第0012号
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第0032号の「『植物』・『苔』と『生きた水』・『山の腐葉土』の事情」は随時書き換えていますので、安心して参照してください。
『大人の場面緘黙症』でお悩みの方は第0010号と第0011号と第0047号もお読み下さい。
今後のブログの方向性を模索(モサク)しながら書き進めている第0013号も参考になると思うので、是非お読み下さい(記入順序逆転です)。
・共通の参照
(B)『内向き』か『外向き』
字数オーバーの為、以後は第0047号へ移動しました。
(A)【硬直(コウチョク)】と【膠着(コウチャク)】
『場面緘黙症』について色々言ってきましたが、早い話し、発声困難な状況について、ノドが{車が故障によってうまく前進する事が出来ないでいる様に}【硬直(コウチョク)】しているために、うまく発声する事が出来ないでいるのだと≪当人の身心における神経症であるというように『人が自身において発症している問題』だと人の目線から局所的に≫判断してしまうのは、根本的に間違いで。発声動作が{渋滞によって車が速く前進する事が出来ないでいる様に}【膠着(コウチャク)】しているために、時間ばかり掛かって早く発声に至る事が出来ないのだと≪個人の発症が問題を発生させているのではなくて『外部要因の放置による状況の悪化が問題形成の要因になっている』と大所高所から大局的に≫判断しなくては、『場面緘黙症』への適切な対処はなかなかうまく見付けられません。
『代替え言葉』の使用は〔渋滞をかわすための、バイパス道・ぬけ道の新設と積極的活用〕の、『メモ用紙治療法・“ポン”治療法や、下っ腹発声の練習』は〔渋滞解消のための、主要道路の拡幅整備〕の、『建て付けの悪い重い引き出しをうまく引き出すイメージ発声』の実践は〔渋滞にはまらないための、高速道路網の充実と上手な活用〕の言いかえと言えなくもない(!)と思いますが。それは、発声困難な状況を『神経症などによる身心への影響によってノドが【硬直】してしまい、『場面緘黙症』の当人が自身の身体において発声出来ないでいる事態』と判断して、人が起こしている発症を局所的に解消しようとするモノとは違って。『普段はスムーズな発声動作が突然に【膠着(コウチャク)】するような、『場面緘黙症』の当人がいくらその気になっても早くは発声に至れない何らかの外部要因的な問題が発生していて、いつまでも放置されている事態』と判断して、人の前に立ちはだかる問題を大局的に解決するコトを目差すモノであります。
(0)『メモ用紙治療法』・『“ポン”治療法』
2012年7月25日に放送されたNHKの『ためしてガッテン』で、【噛み続け】の癖についてやっていたのでが、特に「上下の歯が弱く触れ合っているだけでも問題があります、ヒトが普通1日に歯をあわせる時間は20分ほどしかありません。」という話しはまったくの盲点でした。放送では「《歯を離す》と書いたメモをよく目に付く場所やパソコンなど集中してしまう場所に貼り、《メモを見たらフーと息を吐く》。これによって治したい癖と両立しない新たな癖をつける」という『メモ用紙治療法』を勧めていて。さらには「《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》で、いつも歯を離そうと頑張りすぎると、逆にストレスになってしまい逆効果です。メモとメモの間は何もしなくてOKです。早い人で、1週間ほどで効果を実感できます。」とありました。
しかし、【噛み続け】の癖が原因とされる症状は「肩こり・おなら・頭痛・ゲップ・ひざ痛・首の痛み・おなかのハリ・めまい・のどの異物感・耳なり・腰痛・視力低下・息苦しさ・アゴの痛み…」とはあっても、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』はまったく含まれてはいませんので、『メモ用紙治療法』が本当に有効なのか(?)と疑う人もあるハズで、そういう方は無視して(1)以降を参照して下さい。
ちなみに、私の『大人の場面緘黙症』の為の『メモ用紙治療法』は上記と少し違っていて。メモの内容は《歯を離す》ではなく、《“ポン”と鳴らす》という言葉にして、「口を〔あ・い・う・え・お〕の形で開き、手のひらで口を敲(タタ)き、鼓(ツヅミ)のように“ポン・ポン”と数回鳴らす」という『“ポン”治療法』を、ヒマを見つけては行うようにしています。そして、《メモを見たらフーと息を吐く》の所を、当然《メモを見たら一日に何度でも〔あ・い・う・え・お〕の口の形でを“ポン・ポン”と鳴らす》として、《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》ではなくて、《メモが目につくたびに口を“ポン・ポン”と鳴らして、≪“ポン”の音が出る〔あ・い・う・え・お〕の口の開き≫をしっかりと習慣化させるコトが大事》と認識するようにしているのです。
本当に私ごとなのですが、この『“ポン”治療法』を数日続けていたダケで、以前は5秒以上あった私の『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間が、今では1秒以下に解消されました。個人差や原因の違いで、『沈黙』時間がそれ程には改善しない人もいるかと思いますが、『メモ用紙治療法』や『“ポン”治療法』の話しが、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』で悩む人たちの参考・ヒントになったとしたら幸いです。
余談ですが、もし『大人の場面緘黙症』の人で何か『発声練習』をしたいというのであれば、≪口を軽く閉じて、息を口の中に溜め、さらに下っ腹から肺に強く圧力をかけて、その状態で口先から少しずつ息を出しながら{少しこもった音で}発声をする≫という『発声練習』を試してみて下さい。『代替え言葉』の使用と合わせれば、『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間を、限りなく“ゼロ”に近づける事が出来ると思います。
又、発声時に何か注意をしたいのであれば、「建て付けの悪い{重い荷物の入った}引き出しをゆっくりと均等に力を込めて引き出す感覚で、発声を何度か繰り返す」というコトを、《バランス》と《タイミング》と《パワー》に注意して行ってみて下さい。
(1)医療情報
『場面緘黙症』による“ノドのシビレ”を軽減するのに「NHKでも放送された」注射をする方法もあるそうなので、それが身近な医療機関で出来る方はお試し下さい。
(2)栄養療法
食べ物としては、『かつお節:3gか5gのパック一袋をそのままで(何にも加えず、何も加えずに)』と『生姜:生姜糖1枚か生姜湯一杯』と『ビタミンC:錠剤かドリンクで300mg~1000mg』を一回分として一日1回~3回毎日摂取して、自律神経の高ぶりを緩和させれば、何らかの効果が有るはずです。
(3)対処療法
どうしても自分一人で『場面緘黙症』を解消させたいと考えてしまう人は、『急がば回れ』を肝に銘じて「自分が理想とする『言いたい言葉の発声』から{近づくのではなくて}だんだん遠のいていくように『拒否したい言葉の発声』を発掘・発見しては、《発声困難になる場面》で発声できるモノはないかと試していく」という“消極的連続性”の【諦(アキラ)めと再チャレンジの繰り返し】を貫(ツラヌ)いて下さい。間違っても《為せば成る為さねばならぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり》などとは考えない事です。
(4)根本療法
タイプ1
何らかの心の傷による反発心・反抗心を原因として【自分は『良い言葉の発声』をしようとしているのだから、「これでいいんだ!誰も文句は言えない筈(ハズ)だ!」だから、余計な「相手を思いやっての言葉使い」や「状況を考慮しての言葉選び」などの煩(ワズラ)わしい事から開放されているんだ!】と、思い込もおうとしすぎた為に。その無理によって《意識内での「それではいけない!!」と主張する『良心(:真心)』との葛藤(カットウ)と、そんな悪徳な自分への自己嫌悪と『良心(:真心)』の呵責による苦悩》がどんどん深層意識の奥底に埋もれていってしまい。そして、そういった『良心(:真心)』との葛藤が実際には続いているにもかかわらず、無自覚なまま徐々(ジョジョ)に心の表面に伝わってこなくなってしまって。ついには、何の自己嫌悪も『良心(:真心)』の呵責も感じないまま【単に『良い言葉の発声』をしたいだけなのに、どうしてか同じ場面で同じ言葉の発声困難に“いつもいつも”陥(オチイ)ってしまう】と、無邪気に悩むようになる。
という『場面緘黙症』のイメージを《客観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
タイプ2
自分は【他人(ヒト)の立場に立って考える】という事を一生懸命考えていて、他人(ヒト:相手)が聞いて「不満に思えない筈(ハズ)」で「納得をせざるを得ない筈(ハズ)」の、文句の言いようの無い『良い言葉の発声』を、何も疑う事無く心掛けていたのだが。本当なら、こんな《自己中心的》な事を誰かにされたとしたら、『自分だったら腹を立てないか?いや、きっと腹を立てる筈(ハズ)だ!』と疑問に思ってもいい筈(ハズ)なのに。『天』や『神仏』などの『何モノか』という神性な存在とその影響力に畏敬(イケイ)の念を永年抱いているうちに、いつの間にか【自分ではない別の『何モノか』という神性な立場に立って考える】という視野を特別視してしまって、自分も【他人(ヒト)の立場に立って考える】という{神性に近い立場に立つ}事によって《特別な力や可能性、何らかの加護や御利益(ゴリヤク)の獲得》が達成されると錯覚し、誤解してしまっていたのです。その為、私は長年『良い言葉の発声』という暴言を他人(ヒト)に浴びせようと努力していたのですが、幸いにも『場面緘黙症』のおかげでそれを実施しないでいられたのです。
という『場面緘黙症』のイメージを《主観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
・第0012号本題
・☆本題「(4)根本療法 タイプ2の思惟・考証」
・★【想い】と【絆】による【思い】の排除
今までに出てきた『神聖文化論』や『天』や『神仏』や『何モノか』というキーワードは、何か特定の『宗教』や『神様』をさしている訳ではなくて。人の《必然的》で《潜在的》で《自然発生的》な【畏敬の念の表れ】を巧みに誘発する呼び水のような《人の精神世界内で構築される、白・黒や勝敗を采配する“軍配”のような絶対性》の神性に対して、それがどのように世俗の中で呼ばれ、利用されていているのかを端的(タンテキ)に示唆(シサ)するために、便宜的(ベンギテキ)に使用していただけのモノなのですが。ただ、『何モノか』という{自分で作り出した}存在には、他の既存の{神性な}存在以上に特別な意味が有って。それは、周囲の人達から自分へ寄せられる【想い】への{勝手な}期待や、そんな【想い】を当て込んで思い描いた【絆(キズナ)】への{無謀な}執着の、{精神的な}後ろ盾になってしまい易いコトなのです。
