第0011号
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第0032号の「『植物』・『苔』と『生きた水』・『山の腐葉土』の事情」は随時書き換えていますので、安心して参照してください。
今後のブログの方向性を模索(モサク)しながら書き進めている第0013号も参考になると思うので、是非お読み下さい(記入順序逆転です)。
・共通の参照
(B)『内向き』か『外向き』
字数オーバーの為、以後は第0047号へ移動しました。
(A)【硬直(コウチョク)】と【膠着(コウチャク)】
『場面緘黙症』について色々言ってきましたが、早い話し、発声困難な状況について、ノドが{車が故障によってうまく前進する事が出来ないでいる様に}【硬直(コウチョク)】しているために、うまく発声する事が出来ないでいるのだと≪当人の身心における神経症であるというように『人が自身において発症している問題』だと人の目線から局所的に≫判断してしまうのは、根本的に間違いで。発声動作が{渋滞によって車が速く前進する事が出来ないでいる様に}【膠着(コウチャク)】しているために、時間ばかり掛かって早く発声に至る事が出来ないのだと≪個人の発症が問題を発生させているのではなくて『外部要因の放置による状況の悪化が問題形成の要因になっている』と大所高所から大局的に≫判断しなくては、『場面緘黙症』への適切な対処はなかなかうまく見付けられません。
『代替え言葉』の使用は〔渋滞をかわすための、バイパス道・ぬけ道の新設と積極的活用〕の、『メモ用紙治療法・“ポン”治療法や、下っ腹発声の練習』は〔渋滞解消のための、主要道路の拡幅整備〕の、『建て付けの悪い重い引き出しをうまく引き出すイメージ発声』の実践は〔渋滞にはまらないための、高速道路網の充実と上手な活用〕の言いかえと言えなくもない(!)と思いますが。それは、発声困難な状況を『神経症などによる身心への影響によってノドが【硬直】してしまい、『場面緘黙症』の当人が自身の身体において発声出来ないでいる事態』と判断して、人が起こしている発症を局所的に解消しようとするモノとは違って。『普段はスムーズな発声動作が突然に【膠着(コウチャク)】するような、『場面緘黙症』の当人がいくらその気になっても早くは発声に至れない何らかの外部要因的な問題が発生していて、いつまでも放置されている事態』と判断して、人の前に立ちはだかる問題を大局的に解決するコトを目差すモノであります。
(0)『メモ用紙治療法』・『“ポン”治療法』
2012年7月25日に放送されたNHKの『ためしてガッテン』で、【噛み続け】の癖についてやっていたのでが、特に「上下の歯が弱く触れ合っているだけでも問題があります、ヒトが普通1日に歯をあわせる時間は20分ほどしかありません。」という話しはまったくの盲点でした。放送では「《歯を離す》と書いたメモをよく目に付く場所やパソコンなど集中してしまう場所に貼り、《メモを見たらフーと息を吐く》。これによって治したい癖と両立しない新たな癖をつける」という『メモ用紙治療法』を勧めていて。さらには「《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》で、いつも歯を離そうと頑張りすぎると、逆にストレスになってしまい逆効果です。メモとメモの間は何もしなくてOKです。早い人で、1週間ほどで効果を実感できます。」とありました。
しかし、【噛み続け】の癖が原因とされる症状は「肩こり・おなら・頭痛・ゲップ・ひざ痛・首の痛み・おなかのハリ・めまい・のどの異物感・耳なり・腰痛・視力低下・息苦しさ・アゴの痛み…」とはあっても、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』はまったく含まれてはいませんので、『メモ用紙治療法』が本当に有効なのか(?)と疑う人もあるハズで、そういう方は無視して(1)以降を参照して下さい。
ちなみに、私の『大人の場面緘黙症』の為の『メモ用紙治療法』は上記と少し違っていて。メモの内容は《歯を離す》ではなく、《“ポン”と鳴らす》という言葉にして、「口を〔あ・い・う・え・お〕の形で開き、手のひらで口を敲(タタ)き、鼓(ツヅミ)のように“ポン・ポン”と数回鳴らす」という『“ポン”治療法』を、ヒマを見つけては行うようにしています。そして、《メモを見たらフーと息を吐く》の所を、当然《メモを見たら一日に何度でも〔あ・い・う・え・お〕の口の形でを“ポン・ポン”と鳴らす》として、《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》ではなくて、《メモが目につくたびに口を“ポン・ポン”と鳴らして、≪“ポン”の音が出る〔あ・い・う・え・お〕の口の開き≫をしっかりと習慣化させるコトが大事》と認識するようにしているのです。
本当に私ごとなのですが、この『“ポン”治療法』を数日続けていたダケで、以前は5秒以上あった私の『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間が、今では1秒以下に解消されました。個人差や原因の違いで、『沈黙』時間がそれ程には改善しない人もいるかと思いますが、『メモ用紙治療法』や『“ポン”治療法』の話しが、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』で悩む人たちの参考・ヒントになったとしたら幸いです。
余談ですが、もし『大人の場面緘黙症』の人で何か『発声練習』をしたいというのであれば、≪口を軽く閉じて、息を口の中に溜め、さらに下っ腹から肺に強く圧力をかけて、その状態で口先から少しずつ息を出しながら{少しこもった音で}発声をする≫という『発声練習』を試してみて下さい。『代替え言葉』の使用と合わせれば、『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間を、限りなく“ゼロ”に近づける事が出来ると思います。
又、発声時に何か注意をしたいのであれば、「建て付けの悪い{重い荷物の入った}引き出しをゆっくりと均等に力を込めて引き出す感覚で、発声を何度か繰り返す」というコトを、《バランス》と《タイミング》と《パワー》に注意して行ってみて下さい。
(1)医療情報
『場面緘黙症』による“ノドのシビレ”を軽減するのに「NHKでも放送された」注射をする方法もあるそうなので、それが身近な医療機関で出来る方はお試し下さい。
(2)栄養療法
食べ物としては、『かつお節:3gか5gのパック一袋をそのままで(何にも加えず、何も加えずに)』と『生姜:生姜糖1枚か生姜湯一杯』と『ビタミンC:錠剤かドリンクで300mg~1000mg』を一回分として一日1回~3回毎日摂取して、自律神経の高ぶりを緩和させれば、何らかの効果が有るはずです。
(3)対処療法
どうしても自分一人で『場面緘黙症』を解消させたいと考えてしまう人は、『急がば回れ』を肝に銘じて「自分が理想とする『言いたい言葉の発声』から{近づくのではなくて}だんだん遠のいていくように『拒否したい言葉の発声』を発掘・発見しては、《発声困難になる場面》で発声できるモノはないかと試していく」という“消極的連続性”の【諦(アキラ)めと再チャレンジの繰り返し】を貫(ツラヌ)いて下さい。間違っても《為せば成る為さねばならぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり》などとは考えない事です。
(4)根本療法
タイプ1
何らかの心の傷による反発心・反抗心を原因として【自分は『良い言葉の発声』をしようとしているのだから、「これで良いんだ!誰も文句は言えない筈(ハズ)だ!」だから、余計な「相手を思いやっての言葉使い」や「状況を考慮しての言葉選び」などの煩(ワズラ)わしい事から開放されているんだ!】と、思い込もおうとしすぎた為に。その無理によって《意識内での「それではいけない!!」と主張する『良心(:真心)』との葛藤(カットウ)と、そんな悪徳な自分への自己嫌悪と『良心(:真心)』の呵責による苦悩》がどんどん深層意識の奥底に埋もれていってしまい。そして、そういった『良心(:真心)』との葛藤が実際には続いているにもかかわらず、無自覚なまま徐々(ジョジョ)に心の表面に伝わってこなくなってしまって。ついには、何の自己嫌悪も『良心(:真心)』の呵責も感じないまま【単に『良い言葉の発声』をしたいだけなのに、どうしてか同じ場面で同じ言葉の発声困難に“いつもいつも”陥(オチイ)ってしまう】と、無邪気に悩むようになる。
という『場面緘黙症』のイメージを《客観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
タイプ2
自分は【他人(ヒト)の立場に立って考える】という事を一生懸命考えていて、他人(ヒト:相手)が聞いて「不満に思えない筈(ハズ)」で「納得をせざるを得ない筈(ハズ)」の、文句の言いようの無い『良い言葉の発声』を、何も疑う事無く心掛けていたのだが。本当なら、こんな《自己中心的》な事を誰かにされたとしたら、『自分だったら腹を立てないか?いや、腹を立てる筈(ハズ)だ!』と疑問に思ってもいい筈(ハズ)なのに。『天』や『神仏』などの『何モノか』という存在とその影響力に畏敬(イケイ)の念を永年抱いている内に、いつの間にか【自分ではない別の『何モノか』という立場に立って考える】という視野を特別視してしまって、自分も【他人(ヒト)の立場に立って考える】という事によって《特別な力や可能性、何らかの加護や御利益(ゴリヤク)の獲得》が達成されると錯覚し、誤解してしまっていたのです。そして、私は長年『良い言葉の発声』という暴言を他人(ヒト)に浴びせようと努力していたのですが、幸いにも『場面緘黙症』のおかげでそれを実施しないでいられたのです。
