第0023号
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(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0010号・第0011号・第0012号と第0047号もお読み下さい。)
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・追伸-18:責任者の正義・不正義
『ハーブ・ガーデニング』を始めてから2ヶ月程たった五月の中ごろになって、最初の頃に山から採取してきたイバラの内の、枯れてしまったと思って小さなポットに植えたままでほったらかしにしてあった一本が、突然小さな芽を付けたので、ビックリしてすぐに大きな鉢に植え替えをすると、翌日にはその小さな芽が枯れてしまって、早まった事をしたとひどくガッカリしてしまいましたが。一週間程すると別の箇所からまた新しい小さな芽が出てきたので、大喜びしながらも今度は“適切な水遣り”だけを心掛けて、余計な事はしないように厳重注意しながら見守っていると、芽が出てから一週間程たった今では小さいながらも立派な葉っぱに成長してくれていて、今日(5月28日)も仕事から帰宅してしばらくの時間、その小さな葉っぱを付けたイバラの鉢植えをただじっと眺めていたのです。
すると突然、10年程以前のある出来事が鮮明に思い出されてきたのですが。それは私がまだ西宮に住んでいた頃の、千葉に帰ってくる算段を模索(モサク)しながら仕事の後継者を探していた時期に、先輩で親友の(T)さんにその後継者になってほしいと安易に頼んでしまった事によって始まった出来事で。私はその(T)さんを自分から仕事に誘っておきながら、他の仕事仲間の手前、仕事場においては(T)さんに対して特に厳(キビ)しく接していて、ついには私が追い出すようにして(T)さんを辞めさせてしまったのです。
しかしその当時の私は、仕事場において私には(T)さんにおける責任があるのだと考えていて、それによって他の仕事仲間が(T)さんに直接モノが言えない状況にあるのだとも理解していて、私が(T)さんに厳しく接しないとエコヒイキしていると思われるだけだと変に意識してしまっていたので。私が何時ものように“正義漢面”して酷(ヒド)い言葉を連呼して、ついに(T)さんが辞めると言い出しても、私はまったく引き止めもせずにいて、そればかりか、辞めると言い出すのが遅すぎるとさえ言ってしまったのですが。それでも私は、苦労して自分の責任を正しく全(マット)うしきったのだとある意味満足して、今に至っていたのです。
そしてそんな私が今日、その小さな葉っぱを付けたイバラの鉢植えをただじっと見ているうちに、今さらではあるのですが、「当時の私は理不尽極まりない卑劣(ヒレツ)な“不正義”を、なぜ“正義漢面”して堂々と行い、満足してしまったのか、まったく残念でなりません(!)責任を感じるのであるならば、(T)さんを他の仕事仲間から守れるのは自分しかいないではないかと考えるべきだったし、(T)さんが他の仕事仲間にあまりモノが言えない立場にあるはずだとも理解すべきであったし、私が(T)さんの代弁をする必要があるのだとハッキリ意識して、何があっても他の仕事仲間の方に(T)さんを気づかうように言うべきであったのですから(!)」などと初めて反省する事が出来たのです。・・・本当に不思議でなりません。
・追伸-19:価値観の相互作用
もうすぐ6月になろうとしていたその日、初めて『ハーブ・ガーデニング』の実態を把握しようと思い、コンテナの数と寄せ植えにしたり路地植えにしたりしているモノも含めた3月から育て始めた植木の全ての本数を目算で数えてみたのですが、おおよそ「ローズマリー」のコンテナ数は60個で本数は70本となり、「ばら・イバラ」のコンテナ数は30個で本数は70本となり、それ以外のハーブや草花のコンテナ数は50個で本数も70本という数字になりました。数だけ見るとすごいのですが、まだみんな小さく、苗木みたいなモノなので、まだそれほどのモノにはなっていません。
