発声練習』を試してみて下さい。『代替え言葉』の使用と合わせれば、『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間を、限りなく“ゼロ”に近づける事が出来ると思います。
又、発声時に何か注意をしたいのであれば、「建て付けの悪い{重い荷物の入った}引き出しをゆっくりと均等に力を込めて引き出す感覚で、発声を何度か繰り返す」というコトを、《バランス》と《タイミング》と《パワー》に注意して行ってみて下さい。
~~~記入順序変更以前~~~
(1)医療情報
『場面緘黙症』による“ノドのシビレ”を軽減するのに「NHKでも放送された」注射をする方法もあるそうなので、それが身近な医療機関で出来る方はお試し下さい。
(2)栄養療法
食べ物としては、『かつお節:3gか5gのパック一袋をそのままで(何にも加えず、何も加えずに)』と『生姜:生姜糖1枚か生姜湯一杯』と『ビタミンC:錠剤かドリンクで300mg~1000mg』を一回分として一日1回~3回毎日摂取して、自律神経の高ぶりを緩和させれば、何らかの効果が有るはずです。
(3)対処療法
どうしても自分一人で『場面緘黙症』を解消させたいと考えてしまう人は、『急がば回れ』を肝に銘じて「自分が理想とする『言いたい言葉の発声』から{近づくのではなくて}だんだん遠のいていくように『拒否したい言葉の発声』を発掘・発見しては、《発声困難になる場面》で発声できるモノはないかと試していく」という“消極的連続性”の【諦(アキラ)めと再チャレンジの繰り返し】を貫(ツラヌ)いて下さい。間違っても《為せば成る為さねばならぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり》などとは考えない事です。
(4)根本療法
タイプ1
何らかの心の傷による反発心・反抗心を原因として【自分は『良い言葉の発声』をしようとしているのだから、「これでいいんだ!誰も文句は言えない筈(ハズ)だ!」だから、余計な「相手を思いやっての言葉使い」や「状況を考慮しての言葉選び」などの煩(ワズラ)わしい事から開放されているんだ!】と、思い込もおうとしすぎた為に。その無理によって《意識内での「それではいけない!!」と主張する『良心(:真心)』との葛藤(カットウ)と、そんな悪徳な自分への自己嫌悪と『良心(:真心)』の呵責による苦悩》がどんどん深層意識の奥底に埋もれていってしまい。そして、そういった『良心(:真心)』との葛藤が実際には続いているにもかかわらず、無自覚なまま徐々(ジョジョ)に心の表面に伝わってこなくなってしまって。ついには、何の自己嫌悪も『良心(:真心)』の呵責も感じないまま【単に『良い言葉の発声』をしたいだけなのに、どうしてか同じ場面で同じ言葉の発声困難に“いつもいつも”陥(オチイ)ってしまう】と、無邪気に悩むようになる。
という『場面緘黙症』のイメージを《客観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
タイプ2
自分は【他人(ヒト)の立場に立って考える】という事を一生懸命考えていて、他人(ヒト:相手)が聞いて「不満に思えない筈(ハズ)」で「納得をせざるを得ない筈(ハズ)」の、文句の言いようの無い『良い言葉の発声』を、何も疑う事無く心掛けていたのだが。本当なら、こんな《自己中心的》な事を誰かにされたとしたら、『自分だったら腹を立てないか?いや、きっと腹を立てる筈(ハズ)だ!』と疑問に思ってもいい筈(ハズ)なのに。『天』や『神仏』などの『何モノか』という神性な存在とその影響力に畏敬(イケイ)の念を永年抱いているうちに、いつの間にか【自分ではない別の『何モノか』という神性な立場に立って考える】という視野を特別視してしまって、自分も【他人(ヒト)の立場に立って考える】という{神性に近い立場に立つ}事によって《特別な力や可能性、何らかの加護や御利益(ゴリヤク)の獲得》が達成されると錯覚し、誤解してしまっていたのです。その為、私は長年『良い言葉の発声』という暴言を他人(ヒト)に浴びせようと努力していたのですが、幸いにも『場面緘黙症』のおかげでそれを実施しないでいられたのです。
という『場面緘黙症』のイメージを《主観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
~~~第0047号先頭へ~~~
ちび猫のコメント参照
次回につづく。
*****(制作終了)*****
『ちび猫のつぶやき』のホーム ページ参照
『簡易ホームページ』と『本文ジオログ』も参照して下さい。
≪上記の『簡易ホームページ』と『本文ジオログ』はYahooで作成したモノなのですが、最近になって当ブログからの新たな“リンク”が、『gooブログ』の管理者から【不正な書式】として時々制限されるようになってしまいました。以前に制作したブログ第0048号からは“リンク”が確実なので、当ページからのアクセスが出来なかった場合はページを第0048号へ変えてから再度『ホームページ』か『本文ジオログ』をクリックしてアクセスしてみて下さい。≫
~~~~第0010号・第0011号・第0012号からの続きです~~~~
~~~第0047号の続きは第0053号へ移りました~~~
***神様〔使徒〕からの予言***
人間の人格〔自分〕とは、各個人で個別に形成されていく、能動的に精神活動をしている主体的な『精神〔優柔不断な私〕』と、人類共通の基準で基本的には反応するモノだが各個人の個別な状況に合わせて反応が変わる部分も多少は有している、受動的に心理活動をしている客体的な『心理〔頑固な俺〕』とで構成されている複合的なモノでありますから。
『大人の場面緘黙症』の《発声困難》や『人類の《見本》本位特性』の《被害妄想》や、諸々の精神・神経疾患などを解決したいと考えるのであるなら、「人間の人格〔自分〕を構成するモノには、主体的な『精神〔私〕』と、客体的な『心理〔俺〕』とが、別個に存在している」という“矛盾”を内包した“問題”を人間〔人類〕が抱えている実態と、それによって「“不条理”な必然性が起こっているのに、“不条理”に無視されてしまう必然性」が起こっている“不条理”な事実を、よく認識する必要があります。