そのおかげで、{人類と呼ばれる}人間は様々な他者のそれぞれの【思い】の{一人の人間でしかない自分が求める価値観の範疇(ハンチュウ)に納(オサ)まらない}色々な価値に関心を持つコトがなくなり、≪人の道を行っているかのように見せ、社会貢献を巧妙(コウミョウ)に積み上げるコト≫によって、自分への【想い】の価値の高さだけを追い求める様になってしまい。さらには、周囲の人達に{人の道を行い、社会貢献を積み上げていると上手に見せかけながら}自分への【想い】を《踏み絵》や《罠(ワナ)》で{相手に強迫観念を植え付ける様に}仰々(ギョウギョウ)しくチェックをして見せ、自分を侮(アナド)ったり軽(カロ)んじたりする事が{容易には}出来ない様に巧(タク)みに仕向けているので。自分を中心にした【絆】による集団がより強く大きく成り立っているのだと誤解してしまい、その揚句(アゲク)に、そんなありもしない【絆】に{人類共通の}意義や価値を{勝手に}見いだし、そして【絆】という言葉を“自分への【想い】が集結した{妄想の}集団”の正統性の証に{堂々と}据(ス)えてしまって。ついには、他者の【思い】を【絆】を軽んじる大罪と決め付けて、手当たり次第に{問答無用で}排除してしまっていたのです。
そして、『人間という生き物』は自分への【想い】の全てを失って、何時も自分独りに成ってしまうのですが。
そうなっても猶(ナオ)、大抵(タイテイ)の人間はまだ『何モノか』という存在の神性の呪縛から《自分が作った“心の砦(トリデ)”であるが故(ユエ)なのか》抜け出せず、既(スデ)に独りであるにも拘(カカ)わらず「頑張っていれば自分への【想い】が{もっと}集結して、より以上の【絆】が育(ハグク)まれるハズだ」と信じ続けてしまって。
独りなのを心配して人が近づいて来てくれると、その人の【思い】を非難(ヒナン)し、自分への【想い】を賛美(サンビ)し、【絆】の名の下に集(ツド)おうと心理攻撃を仕掛けるので、すぐにまた独りに成ってしまい、そんな“孤独な悪循環”を何時までも繰り返してしまうのです。
・★心優しき『場面緘黙症』の人
この“孤独な悪循環”の典型なのが、『場面緘黙症』に於(オ)ける『良い言葉の発声』を目差す蛮行(バンコウ)で。独善的に選んだ言葉での『良い言葉の発声』を{自分への【想い】を集結させる為に}目差していて、{人が不用意に近づいて来て}機会が訪れると相手の気持ちをまったく斟酌(シンシャク)しないで{【絆】の名の下に集(ツド)えと言わんばかりに}一方的に『良い言葉の発声』による暴言の断行を繰り返していたのです。
そのために、『場面緘黙症』に成ってしまうような心の優しい人は、そういった『良い言葉の発声』を目差す{自分への【想い】や【絆】を振りかざしての暴言の断行という}蛮行に『良心(:真心)』の呵責(カシャク)が{抑えきれなくなり、無意識のうちに}働いてしまって、『良い言葉の発声』の発声困難という神経症の障害が{症状として}発症してしまっていたのです。
すなわち、発声困難とは{無意識の内に}埋もれていた『良心(:真心)』の反抗であり、抑えきれなくなった『良心(:真心)』の{深層心理からの}氾濫であるのですから。『場面緘黙症』による発声困難を、たちの悪い神経の病気だとか、何かの呪いだとか、現実逃避だとか、“そういう考え方”をしているうちはたぶん何時まで経っても何も解決する事はないのです。それは、“そういう考え方”をしてしまって、『良い言葉の発声』の独善性に触れない事が、『場面緘黙症』という神経症の{障害の本当の}正体であったからなのです。
したがって、『場面緘黙症』による発声困難とは、治したり、解消させたりすべき{忌み嫌っていい}モノではなくて。『良心(:真心)』による暴言回避の最後の切り札であるとともに。『良心(:真心)』が“孤独な悪循環”の中で消えてしまいながらも、その道に残していった、『良心(:真心)』の発掘の為の重要な手掛かりでもあったのです。
『場面緘黙症』の人は、{心優しき}自分が発声困難であるコトをもっと慈(イツク)しみ、誇りに思い、感謝してもいいと思うのです。
・★神経症と宗教・ギャンブル
余談ですが。『場面緘黙症』や『ジストニア』や『イップス』などの原因が明確ではない{神経障害的な諸症状の}神経症で悩む人が、自分だけが承知して行う「症状軽減の願い《:真剣な願い事》」で、ストイックな【願掛(ガンカ)け】をしてしまうと。その【願掛け】が、「ギャンブルで勝つコト」であったり「カルト教団への信仰」であったりすると、周囲にはそれを制止する術が無く。どれ程借金が増えても賭け事をやめられず、どれだけ周囲に迷惑がかかっても信心をやめられないのです。
そして、そうしているうちにいつの間にか、その【願掛け】の事を忘れてしまって、一生ギャンブルをやめない人間や、死ぬまで信仰を捨てない人間に成ってしまうモノなのです。ただ、そういった事を意図的に他人に施(ホドコ)して、お金を巻き上げたり、信心の名目で従わせたりする、たちの悪い占い師や、新興宗教の教祖が大勢いるので、注意が必要です。
・★『イジメ』と『場面緘黙症』
さらに余談ですが。『場面緘黙症』による『良い言葉の発声』の独善的願望という蛮行と、それを拒んで硬直してしまう発声困難は。学校や職場で多発する『イジメ』を、周囲が放置してしまう精神構造と、とても酷似していて。
グループの結束を緩めない為とはいえ、少しやり過ぎの『イジメ』を前にして反対しても、一人でカッコを付けて周囲に迷惑が掛かるだけだと考え、周囲に協調して『イジメ』に加担(カタン)しないといけないと“自己責任”を感じてしまうのだが。大抵の人間は【二の足を踏んで】しまって、どうしても傍観者にしかなれないのですが。まさにその、{グループとしての結束で成り立ち維持されている}周囲に迷惑を掛けたくないという“自己責任”を感じながらも、{グループの存続の為とはいえ}過剰な『イジメ』に手を染めるのに【二の足を踏む】精神構造こそが、『場面緘黙症』の人の発声困難という神経症の構造なのです。
すなわち、『イジメ』を前にして周囲の人たちが苦痛に感じ・苦悩してしまうのは、よく「『イジメ』は{グループに馴染(ナジ)まず、一緒に居ると何かと手間が掛かり、周囲に負担を背負わせてしまうような}イジメられる人自身にも多少の問題がある」と言われているものの、グループの一員として『イジメ』に加担する事にどうしても憤(イキドオ)りを感じてしまうコトを、「『イジメ』への加担は“自己責任”だから」と自分で自分に言い聞かせて{健気(ケナゲ)に}必死に隠しているからであり。『場面緘黙症』の人が『良い言葉の発声』をするのを{発声困難の神経症になる程に}苦痛に感じ・苦悩してしまうのは、非道な社会の一員として{一方的に非人道的な}会話をしないといけない状況であるにもかかわらず、社会人のマナーを守ろうと{健気(ケナゲ)に}頑張ってしまうからなのです。
☆本題「(3)対処療法の思惟・考証」は第0010号を参照して下さい
☆本題「(4)根本療法 タイプ1の思惟・考証」は第0011号を参照して下さい
第0030号【ちび猫が見付けた『~~~』】シリーズ、新スタート
~~~第0012号先頭へ~~~
・旧項目
・『大人の場面緘黙症』の問題点
お医者様の話しも良いけれど、同じ『場面緘黙症』の人の話も聞きたいですよね
子供の時の『場面緘黙症』であれば、周囲の大人達の側の注意によって、改善しやすいモノだとは聞いているのですが。
成人してから発症してしまった私のような場合の『大人の場面緘黙症』は、【高いハシゴを登って行く作業をするのに、初めは「このくらい出来なくてどうする!」という気持ちで登っていたが。時が経ち、だんだん高いハシゴ登りの恐ろしさが分かってくると、手足が震えてスムーズに登れず、バランス感覚も狂ってしまい、だんだん{本当に}危険が増してきてしまって。経験の浅いうちはスタスタと高い所までハシゴを登れていたモノが、経験を積むほどに恐怖で登れなくなってしまう、高所恐怖症の発症】と同じ《恐怖症構造》であるとも考えられるのですが(違うという人もいるかと思いますが、この場ではご了承ください)。
高所恐怖症でよく言われる「高い所を怖がらない方が{神経や精神の}病気である」という所に注目すれば。人前でまったく上がらず・発声困難にもならず、どんな時でもスラスラと会話が出来てしまうコトの方が、病気なのであると考えられると思うのです。
なので、高所がどんなに得意な人が作業者であっても、ハシゴを登っての高所作業においては、誰でも絶対に事故を起こさないような「充分以上の安全対策を何重にも施(ホドコ)してから高所作業を始める事」が“常識”であると誰もが理解している事に着目すれば。人前で話しをしたり・会話をしたりする時に、「上がってしまって失敗したりする事や、『大人の場面緘黙症』によって『発声障害』が発生する事態」が誰の身にも絶対に起こらないように、「充分以上の安心対策を何重にも施(ホドコ)しながら話しを始める事」が“当然”のコトだと誰もが理解出来るはずで。その認識が広がれば、「無防備なままで話しをしようとするような“ムチャ”をして、発声困難で悩み苦しむような{日常的挨拶や会話での}危機的状況に陥(オチイ)る」人もいなくなると思うのです。
又、高所恐怖症の安全な“緩和対策”として【手などの“触覚に関わる感覚”を、何時も“同じような感触”で“成功体験”するコト】とともに、【この場所は安全だと確認する体験を、少しずつだが明確に“段階を踏んで”「充分に時間を掛けてでも“確実な実行”を積み上げて」いくコト】が有効だと言われていて、「そんな高所恐怖症の緩和が“誰にでも手軽に実施出来る”という」話しが信じられるモノだとするならば。『場面緘黙症』についても「その“安心対策”」と平行して「その“緩和対策”」が可能であり、もっとみんなが色々な事を言って、様々な解消方法を沢山出し合い、各個が自分に合った『場面緘黙症対策』を構築していく方が、情報が少ない中で一人で悩んでいるよりも何倍も良いと思うのです。
人との挨拶や会話に拘(コダワ)りがある私にとっては、第0011号で紹介してある【『代替え言葉の使用』と、『うまい間』を上手に取る事の容認】へと『緘黙症対策』を全面的に切り替えた{現状対処を優先させて回避行為をする}事が“安心対策”であり、そんな発声困難の“回避行為”を続けて《発声困難が生じる『特定の場面』での安心感を育(ハグク)み、緊張感を解(ホグ)す》コトが“緩和対策”になっておます。
皆さんはどう御考えなのでしょうか、是非ご意見を御聞かせ下さい。
当、第0012号のコメントにても質問を受け付けて、引き続き第0010号の最後に私の返事や感想・意見などを記入させていただこうと思っております。
・問題点の洗い出し
世の中には色々な人間がいるものなので、『大人の場面緘黙症』のコトを悪く考えてしまって、《病気らしいが障害とも言いきれない『特定場面での特定な言葉の発声困難』という戯言(ザレゴト)を言い訳にして、誰もがどんなに嫌な時でもどれほど嫌な相手にでも、人として挨拶をして会話をする苦労を背負っている当たり前コトから、自分だけ逃げ出そうなどと甘えたヤツがいたら。この俺が疑獄の果てまで追いかけていって首根っこをひっつかまえて、死ぬほどのお仕置きをしてやる》と“正義の使者”気取りで勇む{厳格な}人もいれば。