という『場面緘黙症』のイメージを《主観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
・第0011号本題
・☆本題「(4)根本療法 タイプ1の思惟・考証」
・★『良心(:真心)』が深層意識の奥底に埋もれるとは何なのか
『場面緘黙症』の人には、《『良い言葉の発声』のごり押しについての「これで良いんだ!」という身勝手な思い込み》と、《「それではいけない!!」と主張する『良心(:真心)』》との葛藤(カットウ)が発生していて。それは、《身勝手で思いやりに欠けた『良い言葉の発声』をごり押ししてしまっている最低な自分への自己嫌悪》であったり。《『良い言葉の発声』をごり押ししてしまう時の『良心(:真心)』の呵責(カシャク)による苦悩》であったりするのですが。
ただそのために、『場面緘黙症』の人は、自分の悪徳な姿を直視したくないという現実逃避の意識から、『良い言葉の発声』のごり押しをする時に心が痛くなる《『良心(:真心)』との葛藤(カットウ)》である《自己嫌悪》や《『良心(:真心)』の呵責による苦悩》そのものを、その精神活動をさせたまま{表面意識の裏側の}深層意識の奥底に閉じ込めてしまうのです。
しかしそれでも、その《『良心(:真心)』との葛藤(カットウ)》である《自己嫌悪》や《『良心(:真心)』の呵責による苦悩》の精神活動は何時までも持続してしまう為、それによる神経的作用だけが『良い言葉の発声』のごり押しをする時に現れ、その人を縛り付けるので、『場面緘黙症』の発声困難が発症してしまうのです。
また、新発見などでの先陣争いをしている事であるなら、それはたいした事ではなく。みんなが拒否していて誰もが拒絶していた、消されかけているモノ消されてしまっていたモノを、また掘り起こして活かしていく事が、重要であり大切なのですが。それは『場面緘黙症』の対策でも同じで、『良い言葉の発声』の発声困難を解消させられそうな対策を{先を争って}あれこれ考えていても、たいして意味が無いのです。
したがって、『良い言葉の発声』という事の悪徳さ・背徳性を自覚するコトと、自分が話しかける実際の相手を思いやっての「言葉使い」や「言葉選び」の再考がとても大切なのですが。ただそれは、『場面緘黙症』の人に受け入れ易く、聴き易いという様なモノでは{絶対に}ないのです。
なので、『良い言葉の発声』のサポートを考案して、その実効性や汎用性の先陣争いをいくらしていても意味が無く。たとえ、それが全ての『場面緘黙症』の人達の求めであったとしても、それに答えようとする事自体が、すでに間違いの始まりなのです。
☆本題「(3)対処療法の思惟・考証」は第0010号を参照して下さい
☆本題「(4)根本療法 タイプ2の思惟・考証」は第0012号を参照して下さい
第0030号【ちび猫が見付けた『~~~』】シリーズ、新スタート
~~~第0011号先頭へ~~~
・旧項目
・『大人の場面緘黙症』の私
~①~まず、『大人の場面緘黙症』による発声困難が緩和しない原因として、【発声障害】の軽減に着目した『緘黙症対策』に“こだわり”を持ち過ぎて、現実的な有効手段を敬遠・拒絶してしまっている事も考えられるので。自分の【発声障害】は軽減しないと覚悟を決めて・腹をくくり、『大人の場面緘黙症』による発声困難を緩和させるのではなくて、『大人の場面緘黙症』による周囲との摩擦を解消させる手段を考えて行きます。
・基本的原因(勝手な私見なので、深く考える必要は無いと思います)
0.なかなか改善しない『大人の場面緘黙症』による発声困難は「発声障害の“原因究明”の不徹底」によるモノだと“理性的に判断”し、自分の{神にはなれない}【人間的未熟さ】もわきまえずに{努力と工夫と、想いの強さによって}【唯一神や天や、神々や仏の導き】があると意識した{“神”を畏敬(イケイ)している“自分の理性を信じる”事を大前提にしての、見かけだけが“合理的な”}考え方をし、{想像しているだけで現実には在り得ない}【唯一神や天や、神々や仏の支え】がある事をあてにしてしまって。
自分の{全ての人間に共通の}【不安定な理性】で“原因究明”を{未熟に}行なっているうちに、発声障害の原因は、「発声困難に陥(オチイ)る“その言葉自体”に何らかの“精神的な負”の『ケチ』が付いてしまったために、“その言葉”を口にするコトを無意識で拒んでいるからだ」という{未熟な}論理にたどり着き。
そしてその“負”の『ケチ』の構成を、「自分の{何らかの}行いが『穢(ケガ)れ』たモノではないかと{無自覚で疑い}肯定してしまう事によって発生する{無意識内での}“負の認識”が、さらに深く潜在化したモノである」というような、『大人の場面緘黙症』についての{客観的合理性の全く無い}最終認識に{多くの『大人の場面緘黙症』の人が}到ってしまうのです。
そしてそんな{畏敬の念の対象である『何らか』な、“認識だけの存在”としての}【唯一神や天や、神々や仏】の{正しいハズの}存在に基づいて、「自分は何時も“清廉潔白であるという自己感覚”を抱いている必要がある」という強迫観念を抱くにいたり、ついには自分の言動や考え・思いにいたるまで、“愚直”に『誠実』を貫こうと狂奔(キョウホン)するようになってしまって。
そして「【発声障害】の軽減を目差す“はた迷惑”な【『間』の長すぎるダンマリ努力】の繰り返し行為」を《「困難だから」と途中で軽々しく変節しない》・《「努力をしている」と他人に言い訳しない》・《「目先の損得」などで、いちいち疑問を抱かない》という『誠実』さを試すための“自分への試練”に置き換えてしまい。
それにより当然な事として起こる周囲との悲惨な摩擦をただ無言で耐え忍びながら、その惨状における【無策な自分の責任を自問する】事や、【軋轢(アツレキ)が発生している状況を多角的に再分析する】事や、【『代替え言葉の使用』を検討するような現実に配慮した対処を講じる】事などを一切拒否し続けてしまったのです。
そしてさらに問題だったのは、【唯一神や天や、神々や仏は何時でも見守り、監視しているモノ】と理性的に意識して“神”を畏(オソ)れ敬(ウヤマ)い、「【『間』の長すぎるダンマリ努力】による“はた迷惑”を{我慢して}繰り返し続ける“努力の量”」や、「誠実さを貫く“志の正当さ”」や、「良好発声を目差す【想いの強さ】」などの積み上げを誠心誠意していれば、【神様は何時でも見ていてくれる】モノなので、“時機が満ちれば”奇跡的成果をもたらしてくれて、【発声障害】が軽減し発声困難が緩和していくはずだと{他力本願で}考えてしまった事で。
『“神”の絶対的存在』を事も有ろうに「理性を過信した合理性」と、「“神”を過信した他力本願」の≪2重で≫あてにしてしまっていたのです。
その結果以下の症状が発生して、【発声障害】の軽減に着目した『緘黙症対策』への“こだわり”が何時までも捨てられないのです。
1・今まで頑張ってきた「発声困難の緩和を目差す努力と工夫」の“積み上げが、惜(オ)しくて諦(アキラ)められない。
2.“発声が困難な言葉”の代わりに別の言葉を使う『代替え言葉』の使用が「“神”の恩恵を裏切る【卑怯(ヒキョウ)な変節】」に思えて許せない。
3.発声困難の緩和を目差した、【発声障害】の軽減に“こだわり”を持った『緘黙症対策』のための{『コロンブスの卵』的発見を目差すような}創意工夫的“小細工”を考案し・試行錯誤するコトが、“ワクワク”して止められない。
4.発声困難を【『間』の長すぎるダンマリ】と理性的に認識し、【『間』を無くす】という事を合理的に考えてしまって。発声が可能になるまでの{数秒間の}時間の『間』を上手に演出する手法を色々と{力を抜いて・制限を設けずに}模索(モサク)する事を、『大人の場面緘黙症』への屈服であり・人生の挫折であると恐怖してしまって、絶対拒絶の姿勢を崩せない。
・考えない方がいい原因例(私事(ワタクシゴト)ですので、読み流して下さい)
1.{ポジティブなイメージである}上昇志向という“言葉のイメージ”に魅(ミ)せられて、『緘黙症対策』に取り入れた「向上心の発揮を目差して上を向く動作」の時のアゴが上がる動きが、精神的な上擦(ウワズ)りを引き起こしてしまっているという事を、何故か見過(ミス)ごしてしまっているというコト。
2.『大人の場面緘黙症』が「ノドのシビレの病気による“障害”であり、当人以外が下手に口を出すと心まで傷つけてしまう恐れがある“繊細な問題”」であるという、「{処置・治療をするだけの}専門医の見解」に社会も周囲も当事者も振り回され、情報不足による軽率な処置が野放しになっていて。症状の悪化による『舌の筋肉の衰弱・硬直や、【発声障害】の過敏な反射』の重症化が、長年放置し続けられていたコト。
3・“触覚動作(ショッカクドウサ)”をともなった成功体験が恐怖症の緩和(カンワ)に有効だとは知らなかったコト。
4・【発声障害】だというだけで「発声困難という{自分にとっての}曲芸的言葉の発声が出来ない『正常さ』」を、無理して直(ナオ)そうと焦(アセ)っていたコト。
~②~次に、他の“小細工”に逃げずに、発声が困難な言葉の“実用的な代替え”となる【発声障害】の影響が少ない《見つかりにくいのは百も承知ですが、何とかギリギリで{【発声障害】が発生する“特定の場面”で}適用出来る『代替え言葉』》を、色々と探します。