また、同じ理屈で「『科学革命』や『歴史上の革命』は、大げさな『革命』という{以前の枠組みを壊してからでないと再構築が始められない}“払う犠牲の大きい形”を取らざるを得ず、その実施は思うに任せないモノであるのだが。かといって、従来の【革新】で行われる形での進歩では、何時まで進んでも《閉塞(ヘイソク)》したままで、状況の打開は難しい」と言ってたいした事もしていないうちに、「『パラダイム シフト』の『シフトチェンジ』と言う『革命』を実施すれば、これまでの【革新】によって生じた《閉塞》が打破されて、『革命』がすぐにでも起こせるのです」と安易に言って、すぐに『革命』を起こそうと浮き足立ち、先走ってしまう“問題〔矛盾〕”も、人間の人格〔自分〕が、主体的な『精神〔私〕』と客体的な『心理〔俺〕』とで、混在して構成されているという“矛盾”に起因して起こっていて。
そして、同じ理由で「最先端で活躍する物理学者ほど自己過信に陥(オチイ)って、≪『E=mc²』の普遍化≫という“重大問題”の承認・開示・啓蒙を、《パンドラの箱》だからと言って先延ばしにして、『革命』の実践に浮き足立ったり。生命の安全を担う生物学者ほど功をあせって、≪『自然のバクテリア群』による『瞬間的な浄化サイクル』と『有益な薬品耐性』の普遍化≫という“重大問題”の承認・公表・啓蒙を、雑菌の【消毒・殺菌】と『遺伝子操作』の組み合わせの方が《有効》だからと言って先延ばしにして、『革命』の実践に浮き足立ったり。日本の安全保障を危惧する日本の改憲論者ほど外国の動静に懸念を抱いて、≪今の日本国憲法の存在が担ってきた日本を取り巻く極東地域の平和と繁栄へのこれまでの貢献とその意義の普遍化≫という“重大問題”の承認・言及・啓蒙を、日本国が直面している《危急の問題の早期解決を優先》したいからと言って先延ばしにして、『革命』の実行に先走ったり。宗教の未来に責任を負っているハズのイスラム原理主義者ほどイスラム圏が世界最大の宗教圏を有している事実の責任を自覚できずに、≪ユダヤ教やキリスト教の勢力を差し置いてイスラム世界が世界最大に拡張した要因の普遍化≫という“重大問題”の承認・言及・啓蒙を、イスラム教徒がこうむっている不当な侮辱と不利益を《正義の名の下に早急に回復させる》のが先だと言って先延ばしにして、『革命』の実行に先走ったり。してしまう必然的出来事」が惹(ヒ)き起こす諸々の“問題〔不条理〕”も、人間の人格〔自分〕が、主体的な『精神〔私〕』と客体的な『心理〔俺〕』の絡み合いによって、“不条理”に構成されている事による必然であると言えるでしょう。
平成25年度版
【宣言】『場面緘黙症』バージョン(随時訂正)
『場面緘黙症』の『発声困難』〔または『ジストニア』や『イップス』などの反射的な神経の麻痺症状〕の時に起こっている
≪人間の“脳の酸欠”と。全体性〔全体というモノの、関係性を組み合わせるコトによる、有用性を秘めた形成〕と個別性〔個別というモノの、関係性を高度に多様に秘めた構成〕による事象で出来た世界観を、幻覚世界の中での打算的で英雄気取りな『スタンド・プレイ』による“ストレス”の積み重ねによって、無自覚なまま見失ってしまう重大な【社会性の欠落】≫というのは、
≪『自然のバクテリア群』による瞬間的〔臨機応変で円滑〕な浄化サイクル〔薬品耐性獲得能力〕を維持するのに欠かせない“酸素”が足りなくて、有毒なバクテリア集団〔浄化サイクルの各段階を形成する各バクテリアが、浄化サイクルを形成できずに雑菌化してしまった、各種の細菌のタダの集まり〕が大量発生して、有害環境〔雑菌の繁殖〕を構築してしまった自然界の危篤(キトク)な状況において、
長年に及(オヨ)ぶ科学の『スタンド・プレイ』により自然との格闘を続けて来た“ストレス”の積み重ねによって、そういった自然界の危篤さを想像できなくなった人間〔人類〕が、{‘酸化を諸悪の根源’とする}衛生学的見地の刷り込みに基づいて、{‘有酸素活動’した分だけ毒性を発揮する}雑菌の繁殖を抑止し、細菌の‘有酸素活動’を抑制しようとして、【消毒・殺菌】の徹底を薬品で図って一線を越えてしまい、
“酸素を大量消費”する『自然のバクテリア群』による円滑〔臨機応変で瞬間的〕な薬品耐性獲得能力が“酸欠”によって失われている有毒なバクテリア集団を、ワザワザ薬品にさらしてしまって、薬品耐性能力を獲得した各種の単独薬品耐性菌〔水虫の『白癬菌』や殺人バクテリアとなる『連鎖球菌・ブドウ球菌』など〕を【純粋培養】してしまっている状況≫
にとても似ていて、まるで眠れる悪魔を呼び起こしているかのようなのです。
“酸素が脳に充分に補充”されている状況であれば、
≪個別な人間が、様々に能力を発揮し補(オギナ)い合うという、関係性を多様に秘めたモノとして構成されているからこそ。全体としての人間社会が、個人の関係性の様々な組み合わせが可能となって、多様な有用性を秘めたモノとして形成される≫という
『全体性と個別性の事象で構築されている世界の理屈』がその人間にも理解できて、思考から発声〔動作〕までの脳の反応〔伝達〕も円滑〔瞬間的〕に起るので、その人間は【社会性】を充分に発揮するコトが出来て、『発声困難』〔反射的な神経の麻痺症状〕に陥(オチイ)ってしまうという事にはならないのですが。
『場面緘黙症』〔『ジストニア』や『イップス』など〕の人たちは、“脳の酸欠”による重大な【社会性の欠落】に陥(オチイ)っている状況を、
≪競争社会では他者〔自分以外の競争相手〕を{偽善を駆使(クシ)して騙(ダマ)してでも}蹴落として、結果を出せた者だけが{最終的な}勝者である≫と学校〔学習塾〕や会社〔研修〕などで{執拗(シツヨウ)に}刷り込まれた事によって、
脳の反応〔伝達〕が円滑〔瞬間的〕に上手く伝わらなくなって、バラバラに神経が反応する『発声困難』〔反射的な神経の麻痺症状〕に陥(オチイ)っている事態であるにも拘らず、