『大人の場面緘黙症』のコトを良く見てくれていて、《自由に挨拶をして会話をする事が出来るコミュニケーション能力が{憖(ナマジ)っか}有る為に、普通の人間は様々な苦労や不自由をしいられていて、好きな事に励み・能力開発に取り組む自由がなかなか手に入らないモノなのだが。『大人の場面緘黙症』の人は知的障害がまったく無いのに、特定のコミュニケーション能力が部分的に欠けているというだけで、無理に挨拶や会話をしようとしても“出来ないモノは出来ない”というような状態であるから。『大人の場面緘黙症』の人は、コミュニケーションに煩(ワズラ)わされ・挨拶や会話に縛られる理由も必要も無いので、もっと{エキセントリックに}好きな事に励み・能力開発に取り組む事に励んでもいいはずだ思う》と支援を惜しまない{先見の明のある}人もいるだろうし。
『大人の場面緘黙症』の当人なのに『発声困難』に陥る自分を{不要な存在ではないかと}悪く考えてしまって、【みんながコミュニケーションに煩(ワズラ)わされながら、挨拶や会話に四苦八苦しているというのに、『大人の場面緘黙症』だというだけで其処(ソコ)に参加出来ないと言って参加しないでいては、あまりにも不誠実で、『天罰や神罰』を受けてしまいかねないと考え。挨拶や会話に無理してでも参加して、{やりたいわけでもない、苦しいだけの}“はた迷惑な無言”を繰り返そうとも、誠実な姿勢をしめそうと{精神安定を犠牲にして}悪戦苦闘している】人もあれば。
『大人の場面緘黙症』である自分の『発声困難』の克服を{出来ないモノは出来ないと}サッサと諦(アキラ)めて、【『発声困難』に陥る特定の場面を絶対的に敬遠して、安定した精神状態での仕事や勉学や、新しい人付き合いに励むコトを目差し、{やりたい事をやっていて、周囲への配慮が出来ない}“はた迷惑な無言”を繰り返そうとも、エキセントリックに頑張る】人もあるはずだし。
『大人の場面緘黙症』ではあるが、私と同じように会話に対して未練があって、【『代替え言葉の使用』や、『うまい間』を積極的に作る事の容認で、『大人の場面緘黙症』による『発声困難』を{解消させないまま}回避させて、{解消不可能と言われる}『発声障害』の問題解決をその場しのぎの現状対処でやってしまおうとして】中途半端なコトをしている{『大人の場面緘黙症』なのを隠したがる}人もいないわけがなく。
広範囲な『大人の場面緘黙症』であるため、『発声障害』への現状対処が実施困難なのに、【『赤毛のアン』で人見知りの激しい「マシュウ」がお喋(シャベ)りな「アン」によって幸せであったのを見習って、「アン」のような子供を探したり。『こんにちはアン』で空想癖(ヘキ)のある「アン」が“変な孤児(ミナシゴ)”と軽んじられていたにも拘わらず、「トーマス家の人達」や「ハモンド家の人達」よりも生き生きとして輝いていたのを見習って、“引き篭もり”を楽しんだりする】のんきな{オタクな}人も少なからずはいると思うのです。
上記のように、『大人の場面緘黙症』を取り巻く周囲の環境や当人の精神情況は人によって様々で、一様には語れないのが現実です。そしてこの事が、『大人の場面緘黙症』を不透明にしてしまっていて、世間から認知されない原因になっていると思うのです。皆さんなりの考え・想いをお聞かせ下さい。
・参照
【『場面緘黙症』とは、“ある特定の場面でだけ全く話せなくなってしまう現象”であり、子供の時期ほど顕著に現れやすい症状ではあるのだけれども。
単なる人見知りや恥ずかしがり屋とは大きな違いがあって、症状が大変強く、何年たっても自然には症状が改善せずに長く続く場合があり、“子供の時期の適切な手当て”が遅れてしまうと、成人になってからではなかなか改善しにくい傾向にあるみたいで。
そういった、少数ではあるが大人になってもしつこく残ってしまう症状の事を、特に『大人の場面緘黙症』と呼ぶみたいです。】
【『イップス』 とは、精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーができなくなる“運動障害や随意運動の低下”のことであり、それに類似した症状などにも広く使われる呼び名でありますし。
『ジストニア』とは、中枢神経系の障害による“不随意(ふずいい:意のままにならないコト)”で持続的な筋収縮(きんしゅうしゅく:筋肉の一定的な収縮運動)にともなって引き起こされる姿勢(シセイ)異常に対しての呼び名であると共に、全身あるいは身体の一部が“不随意”に捻(ネジ)れたり・硬直(コウチョク)したり・痙攣(ケイレン)したりするなどの症状と、それにともなう“運動障害や随意運動の低下”の総称として用いられる場合があるのですが。
『ジストニア』以外の“不随意”な症状で、自分の意思とは無関係に生じる不合理な動作・運動としては、手足や全身の『振戦(ふるえ)』や、上下肢(シ:手足)全体の振回し運動の『バリスムス』や、手足や頭などがくねるような緩慢な旋回運動の『アテトーシス』や、痙攣的運動の『ミオクローヌス』や、口周辺部や舌の異常運動の『口ジスキネジー』などがあり、発症部位や運動の規則性や・強さや・睡眠時の運動有無などによって分類されるモノです。
身体機能的にそれらを説明すると、身体バランスの調整・運動の円滑化に重要な機能を持つ大脳基底核(だいのうきていかく:大脳皮質(だいのうひしつ)と視床(ししょう)・脳幹(のうかん)を結びつけている神経核の集まりであり、哺乳類の大脳基底核は運動調節、認知機能、感情、動機づけや学習など様々な機能を担っている)を中心とした錐体外路(すいたいがいろ:運動神経線維(ウンドウシンケイセンイ:ニューロン)の遠心性経路(エンシンセイケイロ)で錐体路(スイタイロ)以外の経路(ケイロ))が阻害された場合に、異常な筋収縮が発生して、“不随意運動”が引き起こされる現象だという事になる。】
【『射幸心』とは、本来《射倖心》と書いて(しゃこうしん)と読み、ある程度の確率を伴う事柄において、良い結果が得られた時の高揚感を表す言葉であり、その“倖”の意味は「努力を必要としないで、予期せずに」訪れた幸せという意味である。
そのためか、幸運を得たいという心理による「幸運によって他人よりも幸せに恵まれたい、何時かは勝者になりたい」と思い期待してしまう心理状態を表す言葉として“広義”に使われる場合も少なくはないが、たいていは根拠の無い自信で自分だけが幸運を得られると思い込んでしまって、投機や投資や賭博や期待値の低い事業に夢中になって浪費してしまう傾向の心理状態を表す言葉として“狭義”に使われるモノである。】
第0030号【ちび猫が見付けた『~~~』】シリーズ、新スタート
今後のブログの方向性を模索(モサク)しながら書き進めている第0013号も参考になると思うので、是非お読み下さい(記入順序逆転です)。
~~~第0012号先頭へ~~~
・分岐
・予言の書・序章「人類滅亡」まで
≪【予言】≫第1項『一事が万事』~~~要約(第0011号参照)
『一事が万事』という「ありきたりな格言」の《論理的な観念》が『被害妄想』の発症を引き起こし、悲観的で保守的な人間的精神を構築する。
≪【予言】≫第2項『世界の理』~~~要約(第0011号参照)
学校制度や試験制度の中で『理(コトワリ)』に適(カナ)う人間としての『躾(シツ)け』を身に付けてきた善良な『市民』は、誠実に『理想としての標準的に統一された世界作り』を達成させてようとする。
・≪【予言】≫第3項『責任』
・『責任』(1)
充分な『躾け』を受けている「主流派の『市民』達」や学校においての「多数派の『良い子』達」は、『世界の理』に適(カナ)うべく、自分達が安住出来る『民主主義』や『上意下達の枠組み』や、その後ろ盾となっている『良識としての全幅の理解』や『理想としての標準的に統一された世界作り』や、そしてそれらの大元である{『一事が万事』の《論理的な観念》}などを駆使して『ポジティブな意図』を形成していて。
「いつも頑張っていて、安易に変節してさえいなければ、いつかは必ず大成するモノ」や、「教えや指示に誠実であろうとし、嘘(ウソ)や誤魔化(ゴマカ)しを誠実に拒絶しようとする、そんな誠実で下心の無いというだけのコトによって人の価値は評価されるモノ」や、「どれだけハタ迷惑であろうとも、どれ程の損失があろうとも、大義名分を見失うコトなく確(シッカ)りと追いかけてさえいられれば、周囲のみんなも分かってくれて必ず協力してくれるモノ」というポジティブなコトが、世界の真理だと信じて生きていくコトに執着(シュウチャク)して(『躾け』に従い、『世界の理』を適えられれば自分の助けになるというポジティブな幻想に固執(コシツ)して)。
現実問題に対して速やかに対処し・具体的な対策を講じるというコトの必要性が認識出来ていない上に、他者の「危機意識や損得感や好き嫌いなどといった人としての精神(心理)」に配慮(ハイリョ)する思いにも欠けていて、さらには責任問題の範疇(ハンチュウ)を明確に意識して自己責任の領分を自覚し他者の責任領域を濫(ミダ)りに侵害しないコトの重要性も分からずにいながら、真面目に・真剣に『タダ漫然と・一途に頑張り・頑なに楽観視を貫いて』生きているのです。
そして現実には、「主流派の『市民』達」や「多数派の『良い子』達」と同じ『躾け』を受けていながら、どうしてもそこからはみ出てしまう「非主流派や少数派の子供」という存在は何処(ドコ)にでも必ず少なからずいるモノで。
そんな彼らは、『自由な個人』という自己意識が強く『多様な人間性』を大事に感じていて、自己責任の領分では自分は好き勝手をしながら他者には一切の権限・言動を認めずに拒絶し(他人の話しを聞いてしまうと、それを斟酌(シンシャク)するにしろ・無視するにしろ自分が余計なコトをする事になり、それは自分の責任領域への侵害を他者に許す事に他ならないので、たとえ誉め言葉であっても決して許さないし)、他者の責任領域では相手が何を間違えていようがどれ程失敗しようが、一切の忠告や助言・励ましさえも言わないでいて(何かを言ってしまうと責任を負うことになるので、たとえ相談されても拒絶するので)。
そのために、たいていの非主流派は『頑固・偏屈・石頭・短気』とか『(モンスター)クレーマー』などと呼ばれ、少数派の子供は『幼稚・粗暴・我がまま・気分や』とか『いじめっ子』などと呼ばれていて、そんな異分子扱いを受ける彼らがする勝手な事の(傍若無人(ボウジャクブジン)ぶりの)理由がいつもまったく理解される事が無いままただ放置されてしまうので。
大人社会の組織や集団内でも、子供特有のつながりや学校内でも、いつもその傍若無人ぶりの被害者が出ると(『イジメが発生』すると)、次のターゲットに自分達がならないために周囲は見て見ぬ振りをしてしまいながら、少数の肉食獣が大多数の草食動物を自由に捕食している関係と『イジメ』とをダブらせてしまい、それを『イジメの構造』の原理だと自然に認識し、『イジメを黙認』してしまったコトをみんなで自己弁護するのである。