ただ気になるのは、そんなまだ始めたばかりの『ハーブ・ガーデニング』なのにもかかわらず、「食べ物が成る木を植えた方がもっと楽しいのに」とか、「売れる木を植えた方がもっと張り合いが出るのに」とか言ってくる人がいる事なのです。私は自分の【癒し】のために今回“香りのする『ハーブ・ガーデニング』”を始めたのですが、その主旨から外れているとはいえ調理の食材にすれば美味しい料理になるハーブや、花の季節にはピンクだけではなく赤や黄色や白などの色々な色の花を咲かせる薔薇が主に植えられていて、さらには、ある程度育ってから売ればそこそこの値段が付きそうな花木も少しはあって、私的には偶然ではあるが草木の良い所と価値がバランス良く取れていて、このまま、この“香り”の追求をしていたとしても、良い意味での“相互作用”によってそう遠くない将来には、そこそこの庭になっているのではないかと思えていて、周囲の御節介(オセッカイ)が不思議でならないのです。
そういえば、少し以前にNHKのニュースドキュメンタリーみたいな番組で、クジラ漁と動物愛護団体のせめぎ合いが紹介されていて。その番組でも、「文化的知見(:見解)から見ての食用としての価値をとなえる日本の漁師達」と「自然保護の知見(:見識)から見ての希少動物としての価値をとなえる欧米系の人達」とが一つの《クジラ》という生き物の価値をめぐって激しく批難し合うばかりで、相容(アイイ)れない関係になってしまっていたのですが。しかし、《クジラ》という生き物の価値が多方面から複数あるという事は、その“相互作用”によってその《クジラ》という生き物の価値は普通に考えればドンドン高くなっていくハズなのだから、NHKの番組内での批難の応酬は単なる《クジラ》という生き物の価値をめぐっての争いではなくて、別の何らかの意図(:所思(ショシ)・利害・策略)が《クジラ》問題にすり替えられて起こっている問題であると思うのです(:アメリカやオーストラリアの自然保護運動は、政治家の票集めの機能を担っていて、世界中の彼方此方(アチコチ)で地元の住民と騒ぎを起こす事が目的となっている活動であり、クジラ漁は日本における彼らの、彼らの国向けの絶好のパフォーマンスの材料なのです:日本の調査団や自然保護関係者・NHKなどの取材陣が希少動物の状況を調査しに外国へ行ったとしたら、地元の漁師(:猟師)がその希少動物といかに上手に関わっているのかを記録し、それを発表して、他の希少動物が絶滅しないための重要な参考資料になると発表すると思うのです。しかし欧米系のアメリカやオーストラリアの自然保護運動家達には、そういった前向きな姿勢がなく、騒ぎを起こすのが目的で自然保護の大義を乱暴に振り回していて、まるで日本の右翼の宣伝カーみたいな活動しかしていないのです)。
そこから考えると、私の『ハーブ・ガーデニング』構想への周囲の御節介は、『ハーブ・ガーデニング』その物モノの良し悪しの話しではなくて、別の意図(:私の行いや発言への何らかの所思や、利害や、策略)を『ハーブ・ガーデニング』の問題にすり替えて主張されたモノであった可能性が高いので。私の『ハーブ・ガーデニング』への周囲の御節介な反応が、『ハーブ・ガーデニング』を正しく評価していないと私が周囲に反論したとしても、きっと《クジラ》問題のように感情論に陥ってしまうだけだと思うのです。
《クジラ》問題に限らず世界中で、【価値観の“相互作用”が通じない、何らかの意図によって“論点のすり替えられた”感情論になってしまつた争い】が起こっていて、それが世界中で紛争が絶えない大きな要因となっているような気がするのですが。何にせよ、難しい事は苦手だという人も多いと思いますので、ただこういった“物事の裏を考察する事”が、『ハーブ・ガーデニング』への御節介の検証のように、身近な諸問題の再検証にも役立つかもしれないとなんとなく感じられたら幸いです。・・・ここが私のスタートラインですから。