・私の『代替え言葉の使用』の実用例
A・私は自分の名前の「鈴木(すずき)」の発声が「相手からかかってきた電話に対応する時などに」まったく出来ないので、指や拳・頭などで鳥の巣を突く動作をイメージしながら、電話口で「“すづき”(巣突き)です」と発声するようにしています。
B・朝の挨拶である「おはようございます」や、別れる時の挨拶である「お疲れ様です」の発声がまったく出来ないので、朝は{“おはようございます”と言っているように聞こえる}「“わよ”ございます」と言い、別れる時には「ご苦労様です」と言うようにしています。
~③~次に、使えそうな『代替え言葉』が候補に上がったら、それに合わせられる『間』の上手な取り方を、周囲に気遣った{周到な}いくつかのパターンを考案します。
・私の『うまい間』の実用例
A・電話口では「『間』!・『間』!・『間』を作れ!」と考えながら、「あっ」・「はい」と言って時間かせぎをします。
B・対面であっても、「あっ」・「はい」と{独り言のように}言ったり、笑顔を絶やさずにいて時間かせぎをします。
~④~次に、実際に発声が困難になる場面を{「『間』!・『間』!・『間』を作れ!」と考えながら}見計(ミハカ)らって、“笑顔”を絶やさず「あっ」・「はい」と言って、『代替え言葉』を発声します。
~⑤~、②・③・④を何度かチャレンジしてみて、自分には無理だと感じたら、{ノドのシビレを軽減する}注射をする方法を考えて下さい。
~⑥~、どうしても自分で“発声が困難な言葉”を発声させたいという人は、『かつお節』と『生姜』と『ビタミンC』を“多め”に“3回に分けて”毎日摂取して、自律神経の高ぶりを緩和させれば何らかの効果が有るかも知れません。
~⑦~、出来るならば、周囲の人に「『後ろめたく』そして『気がとがめて』しまって、その《躊躇(タメラ)い》の気持ちのせいで口から声が出てこないのです」と言って、理解を求める。
・参照
*【『場面緘黙症』とは、“ある特定の場面でだけ全く話せなくなってしまう現象”であり、子供の時期ほど顕著に現れやすい症状ではあるのだけれども。
単なる人見知りや恥ずかしがり屋とは大きな違いがあって、症状が大変強く、何年たっても自然には症状が改善せずに長く続く場合があり、“子供の時期の適切な手当て”が遅れてしまうと、成人になってからではなかなか改善しにくい傾向にあるみたいで。
そういった、少数ではあるが大人になってもしつこく残ってしまう症状の事を、特に『大人の場面緘黙症』と呼びます。】
*【『イップス』 とは、精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーができなくなる“運動障害や随意運動の低下”のことであり、それに類似した症状などにも広く使われる呼び名でありますし。
『ジストニア』とは、中枢神経系の障害による“不随意(ふずいい:意のままにならないコト)”で持続的な筋収縮(きんしゅうしゅく:筋肉の一定的な収縮運動)にともなって引き起こされる姿勢(シセイ)異常に対しての呼び名であると共に、全身あるいは身体の一部が“不随意”に捻(ネジ)れたり・硬直(コウチョク)したり・痙攣(ケイレン)したりするなどの症状と、それにともなう“運動障害や随意運動の低下”の総称として用いられる場合もあるのですが。
『ジストニア』以外の“不随意”な症状で、自分の意思とは無関係に生じる不合理な動作・運動としては、手足や全身の『振戦(ふるえ)』や、上下肢(シ:手足)全体の振回し運動の『バリスムス』や、手足や頭などがくねるような緩慢な旋回運動の『アテトーシス』や、痙攣的運動の『ミオクローヌス』や、口周辺部や舌の異常運動の『口ジスキネジー』などがあり、発症部位や運動の規則性や・強さや・睡眠時の運動有無などによって分類されるモノです。
身体機能的にそれらを説明すると、身体バランスの調整・運動の円滑化に重要な機能を持つ大脳基底核(だいのうきていかく:大脳皮質(だいのうひしつ)と視床(ししょう)・脳幹(のうかん)を結びつけている神経核の集まりであり、哺乳類の大脳基底核は運動調節、認知機能、感情、動機づけや学習など様々な機能を担っている)を中心とした錐体外路(すいたいがいろ:運動神経線維(ウンドウシンケイセンイ:ニューロン)の遠心性経路(エンシンセイケイロ)で錐体路(スイタイロ)以外の経路(ケイロ))が阻害された場合に、異常な筋収縮が発生して、“不随意運動”が引き起こされる現象だという事になります。】
*【『射幸心』とは、本来《射倖心》と書いて(しゃこうしん)と読み、ある程度の確率を伴う事柄において、良い結果が得られた時の高揚感を表す言葉であり、その“倖”の意味は「努力を必要としないで、予期せずに」訪れた幸せという意味である。
そのためか、幸運を得たいという心理による「幸運によって他人よりも幸せに恵まれたい、何時かは勝者になりたい」と思い期待してしまう心理状態を表す言葉として“広義”に使われる場合も少なくはないが、たいていは根拠の無い自信で自分だけが幸運を得られると思い込んでしまって、投機や投資や賭博や期待値の低い事業に夢中になって浪費してしまう傾向の心理状態を表す言葉として“狭義”に使われるモノである。】
・発声困難の実態は?(私見です)
発声が困難な言葉の代わりに別の言葉を使う『代替え言葉の使用』や、発声困難なままである《上手に『うまい間』を取る行為》を容認する事がなかなか出来ない。
《解説:カルト宗教やギャンブルにはまり込んでしまって抜け出せない人がよく陥(オチイ)ってしまう症状に、{周囲とのトラブルや、金銭的困窮に背を向けた}積み上げたチャンスや大逆転の機会を逃したくない気持ちの“期待準備快感症”があるが。
『大人の場面緘黙症』の人もよく似た症状で、発声困難という「“はた迷惑”な面倒な事になっている現実問題」を{真剣に}直視する“うっとおしい気分”から逃れ、{マンネリな}楽な事をいつまでも続けていて。
“現実的解決策”ではあったとしても、{『緘黙症対策』に追われて足掻(アガ)いている情況で}余計な“考える手間”が掛かかり、とてもうっとおしい上に、【発声障害】の軽減を達成する“チャンスを掴(ツカ)む喜び”を手放す事になってしまうので、「発声困難な言葉の代わりに別の言葉を使う『代替え言葉の使用』と、発声困難なままである《上手に『うまい間』を取る行為》の容認」への方針転換の決断行為に、“忌むべき穢(ケガ)れを招く安易さだ”というレッテルを巧みに貼り、「不誠実な『変節』である」と恐怖してしまう程の完璧な“濡れ衣”を着せ。
そして、「{不可能と言われる}発声困難の緩和に{打算無く}挑む“単調行為”の継続」という無策をワザワザ『誠実に』頑張る自分を、《脱線するコトなく目標を追い続ける想いと、努力と工夫を惜しまない稀有(ケウ)な人間で、高貴な人徳者なのだ》という理性的な認識を合理的に考えてしまうのです。
そしてさらには、『為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり』という格言を「無策をいつまでも続けて決して変節しないでいる自分への賞賛」と都合よく解釈し、「非合理的で精神主義な誠実さ」重視の“優柔不断な無策行為”をことさらに《験担(ゲンカツ)ぎや願掛(ガンカ)けの御利益(ゴリヤク)と、“神”の慈悲による有り難みが独占出来て、最も奇跡を起こしうる“最高の英知”であり“最上の英断”である》と褒(ホ)め称(タタ)え、《『物事の道理』に適った“本筋”と、『人間と世界の構造』とその“摂理(セツリ)”を見失う事がない『確かな“思慮深(シリョブカ)さ”そのモノ』である》と{『天の理』を信じて}大々的に擁護(ヨウゴ)しているのです。
それは、{『“神”の絶対的存在』に裏支えされた}《【自分の理性を信じる】コトから【合理的な思考】が始まる》という{人間賛歌の}思想の正統性をあてにして、「発声困難の緩和を成し遂げられる“理性を自分は与えられている”と信じ、【発声障害】の軽減を目差して“原因究明”に取り掛かる合理的思考」の有効性を安易に過信してしまい。
その上なお、《『“神”の創造主としての存在』を畏(オソ)れ敬(ウヤマ)い、その恩恵の絶対性を信じるコトから{始まり}受けられるようになる神の守護》や《全ての道理である『天の理』を尊び・厳守する“成功の近道”》というコトの正当性をあてにして、「『大人の場面緘黙症』の解決への{変節しない}純粋な想いと、努力と工夫を惜しまない行為の積み上げで示す神への畏敬(イケイ)の念」が引き起こす神秘的加護の“ウマイ話し”に依存してしまっているからなのです。
そのため、【自分で責任を持ち現実と向き合って対処を行なう】という大事な精神を『自主封印』してしまい、『代替え言葉の使用』や『うまい間』がいつまでも思いつけないのです。》
・『大人の緘黙症』の直接的“小細工”対策を考えるコトが止められない
《解説:ギャンブルに熱中する『射幸心』や、宗教に没頭して苦行・荒行もいとわない『信仰心』の“期待準備快感症”と同じように、「なかなか出来ないであろう“難しい事”をカッコ良く『昇華』出来る“時機”を{努力を積み上げ・はた迷惑を続け・苦しみに耐えながら}準備して待つ『ワクワク』する感じ」に浮かれてしまって。
難しそうで成功させるのが困難な『大人の場面緘黙症』の解決を目差す「“心地よい期待感”の持てる{決して達成出来ない}努力と工夫」にはまり込んでしまい、「着実に効果を求めようとする野暮ったい『代替え言葉の使用』や『うまい間』」を{『昇華』を待つ『ワクワク』感が無いと}拒絶したために、『緘黙症対策』が無意味な努力と工夫の連続に終始してしまうのです。