そしてさらには、見て見ぬ振りをする事しか出来なかった『イジメ』を解消するには、家畜を守るための「柵の外に肉食獣を追い出して、さらに徹底的に駆除してしまう」手法と同じに、「非主流派や少数派の子供」という存在の彼らを社会生活や学校生活に二度と復帰させずに完全駆逐してしまうコトが肝要だと集団で乱暴に(感情的に)主張するに到ってしまうのです。
だが実際には、「非主流派や少数派の子供」とレッテルを貼られて突き放されて、異分子として駆逐される扱いを受ける原因ともなっている『傍若無人な言動』には、彼らなりの理由がこれまでの記述の中にも沢山在って。
そもそも学校などでの『躾け』そのものが、人間を歪んだ特権意識の(無分別で・他力本願で・危機意識に薄く・他者への配慮に欠けた・はた迷惑を省(カエリ)みない)『市民』へと・『良い子』へと仕立て上げるためにある、嫌悪感しか感じられない忌々(イマイマ)しいだけのモノであり。
そしてその特権的な『市民』や『良い子』が特によく犯す過ちの、責任問題の範疇を無自覚で無責任な「他者の自己責任の領分に土足で踏み込む『好意』や『善意』や『おしゃべり』などで」侵害してきて、さらには自分の責任領域の責任問題を「他者に『ちょっと相談したいだけ』とか・『ちょっと聞きたいだけ』とかと称して」図々しく振ってくる(押し付けてくる)無神経さが問題なのです。
しかし現実には、『イジメ』に悩まされ“適正な対応が出来ずに”自殺に追い込まれてしまった(真面目が取り柄の)子供や、『(モンスター)クレーマー』に悩まされ“厳正な対処が出来ずに”自殺に追い込まれてしまった(真剣さが取り柄の)大人が、「責任を重く感じ過ぎてしまい、深刻に考えて、重大問題を一人で背負(ショ)い込んでしまった誠実な人物」だったと言われ。
ネットの掲示板などに自分の悪口が書かれたと腹を立てて殺人に及んでしまった“自己責任の範疇を確立しようとしただけだった”(繊細さゆえに切れやすい)子供や、相手にされなくなるようなレッテルを貼られて侮(アナド)られたとムキになって無差別殺人に及んでしまった“責任問題の範疇を明確化しようとしただけだった”(多感でデリケートであるがゆえに暴挙に出てしまった)大人が、「責任の自覚が薄くて、いつも身勝手で、激情に流されてしまった短慮(タンリョ)な人物」だと言われるのが、この世界なのである。
・『責任』(2)
『非主流派』が責任問題の範疇を大事にして責任領域の明確化をしているだけで(自分が責任者となっていて『勝手を通している』範疇において他者が『責任問題に関わる』事は、自分への『責任の転嫁』であるので『決して見逃さない』し。他者が責任者となっていて『勝手を通してもいいはずの』範疇におけるコトでの『責任問題になりかねないような重大事案』で『相談をしに来る』事は、『責任の押し付け』でしかないので『聞き入れる必要がない』ように『拒絶』して『厳重抗議』しているだけで)、責任を私物化していながらちょっとの事でもすぐに責任放棄をすると(傍若無人であると)批難され。
『主流派』が責任問題の範疇を無視して他者への責任侵害を犯(オカ)す過(アヤマ)ちをしているのに(他者が責任者となっている責任問題範疇内のコトで『善意』や『好意』を大義名分にして関わっていき、勝手な『おしゃべり』で他者が大事にしている責任領域内を蹂躙(ジュウリン)し。自分が責任者となっている責任問題範疇内の『重要案件』での参考情報が欲しいものだから、案件に関わる話しの事で『ちょっと聞きたいだけなんだけど』と軽い調子で言いながら明るく振る舞って近づいていき、案件の核心の問題を『はた迷惑を省(カエリ)みずに振ってしまって』責任のすり替えをしているのに)、『重い責任』を背負い込んでいつも一人で頑張っていると(善良な『市民』であると尊重されて)『誉められる』という不思議なコトがこの世界では当たり前に起こっているのである。
この不思議な事を簡単に言うと、
「『主流派』は『重い責任』で頑張っているというだけで、責任問題の範疇の事で責任侵害の過ちを犯していながらもそれがさらに高く評価されて尊重される」のに、「『非主流派』が『自己責任領分では勝手を通して』・『他者の責任領域の相談事は拒絶する』などをして、責任問題の範疇を大事にして明確化をしていると、『責任の私物化』・『責任放棄』と批難される」という事であるが。
もう少し説明的に言うと、
『主流派』は「『重い責任』を“過度に尊重”するあまり『自己責任領分の認識』を見失ってしまい、上意下達を進める“頑張り者”と高く評価されたい一心で、“誠実を装った『責任侵害』”を自己犠牲の精神ではあっても、“誇り高き『非主流派』”に対して過ちとは思わずに“無意識”に犯してしまい、世間一般ではいくら尊重されていたとしても、少数派の『非主流派』からは強烈に{所有物の『実質責任者』気取りで傲慢(ゴウマン)な、『共有ルール』を崩壊(ホウカイ)させる誠実なだけの侵略者だとか・借用物の『管理責任者』気分で軽率な、『ローカル秩序』を強要してくる理想だけの征服者などと}否定され・嫌悪され・敬遠されてしまう」のに、
『非主流派』も「『責任問題の範疇の明確化』をしようと“熱中”するあまり“過剰反応が抑制できなくなる”事態を引き起こしてしまい、アピールとして在った『自己責任領分での個性の発揮』や『責任領域の明確化のための排斥活動』などをもっと過激な『武力制裁・攻撃的言動』として意図的に用いる事を考え、武力紛争や嫌悪・拒絶の対象相手にしやすい“手の届き易い・無防備な・下位者の”『主流派』に向けて執拗(シツヨウ)に繰り返していて、多くの『主流派』からは軽蔑的に{『卑しい生まれ』で性悪なだけの『テロリズム』かぶれ・『イジメ』を憚(ハバカ)らない下品なだけの『(モンスター)クレーマー』」などと}恐がられ・遠ざけられ・批難されてしまう」という不思議である。
さらにこの人間世界の不思議を別の角度で言い表(アラワ)すと、
『重い責任』を“尊重”する『主流派』には、「所有物の『実質責任者』気取り」の人間と、「借用物の『管理責任者』気分」の人間とがいて、
『責任問題の範疇の明確化』に“熱中”する『非主流派にも、「強敵を相手にして『戦争主義』に傾倒し、“武力解決優先主義”の暴挙(ボウキョ)を凶行(キョウコウ)する」人間と、「弱い者イジメを憚(ハバカ)らずにいるコトで『テロリズム』を主張して、“脅(オド)しと威嚇(イカク)による変革の要求”のパフォーマンスを強行する」人間とがいて、
「世界中で武力紛争やテロ・社会問題や差別を何の進歩もせずに何時までたっても引き起こしている」という事だと思うのです。
≪【予言】≫第4項『民主主義』~~~予告(第0014号参照)
主流派側の対応姿勢の主流は民主主義の浸透によって、二度の世界大戦以降“『実質責任者』気取り”の『傲慢(ゴウマン)』から“『管理責任者』気分”の『軽率』へと大きく変化しており、大きな武力衝突は激減したが、様々な社会的騒動はその何倍も頻発(ヒンパツ)し・泥沼化してきたと言える。
・≪【予言】≫第5項『テロ』~予告
非主流派側の処置態度の大勢も20世紀後半以降になって、武力を背景にした緊張が激減したために大きく変化していて、「“武力解決優先主義”の暴挙(ボウキョ)を凶行(キョウコウ)する」武力紛争の大規模な誘発行為は減少したが、「“脅(オド)しと威嚇(イカク)による変革の要求”のパフォーマンスを強行する」テロ行為や弱い者イジメ・モンスタークレーマー行為などは年々激増し、様々な社会問題の深刻化が進んだと言える。
・≪【予言】≫第6項『平和』~予告
人体の免疫や抗体と人類の危機をリンクさせて考えると、
人を死に至らしめかねないウイルスや細菌などは、主流派の“『実質責任者』気取り”の『傲慢(ゴウマン)』な人間達であり、そんな病原菌に発熱などで強力に対抗しようとする免疫機能が、非主流派の「“武力解決優先主義”の暴挙(ボウキョ)を凶行する」人間達であり、
人を慢性的に悩ませる花粉症やアトピーなどのアレルゲン(アレルギーの原因となる抗原物質)などは、主流派の“『管理責任者』気分”の『軽率』な人間達であり、アレルゲンである抗原と特異的な反応を起こす抗体が、非主流派の「“脅(オド)しと威嚇(イカク)による変革の要求”のパフォーマンスを強行する」人間達である。
そうすると、現代人の悩みのタネであるアレルギーが、近年激増しているとはいても、その反面で、殺人ウイルスや病原菌の絶対数が減少して、人間の平均寿命が延びたように、
人類の悩みのタネであるテロが、近年激増しているとはいっても、その反面で、大規模な武力紛争は激減しているのだから、人類の繁栄はマダマダ続くという事である。
・≪『悪夢』≫第7項『人類滅亡』~予告
人間には「ハチ毒アレルギーやそばアレルギー・甲殻類アレルギーなどの」アナフィラキシーショックで、あっけなく死んでしまうという事があるのだから、人類にも、核テロやバイオテロなどによる一回のテロの連鎖で、人間が死滅してしまうような事態が訪れないとも限らないのである。
・予言の書・終章「世界の終焉」まで~予告
人類にとっての「人を悩ます花粉症やアトピーを引き起こす“アレルゲン”」のような【学校教育や試験制度に裏打ちされた「『躾け』を厳守すれば『世界の理』に適う」を“理想の真理”と考えてしまう『良識としての全幅の理解』の“盲信”と、その挙句(アゲク)の、民主主義思想のローカルな良識者集団が妄想する“地球の『管理責任者』気分”が引き起こす、「多様な文化圏に暮らす民族や世代・男女を問わない」全人類への『ローカル秩序』の“軽率”な対応・処置】という“人類への愚行”に抵抗してくる、“人類の免疫機能”としての【パフォーマンス的テロリズムや局所的テロリズム】を人類の平和を脅かす“過剰反応”だと安易に考えてしまって、
その大義名分の下で『一方的な規制強化の制裁や弾圧によるテロリズムの弱体化と封じ込め』を世界中で“凶行”してしまうと。
人類にとっての「人を死に至らしめかねない“殺人ウイルスや細菌”」のような【過去の遺物だと思ってしまいがちな「理想としての『標準的に統一された世界作り』のための“上意下達の枠組み”」こそが世界を唯一安定させられるという“盲信”と、その挙句(アゲク)の、『重い責任』尊重主義思想の責任者集団が妄想する“地球の重い責任を担う気概(キガイ)”が引き起こす、多様な人達が多様なままで共存している『共有ルール』の無秩序状態からの全人類の開放を目差す“重い責任”の遂行・貫徹】という“人類への蛮行”に対して、初期のうちに抵抗する術(スベ)を失ってしまって、
せっかく長い年月を要して少しづつ明確化してきた「各宗教や各民族の各世代や男女・一個人にまでおよぶ、固有の責任領域を確立する“責任問題範疇の概念”」を瞬(マタタ)く間に曖昧(アイマイ)にしてしまい、「『世界人類の一様化』という重い責任を担っての『大理想』の追求」が、阻止できないまま“完全復活”してしまうのです。
そしてついには、それに対しての“真に過剰な人類の免疫機能”としての“武力解決優先主義”による【“世界の終焉”をもたらす大規模テロリズム】を“誘発”させてしまうのである。
~~~第0012号先頭へ~~~
ちび猫のコメント参照
次回につづく。
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第0032号の「『植物』・『苔』と『生きた水』・『山の腐葉土』の事情」は随時書き換えていますので、安心して参照してください。