・追伸-20:プランターと原発事故
5月最後のその日、農作業に詳しいはずの私の母が、「イチゴの植えてあるプランターで、最近病気が出て困っている」と言うので、ホームセンターで安く大量に買ってあった予備のプランター3個と簡易配合の培養土を提供して、私が弱りかけたイチゴの植え替えをすると買って出たのですが。その病気の出たプランターは私の使っていた安物とは違って下の横に鉛筆程の丸い水抜き穴が開いているタイプのモノで、立体構造の網を底に置く事によって底に水が少し溜まる仕組みになっていたのですが、その水抜き穴が一つしかない上にそこに土が詰まっていて、プランターの中が水浸(ミズビタ)しになっていたのです。確かにこのプランターの構造は良く出来ていて、水遣りの手間を大幅に軽減させてくれる画期的なモノなのでしょうが、水抜き穴が丸くて一つしかないという事は、一般的な言い方でいうところの「その水抜き穴が何かでふさがってしまうという植物にとっては{致命的な事態}をあり得ない事に【想定し忘れ】て造られてしまっている“試作期間中の未完成品”」みたいなのです。
《:ただ、【想定】という事だけを単純思考していくと、《{多量の土で水抜き穴がふさがる}という事態を予(アラカジ)め前提にする事が出来た上でこの水抜き穴の事を考えている今の自分の立場を人は忘れていて》、そして、《水抜き穴があまりにも小さすぎるし、形も丸ではなくて楕円とか三角とかにしても良かったのではないかと思うし、何よりも穴が一つしかないというのはどう見ても不自然であると経験的に直感したコトなのを、合理的な思考の結果だと錯覚(サッカク)していて》、なおかつ、《このプランターが「土が水抜き穴をふさぐコトで根腐れを引き起こす」という可能性を【想定し忘れ】て製作するという人為的な【想定ミス】を犯して開発された“試作期間中の未完成品”であると安易に決め付けてしまっていて》。ついには、その末(スエ)に、《この単純な人為的ミスを次の製品開発の時に考慮されさえすればより完成度の高い新製品が造られていくことだろうという“希望的観測の妄想”に陥(オチイ)り、そういった【想定】と【想定ミス】を繰り返す事でメーカーが次に造る製品の完成度を確実に向上させていくだろうという“おとぎ話のような幻想”に陥ってしまい》、そして、《経験と直感を元にしただけの非科学的な判断とそれを基にした、架空の条件下での理論の構築と、一定の条件下での論理立ての積み上げと、その繰り返しでしかない【想定の決定作業】や【想定に基づく研究】や【想定の精度や条件の向上】が、学術研究の本筋だと“非学術的に盲信”してしまって》、なおかつ、《人の生活に役立とうとする姿勢や人の幸福に貢献しようとする理念などの正義の志(ココロザシ)と、それを変節する事なくやり続けるという誠実さが、人々を見守る神(仏)の恩恵を引き寄せて大きな成果が与えられるのだと“何らかの神様を厚く信仰”してしまっている》。といったような、“幻覚的期待”に浮かれて狂奔(キョウホン)している人間の姿や、人類の知識や学術という『知』の不自然さが浮き彫りになってきます:》
そして、{致命的な事態}という言葉が使われる程(ホド)の「【想定作業】によって深刻な悪影響が出ている{重大な問題}」であり、学術的にも興味深い「普段は固定している土の(ミクロとマクロの)流体状態と静止」についての学術的テーマで、{現在もなお詳しい調査・研究の抜け落ちている『学術的新分野』}であるにもかかわらず、「一見(イッケン)ただの何処(ドコ)にでもある製造メーカーによる人為的で単純な【想定ミス】に見えるし、どうせ問題点やリスクの設定を【想定】する時の議論が、“経済性と利便性の妥協点の選定”をろくにしないままコスト重視で行なわれた結果なのだろうし、それによって、消費者を軽(カロ)んじる“低い志”でモノを造っているメーカーの姿勢がうかがい知れて、そういったコトからも分かるように{結局は、神(仏)からの《ご褒美》がそう簡単には得られずに“試作期間中の未完成品”になってしまった発展途上商品}なのだろう」などと“思考放棄のような希望的納得”を消費者のみんながしていて。