≪競争相手である他者〔周囲の者から不特定多数の人間にいたる人たち〕がみんな{本当は}攻撃的である為に、自分ばかりが不信感や恐怖感が止まらなくなってしまっているのだ≫と勘違いしてしまい。
《綺麗事(キレイゴト)を言う者ほど裏で何を企(タクラ)んでいるか判らない》というような【反省転嫁〔責任転嫁などの不徳行為〕の相手への転嫁】から抜け出せないまま、
自分が“脳の酸欠”による『発声困難』〔反射的な神経の麻痺症状〕と、『被害妄想』のような【社会性の欠落】に陥(オチイ)っている、危険な人物になっているという事を、適切に想像するコトが出来なくなっているのです。
極端な言い方をすれば、“酸欠”による脳の足掻(アガ)きである『発声困難』〔反射的な神経の麻痺症状〕に陥(オチイ)るほどの、{心ではなくて}脳自体の苦しみであるにも拘(カカワ)らず、
《過去の対人関係における何らかの縺(モツ)れ〔非道な他者によって暴力や言葉などによる蹂躙(ジュウリン)を被(コウム)った時の精神的受傷〕による精神的・神経的な疾患》が『場面緘黙症』だと{他者を悪く見る競争社会の習慣で}決め付けてしまい、
その“ストレス”により【社会性の欠落】に陥って、
≪自分は、様々な関係性を秘めた個別なモノであり、社会は、個人の関係性の組み合わせによって有用なモノとなる全体であるという、全体性と個別性からなる事象の世界観≫を持てずに、
見本〔ビジョン〕本位の独善に陥り、打算的で英雄気取りな『スタンド・プレイ』を、ゴリ押ししようとしていて。
『発声困難』〔反射的麻痺症状〕に陥(オトシイ)れた{終わるコトのない}犯人探しと、{全ての他者を対象にしたかのような}責任追及に奔走(ホンソウ)してしまっているという、{危険な頑張りに執着している}自分の状況を想像するコトも出来ずに、
自分を【悲劇的な苦労人】と自画自賛するばかりで、
≪たいていは【悪意を持って使う言葉】が発声困難に陥っている≫という事にさえ気が付けず、
他の言葉の使用に考えが至れないでいるのが、『場面緘黙症』〔『ジストニア』や『イップス』など〕の人たちなのです。
・“酸欠”対策と、『社会性』の回復【5月12日・日】
大人の『場面緘黙症』の『発声困難』とは、“酸欠”による脳の反応〔伝達〕の混乱と、『社会性』の欠落に同時に陥(オチイ)り、その事態を想像できないまま、自分を≪悲劇的な苦労人≫と自画自賛してしまう的外れな頑張りに執着(シュウチャク)しているモノですが、
“脳の酸欠”の効果的な解消方法の実施と平行して、《綺麗事(キレイゴト)を言う者ほど裏で何を企(タクラ)んでいるか判らない》というような【反省転嫁〔責任転嫁などの不徳行為〕の相手への転嫁】をしている自分を自覚し、人間世界が社会性によって構築されている事を理解していくコトで、不思議と『発声困難』は解消されていきます。
・平成25年度版【宣言】『場面緘黙症』(発声困難は解消するモノ)
≪大人の『場面緘黙症』とは『天』の定めで『発声困難』に陥ったモノで、無理をして解消させようとしても症状が悪化するだけだし、大人しく無言でいる事を拒んで出しゃばっても、周囲に【天罰の片棒を担がせる】だけで、ハタ迷惑なだけである。先(マ)ずは支援を広げ、そしてその範囲内で大人しく生きて行くのが、賢明な判断と言えるではないでしょうか≫などと言うチンプな理屈で『場面緘黙症』の実態を隠蔽(インペイ)してしまう事は、この【ちび猫】が許しません。大人の『場面緘黙症』による『発声困難』は、改善させて行く事の出来る“解消するモノ”なのですから。
・ゆっくりコンパクトに動き、微細動を止める【4月17日・水】
今までは大人の『場面緘黙症』の対処策として、【誠実さの積み上げの効果】を完全否定し、【代替え言葉の使用】を1番に掲(カカ)げて勧めてきていたのですが。最近は『脳の酸欠』を『場面緘黙症』の原因に挙(ア)げ、『発声困難』も『脳の酸欠』から逃れるための『反射反応』を長年続けてしまった結果だと言う結論を出して、【脳に酸素を積極的に送る手段を色々と模索(モサク)しながら、時間をかけて『反射反応』を消していく】という解消策を【代替え言葉の使用】と併用する形で推奨(スイショウ)していました。
そしてこのほど、『脳の酸欠』の原因が【体を早くてオーバーに動かしすぎていた上に、体を常時微細動させていた為(タメ)】だという事に行き着き、『脳の酸欠』の防止策として【ゆっくりコンパクトに動き、微細動を止(ヤ)める】というコトを先日から試しているのですが、【代替え言葉の使用】と【脳に酸素を積極的に送るコト】にまで【ゆっくりコンパクトに動き、微細動を止める】というコトを徹底させる事で、ほぼ完全に大人の『場面緘黙症』の『発声困難』が解消されています。意外かもしれませんが、トッサの時や電話対応でも『発声困難』が解消されているので、チョット感激しています。
・第二の治療②【2月26日・火】
カラオケ治療法の所では、歌を歌うのが好きな人を対象にした内容にしてしまったので、今回は歌抜(ヌ)きの話しをします。ノドの練習治療法で最も有効なのは「口を閉じて、鼻から息を勢いよく吸い込んで、それを途中でノドの弁を閉じて急停止し、そのまま吸引しようとする状態を一瞬チョットだけ維持する」という呼吸動作を、一息で{思いっきり}1回する事を繰り返す事をスムーズに行えるようにするコトです。上手く出来るようになれれば、会話の前のウォーミングアップにも使えますし、一生懸命に早く行えれば過呼吸にもなるので、第三の練習(酸欠防止)にもなります。
・【No.23-『場面緘黙症』の治療と『科学革命』 (その1)】要点転写