まさしく「結局何もやらないでいた方がまだましだった」とうコトが、『緘黙症対策』のほとんどだという事なのです。》
(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0012号もお読み下さい。)
第0030号【ちび猫が見付けた『~~~』】シリーズ、新スタート
今後のブログの方向性を模索(モサク)しながら書き進めている第0013号も参考になると思うので、是非お読み下さい(記入順序逆転です)。
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・分岐
・予言の書・序章「人類滅亡」まで
・≪【予言】≫第1項『一事が万事』
『一事が万事』(1)
『一事が万事』という「ありきたりな格言」の《論理的な観念》は人の精神をひどく臆病にし、人に他者の揚げ足取りを極端に容易(タヤス)く実践させてしまうモノみたいであり。
人は{『一事が万事』の《論理的な観念》}を無意識に持ち出してきて安易に『やっぱり』というレッテルを貼って他者を全否定するコト」を得意としながらも、『やっぱり』と他者に自分が言われるコトを極度に嫌悪し・恐怖する生き物であって。
その{『一事が万事』の《論理的な観念》}は人間独特の不安定な精神性を構築しているモノみたいではあるのだが。
それにとどまらず、{『一事が万事』の《論理的な観念》}は人に『やっぱり』と言われる事態を恐れさせ、「一人で居る時までも休む事をせずに『謙虚(ケンキョ)』な心を実践しようとしてしまう精神生活」に人を駆り立て続け、『攻撃衝動』を緩和するための「自分が他者より勝ったと感じた時に発生する『なまけるコトを欲求する』本能」を喪失(ソウシツ)させてしまって、理由の分からない怒りだけが精神の中に発生し続ける『よく切れる人・怒りっぽい人』へと人をいざない、その後はその人が「その一生をその『理由なき怒りの理由作り』に奔走し続けてしまう『被害妄想』の発症」に陥るまで後押しし続ける厄介なモノみたいなのです。
『一事が万事』(2)
それ以外にも、人があまり気に掛けていないだけだったために「元々は全て{『一事が万事』の《論理的な観念》}に由来するモノ」とは気付かずにいた
《始めに何も知らないまま「へま」をしてしまって『ヘンなクセ』を身に付けてしまうと、何年頑張ろうともその『ヘンなクセ』にいつまでも足を引っ張られてしまって、成功を修めるコトは一生出来なくなってしまう》とか、
《成功を修めるコトを目差しての継続努力を順調に始められたとしても、その途中で一度でも「楽をするズル」や「安易な手抜き」・「軽率な変節」・「目先の事への打算的処置」などを覚えてしまうと、『済し崩し(ナシクズシ)』にそれまでの実績やその後の可能性の総てを失ってしまうハメに陥ってしまう》とか、
《どんなに自主的に・有意義にと考えて頑張っているコトであっても、それがある意味では譲歩であり我慢であるといえるかも知れないと・そう見られているかもしれないと少しでも意識してしまっただけで、それにより「『蟻の一穴天下の破れ』の例えのような展開で大批難を受けてしまうと思えてきて」しまって、それ以後どんなに努力をしようとしても、自主的に行なっているとは・有意義さを目差して行なっているとは思えなくなってしまう》とか、
《自分がどんなに努力し何年頑張りどんな成功を修めようとも、その過程でどんな理由があるにしろ他者の助けや影響を少しでも受けてしまっていると、その評価の全てをその係わりを持った他者に取られてしまう》とか、
《どんなに自分としては気を付けて努力をしていたとしても、理由はどうあれ一度(ヒトタビ)『やっぱり』というレッテルを貼られてしまうと、どんなに頑張ってどれ程の成功を修めていようとも・この先何年頑張って・どんな成功を修めようとも、高い評価を受ける事は2度と出来なくなってしまう》とか、
《何かに取り組むコトを少しでもしていると、一人で休んで居る時にまで「『やっぱり』というレッテルを貼られるなどして全てを失ってしまう」という恐怖感にさいなまれて、「何時も・何時までも努力し続けなくてはならない」という強迫観念に陥(オチイ)ってしまう》とか
の悲観的な思い込みによって、「人間には悪い事態が何時でもすぐに発生しかねないのだ」という恐怖を人に抱かせて、「何かを新しく始める事がとても不快に感じてしまって」・「初めてのコトがほとんど何も出来なくなってしまうように」人を仕立て上げてしまっていたモノも当然{『一事が万事』の《論理的な観念》}であったわけです。
人間的精神性の根源に関わる重要な部分が、実は、こんな「どこかで聞いたと事があるというだけの普通の格言」という顔をしている{『一事が万事』の《論理的な観念》}だったわけです。
・≪【予言】≫第2項『世界の理』
『世界の理』(1)
{『一事が万事』の《論理的な観念》}に由来する〔『注意意識』の喚起による『縛(シバ)り』〕が、家庭や学校などでの『躾(シツ)け』や教育の場・受験勉強において何も分からない子供達を相手に、大人達側の勝手な都合によって色々な場面で多少強引に利便的にそして安易に使われるために。
その利便性や汎用性の高さ故に大人達によって乱用される{『一事が万事』の《論理的な観念》}の発動による子供達への〔『注意意識』の喚起による『縛り』〕が、その格言としての言葉以上にまだ幼い時期の子供達の純粋な精神に強く刷り込まれてしまうのです。
そしてその後にも、その子供達がある程度の成長をしていて、表面的には『一事が万事』を「そうと言える時もある」程度の曖昧(アイマイ)な格言として小バカにする事が出来るようになっているにも関わらず、家庭や学校ではその{『一事が万事』の《論理的な観念》}の利便性や汎用性の高さに基づいて一方的に乱用される〔『注意意識』の喚起による『縛り』〕がまったく野放しにされたままになっていて。
無防備な子供達は大人達の身勝手が横行する中で何年間も雁字搦(ガンジガラ)めに『縛り』つけられたまま、まったく自由意思が発揮出来ない状況の家庭と学校で、逃げ場の無い過酷な生活を「ほとんど全ての子供達が」強いられ続けるコトになるのです。
『世界の理』(2)
そしてさらには、急がれる学力向上・受験合格のために効率良く物事を理解して合理的に納得する姿勢の『躾(シツ)け』
〔[正論か屁理屈(ヘリクツ)かを判断したり必要か不要かで振り分けたりするような余計な事に気を取られるコトで時間を浪費してしまう原因となる『自己の存在』を否定し根絶してしまう『躾け』を{『一事が万事』の《論理的な観念》}を利用してもくろむ「形式重視で硬直した学校教育の本音」や「上位者側(差別者側)の人間として下位者側(被差別者側)の人間を管理する尖兵(センペイ)としての基礎教養」・「試験制度の徹底(民主主義が安定して成り立っていられる人間作りによる『民主主義的“市民”階層の細分化(上下関係)形成』)を図る民主主義社会からの要請」など]〕
を外世界からの発信や影響・動きから遮断された学校での学生生活や合理的だが非人道的な(権威に対抗する意思がハンデとしてしかならず、理解した知識を取捨(シュシャ)する自由が無い)テスト勉強・単に受験資格が平等であるというだけで画一的に振り分けられるコトを人間が納得出来るように精神改造するための入試制度などを通して何年もの年月を費やして『世界の理(コトワリ)』
(不平不満やいざこざが絶えない管理される側の者達を従えられる毅然(キゼン)さの論理的後ろ立てとなり、どんな大勝負・大バクチにさえも必ず勝って大成功をおさめるコトの出来る根拠となりえる唯一世界共通の『理』)
に適(カナ)うための知性として大切に思って修得し、成人し・一人前の『市民』となるとその(『世界の理』に適うための知性として)「躾けられた通りに」自分のだけではなくて他者の『自己の存在』までおも無意識に否定してしまって、
「理解したといって評価されるのはその理屈や論理に〔[そのどんな理念(根本の精神)・個人的観念(主観)・ご都合主義な概念(良く出来た屁理屈)にも]〕納得して従う事をした時で(上意下達(ジョウイカタツ)の枠組みで活動した時で)、“そこが一番大事な『良識としての全幅の理解』(良識ある者とは「解るとは分かって得心する事だと」考えるモノ)なのだ”と信じて疑わない」
と突っぱねて、誰に何と言われようとも「そんな目先の損得」〔[目の前の現実問題]〕を考慮する事は有り得なと言ってその理屈や論理だけを一途に追究する〔[ゴリ押しと呼ばれようとも決して変節はしない]〕コトを本物の知性・『世界の理』に適(カナ)う行いであると確信して貫き、そんな生き方を人は知的なモノと感じ・満足して実践しているのです
〔[そんな教育という名の『躾け』を学校で受けてきた教養の高い・善良(無邪気)な『市民』達はその『世界の理』に適(カナ)う(『躾け』を実践する)ために、{『一事が万事』の《論理的な観念》}が完全に実現出来ている理想世界に少しでも近づこうとして。
民主主義が更(サラ)に躍進(ヤクシン)して全人類に浸透するコトによる『理想としての標準的に統一された世界作り』を目差し・『変節』を拒み・『良識としての全幅の理解』の普及に努め、「社会統制の(唯一(民主主義)・整然(上意下達の枠組み)とした形での確立」のための社会や周囲への貢献を(障害の排除を)実践するコトによる、敵の多い一生を(多様性を【許容】したり・世界の【共有】を考えたりはしない頑なな人生を)送っていて。
人類史上最強・最大の『多様な外世界』への『侵略集団』を結成しているのです]〕。