そのため、そういった“試作期間中の未完成品”が少しの改良を小出しに加えられただけで、根本的な問題解決は何時までも先送りにされたままで出回ってしまうという“危険性の放置状態”が問題視されないままになっていて。さらには、メーカー側や消費者ばかりか学術研究者からでさえも、日本における{土の「普段は固定している土の(ミクロとマクロの)流体状態と静止」に関する『学術的新分野』の“野放し”}を疑問視する声は(「やぶへび」になると思っているのか)出そうにないのです。
しかしそれは、程度の差こそあれ、あの東日本大震災の時に巨大津波に襲われて“あっけなく壊滅”してしまい、内陸部へと向かう“津波の猛威を防ぐ”事の出来なかった、【津波の高さを想定】して造られた“軽くて脆(モロ)いが背丈だけ高くて安くて早く造れる防波堤”や、津波に襲われてから三月にもなろうとしているのに危機的な状況がまだまだ続きそうな“危険状態からの回復手順や危機対応設備の導入を必要としない原子炉設計思想によって造られる日本の絶対安全原子炉”の福島の第一原子力発電所の原発事故についてもまったく同じで。
新聞やテレビなどで繰り返し見聞きしてきた《“日本の専門家達”の説明や分析で必ず使われる“【想定外】の事態”》という言葉に内在する、「~~~人間による【想定作り】が怠りなく行なわれ、【怠りの無い想定】が作られてさえいれば、そういう“危機的事態の発生”は無かったはずで。したがってこの事故は、単なる人為的なミスであり、{科学技術における“学術的な問題の存在”として指摘されるような、学問的意味合いの事情}は一切含んでおらず。しかも、人類と日本社会に貢献するんだという高い志を、日本の科学工業技術者や産業開発研究者が失わずに、何時も粉骨努力し創意工夫し、さらに細かく言うと、“一人一人が個々に”{有用性や効率性を自戒(ジカイ)し、公平性や公共性を高度に追及し、神(仏)からの《ご褒美:女神の微笑み》を大切に考えながら}怠りなく、日本が世界に貢献し誇れる不断の継続を実践していて。ましてや、【想定作り】における改善不可能な怠りなどがあるはずも無いので。この一時的な危機的状況さえ乗り切れば、【想定の微調整】だけで事態は確実に収束へと向かうはずなのだ~~~」というような学術研究とはほど遠い{学問的な調査・研究をするのには不向きな理想主義の考え方}の言い訳をしている“日本の専門家達”という存在があって。
そういった“学問オンチ”を専門家として野放しにするような、日本国市民の「~~~土木事業や原子力開発における【想定ミス】の大事故がチョクチョク起こっているのに、“学術的な問題の存在”が無いという不自然な説明で安心し。技術者や研究者が“個人個人で個別に”{馴れ合いにならず、結託(ケッタク)せず、切磋琢磨(セッサタクマ)し、神(仏)の支援に感謝し、天の理の導きに耳を傾けて}正しい世界の実現を前向きに追い求めてさえいてくれれば、それで日本は安泰であると安心し。何時も一人で穢(ケガ)れを嫌い、孤高を保った清浄な精神で、一対一の対応の神(仏)と向き合って現状の認識を拒絶する《個人ごとの神秘主義的な信仰》を強固に守る日本人の民族性~~~」があって。それが共通の起因となっているのではないかと思うのです。
~~~第0025号へ続きます~~~
(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0011号・第0012号をお読み下さい。)
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ちび猫のコメント参照
次回につづく。