『大人の場面緘黙症』でお悩みの方は第0010号と第0011号と第0047号もお読み下さい。
今後のブログの方向性を模索(モサク)しながら書き進めている第0013号も参考になると思うので、是非お読み下さい(記入順序逆転です)。
・共通の参照
(B)『内向き』か『外向き』
字数オーバーの為、以後は第0047号へ移動しました。
(A)【硬直(コウチョク)】と【膠着(コウチャク)】
『場面緘黙症』について色々言ってきましたが、早い話し、発声困難な状況について、ノドが{車が故障によってうまく前進する事が出来ないでいる様に}【硬直(コウチョク)】しているために、うまく発声する事が出来ないでいるのだと≪当人の身心における神経症であるというように『人が自身において発症している問題』だと人の目線から局所的に≫判断してしまうのは、根本的に間違いで。発声動作が{渋滞によって車が速く前進する事が出来ないでいる様に}【膠着(コウチャク)】しているために、時間ばかり掛かって早く発声に至る事が出来ないのだと≪個人の発症が問題を発生させているのではなくて『外部要因の放置による状況の悪化が問題形成の要因になっている』と大所高所から大局的に≫判断しなくては、『場面緘黙症』への適切な対処はなかなかうまく見付けられません。
『代替え言葉』の使用は〔渋滞をかわすための、バイパス道・ぬけ道の新設と積極的活用〕の、『メモ用紙治療法・“ポン”治療法や、下っ腹発声の練習』は〔渋滞解消のための、主要道路の拡幅整備〕の、『建て付けの悪い重い引き出しをうまく引き出すイメージ発声』の実践は〔渋滞にはまらないための、高速道路網の充実と上手な活用〕の言いかえと言えなくもない(!)と思いますが。それは、発声困難な状況を『神経症などによる身心への影響によってノドが【硬直】してしまい、『場面緘黙症』の当人が自身の身体において発声出来ないでいる事態』と判断して、人が起こしている発症を局所的に解消しようとするモノとは違って。『普段はスムーズな発声動作が突然に【膠着(コウチャク)】するような、『場面緘黙症』の当人がいくらその気になっても早くは発声に至れない何らかの外部要因的な問題が発生していて、いつまでも放置されている事態』と判断して、人の前に立ちはだかる問題を大局的に解決するコトを目差すモノであります。
(0)『メモ用紙治療法』・『“ポン”治療法』
2012年7月25日に放送されたNHKの『ためしてガッテン』で、【噛み続け】の癖についてやっていたのでが、特に「上下の歯が弱く触れ合っているだけでも問題があります、ヒトが普通1日に歯をあわせる時間は20分ほどしかありません。」という話しはまったくの盲点でした。放送では「《歯を離す》と書いたメモをよく目に付く場所やパソコンなど集中してしまう場所に貼り、《メモを見たらフーと息を吐く》。これによって治したい癖と両立しない新たな癖をつける」という『メモ用紙治療法』を勧めていて。さらには「《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》で、いつも歯を離そうと頑張りすぎると、逆にストレスになってしまい逆効果です。メモとメモの間は何もしなくてOKです。早い人で、1週間ほどで効果を実感できます。」とありました。
しかし、【噛み続け】の癖が原因とされる症状は「肩こり・おなら・頭痛・ゲップ・ひざ痛・首の痛み・おなかのハリ・めまい・のどの異物感・耳なり・腰痛・視力低下・息苦しさ・アゴの痛み…」とはあっても、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』はまったく含まれてはいませんので、『メモ用紙治療法』が本当に有効なのか(?)と疑う人もあるハズで、そういう方は無視して(1)以降を参照して下さい。
ちなみに、私の『大人の場面緘黙症』の為の『メモ用紙治療法』は上記と少し違っていて。メモの内容は《歯を離す》ではなく、《“ポン”と鳴らす》という言葉にして、「口を〔あ・い・う・え・お〕の形で開き、手のひらで口を敲(タタ)き、鼓(ツヅミ)のように“ポン・ポン”と数回鳴らす」という『“ポン”治療法』を、ヒマを見つけては行うようにしています。そして、《メモを見たらフーと息を吐く》の所を、当然《メモを見たら一日に何度でも〔あ・い・う・え・お〕の口の形でを“ポン・ポン”と鳴らす》として、《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》ではなくて、《メモが目につくたびに口を“ポン・ポン”と鳴らして、≪“ポン”の音が出る〔あ・い・う・え・お〕の口の開き≫をしっかりと習慣化させるコトが大事》と認識するようにしているのです。
本当に私ごとなのですが、この『“ポン”治療法』を数日続けていたダケで、以前は5秒以上あった私の『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間が、今では1秒以下に解消されました。個人差や原因の違いで、『沈黙』時間がそれ程には改善しない人もいるかと思いますが、『メモ用紙治療法』や『“ポン”治療法』の話しが、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』で悩む人たちの参考・ヒントになったとしたら幸いです。
余談ですが、もし『大人の場面緘黙症』の人で何か『発声練習』をしたいというのであれば、≪口を軽く閉じて、息を口の中に溜め、さらに下っ腹から肺に強く圧力をかけて、その状態で口先から少しずつ息を出しながら{少しこもった音で}発声をする≫という『発声練習』を試してみて下さい。『代替え言葉』の使用と合わせれば、『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間を、限りなく“ゼロ”に近づける事が出来ると思います。
又、発声時に何か注意をしたいのであれば、「建て付けの悪い{重い荷物の入った}引き出しをゆっくりと均等に力を込めて引き出す感覚で、発声を何度か繰り返す」というコトを、《バランス》と《タイミング》と《パワー》に注意して行ってみて下さい。
(1)医療情報
『場面緘黙症』による“ノドのシビレ”を軽減するのに「NHKでも放送された」注射をする方法もあるそうなので、それが身近な医療機関で出来る方はお試し下さい。
(2)栄養療法
食べ物としては、『かつお節:3gか5gのパック一袋をそのままで(何にも加えず、何も加えずに)』と『生姜:生姜糖1枚か生姜湯一杯』と『ビタミンC:錠剤かドリンクで300mg~1000mg』を一回分として一日1回~3回毎日摂取して、自律神経の高ぶりを緩和させれば、何らかの効果が有るはずです。
(3)対処療法
どうしても自分一人で『場面緘黙症』を解消させたいと考えてしまう人は、『急がば回れ』を肝に銘じて「自分が理想とする『言いたい言葉の発声』から{近づくのではなくて}だんだん遠のいていくように『拒否したい言葉の発声』を発掘・発見しては、《発声困難になる場面》で発声できるモノはないかと試していく」という“消極的連続性”の【諦(アキラ)めと再チャレンジの繰り返し】を貫(ツラヌ)いて下さい。間違っても《為せば成る為さねばならぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり》などとは考えない事です。
(4)根本療法
タイプ1
何らかの心の傷による反発心・反抗心を原因として【自分は『良い言葉の発声』をしようとしているのだから、「これでいいんだ!誰も文句は言えない筈(ハズ)だ!」だから、余計な「相手を思いやっての言葉使い」や「状況を考慮しての言葉選び」などの煩(ワズラ)わしい事から開放されているんだ!】と、思い込もおうとしすぎた為に。その無理によって《意識内での「それではいけない!!」と主張する『良心(:真心)』との葛藤(カットウ)と、そんな悪徳な自分への自己嫌悪と『良心(:真心)』の呵責による苦悩》がどんどん深層意識の奥底に埋もれていってしまい。そして、そういった『良心(:真心)』との葛藤が実際には続いているにもかかわらず、無自覚なまま徐々(ジョジョ)に心の表面に伝わってこなくなってしまって。ついには、何の自己嫌悪も『良心(:真心)』の呵責も感じないまま【単に『良い言葉の発声』をしたいだけなのに、どうしてか同じ場面で同じ言葉の発声困難に“いつもいつも”陥(オチイ)ってしまう】と、無邪気に悩むようになる。
という『場面緘黙症』のイメージを《客観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
タイプ2
自分は【他人(ヒト)の立場に立って考える】という事を一生懸命考えていて、他人(ヒト:相手)が聞いて「不満に思えない筈(ハズ)」で「納得をせざるを得ない筈(ハズ)」の、文句の言いようの無い『良い言葉の発声』を、何も疑う事無く心掛けていたのだが。本当なら、こんな《自己中心的》な事を誰かにされたとしたら、『自分だったら腹を立てないか?いや、きっと腹を立てる筈(ハズ)だ!』と疑問に思ってもいい筈(ハズ)なのに。『天』や『神仏』などの『何モノか』という神性な存在とその影響力に畏敬(イケイ)の念を永年抱いているうちに、いつの間にか【自分ではない別の『何モノか』という神性な立場に立って考える】という視野を特別視してしまって、自分も【他人(ヒト)の立場に立って考える】という{神性に近い立場に立つ}事によって《特別な力や可能性、何らかの加護や御利益(ゴリヤク)の獲得》が達成されると錯覚し、誤解してしまっていたのです。その為、私は長年『良い言葉の発声』という暴言を他人(ヒト)に浴びせようと努力していたのですが、幸いにも『場面緘黙症』のおかげでそれを実施しないでいられたのです。
という『場面緘黙症』のイメージを《主観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
・第0012号本題
・☆本題「(4)根本療法 タイプ2の思惟・考証」
・★【想い】と【絆】による【思い】の排除
今までに出てきた『神聖文化論』や『天』や『神仏』や『何モノか』というキーワードは、何か特定の『宗教』や『神様』をさしている訳ではなくて。人の《必然的》で《潜在的》で《自然発生的》な【畏敬の念の表れ】を巧みに誘発する呼び水のような《人の精神世界内で構築される、白・黒や勝敗を采配する“軍配”のような絶対性》の神性に対して、それがどのように世俗の中で呼ばれ、利用されていているのかを端的(タンテキ)に示唆(シサ)するために、便宜的(ベンギテキ)に使用していただけのモノなのですが。ただ、『何モノか』という{自分で作り出した}存在には、他の既存の{神性な}存在以上に特別な意味が有って。それは、周囲の人達から自分へ寄せられる【想い】への{勝手な}期待や、そんな【想い】を当て込んで思い描いた【絆(キズナ)】への{無謀な}執着の、{精神的な}後ろ盾になってしまい易いコトなのです。