『場面緘黙症』とは極度の緊張によって頭が酸欠となり【シビレテいる脳】が苦しくて発した“警告反応”の症状であり、【発声困難】とは慢性的にノドの【麻痺(マヒ)反応】の反射状態に陥(オチイ)ってしまっている状況のコトであると、二つに分けて考えてみるのも面白いかもしれないと{長年の放蕩(ホウトウ)の果(ハ)てに}思い当たり。【発声困難】をノドの【麻痺反応】の反射状態であると仮定して、それを軽減させる事を主眼に置いた治療の転換をダラダラと繰り返していた結果、「『特定の場面』で『特定の言葉』の【発声困難】が惹(ヒ)き起こされる状況をスムーズに最大限軽減させる為に≪選定して置いた『特定の言葉』に代(カ)わる《「おはようございます」のつもりで「わよございます」と発声する》などの『代替え言葉』を、《足を開こうとする》などの『体を引っ張る』動作と合わせつつ、キッチリと『アゴを上げて』発声する≫という〔第一のリハビリ〕に{特に『代替え言葉』の使用に}覚悟を決めて取り掛かるコトから治療が始まる」という{馬鹿になり切れる人向きの}結果と、「一人の時にもカラオケやCDを聞きながらでいいので≪アゴの力を抜き“ノドの緊張状態を維持(安定)”させたままで歌を歌う≫という〔第二の治療〕をして置くと【発声困難】を軽減させるのに掛かる期間を短縮出来る」という{カラオケ好きには嬉しい}結果に至り。『場面緘黙症』を極度の緊張によって酸欠となった【シビレテいる脳】が発する“警告反応”であると仮定して、それを改善させる事を主眼に置いた治療の転換をグズグズと繰り返していた結果、「【シビレテいる脳】へ酸素を何時でも速(スミ)やかに送れるようにする為に≪意識して静かに瞬間的に『過呼吸』に成れるように、普段から『過呼吸』を意識した呼吸動作を考えるようにする≫という〔第三の練習〕をして置けば、【発声困難】に陥る前からはもちろんのコト、【発声困難】に陥ってからでも速やかに脳に酸素を送って“警告反応”を改善させる事が出来る」という{誰も見向きもしない安直な}結果に至りました。
『場面緘黙症』とは、極度の緊張で脳が酸欠に陥った事による【脳のシビレ】が≪脳に酸欠の危機が迫っている事を知らせる“警告反応”として『ノドの麻痺』を発症させていた症状≫であり。【発声困難】とは、脳の酸欠を惹(ヒ)き起こす“緊張状態”を生命の危機と感じるほどに極度に嫌がった脳の過剰な“警告反応”による≪“緊張状態”から逃げたくて、ノドを【一時的麻痺】に陥(オチイ)る事が繰り返されている内に、ノドが【麻痺動作】を反射反応として覚えてしまったコトで生じる、ノドの【麻痺反応】の反射状態と。ノドの筋肉が“緊張状態”での【麻痺反応】の連続反射で、発声機能自体を一時的に低下させてしまった状態との、慢性的な合併症≫であったのです。ただ、〔第一のリハビリ〕でも書いたように、原因や治療法が分かっても相応の{馬鹿になり切る}覚悟が無ければ、治せるモノも治せないのです。
参考までに、『ジストニア』や『イップス』などの原因も、“緊張状態”の脳が酸欠に陥ってしまった事による過剰な“警告反応”であり。その症状も、【麻痺反応】の反射状態と、機能の一時的な低下との、慢性的な合併症である可能性があると思います。
最後に、最初に記述した〔第一のリハビリ〕と〔第二の治療〕と〔第三の練習〕という順番は、その順番の通りに取り掛かった方が治療の効果が得やすいという個人的な目安であり、必ずしも順番の通りにしなくては効果が無いと言うモノではありません。また、治療に取り掛かってからその効果が現れるのにどれ程の期間が掛かるのかは、個人差があるのでハッキリとは言えないのですが、考え過ぎた私が『場面緘黙症』を自覚してから『代替え言葉』の使用を決断するまでに28年間を費(ツイ)やし、『代替え言葉』を使い始めてから{とても完全とは言えないまでも}満足のいく【発声困難】の軽減が達成されたと思えるまでにも、さらに3年間を費やしてしまったのですが、それよりは期間が短くて済むのではないかと思います。
・『過呼吸』練習法【2月16日・土】
下記の≪『代替え言葉』を『体を引っ張る』動作をしながら『アゴを上げて』発声する≫第一のリハビリを続けていて、≪“ノドの硬直状態を維持(安定)”させたままカラオケで歌う≫第二の治療を始めてみて、それぞれにある程度の効果は実感出来たが、何か【頭がスッキリしない】という人の為に第三の練習を紹介しておきます。
『場面緘黙症』で【発声困難】に陥(オチイ)る時に【頭がシビレる】というような違和感を抱くと思うのですが、この症状は頭の脳が一時的に酸欠を起こしているサインなので、そういう時には『過呼吸』の状態を作れば直に治ります。しかしそうは言っても、現実問題として【発声困難】に陥りそうな時に『過呼吸』の状態を作るのはなかなか難しいので、普段の時から静かに瞬間的に『過呼吸』の状態を作る練習をしておく事をお勧めします。そうすれば、実際に【発声困難】に陥ってしまった時でも『過呼吸』を意識するだけで【頭の違和感】はス~ッと消えてなくなります。ただしこれは第三の練習なので、第一のリハビリや、第二の治療を{後からでも良いので}やった上でなくては、第三の練習だけではそれ程の効果が実感出来るモノではないという事をご了承下さい。
・カラオケ治療法【2月13日・水】~【2月15日・金】
もしカラオケが好きで、歌うコトで『場面緘黙症』の治療が出来たらいいのにとお考えの方は、“ノド(のど仏)”に手を当てて『声が裏返った時』や『テンパッタ時』の“ノドが硬直した時の触感”を覚えて、アゴには力を入れずに“ノドの硬直状態を維持(安定)”させたままカラオケで{最初はギコチナクていいので}歌って下さい。時間はかかるかもしれませんが、スラスラと歌えるようになる程に【発声困難】も徐々に解消されていきますので、気長にチャレンジしてみて下さい。ただし、下記に有る≪『代替え言葉』を『体を引っ張る』動作をしながら『アゴを上げて』発声する≫第一のリハビリをやった上での追加の第二の治療だという事をご了承下さい。
・私の『代替え言葉』【1月30日・水】~【2月8日・金】
代替え言葉①
「おはようございます」がいえない時に、「わよございます」を使います。
≪不特定多数の人たちに挨拶する時には効果絶大です。≫
代替え言葉②
「おつかれさまでした」がいえない時に、「ごくろうさまでした、おつかれさまです」を使います。
≪屋外などで大きな声を出す時には効果絶大です。≫
リハビリ
正式な場面などで【発声困難】になってしまう“形通りの挨拶の言葉”を言わなければならない時に、“アゴを引かない”で、≪お腹を引っ込め、背筋を伸ばし、足を広げる方向に踏ん張る“一連”の『体を引っ張る』動作≫をしながら待機していて、そのままの姿勢を維持しつつ“アゴを上げる”事を心掛けた会釈をしながら【発声困難】であった挨拶の言葉を発声をする。