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・追伸-18:責任者の正義・不正義
『ハーブ・ガーデニング』を始めてから2ヶ月程たった五月の中ごろになって、最初の頃に山から採取してきたイバラの内の、枯れてしまったと思って小さなポットに植えたままでほったらかしにしてあった一本が、突然小さな芽を付けたので、ビックリしてすぐに大きな鉢に植え替えをすると、翌日にはその小さな芽が枯れてしまって、早まった事をしたとひどくガッカリしてしまいましたが。一週間程すると別の箇所からまた新しい小さな芽が出てきたので、大喜びしながらも今度は“適切な水遣り”だけを心掛けて、余計な事はしないように厳重注意しながら見守っていると、芽が出てから一週間程たった今では小さいながらも立派な葉っぱに成長してくれていて、今日(5月28日)も仕事から帰宅してしばらくの時間、その小さな葉っぱを付けたイバラの鉢植えをただじっと眺めていたのです。
すると突然、10年程以前のある出来事が鮮明に思い出されてきたのですが。それは私がまだ西宮に住んでいた頃の、千葉に帰ってくる算段を模索(モサク)しながら仕事の後継者を探していた時期に、先輩で親友の(T)さんにその後継者になってほしいと安易に頼んでしまった事によって始まった出来事で。私はその(T)さんを自分から仕事に誘っておきながら、他の仕事仲間の手前、仕事場においては(T)さんに対して特に厳(キビ)しく接していて、ついには私が追い出すようにして(T)さんを辞めさせてしまったのです。
しかしその当時の私は、仕事場において私には(T)さんにおける責任があるのだと考えていて、それによって他の仕事仲間が(T)さんに直接モノが言えない状況にあるのだとも理解していて、私が(T)さんに厳しく接しないとエコヒイキしていると思われるだけだと変に意識してしまっていたので。私が何時ものように“正義漢面”して酷(ヒド)い言葉を連呼して、ついに(T)さんが辞めると言い出しても、私はまったく引き止めもせずにいて、そればかりか、辞めると言い出すのが遅すぎるとさえ言ってしまったのですが。それでも私は、苦労して自分の責任を正しく全(マット)うしきったのだとある意味満足して、今に至っていたのです。
そしてそんな私が今日、その小さな葉っぱを付けたイバラの鉢植えをただじっと見ているうちに、今さらではあるのですが、「当時の私は理不尽極まりない卑劣(ヒレツ)な“不正義”を、なぜ“正義漢面”して堂々と行い、満足してしまったのか、まったく残念でなりません(!)責任を感じるのであるならば、(T)さんを他の仕事仲間から守れるのは自分しかいないではないかと考えるべきだったし、(T)さんが他の仕事仲間にあまりモノが言えない立場にあるはずだとも理解すべきであったし、私が(T)さんの代弁をする必要があるのだとハッキリ意識して、何があっても他の仕事仲間の方に(T)さんを気づかうように言うべきであったのですから(!)」などと初めて反省する事が出来たのです。・・・本当に不思議でなりません。
・追伸-19:価値観の相互作用
もうすぐ6月になろうとしていたその日、初めて『ハーブ・ガーデニング』の実態を把握しようと思い、コンテナの数と寄せ植えにしたり路地植えにしたりしているモノも含めた3月から育て始めた植木の全ての本数を目算で数えてみたのですが、おおよそ「ローズマリー」のコンテナ数は60個で本数は70本となり、「ばら・イバラ」のコンテナ数は30個で本数は70本となり、それ以外のハーブや草花のコンテナ数は50個で本数も70本という数字になりました。数だけ見るとすごいのですが、まだみんな小さく、苗木みたいなモノなので、まだそれほどのモノにはなっていません。