子供達を『縛り』続けた『躾け』は、成人して『市民』となってからも「人の一生は『世界の理』に適うために在る」のだと形を変えて存続し、さらには「知性は『標準的に統一された世界作り』を目差すモノで在る」といって『縛り』を強化させていたのです。
・≪【予言】≫の予告
≪【予言】≫第3項『責任』~~~予告(第0012号参照)
『主流派』は『重い責任』を“過度に尊重”するおかげで、他者の責任領域の侵害をよくするのに誉められて、『非主流派』は『責任問題の範疇の明確化』に“過剰に熱中”するあまり、自己責任領分内での責任範疇の厳守をやりすぎて非難されるという不思議が起こっている。
≪【予言】≫第4項『民主主義』
≪【予言】≫第5項『テロ』
≪【予言】≫第6項『平和』
≪『悪夢』≫第7項『人類滅亡』
~~~第0011号先頭へ~~~
ちび猫のコメント参照
次回につづく。
*****(制作終了)*****
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第0032号の「『植物』・『苔』と『生きた水』・『山の腐葉土』の事情」は随時書き換えていますので、安心して参照してください。
今後のブログの方向性を模索(モサク)しながら書き進めている第0013号も参考になると思うので、是非お読み下さい(記入順序逆転です)。
・共通の参照
(B)『内向き』か『外向き』
字数オーバーの為、以後は第0047号へ移動しました。
(A)【硬直(コウチョク)】と【膠着(コウチャク)】
『場面緘黙症』について色々言ってきましたが、早い話し、発声困難な状況について、ノドが{車が故障によってうまく前進する事が出来ないでいる様に}【硬直(コウチョク)】しているために、うまく発声する事が出来ないでいるのだと≪当人の身心における神経症であるというように『人が自身において発症している問題』だと人の目線から局所的に≫判断してしまうのは、根本的に間違いで。発声動作が{渋滞によって車が速く前進する事が出来ないでいる様に}【膠着(コウチャク)】しているために、時間ばかり掛かって早く発声に至る事が出来ないのだと≪個人の発症が問題を発生させているのではなくて『外部要因の放置による状況の悪化が問題形成の要因になっている』と大所高所から大局的に≫判断しなくては、『場面緘黙症』への適切な対処はなかなかうまく見付けられません。
『代替え言葉』の使用は〔渋滞をかわすための、バイパス道・ぬけ道の新設と積極的活用〕の、『メモ用紙治療法・“ポン”治療法や、下っ腹発声の練習』は〔渋滞解消のための、主要道路の拡幅整備〕の、『建て付けの悪い重い引き出しをうまく引き出すイメージ発声』の実践は〔渋滞にはまらないための、高速道路網の充実と上手な活用〕の言いかえと言えなくもない(!)と思いますが。それは、発声困難な状況を『神経症などによる身心への影響によってノドが【硬直】してしまい、『場面緘黙症』の当人が自身の身体において発声出来ないでいる事態』と判断して、人が起こしている発症を局所的に解消しようとするモノとは違って。『普段はスムーズな発声動作が突然に【膠着(コウチャク)】するような、『場面緘黙症』の当人がいくらその気になっても早くは発声に至れない何らかの外部要因的な問題が発生していて、いつまでも放置されている事態』と判断して、人の前に立ちはだかる問題を大局的に解決するコトを目差すモノであります。
(0)『メモ用紙治療法』・『“ポン”治療法』
2012年7月25日に放送されたNHKの『ためしてガッテン』で、【噛み続け】の癖についてやっていたのでが、特に「上下の歯が弱く触れ合っているだけでも問題があります、ヒトが普通1日に歯をあわせる時間は20分ほどしかありません。」という話しはまったくの盲点でした。放送では「《歯を離す》と書いたメモをよく目に付く場所やパソコンなど集中してしまう場所に貼り、《メモを見たらフーと息を吐く》。これによって治したい癖と両立しない新たな癖をつける」という『メモ用紙治療法』を勧めていて。さらには「《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》で、いつも歯を離そうと頑張りすぎると、逆にストレスになってしまい逆効果です。メモとメモの間は何もしなくてOKです。早い人で、1週間ほどで効果を実感できます。」とありました。
しかし、【噛み続け】の癖が原因とされる症状は「肩こり・おなら・頭痛・ゲップ・ひざ痛・首の痛み・おなかのハリ・めまい・のどの異物感・耳なり・腰痛・視力低下・息苦しさ・アゴの痛み…」とはあっても、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』はまったく含まれてはいませんので、『メモ用紙治療法』が本当に有効なのか(?)と疑う人もあるハズで、そういう方は無視して(1)以降を参照して下さい。
ちなみに、私の『大人の場面緘黙症』の為の『メモ用紙治療法』は上記と少し違っていて。メモの内容は《歯を離す》ではなく、《“ポン”と鳴らす》という言葉にして、「口を〔あ・い・う・え・お〕の形で開き、手のひらで口を敲(タタ)き、鼓(ツヅミ)のように“ポン・ポン”と数回鳴らす」という『“ポン”治療法』を、ヒマを見つけては行うようにしています。そして、《メモを見たらフーと息を吐く》の所を、当然《メモを見たら一日に何度でも〔あ・い・う・え・お〕の口の形でを“ポン・ポン”と鳴らす》として、《メモが目についたときだけ息を吐くコトが大事》ではなくて、《メモが目につくたびに口を“ポン・ポン”と鳴らして、≪“ポン”の音が出る〔あ・い・う・え・お〕の口の開き≫をしっかりと習慣化させるコトが大事》と認識するようにしているのです。
本当に私ごとなのですが、この『“ポン”治療法』を数日続けていたダケで、以前は5秒以上あった私の『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間が、今では1秒以下に解消されました。個人差や原因の違いで、『沈黙』時間がそれ程には改善しない人もいるかと思いますが、『メモ用紙治療法』や『“ポン”治療法』の話しが、『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』で悩む人たちの参考・ヒントになったとしたら幸いです。
余談ですが、もし『大人の場面緘黙症』の人で何か『発声練習』をしたいというのであれば、≪口を軽く閉じて、息を口の中に溜め、さらに下っ腹から肺に強く圧力をかけて、その状態で口先から少しずつ息を出しながら{少しこもった音で}発声をする≫という『発声練習』を試してみて下さい。『代替え言葉』の使用と合わせれば、『大人の場面緘黙症』による『沈黙』時間を、限りなく“ゼロ”に近づける事が出来ると思います。
又、発声時に何か注意をしたいのであれば、「建て付けの悪い{重い荷物の入った}引き出しをゆっくりと均等に力を込めて引き出す感覚で、発声を何度か繰り返す」というコトを、《バランス》と《タイミング》と《パワー》に注意して行ってみて下さい。
(1)医療情報
『場面緘黙症』による“ノドのシビレ”を軽減するのに「NHKでも放送された」注射をする方法もあるそうなので、それが身近な医療機関で出来る方はお試し下さい。
(2)栄養療法
食べ物としては、『かつお節:3gか5gのパック一袋をそのままで(何にも加えず、何も加えずに)』と『生姜:生姜糖1枚か生姜湯一杯』と『ビタミンC:錠剤かドリンクで300mg~1000mg』を一回分として一日1回~3回毎日摂取して、自律神経の高ぶりを緩和させれば、何らかの効果が有るはずです。
(3)対処療法
どうしても自分一人で『場面緘黙症』を解消させたいと考えてしまう人は、『急がば回れ』を肝に銘じて「自分が理想とする『言いたい言葉の発声』から{近づくのではなくて}だんだん遠のいていくように『拒否したい言葉の発声』を発掘・発見しては、《発声困難になる場面》で発声できるモノはないかと試していく」という“消極的連続性”の【諦(アキラ)めと再チャレンジの繰り返し】を貫(ツラヌ)いて下さい。間違っても《為せば成る為さねばならぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり》などとは考えない事です。
(4)根本療法
タイプ1
何らかの心の傷による反発心・反抗心を原因として【自分は『良い言葉の発声』をしようとしているのだから、「これで良いんだ!誰も文句は言えない筈(ハズ)だ!」だから、余計な「相手を思いやっての言葉使い」や「状況を考慮しての言葉選び」などの煩(ワズラ)わしい事から開放されているんだ!】と、思い込もおうとしすぎた為に。その無理によって《意識内での「それではいけない!!」と主張する『良心(:真心)』との葛藤(カットウ)と、そんな悪徳な自分への自己嫌悪と『良心(:真心)』の呵責による苦悩》がどんどん深層意識の奥底に埋もれていってしまい。そして、そういった『良心(:真心)』との葛藤が実際には続いているにもかかわらず、無自覚なまま徐々(ジョジョ)に心の表面に伝わってこなくなってしまって。ついには、何の自己嫌悪も『良心(:真心)』の呵責も感じないまま【単に『良い言葉の発声』をしたいだけなのに、どうしてか同じ場面で同じ言葉の発声困難に“いつもいつも”陥(オチイ)ってしまう】と、無邪気に悩むようになる。
という『場面緘黙症』のイメージを《客観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
タイプ2