そのおかげで、{人類と呼ばれる}人間は様々な他者のそれぞれの【思い】の{一人の人間でしかない自分が求める価値観の範疇(ハンチュウ)に納(オサ)まらない}色々な価値に関心を持つコトがなくなり、≪人の道を行っているかのように見せ、社会貢献を巧妙(コウミョウ)に積み上げるコト≫によって、自分への【想い】の価値の高さだけを追い求める様になってしまい。さらには、周囲の人達に{人の道を行い、社会貢献を積み上げていると上手に見せかけながら}自分への【想い】を《踏み絵》や《罠(ワナ)》で{相手に強迫観念を植え付ける様に}仰々(ギョウギョウ)しくチェックをして見せ、自分を侮(アナド)ったり軽(カロ)んじたりする事が{容易には}出来ない様に巧(タク)みに仕向けているので。自分を中心にした【絆】による集団がより強く大きく成り立っているのだと誤解してしまい、その揚句(アゲク)に、そんなありもしない【絆】に{人類共通の}意義や価値を{勝手に}見いだし、そして【絆】という言葉を“自分への【想い】が集結した{妄想の}集団”の正統性の証に{堂々と}据(ス)えてしまって。ついには、他者の【思い】を【絆】を軽んじる大罪と決め付けて、手当たり次第に{問答無用で}排除してしまっていたのです。
そして、『人間という生き物』は自分への【想い】の全てを失って、何時も自分独りに成ってしまうのですが。
そうなっても猶(ナオ)、大抵(タイテイ)の人間はまだ『何モノか』という存在の神性の呪縛から《自分が作った“心の砦(トリデ)”であるが故(ユエ)なのか》抜け出せず、既(スデ)に独りであるにも拘(カカ)わらず「頑張っていれば自分への【想い】が{もっと}集結して、より以上の【絆】が育(ハグク)まれるハズだ」と信じ続けてしまって。
独りなのを心配して人が近づいて来てくれると、その人の【思い】を非難(ヒナン)し、自分への【想い】を賛美(サンビ)し、【絆】の名の下に集(ツド)おうと心理攻撃を仕掛けるので、すぐにまた独りに成ってしまい、そんな“孤独な悪循環”を何時までも繰り返してしまうのです。
・★心優しき『場面緘黙症』の人
この“孤独な悪循環”の典型なのが、『場面緘黙症』に於(オ)ける『良い言葉の発声』を目差す蛮行(バンコウ)で。独善的に選んだ言葉での『良い言葉の発声』を{自分への【想い】を集結させる為に}目差していて、{人が不用意に近づいて来て}機会が訪れると相手の気持ちをまったく斟酌(シンシャク)しないで{【絆】の名の下に集(ツド)えと言わんばかりに}一方的に『良い言葉の発声』による暴言の断行を繰り返していたのです。
そのために、『場面緘黙症』に成ってしまうような心の優しい人は、そういった『良い言葉の発声』を目差す{自分への【想い】や【絆】を振りかざしての暴言の断行という}蛮行に『良心(:真心)』の呵責(カシャク)が{抑えきれなくなり、無意識のうちに}働いてしまって、『良い言葉の発声』の発声困難という神経症の障害が{症状として}発症してしまっていたのです。
すなわち、発声困難とは{無意識の内に}埋もれていた『良心(:真心)』の反抗であり、抑えきれなくなった『良心(:真心)』の{深層心理からの}氾濫であるのですから。『場面緘黙症』による発声困難を、たちの悪い神経の病気だとか、何かの呪いだとか、現実逃避だとか、“そういう考え方”をしているうちはたぶん何時まで経っても何も解決する事はないのです。それは、“そういう考え方”をしてしまって、『良い言葉の発声』の独善性に触れない事が、『場面緘黙症』という神経症の{障害の本当の}正体であったからなのです。
したがって、『場面緘黙症』による発声困難とは、治したり、解消させたりすべき{忌み嫌っていい}モノではなくて。『良心(:真心)』による暴言回避の最後の切り札であるとともに。『良心(:真心)』が“孤独な悪循環”の中で消えてしまいながらも、その道に残していった、『良心(:真心)』の発掘の為の重要な手掛かりでもあったのです。
『場面緘黙症』の人は、{心優しき}自分が発声困難であるコトをもっと慈(イツク)しみ、誇りに思い、感謝してもいいと思うのです。
・★神経症と宗教・ギャンブル
余談ですが。『場面緘黙症』や『ジストニア』や『イップス』などの原因が明確ではない{神経障害的な諸症状の}神経症で悩む人が、自分だけが承知して行う「症状軽減の願い《:真剣な願い事》」で、ストイックな【願掛(ガンカ)け】をしてしまうと。その【願掛け】が、「ギャンブルで勝つコト」であったり「カルト教団への信仰」であったりすると、周囲にはそれを制止する術が無く。どれ程借金が増えても賭け事をやめられず、どれだけ周囲に迷惑がかかっても信心をやめられないのです。
そして、そうしているうちにいつの間にか、その【願掛け】の事を忘れてしまって、一生ギャンブルをやめない人間や、死ぬまで信仰を捨てない人間に成ってしまうモノなのです。ただ、そういった事を意図的に他人に施(ホドコ)して、お金を巻き上げたり、信心の名目で従わせたりする、たちの悪い占い師や、新興宗教の教祖が大勢いるので、注意が必要です。
・★『イジメ』と『場面緘黙症』
さらに余談ですが。『場面緘黙症』による『良い言葉の発声』の独善的願望という蛮行と、それを拒んで硬直してしまう発声困難は。学校や職場で多発する『イジメ』を、周囲が放置してしまう精神構造と、とても酷似していて。
グループの結束を緩めない為とはいえ、少しやり過ぎの『イジメ』を前にして反対しても、一人でカッコを付けて周囲に迷惑が掛かるだけだと考え、周囲に協調して『イジメ』に加担(カタン)しないといけないと“自己責任”を感じてしまうのだが。大抵の人間は【二の足を踏んで】しまって、どうしても傍観者にしかなれないのですが。まさにその、{グループとしての結束で成り立ち維持されている}周囲に迷惑を掛けたくないという“自己責任”を感じながらも、{グループの存続の為とはいえ}過剰な『イジメ』に手を染めるのに【二の足を踏む】精神構造こそが、『場面緘黙症』の人の発声困難という神経症の構造なのです。
すなわち、『イジメ』を前にして周囲の人たちが苦痛に感じ・苦悩してしまうのは、よく「『イジメ』は{グループに馴染(ナジ)まず、一緒に居ると何かと手間が掛かり、周囲に負担を背負わせてしまうような}イジメられる人自身にも多少の問題がある」と言われているものの、グループの一員として『イジメ』に加担する事にどうしても憤(イキドオ)りを感じてしまうコトを、「『イジメ』への加担は“自己責任”だから」と自分で自分に言い聞かせて{健気(ケナゲ)に}必死に隠しているからであり。『場面緘黙症』の人が『良い言葉の発声』をするのを{発声困難の神経症になる程に}苦痛に感じ・苦悩してしまうのは、非道な社会の一員として{一方的に非人道的な}会話をしないといけない状況であるにもかかわらず、社会人のマナーを守ろうと{健気(ケナゲ)に}頑張ってしまうからなのです。
☆本題「(3)対処療法の思惟・考証」は第0010号を参照して下さい
☆本題「(4)根本療法 タイプ1の思惟・考証」は第0011号を参照して下さい
第0030号【ちび猫が見付けた『~~~』】シリーズ、新スタート
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・旧項目
・『大人の場面緘黙症』の問題点
お医者様の話しも良いけれど、同じ『場面緘黙症』の人の話も聞きたいですよね
子供の時の『場面緘黙症』であれば、周囲の大人達の側の注意によって、改善しやすいモノだとは聞いているのですが。
成人してから発症してしまった私のような場合の『大人の場面緘黙症』は、【高いハシゴを登って行く作業をするのに、初めは「このくらい出来なくてどうする!」という気持ちで登っていたが。時が経ち、だんだん高いハシゴ登りの恐ろしさが分かってくると、手足が震えてスムーズに登れず、バランス感覚も狂ってしまい、だんだん{本当に}危険が増してきてしまって。経験の浅いうちはスタスタと高い所までハシゴを登れていたモノが、経験を積むほどに恐怖で登れなくなってしまう、高所恐怖症の発症】と同じ《恐怖症構造》であるとも考えられるのですが(違うという人もいるかと思いますが、この場ではご了承ください)。
高所恐怖症でよく言われる「高い所を怖がらない方が{神経や精神の}病気である」という所に注目すれば。人前でまったく上がらず・発声困難にもならず、どんな時でもスラスラと会話が出来てしまうコトの方が、病気なのであると考えられると思うのです。
なので、高所がどんなに得意な人が作業者であっても、ハシゴを登っての高所作業においては、誰でも絶対に事故を起こさないような「充分以上の安全対策を何重にも施(ホドコ)してから高所作業を始める事」が“常識”であると誰もが理解している事に着目すれば。人前で話しをしたり・会話をしたりする時に、「上がってしまって失敗したりする事や、『大人の場面緘黙症』によって『発声障害』が発生する事態」が誰の身にも絶対に起こらないように、「充分以上の安心対策を何重にも施(ホドコ)しながら話しを始める事」が“当然”のコトだと誰もが理解出来るはずで。その認識が広がれば、「無防備なままで話しをしようとするような“ムチャ”をして、発声困難で悩み苦しむような{日常的挨拶や会話での}危機的状況に陥(オチイ)る」人もいなくなると思うのです。
又、高所恐怖症の安全な“緩和対策”として【手などの“触覚に関わる感覚”を、何時も“同じような感触”で“成功体験”するコト】とともに、【この場所は安全だと確認する体験を、少しずつだが明確に“段階を踏んで”「充分に時間を掛けてでも“確実な実行”を積み上げて」いくコト】が有効だと言われていて、「そんな高所恐怖症の緩和が“誰にでも手軽に実施出来る”という」話しが信じられるモノだとするならば。『場面緘黙症』についても「その“安心対策”」と平行して「その“緩和対策”」が可能であり、もっとみんなが色々な事を言って、様々な解消方法を沢山出し合い、各個が自分に合った『場面緘黙症対策』を構築していく方が、情報が少ない中で一人で悩んでいるよりも何倍も良いと思うのです。
人との挨拶や会話に拘(コダワ)りがある私にとっては、第0011号で紹介してある【『代替え言葉の使用』と、『うまい間』を上手に取る事の容認】へと『緘黙症対策』を全面的に切り替えた{現状対処を優先させて回避行為をする}事が“安心対策”であり、そんな発声困難の“回避行為”を続けて《発声困難が生じる『特定の場面』での安心感を育(ハグク)み、緊張感を解(ホグ)す》コトが“緩和対策”になっておます。
皆さんはどう御考えなのでしょうか、是非ご意見を御聞かせ下さい。
当、第0012号のコメントにても質問を受け付けて、引き続き第0010号の最後に私の返事や感想・意見などを記入させていただこうと思っております。
・問題点の洗い出し
世の中には色々な人間がいるものなので、『大人の場面緘黙症』のコトを悪く考えてしまって、《病気らしいが障害とも言いきれない『特定場面での特定な言葉の発声困難』という戯言(ザレゴト)を言い訳にして、誰もがどんなに嫌な時でもどれほど嫌な相手にでも、人として挨拶をして会話をする苦労を背負っている当たり前コトから、自分だけ逃げ出そうなどと甘えたヤツがいたら。この俺が疑獄の果てまで追いかけていって首根っこをひっつかまえて、死ぬほどのお仕置きをしてやる》と“正義の使者”気取りで勇む{厳格な}人もいれば。