ただ気になるのは、そんなまだ始めたばかりの『ハーブ・ガーデニング』なのにもかかわらず、「食べ物が成る木を植えた方がもっと楽しいのに」とか、「売れる木を植えた方がもっと張り合いが出るのに」とか言ってくる人がいる事なのです。私は自分の【癒し】のために今回“香りのする『ハーブ・ガーデニング』”を始めたのですが、その主旨から外れているとはいえ調理の食材にすれば美味しい料理になるハーブや、花の季節にはピンクだけではなく赤や黄色や白などの色々な色の花を咲かせる薔薇が主に植えられていて、さらには、ある程度育ってから売ればそこそこの値段が付きそうな花木も少しはあって、私的には偶然ではあるが草木の良い所と価値がバランス良く取れていて、このまま、この“香り”の追求をしていたとしても、良い意味での“相互作用”によってそう遠くない将来には、そこそこの庭になっているのではないかと思えていて、周囲の御節介(オセッカイ)が不思議でならないのです。
そういえば、少し以前にNHKのニュースドキュメンタリーみたいな番組で、クジラ漁と動物愛護団体のせめぎ合いが紹介されていて。その番組でも、「文化的知見(:見解)から見ての食用としての価値をとなえる日本の漁師達」と「自然保護の知見(:見識)から見ての希少動物としての価値をとなえる欧米系の人達」とが一つの《クジラ》という生き物の価値をめぐって激しく批難し合うばかりで、相容(アイイ)れない関係になってしまっていたのですが。しかし、《クジラ》という生き物の価値が多方面から複数あるという事は、その“相互作用”によってその《クジラ》という生き物の価値は普通に考えればドンドン高くなっていくハズなのだから、NHKの番組内での批難の応酬は単なる《クジラ》という生き物の価値をめぐっての争いではなくて、別の何らかの意図(:所思(ショシ)・利害・策略)が《クジラ》問題にすり替えられて起こっている問題であると思うのです(:アメリカやオーストラリアの自然保護運動は、政治家の票集めの機能を担っていて、世界中の彼方此方(アチコチ)で地元の住民と騒ぎを起こす事が目的となっている活動であり、クジラ漁は日本における彼らの、彼らの国向けの絶好のパフォーマンスの材料なのです:日本の調査団や自然保護関係者・NHKなどの取材陣が希少動物の状況を調査しに外国へ行ったとしたら、地元の漁師(:猟師)がその希少動物といかに上手に関わっているのかを記録し、それを発表して、他の希少動物が絶滅しないための重要な参考資料になると発表すると思うのです。しかし欧米系のアメリカやオーストラリアの自然保護運動家達には、そういった前向きな姿勢がなく、騒ぎを起こすのが目的で自然保護の大義を乱暴に振り回していて、まるで日本の右翼の宣伝カーみたいな活動しかしていないのです)。
そこから考えると、私の『ハーブ・ガーデニング』構想への周囲の御節介は、『ハーブ・ガーデニング』その物モノの良し悪しの話しではなくて、別の意図(:私の行いや発言への何らかの所思や、利害や、策略)を『ハーブ・ガーデニング』の問題にすり替えて主張されたモノであった可能性が高いので。私の『ハーブ・ガーデニング』への周囲の御節介な反応が、『ハーブ・ガーデニング』を正しく評価していないと私が周囲に反論したとしても、きっと《クジラ》問題のように感情論に陥ってしまうだけだと思うのです。
《クジラ》問題に限らず世界中で、【価値観の“相互作用”が通じない、何らかの意図によって“論点のすり替えられた”感情論になってしまつた争い】が起こっていて、それが世界中で紛争が絶えない大きな要因となっているような気がするのですが。何にせよ、難しい事は苦手だという人も多いと思いますので、ただこういった“物事の裏を考察する事”が、『ハーブ・ガーデニング』への御節介の検証のように、身近な諸問題の再検証にも役立つかもしれないとなんとなく感じられたら幸いです。・・・ここが私のスタートラインですから。
・追伸-20:プランターと原発事故