自分は【他人(ヒト)の立場に立って考える】という事を一生懸命考えていて、他人(ヒト:相手)が聞いて「不満に思えない筈(ハズ)」で「納得をせざるを得ない筈(ハズ)」の、文句の言いようの無い『良い言葉の発声』を、何も疑う事無く心掛けていたのだが。本当なら、こんな《自己中心的》な事を誰かにされたとしたら、『自分だったら腹を立てないか?いや、腹を立てる筈(ハズ)だ!』と疑問に思ってもいい筈(ハズ)なのに。『天』や『神仏』などの『何モノか』という存在とその影響力に畏敬(イケイ)の念を永年抱いている内に、いつの間にか【自分ではない別の『何モノか』という立場に立って考える】という視野を特別視してしまって、自分も【他人(ヒト)の立場に立って考える】という事によって《特別な力や可能性、何らかの加護や御利益(ゴリヤク)の獲得》が達成されると錯覚し、誤解してしまっていたのです。そして、私は長年『良い言葉の発声』という暴言を他人(ヒト)に浴びせようと努力していたのですが、幸いにも『場面緘黙症』のおかげでそれを実施しないでいられたのです。
という『場面緘黙症』のイメージを《主観的》に作ってから(3)の対処療法に取り掛かる。
・第0011号本題
・☆本題「(4)根本療法 タイプ1の思惟・考証」
・★『良心(:真心)』が深層意識の奥底に埋もれるとは何なのか
『場面緘黙症』の人には、《『良い言葉の発声』のごり押しについての「これで良いんだ!」という身勝手な思い込み》と、《「それではいけない!!」と主張する『良心(:真心)』》との葛藤(カットウ)が発生していて。それは、《身勝手で思いやりに欠けた『良い言葉の発声』をごり押ししてしまっている最低な自分への自己嫌悪》であったり。《『良い言葉の発声』をごり押ししてしまう時の『良心(:真心)』の呵責(カシャク)による苦悩》であったりするのですが。
ただそのために、『場面緘黙症』の人は、自分の悪徳な姿を直視したくないという現実逃避の意識から、『良い言葉の発声』のごり押しをする時に心が痛くなる《『良心(:真心)』との葛藤(カットウ)》である《自己嫌悪》や《『良心(:真心)』の呵責による苦悩》そのものを、その精神活動をさせたまま{表面意識の裏側の}深層意識の奥底に閉じ込めてしまうのです。
しかしそれでも、その《『良心(:真心)』との葛藤(カットウ)》である《自己嫌悪》や《『良心(:真心)』の呵責による苦悩》の精神活動は何時までも持続してしまう為、それによる神経的作用だけが『良い言葉の発声』のごり押しをする時に現れ、その人を縛り付けるので、『場面緘黙症』の発声困難が発症してしまうのです。
また、新発見などでの先陣争いをしている事であるなら、それはたいした事ではなく。みんなが拒否していて誰もが拒絶していた、消されかけているモノ消されてしまっていたモノを、また掘り起こして活かしていく事が、重要であり大切なのですが。それは『場面緘黙症』の対策でも同じで、『良い言葉の発声』の発声困難を解消させられそうな対策を{先を争って}あれこれ考えていても、たいして意味が無いのです。
したがって、『良い言葉の発声』という事の悪徳さ・背徳性を自覚するコトと、自分が話しかける実際の相手を思いやっての「言葉使い」や「言葉選び」の再考がとても大切なのですが。ただそれは、『場面緘黙症』の人に受け入れ易く、聴き易いという様なモノでは{絶対に}ないのです。
なので、『良い言葉の発声』のサポートを考案して、その実効性や汎用性の先陣争いをいくらしていても意味が無く。たとえ、それが全ての『場面緘黙症』の人達の求めであったとしても、それに答えようとする事自体が、すでに間違いの始まりなのです。
☆本題「(3)対処療法の思惟・考証」は第0010号を参照して下さい
☆本題「(4)根本療法 タイプ2の思惟・考証」は第0012号を参照して下さい
第0030号【ちび猫が見付けた『~~~』】シリーズ、新スタート
~~~第0011号先頭へ~~~
・旧項目
・『大人の場面緘黙症』の私
~①~まず、『大人の場面緘黙症』による発声困難が緩和しない原因として、【発声障害】の軽減に着目した『緘黙症対策』に“こだわり”を持ち過ぎて、現実的な有効手段を敬遠・拒絶してしまっている事も考えられるので。自分の【発声障害】は軽減しないと覚悟を決めて・腹をくくり、『大人の場面緘黙症』による発声困難を緩和させるのではなくて、『大人の場面緘黙症』による周囲との摩擦を解消させる手段を考えて行きます。
・基本的原因(勝手な私見なので、深く考える必要は無いと思います)
0.なかなか改善しない『大人の場面緘黙症』による発声困難は「発声障害の“原因究明”の不徹底」によるモノだと“理性的に判断”し、自分の{神にはなれない}【人間的未熟さ】もわきまえずに{努力と工夫と、想いの強さによって}【唯一神や天や、神々や仏の導き】があると意識した{“神”を畏敬(イケイ)している“自分の理性を信じる”事を大前提にしての、見かけだけが“合理的な”}考え方をし、{想像しているだけで現実には在り得ない}【唯一神や天や、神々や仏の支え】がある事をあてにしてしまって。
自分の{全ての人間に共通の}【不安定な理性】で“原因究明”を{未熟に}行なっているうちに、発声障害の原因は、「発声困難に陥(オチイ)る“その言葉自体”に何らかの“精神的な負”の『ケチ』が付いてしまったために、“その言葉”を口にするコトを無意識で拒んでいるからだ」という{未熟な}論理にたどり着き。
そしてその“負”の『ケチ』の構成を、「自分の{何らかの}行いが『穢(ケガ)れ』たモノではないかと{無自覚で疑い}肯定してしまう事によって発生する{無意識内での}“負の認識”が、さらに深く潜在化したモノである」というような、『大人の場面緘黙症』についての{客観的合理性の全く無い}最終認識に{多くの『大人の場面緘黙症』の人が}到ってしまうのです。
そしてそんな{畏敬の念の対象である『何らか』な、“認識だけの存在”としての}【唯一神や天や、神々や仏】の{正しいハズの}存在に基づいて、「自分は何時も“清廉潔白であるという自己感覚”を抱いている必要がある」という強迫観念を抱くにいたり、ついには自分の言動や考え・思いにいたるまで、“愚直”に『誠実』を貫こうと狂奔(キョウホン)するようになってしまって。
そして「【発声障害】の軽減を目差す“はた迷惑”な【『間』の長すぎるダンマリ努力】の繰り返し行為」を《「困難だから」と途中で軽々しく変節しない》・《「努力をしている」と他人に言い訳しない》・《「目先の損得」などで、いちいち疑問を抱かない》という『誠実』さを試すための“自分への試練”に置き換えてしまい。
それにより当然な事として起こる周囲との悲惨な摩擦をただ無言で耐え忍びながら、その惨状における【無策な自分の責任を自問する】事や、【軋轢(アツレキ)が発生している状況を多角的に再分析する】事や、【『代替え言葉の使用』を検討するような現実に配慮した対処を講じる】事などを一切拒否し続けてしまったのです。
そしてさらに問題だったのは、【唯一神や天や、神々や仏は何時でも見守り、監視しているモノ】と理性的に意識して“神”を畏(オソ)れ敬(ウヤマ)い、「【『間』の長すぎるダンマリ努力】による“はた迷惑”を{我慢して}繰り返し続ける“努力の量”」や、「誠実さを貫く“志の正当さ”」や、「良好発声を目差す【想いの強さ】」などの積み上げを誠心誠意していれば、【神様は何時でも見ていてくれる】モノなので、“時機が満ちれば”奇跡的成果をもたらしてくれて、【発声障害】が軽減し発声困難が緩和していくはずだと{他力本願で}考えてしまった事で。
『“神”の絶対的存在』を事も有ろうに「理性を過信した合理性」と、「“神”を過信した他力本願」の≪2重で≫あてにしてしまっていたのです。
その結果以下の症状が発生して、【発声障害】の軽減に着目した『緘黙症対策』への“こだわり”が何時までも捨てられないのです。
1・今まで頑張ってきた「発声困難の緩和を目差す努力と工夫」の“積み上げが、惜(オ)しくて諦(アキラ)められない。
2.“発声が困難な言葉”の代わりに別の言葉を使う『代替え言葉』の使用が「“神”の恩恵を裏切る【卑怯(ヒキョウ)な変節】」に思えて許せない。
3.発声困難の緩和を目差した、【発声障害】の軽減に“こだわり”を持った『緘黙症対策』のための{『コロンブスの卵』的発見を目差すような}創意工夫的“小細工”を考案し・試行錯誤するコトが、“ワクワク”して止められない。
4.発声困難を【『間』の長すぎるダンマリ】と理性的に認識し、【『間』を無くす】という事を合理的に考えてしまって。発声が可能になるまでの{数秒間の}時間の『間』を上手に演出する手法を色々と{力を抜いて・制限を設けずに}模索(モサク)する事を、『大人の場面緘黙症』への屈服であり・人生の挫折であると恐怖してしまって、絶対拒絶の姿勢を崩せない。
・考えない方がいい原因例(私事(ワタクシゴト)ですので、読み流して下さい)
1.{ポジティブなイメージである}上昇志向という“言葉のイメージ”に魅(ミ)せられて、『緘黙症対策』に取り入れた「向上心の発揮を目差して上を向く動作」の時のアゴが上がる動きが、精神的な上擦(ウワズ)りを引き起こしてしまっているという事を、何故か見過(ミス)ごしてしまっているというコト。
2.『大人の場面緘黙症』が「ノドのシビレの病気による“障害”であり、当人以外が下手に口を出すと心まで傷つけてしまう恐れがある“繊細な問題”」であるという、「{処置・治療をするだけの}専門医の見解」に社会も周囲も当事者も振り回され、情報不足による軽率な処置が野放しになっていて。症状の悪化による『舌の筋肉の衰弱・硬直や、【発声障害】の過敏な反射』の重症化が、長年放置し続けられていたコト。