『大人の場面緘黙症』のコトを良く見てくれていて、《自由に挨拶をして会話をする事が出来るコミュニケーション能力が{憖(ナマジ)っか}有る為に、普通の人間は様々な苦労や不自由をしいられていて、好きな事に励み・能力開発に取り組む自由がなかなか手に入らないモノなのだが。『大人の場面緘黙症』の人は知的障害がまったく無いのに、特定のコミュニケーション能力が部分的に欠けているというだけで、無理に挨拶や会話をしようとしても“出来ないモノは出来ない”というような状態であるから。『大人の場面緘黙症』の人は、コミュニケーションに煩(ワズラ)わされ・挨拶や会話に縛られる理由も必要も無いので、もっと{エキセントリックに}好きな事に励み・能力開発に取り組む事に励んでもいいはずだ思う》と支援を惜しまない{先見の明のある}人もいるだろうし。
『大人の場面緘黙症』の当人なのに『発声困難』に陥る自分を{不要な存在ではないかと}悪く考えてしまって、【みんながコミュニケーションに煩(ワズラ)わされながら、挨拶や会話に四苦八苦しているというのに、『大人の場面緘黙症』だというだけで其処(ソコ)に参加出来ないと言って参加しないでいては、あまりにも不誠実で、『天罰や神罰』を受けてしまいかねないと考え。挨拶や会話に無理してでも参加して、{やりたいわけでもない、苦しいだけの}“はた迷惑な無言”を繰り返そうとも、誠実な姿勢をしめそうと{精神安定を犠牲にして}悪戦苦闘している】人もあれば。
『大人の場面緘黙症』である自分の『発声困難』の克服を{出来ないモノは出来ないと}サッサと諦(アキラ)めて、【『発声困難』に陥る特定の場面を絶対的に敬遠して、安定した精神状態での仕事や勉学や、新しい人付き合いに励むコトを目差し、{やりたい事をやっていて、周囲への配慮が出来ない}“はた迷惑な無言”を繰り返そうとも、エキセントリックに頑張る】人もあるはずだし。
『大人の場面緘黙症』ではあるが、私と同じように会話に対して未練があって、【『代替え言葉の使用』や、『うまい間』を積極的に作る事の容認で、『大人の場面緘黙症』による『発声困難』を{解消させないまま}回避させて、{解消不可能と言われる}『発声障害』の問題解決をその場しのぎの現状対処でやってしまおうとして】中途半端なコトをしている{『大人の場面緘黙症』なのを隠したがる}人もいないわけがなく。
広範囲な『大人の場面緘黙症』であるため、『発声障害』への現状対処が実施困難なのに、【『赤毛のアン』で人見知りの激しい「マシュウ」がお喋(シャベ)りな「アン」によって幸せであったのを見習って、「アン」のような子供を探したり。『こんにちはアン』で空想癖(ヘキ)のある「アン」が“変な孤児(ミナシゴ)”と軽んじられていたにも拘わらず、「トーマス家の人達」や「ハモンド家の人達」よりも生き生きとして輝いていたのを見習って、“引き篭もり”を楽しんだりする】のんきな{オタクな}人も少なからずはいると思うのです。
上記のように、『大人の場面緘黙症』を取り巻く周囲の環境や当人の精神情況は人によって様々で、一様には語れないのが現実です。そしてこの事が、『大人の場面緘黙症』を不透明にしてしまっていて、世間から認知されない原因になっていると思うのです。皆さんなりの考え・想いをお聞かせ下さい。
・参照
【『場面緘黙症』とは、“ある特定の場面でだけ全く話せなくなってしまう現象”であり、子供の時期ほど顕著に現れやすい症状ではあるのだけれども。
単なる人見知りや恥ずかしがり屋とは大きな違いがあって、症状が大変強く、何年たっても自然には症状が改善せずに長く続く場合があり、“子供の時期の適切な手当て”が遅れてしまうと、成人になってからではなかなか改善しにくい傾向にあるみたいで。
そういった、少数ではあるが大人になってもしつこく残ってしまう症状の事を、特に『大人の場面緘黙症』と呼ぶみたいです。】
【『イップス』 とは、精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーができなくなる“運動障害や随意運動の低下”のことであり、それに類似した症状などにも広く使われる呼び名でありますし。
『ジストニア』とは、中枢神経系の障害による“不随意(ふずいい:意のままにならないコト)”で持続的な筋収縮(きんしゅうしゅく:筋肉の一定的な収縮運動)にともなって引き起こされる姿勢(シセイ)異常に対しての呼び名であると共に、全身あるいは身体の一部が“不随意”に捻(ネジ)れたり・硬直(コウチョク)したり・痙攣(ケイレン)したりするなどの症状と、それにともなう“運動障害や随意運動の低下”の総称として用いられる場合があるのですが。
『ジストニア』以外の“不随意”な症状で、自分の意思とは無関係に生じる不合理な動作・運動としては、手足や全身の『振戦(ふるえ)』や、上下肢(シ:手足)全体の振回し運動の『バリスムス』や、手足や頭などがくねるような緩慢な旋回運動の『アテトーシス』や、痙攣的運動の『ミオクローヌス』や、口周辺部や舌の異常運動の『口ジスキネジー』などがあり、発症部位や運動の規則性や・強さや・睡眠時の運動有無などによって分類されるモノです。
身体機能的にそれらを説明すると、身体バランスの調整・運動の円滑化に重要な機能を持つ大脳基底核(だいのうきていかく:大脳皮質(だいのうひしつ)と視床(ししょう)・脳幹(のうかん)を結びつけている神経核の集まりであり、哺乳類の大脳基底核は運動調節、認知機能、感情、動機づけや学習など様々な機能を担っている)を中心とした錐体外路(すいたいがいろ:運動神経線維(ウンドウシンケイセンイ:ニューロン)の遠心性経路(エンシンセイケイロ)で錐体路(スイタイロ)以外の経路(ケイロ))が阻害された場合に、異常な筋収縮が発生して、“不随意運動”が引き起こされる現象だという事になる。】
【『射幸心』とは、本来《射倖心》と書いて(しゃこうしん)と読み、ある程度の確率を伴う事柄において、良い結果が得られた時の高揚感を表す言葉であり、その“倖”の意味は「努力を必要としないで、予期せずに」訪れた幸せという意味である。
そのためか、幸運を得たいという心理による「幸運によって他人よりも幸せに恵まれたい、何時かは勝者になりたい」と思い期待してしまう心理状態を表す言葉として“広義”に使われる場合も少なくはないが、たいていは根拠の無い自信で自分だけが幸運を得られると思い込んでしまって、投機や投資や賭博や期待値の低い事業に夢中になって浪費してしまう傾向の心理状態を表す言葉として“狭義”に使われるモノである。】
第0030号【ちび猫が見付けた『~~~』】シリーズ、新スタート
今後のブログの方向性を模索(モサク)しながら書き進めている第0013号も参考になると思うので、是非お読み下さい(記入順序逆転です)。
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・分岐
・予言の書・序章「人類滅亡」まで
≪【予言】≫第1項『一事が万事』~~~要約(第0011号参照)
『一事が万事』という「ありきたりな格言」の《論理的な観念》が『被害妄想』の発症を引き起こし、悲観的で保守的な人間的精神を構築する。
≪【予言】≫第2項『世界の理』~~~要約(第0011号参照)
学校制度や試験制度の中で『理(コトワリ)』に適(カナ)う人間としての『躾(シツ)け』を身に付けてきた善良な『市民』は、誠実に『理想としての標準的に統一された世界作り』を達成させてようとする。
・≪【予言】≫第3項『責任』
・『責任』(1)
充分な『躾け』を受けている「主流派の『市民』達」や学校においての「多数派の『良い子』達」は、『世界の理』に適(カナ)うべく、自分達が安住出来る『民主主義』や『上意下達の枠組み』や、その後ろ盾となっている『良識としての全幅の理解』や『理想としての標準的に統一された世界作り』や、そしてそれらの大元である{『一事が万事』の《論理的な観念》}などを駆使して『ポジティブな意図』を形成していて。
「いつも頑張っていて、安易に変節してさえいなければ、いつかは必ず大成するモノ」や、「教えや指示に誠実であろうとし、嘘(ウソ)や誤魔化(ゴマカ)しを誠実に拒絶しようとする、そんな誠実で下心の無いというだけのコトによって人の価値は評価されるモノ」や、「どれだけハタ迷惑であろうとも、どれ程の損失があろうとも、大義名分を見失うコトなく確(シッカ)りと追いかけてさえいられれば、周囲のみんなも分かってくれて必ず協力してくれるモノ」というポジティブなコトが、世界の真理だと信じて生きていくコトに執着(シュウチャク)して(『躾け』に従い、『世界の理』を適えられれば自分の助けになるというポジティブな幻想に固執(コシツ)して)。
現実問題に対して速やかに対処し・具体的な対策を講じるというコトの必要性が認識出来ていない上に、他者の「危機意識や損得感や好き嫌いなどといった人としての精神(心理)」に配慮(ハイリョ)する思いにも欠けていて、さらには責任問題の範疇(ハンチュウ)を明確に意識して自己責任の領分を自覚し他者の責任領域を濫(ミダ)りに侵害しないコトの重要性も分からずにいながら、真面目に・真剣に『タダ漫然と・一途に頑張り・頑なに楽観視を貫いて』生きているのです。
そして現実には、「主流派の『市民』達」や「多数派の『良い子』達」と同じ『躾け』を受けていながら、どうしてもそこからはみ出てしまう「非主流派や少数派の子供」という存在は何処(ドコ)にでも必ず少なからずいるモノで。
そんな彼らは、『自由な個人』という自己意識が強く『多様な人間性』を大事に感じていて、自己責任の領分では自分は好き勝手をしながら他者には一切の権限・言動を認めずに拒絶し(他人の話しを聞いてしまうと、それを斟酌(シンシャク)するにしろ・無視するにしろ自分が余計なコトをする事になり、それは自分の責任領域への侵害を他者に許す事に他ならないので、たとえ誉め言葉であっても決して許さないし)、他者の責任領域では相手が何を間違えていようがどれ程失敗しようが、一切の忠告や助言・励ましさえも言わないでいて(何かを言ってしまうと責任を負うことになるので、たとえ相談されても拒絶するので)。
そのために、たいていの非主流派は『頑固・偏屈・石頭・短気』とか『(モンスター)クレーマー』などと呼ばれ、少数派の子供は『幼稚・粗暴・我がまま・気分や』とか『いじめっ子』などと呼ばれていて、そんな異分子扱いを受ける彼らがする勝手な事の(傍若無人(ボウジャクブジン)ぶりの)理由がいつもまったく理解される事が無いままただ放置されてしまうので。
大人社会の組織や集団内でも、子供特有のつながりや学校内でも、いつもその傍若無人ぶりの被害者が出ると(『イジメが発生』すると)、次のターゲットに自分達がならないために周囲は見て見ぬ振りをしてしまいながら、少数の肉食獣が大多数の草食動物を自由に捕食している関係と『イジメ』とをダブらせてしまい、それを『イジメの構造』の原理だと自然に認識し、『イジメを黙認』してしまったコトをみんなで自己弁護するのである。