5月最後のその日、農作業に詳しいはずの私の母が、「イチゴの植えてあるプランターで、最近病気が出て困っている」と言うので、ホームセンターで安く大量に買ってあった予備のプランター3個と簡易配合の培養土を提供して、私が弱りかけたイチゴの植え替えをすると買って出たのですが。その病気の出たプランターは私の使っていた安物とは違って下の横に鉛筆程の丸い水抜き穴が開いているタイプのモノで、立体構造の網を底に置く事によって底に水が少し溜まる仕組みになっていたのですが、その水抜き穴が一つしかない上にそこに土が詰まっていて、プランターの中が水浸(ミズビタ)しになっていたのです。確かにこのプランターの構造は良く出来ていて、水遣りの手間を大幅に軽減させてくれる画期的なモノなのでしょうが、水抜き穴が丸くて一つしかないという事は、一般的な言い方でいうところの「その水抜き穴が何かでふさがってしまうという植物にとっては{致命的な事態}をあり得ない事に【想定し忘れ】て造られてしまっている“試作期間中の未完成品”」みたいなのです。
《:ただ、【想定】という事だけを単純思考していくと、《{多量の土で水抜き穴がふさがる}という事態を予(アラカジ)め前提にする事が出来た上でこの水抜き穴の事を考えている今の自分の立場を人は忘れていて》、そして、《水抜き穴があまりにも小さすぎるし、形も丸ではなくて楕円とか三角とかにしても良かったのではないかと思うし、何よりも穴が一つしかないというのはどう見ても不自然であると経験的に直感したコトなのを、合理的な思考の結果だと錯覚(サッカク)していて》、なおかつ、《このプランターが「土が水抜き穴をふさぐコトで根腐れを引き起こす」という可能性を【想定し忘れ】て製作するという人為的な【想定ミス】を犯して開発された“試作期間中の未完成品”であると安易に決め付けてしまっていて》。ついには、その末(スエ)に、《この単純な人為的ミスを次の製品開発の時に考慮されさえすればより完成度の高い新製品が造られていくことだろうという“希望的観測の妄想”に陥(オチイ)り、そういった【想定】と【想定ミス】を繰り返す事でメーカーが次に造る製品の完成度を確実に向上させていくだろうという“おとぎ話のような幻想”に陥ってしまい》、そして、《経験と直感を元にしただけの非科学的な判断とそれを基にした、架空の条件下での理論の構築と、一定の条件下での論理立ての積み上げと、その繰り返しでしかない【想定の決定作業】や【想定に基づく研究】や【想定の精度や条件の向上】が、学術研究の本筋だと“非学術的に盲信”してしまって》、なおかつ、《人の生活に役立とうとする姿勢や人の幸福に貢献しようとする理念などの正義の志(ココロザシ)と、それを変節する事なくやり続けるという誠実さが、人々を見守る神(仏)の恩恵を引き寄せて大きな成果が与えられるのだと“何らかの神様を厚く信仰”してしまっている》。といったような、“幻覚的期待”に浮かれて狂奔(キョウホン)している人間の姿や、人類の知識や学術という『知』の不自然さが浮き彫りになってきます:》
そして、{致命的な事態}という言葉が使われる程(ホド)の「【想定作業】によって深刻な悪影響が出ている{重大な問題}」であり、学術的にも興味深い「普段は固定している土の(ミクロとマクロの)流体状態と静止」についての学術的テーマで、{現在もなお詳しい調査・研究の抜け落ちている『学術的新分野』}であるにもかかわらず、「一見(イッケン)ただの何処(ドコ)にでもある製造メーカーによる人為的で単純な【想定ミス】に見えるし、どうせ問題点やリスクの設定を【想定】する時の議論が、“経済性と利便性の妥協点の選定”をろくにしないままコスト重視で行なわれた結果なのだろうし、それによって、消費者を軽(カロ)んじる“低い志”でモノを造っているメーカーの姿勢がうかがい知れて、そういったコトからも分かるように{結局は、神(仏)からの《ご褒美》がそう簡単には得られずに“試作期間中の未完成品”になってしまった発展途上商品}なのだろう」などと“思考放棄のような希望的納得”を消費者のみんながしていて。そのため、そういった“試作期間中の未完成品”が少しの改良を小出しに加えられただけで、根本的な問題解決は何時までも先送りにされたままで出回ってしまうという“危険性の放置状態”が問題視されないままになっていて。さらには、メーカー側や消費者ばかりか学術研究者からでさえも、日本における{土の「普段は固定している土の(ミクロとマクロの)流体状態と静止」に関する『学術的新分野』の“野放し”}を疑問視する声は(「やぶへび」になると思っているのか)出そうにないのです。