3・“触覚動作(ショッカクドウサ)”をともなった成功体験が恐怖症の緩和(カンワ)に有効だとは知らなかったコト。
4・【発声障害】だというだけで「発声困難という{自分にとっての}曲芸的言葉の発声が出来ない『正常さ』」を、無理して直(ナオ)そうと焦(アセ)っていたコト。
~②~次に、他の“小細工”に逃げずに、発声が困難な言葉の“実用的な代替え”となる【発声障害】の影響が少ない《見つかりにくいのは百も承知ですが、何とかギリギリで{【発声障害】が発生する“特定の場面”で}適用出来る『代替え言葉』》を、色々と探します。
・私の『代替え言葉の使用』の実用例
A・私は自分の名前の「鈴木(すずき)」の発声が「相手からかかってきた電話に対応する時などに」まったく出来ないので、指や拳・頭などで鳥の巣を突く動作をイメージしながら、電話口で「“すづき”(巣突き)です」と発声するようにしています。
B・朝の挨拶である「おはようございます」や、別れる時の挨拶である「お疲れ様です」の発声がまったく出来ないので、朝は{“おはようございます”と言っているように聞こえる}「“わよ”ございます」と言い、別れる時には「ご苦労様です」と言うようにしています。
~③~次に、使えそうな『代替え言葉』が候補に上がったら、それに合わせられる『間』の上手な取り方を、周囲に気遣った{周到な}いくつかのパターンを考案します。
・私の『うまい間』の実用例
A・電話口では「『間』!・『間』!・『間』を作れ!」と考えながら、「あっ」・「はい」と言って時間かせぎをします。
B・対面であっても、「あっ」・「はい」と{独り言のように}言ったり、笑顔を絶やさずにいて時間かせぎをします。
~④~次に、実際に発声が困難になる場面を{「『間』!・『間』!・『間』を作れ!」と考えながら}見計(ミハカ)らって、“笑顔”を絶やさず「あっ」・「はい」と言って、『代替え言葉』を発声します。
~⑤~、②・③・④を何度かチャレンジしてみて、自分には無理だと感じたら、{ノドのシビレを軽減する}注射をする方法を考えて下さい。
~⑥~、どうしても自分で“発声が困難な言葉”を発声させたいという人は、『かつお節』と『生姜』と『ビタミンC』を“多め”に“3回に分けて”毎日摂取して、自律神経の高ぶりを緩和させれば何らかの効果が有るかも知れません。
~⑦~、出来るならば、周囲の人に「『後ろめたく』そして『気がとがめて』しまって、その《躊躇(タメラ)い》の気持ちのせいで口から声が出てこないのです」と言って、理解を求める。
・参照
*【『場面緘黙症』とは、“ある特定の場面でだけ全く話せなくなってしまう現象”であり、子供の時期ほど顕著に現れやすい症状ではあるのだけれども。
単なる人見知りや恥ずかしがり屋とは大きな違いがあって、症状が大変強く、何年たっても自然には症状が改善せずに長く続く場合があり、“子供の時期の適切な手当て”が遅れてしまうと、成人になってからではなかなか改善しにくい傾向にあるみたいで。
そういった、少数ではあるが大人になってもしつこく残ってしまう症状の事を、特に『大人の場面緘黙症』と呼びます。】
*【『イップス』 とは、精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーができなくなる“運動障害や随意運動の低下”のことであり、それに類似した症状などにも広く使われる呼び名でありますし。
『ジストニア』とは、中枢神経系の障害による“不随意(ふずいい:意のままにならないコト)”で持続的な筋収縮(きんしゅうしゅく:筋肉の一定的な収縮運動)にともなって引き起こされる姿勢(シセイ)異常に対しての呼び名であると共に、全身あるいは身体の一部が“不随意”に捻(ネジ)れたり・硬直(コウチョク)したり・痙攣(ケイレン)したりするなどの症状と、それにともなう“運動障害や随意運動の低下”の総称として用いられる場合もあるのですが。
『ジストニア』以外の“不随意”な症状で、自分の意思とは無関係に生じる不合理な動作・運動としては、手足や全身の『振戦(ふるえ)』や、上下肢(シ:手足)全体の振回し運動の『バリスムス』や、手足や頭などがくねるような緩慢な旋回運動の『アテトーシス』や、痙攣的運動の『ミオクローヌス』や、口周辺部や舌の異常運動の『口ジスキネジー』などがあり、発症部位や運動の規則性や・強さや・睡眠時の運動有無などによって分類されるモノです。
身体機能的にそれらを説明すると、身体バランスの調整・運動の円滑化に重要な機能を持つ大脳基底核(だいのうきていかく:大脳皮質(だいのうひしつ)と視床(ししょう)・脳幹(のうかん)を結びつけている神経核の集まりであり、哺乳類の大脳基底核は運動調節、認知機能、感情、動機づけや学習など様々な機能を担っている)を中心とした錐体外路(すいたいがいろ:運動神経線維(ウンドウシンケイセンイ:ニューロン)の遠心性経路(エンシンセイケイロ)で錐体路(スイタイロ)以外の経路(ケイロ))が阻害された場合に、異常な筋収縮が発生して、“不随意運動”が引き起こされる現象だという事になります。】
*【『射幸心』とは、本来《射倖心》と書いて(しゃこうしん)と読み、ある程度の確率を伴う事柄において、良い結果が得られた時の高揚感を表す言葉であり、その“倖”の意味は「努力を必要としないで、予期せずに」訪れた幸せという意味である。
そのためか、幸運を得たいという心理による「幸運によって他人よりも幸せに恵まれたい、何時かは勝者になりたい」と思い期待してしまう心理状態を表す言葉として“広義”に使われる場合も少なくはないが、たいていは根拠の無い自信で自分だけが幸運を得られると思い込んでしまって、投機や投資や賭博や期待値の低い事業に夢中になって浪費してしまう傾向の心理状態を表す言葉として“狭義”に使われるモノである。】
・発声困難の実態は?(私見です)
発声が困難な言葉の代わりに別の言葉を使う『代替え言葉の使用』や、発声困難なままである《上手に『うまい間』を取る行為》を容認する事がなかなか出来ない。
《解説:カルト宗教やギャンブルにはまり込んでしまって抜け出せない人がよく陥(オチイ)ってしまう症状に、{周囲とのトラブルや、金銭的困窮に背を向けた}積み上げたチャンスや大逆転の機会を逃したくない気持ちの“期待準備快感症”があるが。
『大人の場面緘黙症』の人もよく似た症状で、発声困難という「“はた迷惑”な面倒な事になっている現実問題」を{真剣に}直視する“うっとおしい気分”から逃れ、{マンネリな}楽な事をいつまでも続けていて。
“現実的解決策”ではあったとしても、{『緘黙症対策』に追われて足掻(アガ)いている情況で}余計な“考える手間”が掛かかり、とてもうっとおしい上に、【発声障害】の軽減を達成する“チャンスを掴(ツカ)む喜び”を手放す事になってしまうので、「発声困難な言葉の代わりに別の言葉を使う『代替え言葉の使用』と、発声困難なままである《上手に『うまい間』を取る行為》の容認」への方針転換の決断行為に、“忌むべき穢(ケガ)れを招く安易さだ”というレッテルを巧みに貼り、「不誠実な『変節』である」と恐怖してしまう程の完璧な“濡れ衣”を着せ。
そして、「{不可能と言われる}発声困難の緩和に{打算無く}挑む“単調行為”の継続」という無策をワザワザ『誠実に』頑張る自分を、《脱線するコトなく目標を追い続ける想いと、努力と工夫を惜しまない稀有(ケウ)な人間で、高貴な人徳者なのだ》という理性的な認識を合理的に考えてしまうのです。
そしてさらには、『為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり』という格言を「無策をいつまでも続けて決して変節しないでいる自分への賞賛」と都合よく解釈し、「非合理的で精神主義な誠実さ」重視の“優柔不断な無策行為”をことさらに《験担(ゲンカツ)ぎや願掛(ガンカ)けの御利益(ゴリヤク)と、“神”の慈悲による有り難みが独占出来て、最も奇跡を起こしうる“最高の英知”であり“最上の英断”である》と褒(ホ)め称(タタ)え、《『物事の道理』に適った“本筋”と、『人間と世界の構造』とその“摂理(セツリ)”を見失う事がない『確かな“思慮深(シリョブカ)さ”そのモノ』である》と{『天の理』を信じて}大々的に擁護(ヨウゴ)しているのです。
それは、{『“神”の絶対的存在』に裏支えされた}《【自分の理性を信じる】コトから【合理的な思考】が始まる》という{人間賛歌の}思想の正統性をあてにして、「発声困難の緩和を成し遂げられる“理性を自分は与えられている”と信じ、【発声障害】の軽減を目差して“原因究明”に取り掛かる合理的思考」の有効性を安易に過信してしまい。
その上なお、《『“神”の創造主としての存在』を畏(オソ)れ敬(ウヤマ)い、その恩恵の絶対性を信じるコトから{始まり}受けられるようになる神の守護》や《全ての道理である『天の理』を尊び・厳守する“成功の近道”》というコトの正当性をあてにして、「『大人の場面緘黙症』の解決への{変節しない}純粋な想いと、努力と工夫を惜しまない行為の積み上げで示す神への畏敬(イケイ)の念」が引き起こす神秘的加護の“ウマイ話し”に依存してしまっているからなのです。
そのため、【自分で責任を持ち現実と向き合って対処を行なう】という大事な精神を『自主封印』してしまい、『代替え言葉の使用』や『うまい間』がいつまでも思いつけないのです。》
・『大人の緘黙症』の直接的“小細工”対策を考えるコトが止められない