≪普段の挨拶や電話口でも効果絶大です。≫
補足
極端な話し、『場面緘黙症』を治そうとするのは足を切断した人にそのままで歩けと言っているようなモノで無理なモノは無理なのです。
なので、『義足』に当たる『代替え言葉』を沢山用意して【発声困難】に陥る言葉の代わりにどんどん使うべきであり、さらには“必要以上にアゴを上げる”事をリハビリとして何時も心掛けておき、そして≪お腹を引っ込め、背筋を伸ばし、足を広げる方向に踏ん張る“一連”の『体を引っ張る』動作≫を完全修得するべきなのです。
それは、歩けなくて【寝たきり】に陥(オチイ)っていた人が『義足』を使う事で健常者に近い生活を取り戻せて、その結果「どんどん外出する事が出来るだけの≪体力の回復≫が成しとげられた」というコトと同じ理屈のモノなのです。
したがって、『義足』の使用と≪体力の回復≫しだいで【寝たきり】からの復帰が可能であるように、『代替え言葉』の使用と≪お腹を引っ込め、背筋を伸ばし、足を広げる方向に踏ん張る“一連”の『体を引っ張る』動作≫の完全修得によって【発声困難】の解消も決して夢物語な話しではないのです。
『本文ジオログ』の【No.22-『場面緘黙症』と『モラトリアム』と『民間科学』】の中でも書いたが、問題なのは『正統科学』の継承者である医者が『場面緘黙症』について「『精神』が問題なのか、『自律神経』が問題なのか、それともそれらが複合して『場面緘黙症』を引き起こしているのか」などと“すっ呆けた原因究明”を何時までもダラダラとやっていて、『場面緘黙症』でコミュニケーションが難しくなっている人を孤独な【発声困難】の状況から緊急に救出する為の{精神的な、知識的な、環境整備的な}支援を怠っている事なのです。しかたがないので私が当ブログの『民間科学』の理念に基づいて、『代替え言葉』を受け入れる気持ちの重要性と、“アゴを下げない”リハビリを継続する有効性と、≪お腹を引っ込め、背筋を伸ばし、足を広げる方向に踏ん張る“一連”の『体を引っ張る』動作≫の完全修得の必要性を訴(ウッタ)えているのです。
『場面緘黙症』の情況②【1月26日・土】(テスト)
当初から『場面緘黙症』について言ってきたように、発声が出来ない言葉は発声出来ないのですから、やはり『代替え言葉』の使用は欠かせませんが。練習のつもりで甘えていたり、馬鹿にされたくないと中途半端な気持ちでいたりして、労を惜(オ)しんでしまうと、気持ちが沈んでしまって、本当は出せるハズの声も出てきません。軽やかに浮くイメージで、すすんで言葉を発すれば、本当に出せない言葉以外の言葉なら、たいていは発声出来るものなのです。
『場面緘黙症』の情況【1月23日・水】(テスト)
今まで『場面緘黙症』について何だかんだと言ってきたが、結局は自分がどう見られているのかを気にしすぎていただけの「自意識過剰で自己PRに欠けた心理情況」であった場合が多くて、『聞いて、聞いて(!)、聞いて(!!)』と真剣に念じてさえいれば、出にくかっただけの言葉なら、自然と声が出てくるように為るモノなんです。
平成25年度版
~~~~~『場面緘黙症』について~~~~~
(N)『ラット』の浄化よりも大切な事が・・・(!)
アゴを閉じようとする“力み方”による『気分の落ち込み』はハンパではなくて、ついに断念せざるを得ない{ノイローゼのような}精神状態に追い込まれてしまい。やむを得ず、アゴを開こうとする{首の後ろに“力”を込めるような}“力み方”による≪ノドの緊張の『ドタキャン』の防止≫に切り替えたのですが。これがとっても気分が良いモノで、今では{ハマッテしまって}止められなくなってしまいました。そうすると不思議な事に、『場面緘黙症』も{なんだか}軽くなってきたみたいなのです・・・(!)
(M)『ラット』の浄化はシンドイです・・・(!)
ノドの緊張の『ドタキャン』を防止する“力み方”のポイントとしては、アゴを閉じようとする“力み方”がベストなのですが。それをすると、とても気分が落ち込んでしまって、滅入(メイ)ってしまいます。本当にシンドくて、まいっています・・・(!)
(L)『ラット』の浄化は困難だが・・・(訂正)
ノドの緊張がどうしても“いざという時”ほど『ドタキャン』してしまって、上手く発声出来ない事がチョクチョクあって、私も困っているのですが。舌を上に丸めて上アゴに下アゴごと舌の裏側を強く押し付けて、その“力み”を保ったまま発声する練習をするようにしてから、ノドの緊張の『ドタキャン』が減りました。『場面緘黙症』だと色々大変です・・・(!)
(K)より確かに『ラット』を浄化させる為に・・・(!)
『場面緘黙症』というのはなかなかしつこくて、ノドの緊張だけを持続させようといくら頑張っても、そうそう思い通りには行かないモノなのです。しかしそんな時に、発声のときに全身も{“一呼吸”置かずに、継続して、安定させて}緊張させてみたところ、ノドがスムーズに緊張するように為ったのです。その後いろいろ試してみたのですが、『お尻』と『脇』と『首』と『上アゴ』を同時に緊張させた時が一番安定してノドが緊張して声が出せるように為りました。
皆さんの参考になったら幸いです。
(J)確実に『ラット』を浄化するために・・・(!)
≪途中で声を途切れさせない発声≫を目指すと言ってもそう簡単に出来るモノではないので、もう少し自分為りの要点を参考までに二つ言って置きますと。一つ目が、発声の瞬間に緊張を解いてしまう癖があったので、ノドに一定の力を込め続けて発声するコトを心がけた事で。二つ目が、発声をしている時に頭がボ~ッとして一言々々の発音がいい加減に為ってしまっていたので、ノドの動きに意識を集中してマヨネーズやケチャップをチューブから押し出す繊細さで一言ずつ発声するように心がけた事です。
『場面緘黙症』と言うと緊張が解けないと言うイメージがありますが、本当はまったく逆で、緊張が維持出来ない事による症状なのです。ノドに向かって「緊張しろ!」とカツを入れるのも良いかも知れませんね・・・(?)