そしてさらには、見て見ぬ振りをする事しか出来なかった『イジメ』を解消するには、家畜を守るための「柵の外に肉食獣を追い出して、さらに徹底的に駆除してしまう」手法と同じに、「非主流派や少数派の子供」という存在の彼らを社会生活や学校生活に二度と復帰させずに完全駆逐してしまうコトが肝要だと集団で乱暴に(感情的に)主張するに到ってしまうのです。
だが実際には、「非主流派や少数派の子供」とレッテルを貼られて突き放されて、異分子として駆逐される扱いを受ける原因ともなっている『傍若無人な言動』には、彼らなりの理由がこれまでの記述の中にも沢山在って。
そもそも学校などでの『躾け』そのものが、人間を歪んだ特権意識の(無分別で・他力本願で・危機意識に薄く・他者への配慮に欠けた・はた迷惑を省(カエリ)みない)『市民』へと・『良い子』へと仕立て上げるためにある、嫌悪感しか感じられない忌々(イマイマ)しいだけのモノであり。
そしてその特権的な『市民』や『良い子』が特によく犯す過ちの、責任問題の範疇を無自覚で無責任な「他者の自己責任の領分に土足で踏み込む『好意』や『善意』や『おしゃべり』などで」侵害してきて、さらには自分の責任領域の責任問題を「他者に『ちょっと相談したいだけ』とか・『ちょっと聞きたいだけ』とかと称して」図々しく振ってくる(押し付けてくる)無神経さが問題なのです。
しかし現実には、『イジメ』に悩まされ“適正な対応が出来ずに”自殺に追い込まれてしまった(真面目が取り柄の)子供や、『(モンスター)クレーマー』に悩まされ“厳正な対処が出来ずに”自殺に追い込まれてしまった(真剣さが取り柄の)大人が、「責任を重く感じ過ぎてしまい、深刻に考えて、重大問題を一人で背負(ショ)い込んでしまった誠実な人物」だったと言われ。
ネットの掲示板などに自分の悪口が書かれたと腹を立てて殺人に及んでしまった“自己責任の範疇を確立しようとしただけだった”(繊細さゆえに切れやすい)子供や、相手にされなくなるようなレッテルを貼られて侮(アナド)られたとムキになって無差別殺人に及んでしまった“責任問題の範疇を明確化しようとしただけだった”(多感でデリケートであるがゆえに暴挙に出てしまった)大人が、「責任の自覚が薄くて、いつも身勝手で、激情に流されてしまった短慮(タンリョ)な人物」だと言われるのが、この世界なのである。
・『責任』(2)
『非主流派』が責任問題の範疇を大事にして責任領域の明確化をしているだけで(自分が責任者となっていて『勝手を通している』範疇において他者が『責任問題に関わる』事は、自分への『責任の転嫁』であるので『決して見逃さない』し。他者が責任者となっていて『勝手を通してもいいはずの』範疇におけるコトでの『責任問題になりかねないような重大事案』で『相談をしに来る』事は、『責任の押し付け』でしかないので『聞き入れる必要がない』ように『拒絶』して『厳重抗議』しているだけで)、責任を私物化していながらちょっとの事でもすぐに責任放棄をすると(傍若無人であると)批難され。
『主流派』が責任問題の範疇を無視して他者への責任侵害を犯(オカ)す過(アヤマ)ちをしているのに(他者が責任者となっている責任問題範疇内のコトで『善意』や『好意』を大義名分にして関わっていき、勝手な『おしゃべり』で他者が大事にしている責任領域内を蹂躙(ジュウリン)し。自分が責任者となっている責任問題範疇内の『重要案件』での参考情報が欲しいものだから、案件に関わる話しの事で『ちょっと聞きたいだけなんだけど』と軽い調子で言いながら明るく振る舞って近づいていき、案件の核心の問題を『はた迷惑を省(カエリ)みずに振ってしまって』責任のすり替えをしているのに)、『重い責任』を背負い込んでいつも一人で頑張っていると(善良な『市民』であると尊重されて)『誉められる』という不思議なコトがこの世界では当たり前に起こっているのである。
この不思議な事を簡単に言うと、
「『主流派』は『重い責任』で頑張っているというだけで、責任問題の範疇の事で責任侵害の過ちを犯していながらもそれがさらに高く評価されて尊重される」のに、「『非主流派』が『自己責任領分では勝手を通して』・『他者の責任領域の相談事は拒絶する』などをして、責任問題の範疇を大事にして明確化をしていると、『責任の私物化』・『責任放棄』と批難される」という事であるが。
もう少し説明的に言うと、
『主流派』は「『重い責任』を“過度に尊重”するあまり『自己責任領分の認識』を見失ってしまい、上意下達を進める“頑張り者”と高く評価されたい一心で、“誠実を装った『責任侵害』”を自己犠牲の精神ではあっても、“誇り高き『非主流派』”に対して過ちとは思わずに“無意識”に犯してしまい、世間一般ではいくら尊重されていたとしても、少数派の『非主流派』からは強烈に{所有物の『実質責任者』気取りで傲慢(ゴウマン)な、『共有ルール』を崩壊(ホウカイ)させる誠実なだけの侵略者だとか・借用物の『管理責任者』気分で軽率な、『ローカル秩序』を強要してくる理想だけの征服者などと}否定され・嫌悪され・敬遠されてしまう」のに、
『非主流派』も「『責任問題の範疇の明確化』をしようと“熱中”するあまり“過剰反応が抑制できなくなる”事態を引き起こしてしまい、アピールとして在った『自己責任領分での個性の発揮』や『責任領域の明確化のための排斥活動』などをもっと過激な『武力制裁・攻撃的言動』として意図的に用いる事を考え、武力紛争や嫌悪・拒絶の対象相手にしやすい“手の届き易い・無防備な・下位者の”『主流派』に向けて執拗(シツヨウ)に繰り返していて、多くの『主流派』からは軽蔑的に{『卑しい生まれ』で性悪なだけの『テロリズム』かぶれ・『イジメ』を憚(ハバカ)らない下品なだけの『(モンスター)クレーマー』」などと}恐がられ・遠ざけられ・批難されてしまう」という不思議である。
さらにこの人間世界の不思議を別の角度で言い表(アラワ)すと、
『重い責任』を“尊重”する『主流派』には、「所有物の『実質責任者』気取り」の人間と、「借用物の『管理責任者』気分」の人間とがいて、
『責任問題の範疇の明確化』に“熱中”する『非主流派にも、「強敵を相手にして『戦争主義』に傾倒し、“武力解決優先主義”の暴挙(ボウキョ)を凶行(キョウコウ)する」人間と、「弱い者イジメを憚(ハバカ)らずにいるコトで『テロリズム』を主張して、“脅(オド)しと威嚇(イカク)による変革の要求”のパフォーマンスを強行する」人間とがいて、
「世界中で武力紛争やテロ・社会問題や差別を何の進歩もせずに何時までたっても引き起こしている」という事だと思うのです。
≪【予言】≫第4項『民主主義』~~~予告(第0014号参照)
主流派側の対応姿勢の主流は民主主義の浸透によって、二度の世界大戦以降“『実質責任者』気取り”の『傲慢(ゴウマン)』から“『管理責任者』気分”の『軽率』へと大きく変化しており、大きな武力衝突は激減したが、様々な社会的騒動はその何倍も頻発(ヒンパツ)し・泥沼化してきたと言える。
・≪【予言】≫第5項『テロ』~予告
非主流派側の処置態度の大勢も20世紀後半以降になって、武力を背景にした緊張が激減したために大きく変化していて、「“武力解決優先主義”の暴挙(ボウキョ)を凶行(キョウコウ)する」武力紛争の大規模な誘発行為は減少したが、「“脅(オド)しと威嚇(イカク)による変革の要求”のパフォーマンスを強行する」テロ行為や弱い者イジメ・モンスタークレーマー行為などは年々激増し、様々な社会問題の深刻化が進んだと言える。
・≪【予言】≫第6項『平和』~予告
人体の免疫や抗体と人類の危機をリンクさせて考えると、
人を死に至らしめかねないウイルスや細菌などは、主流派の“『実質責任者』気取り”の『傲慢(ゴウマン)』な人間達であり、そんな病原菌に発熱などで強力に対抗しようとする免疫機能が、非主流派の「“武力解決優先主義”の暴挙(ボウキョ)を凶行する」人間達であり、
人を慢性的に悩ませる花粉症やアトピーなどのアレルゲン(アレルギーの原因となる抗原物質)などは、主流派の“『管理責任者』気分”の『軽率』な人間達であり、アレルゲンである抗原と特異的な反応を起こす抗体が、非主流派の「“脅(オド)しと威嚇(イカク)による変革の要求”のパフォーマンスを強行する」人間達である。
そうすると、現代人の悩みのタネであるアレルギーが、近年激増しているとはいても、その反面で、殺人ウイルスや病原菌の絶対数が減少して、人間の平均寿命が延びたように、
人類の悩みのタネであるテロが、近年激増しているとはいっても、その反面で、大規模な武力紛争は激減しているのだから、人類の繁栄はマダマダ続くという事である。
・≪『悪夢』≫第7項『人類滅亡』~予告
人間には「ハチ毒アレルギーやそばアレルギー・甲殻類アレルギーなどの」アナフィラキシーショックで、あっけなく死んでしまうという事があるのだから、人類にも、核テロやバイオテロなどによる一回のテロの連鎖で、人間が死滅してしまうような事態が訪れないとも限らないのである。
・予言の書・終章「世界の終焉」まで~予告
人類にとっての「人を悩ます花粉症やアトピーを引き起こす“アレルゲン”」のような【学校教育や試験制度に裏打ちされた「『躾け』を厳守すれば『世界の理』に適う」を“理想の真理”と考えてしまう『良識としての全幅の理解』の“盲信”と、その挙句(アゲク)の、民主主義思想のローカルな良識者集団が妄想する“地球の『管理責任者』気分”が引き起こす、「多様な文化圏に暮らす民族や世代・男女を問わない」全人類への『ローカル秩序』の“軽率”な対応・処置】という“人類への愚行”に抵抗してくる、“人類の免疫機能”としての【パフォーマンス的テロリズムや局所的テロリズム】を人類の平和を脅かす“過剰反応”だと安易に考えてしまって、
その大義名分の下で『一方的な規制強化の制裁や弾圧によるテロリズムの弱体化と封じ込め』を世界中で“凶行”してしまうと。
人類にとっての「人を死に至らしめかねない“殺人ウイルスや細菌”」のような【過去の遺物だと思ってしまいがちな「理想としての『標準的に統一された世界作り』のための“上意下達の枠組み”」こそが世界を唯一安定させられるという“盲信”と、その挙句(アゲク)の、『重い責任』尊重主義思想の責任者集団が妄想する“地球の重い責任を担う気概(キガイ)”が引き起こす、多様な人達が多様なままで共存している『共有ルール』の無秩序状態からの全人類の開放を目差す“重い責任”の遂行・貫徹】という“人類への蛮行”に対して、初期のうちに抵抗する術(スベ)を失ってしまって、
せっかく長い年月を要して少しづつ明確化してきた「各宗教や各民族の各世代や男女・一個人にまでおよぶ、固有の責任領域を確立する“責任問題範疇の概念”」を瞬(マタタ)く間に曖昧(アイマイ)にしてしまい、「『世界人類の一様化』という重い責任を担っての『大理想』の追求」が、阻止できないまま“完全復活”してしまうのです。
そしてついには、それに対しての“真に過剰な人類の免疫機能”としての“武力解決優先主義”による【“世界の終焉”をもたらす大規模テロリズム】を“誘発”させてしまうのである。
~~~第0012号先頭へ~~~
ちび猫のコメント参照
次回につづく。
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