しかしそれは、程度の差こそあれ、あの東日本大震災の時に巨大津波に襲われて“あっけなく壊滅”してしまい、内陸部へと向かう“津波の猛威を防ぐ”事の出来なかった、【津波の高さを想定】して造られた“軽くて脆(モロ)いが背丈だけ高くて安くて早く造れる防波堤”や、津波に襲われてから三月にもなろうとしているのに危機的な状況がまだまだ続きそうな“危険状態からの回復手順や危機対応設備の導入を必要としない原子炉設計思想によって造られる日本の絶対安全原子炉”の福島の第一原子力発電所の原発事故についてもまったく同じで。
新聞やテレビなどで繰り返し見聞きしてきた《“日本の専門家達”の説明や分析で必ず使われる“【想定外】の事態”》という言葉に内在する、「~~~人間による【想定作り】が怠りなく行なわれ、【怠りの無い想定】が作られてさえいれば、そういう“危機的事態の発生”は無かったはずで。したがってこの事故は、単なる人為的なミスであり、{科学技術における“学術的な問題の存在”として指摘されるような、学問的意味合いの事情}は一切含んでおらず。しかも、人類と日本社会に貢献するんだという高い志を、日本の科学工業技術者や産業開発研究者が失わずに、何時も粉骨努力し創意工夫し、さらに細かく言うと、“一人一人が個々に”{有用性や効率性を自戒(ジカイ)し、公平性や公共性を高度に追及し、神(仏)からの《ご褒美:女神の微笑み》を大切に考えながら}怠りなく、日本が世界に貢献し誇れる不断の継続を実践していて。ましてや、【想定作り】における改善不可能な怠りなどがあるはずも無いので。この一時的な危機的状況さえ乗り切れば、【想定の微調整】だけで事態は確実に収束へと向かうはずなのだ~~~」というような学術研究とはほど遠い{学問的な調査・研究をするのには不向きな理想主義の考え方}の言い訳をしている“日本の専門家達”という存在があって。
そういった“学問オンチ”を専門家として野放しにするような、日本国市民の「~~~土木事業や原子力開発における【想定ミス】の大事故がチョクチョク起こっているのに、“学術的な問題の存在”が無いという不自然な説明で安心し。技術者や研究者が“個人個人で個別に”{馴れ合いにならず、結託(ケッタク)せず、切磋琢磨(セッサタクマ)し、神(仏)の支援に感謝し、天の理の導きに耳を傾けて}正しい世界の実現を前向きに追い求めてさえいてくれれば、それで日本は安泰であると安心し。何時も一人で穢(ケガ)れを嫌い、孤高を保った清浄な精神で、一対一の対応の神(仏)と向き合って現状の認識を拒絶する《個人ごとの神秘主義的な信仰》を強固に守る日本人の民族性~~~」があって。それが共通の起因となっているのではないかと思うのです。
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(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0011号・第0012号をお読み下さい。)
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ちび猫のコメント参照
次回につづく。
親代わりで『ちび』を育てた飼い犬の『ジョン』も、最近は少し元気がありませんし。もし本当に『ちび』が帰ってこなかったら、このブログのタイトルの『ちび猫』の危機でもあるのですが。「ちび猫」も両親も、『ちび』が帰ってくる夢を何度も見ているのですから、きっと『ちび』は帰ってくると信じています。