(I)ついに『ラット』が浄化された・・・(?)
私も『場面緘黙症』なので、「“一呼吸”を置かずに、途中で声を途切れさせないで、発声を続ける事」が、そうそう容易(タヤス)く出来る訳ではないのですが。≪上下のアゴから“ノドの奥下を含む首の前面”と後頭部にかけての範囲に【力】を緩(ユル)やかに強く“込め続け”≫て発声するために、そのイメージトレーニングを兼ねて、カラオケで好きな曲を≪【力】を緩やかに強く“込め続け”≫て、【力】を小刻(コキザ)みに抜(ヌ)いたり込めたりせずに歌い続ける練習をしていますと。≪途中で声を途切れさせない発声≫が少しずつですが確実にスムーズに出来るように為(ナ)りました。
みなさんも、自分なりの≪途中で声を途切れさせない発声≫を目指してみませんか(!)。
(H)『ラット』は浄化される・・・(追加しました)
出来るか出来ないかを問題にしなければの(本人が“一呼吸”についての『勘違い』に気が付き、『意気込み過ぎ』を自覚する事が出来るとした上での)話なのですが。「“一呼吸”遅らせて(何が何でも必ず!と意気込まず)発声を(スッと)始めて、(発声の途中では逆に“一呼吸”置きたくなっても『声を止めてはいけない』とだけ意識しながら)声が小さくなっていく(事や、声がダブってしまう事を受け入れる)」というイメージ練習を日頃からしておいて、そのイメージどおりに(ぎこちなくても、みっともなくても、怯(ヒル)むコトなく!などとは気張らずに)発声を(“一呼吸”置いて遅れて始めたり、“一呼吸”置いて途中で途切れさせたりしないように注意するだけで)するならば、たぶん『場面緘黙症』はすぐに解消されると思うのです。しかし、それを誰も(が、尻込みしてしまって)しようとは思えないので、『場面緘黙症』はなかなか解消させられないモノに為っているのです(!)。
(G)『ラット』の浄化の影響・・・(?)
好きなカラオケで歌を歌いながら背筋を伸ばし、お腹を引っ込めるだけではなく上に引き上げて、上アゴを動かして発声する練習を積み重ね。『場面緘黙症』の【発声困難】による《沈黙時間》では頭を少し下げて、顔と体に於(オ)いて身体の中央・中心線に向かって左右から神経を集中させるようにしぼり、緊張が緩(ユル)んで下げていた頭がさらに下がるのを待ってから、『代替え言葉』を間を置いて言おうとするコトで、《沈黙時間》を0.1秒づつ日々短縮させるコトが出来ています。『ラット』の憑依(ヒョウイ)が浄化しつつあるのかも(!)。
(F)『ラット』の浄化の一進一退・・・(!)
はっきり言って、“なせば成る”の気持ちを捨てての≪『代替え言葉』の使用≫や、≪素早く肩の力を抜いて、シッカリお腹を引っ込めて、前歯を引いて上下の前歯を擦(コス)り合わせるようにして、気持ちの落ち着く“自分の型”を{カラオケで好きな歌を歌いながら}作っていって、『場面緘黙症』の【発声困難】による《沈黙時間》の短縮を{0.1秒単位で}楽しみながら図る≫によっても、『場面緘黙症』が軽減したと思える時はあっても、『場面緘黙症』を完全解消させる事はなななか出来ません。しかし、そんな一進一退を30年も続けきて、【電話応対】や【挨拶】が上手く出来なくて仕事や住居を何度も替えてきて、口はダメでも行動や思考で頑張ろうと《オートバイや自動車での旅》をしてきて、《哲学や宗教や自然の考察》を続けてきたからこそ思えるのかもしれませんが、「人とは違う人生を歩んで来たからこそ出来るコトって{誰にでも}必ずあるんだろうな」と考えてしまうのです。『ラット』の憑依(ヒョウイ)から開放されて{思考から}毒気が抜けたかな(?)。
(E)『ラット』の浄化が始まった・・・(?)
カラオケが好きなのですが、まったくのオンチで、イヤになってしまうのですが。先日は、鼻からも少し息を出しながら少し上を向いてしっかりと声を出し、右の耳で自分の声を聞きながら歌うと、何だか気持ちよく歌えました。するとその翌日、『場面緘黙症』の【発声困難】の場面で、{『代替え言葉』を混ぜてですが}“0.1秒”ほど『沈黙時間』が短くなったようなのです。本当に『ラット』の浄化が始まったのかも(?)。
(D)『ラット』の完全浄化が近い・・・(?)
後日談ですが。しばらくするとまた右目が痛くなってきて、声が出ないような気がしてくると、やはりまた【発声困難】に陥(オチイ)ってしまったのです(!)。ただし、肩の力をスッと抜き、{奥歯を噛まずに浮かせて}アゴを軽く引く感じで、お腹をグイッと引っ込め、立っても座っても足を開く感じで{少し力を入れて}カラオケをしたのですが。とっても良い感じで歌う事が出来たので、『場面緘黙症』の【発声困難】の場面で同じ様に試してみると、“0.1秒”ほどなのですが、シッカリと『沈黙時間』が短くなったようなのです。『ラット』の完全浄化が近いのでしょうか(?)。
(C)逃げた『ラット』が浄化すると・・・(!)
私は泊まりの仕事をしているのですが。先日、昔からの【おかしな持病】が発症して、右目の奥が痛み、体がやたらと重くなり、気(ケ)だるかった時に、外灯の灯かりだけの薄暗い部屋の中に居ると。突然、自分の体から猫ほどの大きなの黒い影のような『ラット』が逃げ出したので、たまたま持っていた懐中電灯を点灯させて照らすと、スッと浄化するように消えてしまったのです。
するとその後、右目の痛みや体のだるさが無くなっただけではなくて、『場面緘黙症』による【発声困難】の症状も、なんとなくですが、消えてなくなってしまったようなのです。『場面緘黙症』が『ラット』などの動物が憑依(ヒョウイ)して起こるモノだとでも言うのでしょうか(?)、信じられません(!)。
(B)『内向き』か『外向き』
聡明な方でも(A)の話しだけでは、≪発声困難な状況の責任転嫁を、『大局的に解決するコトを目差すモノ』と力説していて。『代替え言葉』を使用して、『メモ用紙治療法・“ポン”治療法や、腹式呼吸の練習』をして、『建て付けの悪い引き出しをイメージしての発声』の実践をすれば、『場面緘黙症』が解決すると豪語している≫だけの大バカ者の戯言(ザレゴト)にしか読み取れないと思うので、少し現実的な具体例を交(マジ)えて補足させていただきます。
まず始めに、スポーツ(:団体競技)を例にしますと、≪自分という個人の“技量”を向上させ、その“技量”をもってチームに貢献し、そしてチームの勝利を目差す≫というのが、局所的スポーツ観の一例であり。≪一つの競技を音楽で言う【クラッシック】や【ジャズ】や【ロック】などのジャンルのように捉(トラ)え。自分の所属チームが『ザ・ビートルズ』のように“活躍”すれば、その競技の認知度が【ロック】のように高まると認識し。自分が『ポール・マッカートニー』や『ジョン・レノン』または『ジョージ・ハリスン』ほどは無理としても、なんとか頑張って『リンゴ・スター』のように上手く“活躍”すれば、『ザ・ビートルズ』が【ロック】のジャンルを超えて世界一の音楽と称賛(ショウサン)されたように、自分の所属チームが世界一の栄冠を掴む事だって可能であると考える≫のが、私の言う大局的スポーツ観であります。[:『リンゴ・スター』本人及び、フアンの方々、失礼を御詫びいたします]
次に、『場面緘黙症』の当人にとっての発声(:最大のコミニュケーション手段)を例にしますと、≪自分の“会話能力”を高め、その“会話能力”をもって周囲の人達と上手にコミュニケーションを深め、自分が関係する人々の成功や幸福に貢献する≫というのが、局所的発声観の一例であり。≪コミュニケーションをとり合うコトをチーム競技でのチームワークと捉(トラ)え。チーム競技においてはチームワークで個々の弱さが補(オギナ)われて強いチームと成るように、他者と“コミュニケーションのとり合える関係”であってこそ、その他者との協力・協調や共存共栄がうまくいくモノと認識し。たとえ自分の“会話能力”がどれほど劣っていても、相手と“コミュニケーションのとり合える関係”が構築されていれば、その相手との協力・協調や共存共栄の成果に何の見劣りも無いと考える≫のが、私の言う大局的発声観であります。
すなわち、スポーツ選手が自分の“技量”向上ばかりを意識して、内向きの努力や工夫に取り組んでいて、何をしていいのかがよく見えてこなかったモノが。世界を舞台にした“活躍”を意識した瞬間から、取り組むべき外向きの努力や工夫が、ハッキリと見えてくるモノであるように。『場面緘黙症』の人も、自分の“会話能力”の向上ばかりを意識し過ぎて、ノドの【硬直】への対処という内向きの努力や工夫に取り組んでしまい、道義や天啓や格言などによる諸々(モロモロ)の制約を真に受けてしまって、{真面目なだけの}限られた取り組みしか見えていなかったモノが。他者との“コミュニケーションのとり合える関係”の構築の重要性が認識出来て、発声動作の【膠着(コウチャク)】を上手く迂回したり適当にやり過ごしたりしてもいいんだと意識した瞬間から、取り組んでもいい外向きの努力や工夫が、何の制約も受けない形で見えるようになるモノなのです。ただ、≪世界を舞台にした“活躍”を意識するコト≫が出来るスポーツ選手(:アーティストやクリエイターなども)は、すでに一流になっているだろうし、≪他者との“コミュニケーションのとり合える関係”の構築の重要性が認識出来て、発声動作の【膠着(コウチャク)】を上手く迂回したり適当にやり過ごしたりしてもいいんだと意識するコト≫が出来る人であれば、初めから『場面緘黙症』には陥らないでしょう・・・。
(A)【硬直(コウチョク)】と【膠着(コウチャク)】
『場面緘黙症』について色々言ってきましたが、早い話し、発声困難な状況について、ノドが{車が故障によってうまく前進する事が出来ないでいる様に}【硬直(コウチョク)】しているために、うまく発声する事が出来ないでいるのだと≪当人の身心における神経症であるというように『人が自身において発症している問題』だと人の目線から局所的に≫判断してしまうのは、根本的に間違いで。発声動作が{渋滞によって車が速く前進する事が出来ないでいる様に}【膠着(コウチャク)】しているために、時間ばかり掛かって早く発声に至る事が出来ないのだと≪個人の発症が問題を発生させているのではなくて『外部要因の放置による状況の悪化が問題形成の要因になっている』と大所高所から大局的に≫判断しなくては、『場面緘黙症』への適切な対処はなかなかうまく見付けられません。
『代替え言葉』の使用は〔渋滞をかわすための、バイパス道・ぬけ道の新設と積極的活用〕の、『メモ用紙治療法・“ポン”治療法や、腹式呼吸の練習』は〔渋滞解消のための、主要道路の拡幅整備〕の、『建て付けの悪い重い引き出しをうまく引き出すイメージ発声』の実践は〔渋滞にはまらないための、高速道路網の充実と上手な活用〕の言いかえと言えなくもない(!)と思いますが。それは、発声困難な状況を『神経症などによる身心への影響によってノドが【硬直】してしまい、『場面緘黙症』の当人が自身の身体において発声出来ないでいる事態』と判断して、人が起こしている発症を局所的に解消しようとするモノとは違って。『普段はスムーズな発声動作が突然に【膠着(コウチャク)】するような、『場面緘黙症』の当人がいくらその気になっても早くは発声に至れない何らかの外部要因的な問題が発生していて、いつまでも放置されている事態』と判断して、人の前に立ちはだかる問題を大局的に解決するコトを目差すモノであります。
(ゼロ)『メモ用紙治療法』・『“ポン”治療法』
2012年7月25日に放送されたNHKの『ためしてガッテン』で、【噛み続け】の癖についてやっていたのでが、特に「上下の歯が弱く触れ合っているだけでも問題があります、ヒトが普通1日に歯をあわせる時間は20分ほどしかありません。」という話しはまったくの盲点でした。放送では「《歯を離す》と書いたメモをよく目に付く場所やパソコンなど集中してしまう場所に貼り、《メモを見たらフーと息を吐く》。これによって治したい癖と両立しない新たな癖をつける」という『メモ用紙治療法』を勧めていて。さらには「《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》で、いつも歯を離そうと頑張りすぎると、逆にストレスになってしまい逆効果です。メモとメモの間は何もしなくてOKです。早い人で、1週間ほどで効果を実感できます。」とありました。
しかし、【噛み続け】の癖が原因とされる症状は「肩こり・おなら・頭痛・ゲップ・ひざ痛・首の痛み・おなかのハリ・めまい・のどの異物感・耳なり・腰痛・視力低下・息苦しさ・アゴの痛み…」とはあっても、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』はまったく含まれてはいませんので、『メモ用紙治療法』が本当に有効なのか(?)と疑う人もあるハズで、そういう方は無視して(1)以降を参照して下さい。
ちなみに、私の『大人の場面緘黙症』の為の『メモ用紙治療法』は上記と少し違っていて。メモの内容は《歯を離す》ではなく、《“ポン”と鳴らす》という言葉にして、「口を〔あ・い・う・え・お〕の形で開き、手のひらで口を敲(タタ)き、鼓(ツヅミ)のように“ポン・ポン”と数回鳴らす」という『“ポン”治療法』を、ヒマを見つけては行うようにしています。そして、《メモを見たらフーと息を吐く》の所を、当然《メモを見たら一日に何度でも〔あ・い・う・え・お〕の口の形でを“ポン・ポン”と鳴らす》として、《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》ではなくて、《メモが目につくたびに口を“ポン・ポン”と鳴らして、≪“ポン”の音が出る〔あ・い・う・え・お〕の口の開き≫をしっかりと習慣化させるコトが大事》と認識するようにしているのです。
本当に私ごとなのですが、この『“ポン”治療法』を数日続けていたダケで、以前は5秒以上あった私の『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間が、今では1秒以下に解消されました。個人差や原因の違いで、『沈黙』時間がそれ程には改善しない人もいるかと思いますが、『メモ用紙治療法』や『“ポン”治療法』の話しが、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』で悩む人たちの参考・ヒントになったとしたら幸いです。
余談ですが、もし『大人の場面緘黙症』の人で何か『発声練習』をしたいというのであれば、≪口を軽く閉じて、息を口の中に溜め、さらに下っ腹から肺に強く圧力をかけて、その状態で口先から少しずつ息を出しながら{少しこもった音で}発声をする≫という『発声練習』を試してみて下さい。『代替え言葉』の使用と合わせれば、『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間を、限りなく“ゼロ”に近づける事が出来ると思います。
又、発声時に何か注意をしたいのであれば、「建て付けの悪い{重い荷物の入った}引き出しをゆっくりと均等に力を込めて引き出す感覚で、発声を何度か繰り返す」というコトを、《バランス》と《タイミング》と《パワー》に注意して行ってみて下さい。
~~~記入順序変更以前~~~
(1)医療情報
『場面緘黙症』による“ノドのシビレ”を軽減するのに「NHKでも放送された」注射をする方法もあるそうなので、それが身近な医療機関で出来る方はお試し下さい。
(2)栄養療法
食べ物としては、『かつお節:3gか5gのパック一袋をそのままで(何にも加えず、何も加えずに)』と『生姜:生姜糖1枚か生姜湯一杯』と『ビタミンC:錠剤かドリンクで300mg~1000mg』を一回分として一日1回~3回毎日摂取して、自律神経の高ぶりを緩和させれば、何らかの効果が有るはずです。
(3)対処療法
どうしても自分一人で『場面緘黙症』を解消させたいと考えてしまう人は、『急がば回れ』を肝に銘じて「自分が理想とする『言いたい言葉の発声』から{近づくのではなくて}だんだん遠のいていくように『拒否したい言葉の発声』を発掘・発見しては、《発声困難になる場面》で発声できるモノはないかと試していく」という“消極的連続性”の【諦(アキラ)めと再チャレンジの繰り返し】を貫(ツラヌ)いて下さい。間違っても《為せば成る為さねばならぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり》などとは考えない事です。
(4)根本療法
タイプ1
何らかの心の傷による反発心・反抗心を原因として【自分は『良い言葉の発声』をしようとしているのだから、「これでいいんだ!誰も文句は言えない筈(ハズ)だ!」だから、余計な「相手を思いやっての言葉使い」や「状況を考慮しての言葉選び」などの煩(ワズラ)わしい事から開放されているんだ!】と、思い込もおうとしすぎた為に。その無理によって《意識内での「それではいけない!!」と主張する『良心(:真心)』との葛藤(カットウ)と、そんな悪徳な自分への自己嫌悪と『良心(:真心)』の呵責による苦悩》がどんどん深層意識の奥底に埋もれていってしまい。そして、そういった『良心(:真心)』との葛藤が実際には続いているにもかかわらず、無自覚なまま徐々(ジョジョ)に心の表面に伝わってこなくなってしまって。ついには、何の自己嫌悪も『良心(:真心)』の呵責も感じないまま【単に『良い言葉の発声』をしたいだけなのに、どうしてか同じ場面で同じ言葉の発声困難に“いつもいつも”陥(オチイ)ってしまう】と、無邪気に悩むようになる。
という『場面緘黙症』のイメージを《客観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
タイプ2
自分は【他人(ヒト)の立場に立って考える】という事を一生懸命考えていて、他人(ヒト:相手)が聞いて「不満に思えない筈(ハズ)」で「納得をせざるを得ない筈(ハズ)」の、文句の言いようの無い『良い言葉の発声』を、何も疑う事無く心掛けていたのだが。本当なら、こんな《自己中心的》な事を誰かにされたとしたら、『自分だったら腹を立てないか?いや、きっと腹を立てる筈(ハズ)だ!』と疑問に思ってもいい筈(ハズ)なのに。『天』や『神仏』などの『何モノか』という神性な存在とその影響力に畏敬(イケイ)の念を永年抱いているうちに、いつの間にか【自分ではない別の『何モノか』という神性な立場に立って考える】という視野を特別視してしまって、自分も【他人(ヒト)の立場に立って考える】という{神性に近い立場に立つ}事によって《特別な力や可能性、何らかの加護や御利益(ゴリヤク)の獲得》が達成されると錯覚し、誤解してしまっていたのです。その為、私は長年『良い言葉の発声』という暴言を他人(ヒト)に浴びせようと努力していたのですが、幸いにも『場面緘黙症』のおかげでそれを実施しないでいられたのです。
という『場面緘黙症』のイメージを《主観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
~~~第0047号先頭へ~~~
ちび猫のコメント参照
次回につづく。
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