《解説:ギャンブルに熱中する『射幸心』や、宗教に没頭して苦行・荒行もいとわない『信仰心』の“期待準備快感症”と同じように、「なかなか出来ないであろう“難しい事”をカッコ良く『昇華』出来る“時機”を{努力を積み上げ・はた迷惑を続け・苦しみに耐えながら}準備して待つ『ワクワク』する感じ」に浮かれてしまって。
難しそうで成功させるのが困難な『大人の場面緘黙症』の解決を目差す「“心地よい期待感”の持てる{決して達成出来ない}努力と工夫」にはまり込んでしまい、「着実に効果を求めようとする野暮ったい『代替え言葉の使用』や『うまい間』」を{『昇華』を待つ『ワクワク』感が無いと}拒絶したために、『緘黙症対策』が無意味な努力と工夫の連続に終始してしまうのです。
まさしく「結局何もやらないでいた方がまだましだった」とうコトが、『緘黙症対策』のほとんどだという事なのです。》
(『大人の場面緘黙症(ジストニアやイップスなど)』でお悩みの方は第0012号もお読み下さい。)
第0030号【ちび猫が見付けた『~~~』】シリーズ、新スタート
今後のブログの方向性を模索(モサク)しながら書き進めている第0013号も参考になると思うので、是非お読み下さい(記入順序逆転です)。
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・分岐
・予言の書・序章「人類滅亡」まで
・≪【予言】≫第1項『一事が万事』
『一事が万事』(1)
『一事が万事』という「ありきたりな格言」の《論理的な観念》は人の精神をひどく臆病にし、人に他者の揚げ足取りを極端に容易(タヤス)く実践させてしまうモノみたいであり。
人は{『一事が万事』の《論理的な観念》}を無意識に持ち出してきて安易に『やっぱり』というレッテルを貼って他者を全否定するコト」を得意としながらも、『やっぱり』と他者に自分が言われるコトを極度に嫌悪し・恐怖する生き物であって。
その{『一事が万事』の《論理的な観念》}は人間独特の不安定な精神性を構築しているモノみたいではあるのだが。
それにとどまらず、{『一事が万事』の《論理的な観念》}は人に『やっぱり』と言われる事態を恐れさせ、「一人で居る時までも休む事をせずに『謙虚(ケンキョ)』な心を実践しようとしてしまう精神生活」に人を駆り立て続け、『攻撃衝動』を緩和するための「自分が他者より勝ったと感じた時に発生する『なまけるコトを欲求する』本能」を喪失(ソウシツ)させてしまって、理由の分からない怒りだけが精神の中に発生し続ける『よく切れる人・怒りっぽい人』へと人をいざない、その後はその人が「その一生をその『理由なき怒りの理由作り』に奔走し続けてしまう『被害妄想』の発症」に陥るまで後押しし続ける厄介なモノみたいなのです。
『一事が万事』(2)
それ以外にも、人があまり気に掛けていないだけだったために「元々は全て{『一事が万事』の《論理的な観念》}に由来するモノ」とは気付かずにいた
《始めに何も知らないまま「へま」をしてしまって『ヘンなクセ』を身に付けてしまうと、何年頑張ろうともその『ヘンなクセ』にいつまでも足を引っ張られてしまって、成功を修めるコトは一生出来なくなってしまう》とか、
《成功を修めるコトを目差しての継続努力を順調に始められたとしても、その途中で一度でも「楽をするズル」や「安易な手抜き」・「軽率な変節」・「目先の事への打算的処置」などを覚えてしまうと、『済し崩し(ナシクズシ)』にそれまでの実績やその後の可能性の総てを失ってしまうハメに陥ってしまう》とか、
《どんなに自主的に・有意義にと考えて頑張っているコトであっても、それがある意味では譲歩であり我慢であるといえるかも知れないと・そう見られているかもしれないと少しでも意識してしまっただけで、それにより「『蟻の一穴天下の破れ』の例えのような展開で大批難を受けてしまうと思えてきて」しまって、それ以後どんなに努力をしようとしても、自主的に行なっているとは・有意義さを目差して行なっているとは思えなくなってしまう》とか、
《自分がどんなに努力し何年頑張りどんな成功を修めようとも、その過程でどんな理由があるにしろ他者の助けや影響を少しでも受けてしまっていると、その評価の全てをその係わりを持った他者に取られてしまう》とか、
《どんなに自分としては気を付けて努力をしていたとしても、理由はどうあれ一度(ヒトタビ)『やっぱり』というレッテルを貼られてしまうと、どんなに頑張ってどれ程の成功を修めていようとも・この先何年頑張って・どんな成功を修めようとも、高い評価を受ける事は2度と出来なくなってしまう》とか、
《何かに取り組むコトを少しでもしていると、一人で休んで居る時にまで「『やっぱり』というレッテルを貼られるなどして全てを失ってしまう」という恐怖感にさいなまれて、「何時も・何時までも努力し続けなくてはならない」という強迫観念に陥(オチイ)ってしまう》とか
の悲観的な思い込みによって、「人間には悪い事態が何時でもすぐに発生しかねないのだ」という恐怖を人に抱かせて、「何かを新しく始める事がとても不快に感じてしまって」・「初めてのコトがほとんど何も出来なくなってしまうように」人を仕立て上げてしまっていたモノも当然{『一事が万事』の《論理的な観念》}であったわけです。
人間的精神性の根源に関わる重要な部分が、実は、こんな「どこかで聞いたと事があるというだけの普通の格言」という顔をしている{『一事が万事』の《論理的な観念》}だったわけです。
・≪【予言】≫第2項『世界の理』
『世界の理』(1)
{『一事が万事』の《論理的な観念》}に由来する〔『注意意識』の喚起による『縛(シバ)り』〕が、家庭や学校などでの『躾(シツ)け』や教育の場・受験勉強において何も分からない子供達を相手に、大人達側の勝手な都合によって色々な場面で多少強引に利便的にそして安易に使われるために。
その利便性や汎用性の高さ故に大人達によって乱用される{『一事が万事』の《論理的な観念》}の発動による子供達への〔『注意意識』の喚起による『縛り』〕が、その格言としての言葉以上にまだ幼い時期の子供達の純粋な精神に強く刷り込まれてしまうのです。
そしてその後にも、その子供達がある程度の成長をしていて、表面的には『一事が万事』を「そうと言える時もある」程度の曖昧(アイマイ)な格言として小バカにする事が出来るようになっているにも関わらず、家庭や学校ではその{『一事が万事』の《論理的な観念》}の利便性や汎用性の高さに基づいて一方的に乱用される〔『注意意識』の喚起による『縛り』〕がまったく野放しにされたままになっていて。
無防備な子供達は大人達の身勝手が横行する中で何年間も雁字搦(ガンジガラ)めに『縛り』つけられたまま、まったく自由意思が発揮出来ない状況の家庭と学校で、逃げ場の無い過酷な生活を「ほとんど全ての子供達が」強いられ続けるコトになるのです。
『世界の理』(2)
そしてさらには、急がれる学力向上・受験合格のために効率良く物事を理解して合理的に納得する姿勢の『躾(シツ)け』
〔[正論か屁理屈(ヘリクツ)かを判断したり必要か不要かで振り分けたりするような余計な事に気を取られるコトで時間を浪費してしまう原因となる『自己の存在』を否定し根絶してしまう『躾け』を{『一事が万事』の《論理的な観念》}を利用してもくろむ「形式重視で硬直した学校教育の本音」や「上位者側(差別者側)の人間として下位者側(被差別者側)の人間を管理する尖兵(センペイ)としての基礎教養」・「試験制度の徹底(民主主義が安定して成り立っていられる人間作りによる『民主主義的“市民”階層の細分化(上下関係)形成』)を図る民主主義社会からの要請」など]〕
を外世界からの発信や影響・動きから遮断された学校での学生生活や合理的だが非人道的な(権威に対抗する意思がハンデとしてしかならず、理解した知識を取捨(シュシャ)する自由が無い)テスト勉強・単に受験資格が平等であるというだけで画一的に振り分けられるコトを人間が納得出来るように精神改造するための入試制度などを通して何年もの年月を費やして『世界の理(コトワリ)』
(不平不満やいざこざが絶えない管理される側の者達を従えられる毅然(キゼン)さの論理的後ろ立てとなり、どんな大勝負・大バクチにさえも必ず勝って大成功をおさめるコトの出来る根拠となりえる唯一世界共通の『理』)
に適(カナ)うための知性として大切に思って修得し、成人し・一人前の『市民』となるとその(『世界の理』に適うための知性として)「躾けられた通りに」自分のだけではなくて他者の『自己の存在』までおも無意識に否定してしまって、
「理解したといって評価されるのはその理屈や論理に〔[そのどんな理念(根本の精神)・個人的観念(主観)・ご都合主義な概念(良く出来た屁理屈)にも]〕納得して従う事をした時で(上意下達(ジョウイカタツ)の枠組みで活動した時で)、“そこが一番大事な『良識としての全幅の理解』(良識ある者とは「解るとは分かって得心する事だと」考えるモノ)なのだ”と信じて疑わない」
と突っぱねて、誰に何と言われようとも「そんな目先の損得」〔[目の前の現実問題]〕を考慮する事は有り得なと言ってその理屈や論理だけを一途に追究する〔[ゴリ押しと呼ばれようとも決して変節はしない]〕コトを本物の知性・『世界の理』に適(カナ)う行いであると確信して貫き、そんな生き方を人は知的なモノと感じ・満足して実践しているのです
〔[そんな教育という名の『躾け』を学校で受けてきた教養の高い・善良(無邪気)な『市民』達はその『世界の理』に適(カナ)う(『躾け』を実践する)ために、{『一事が万事』の《論理的な観念》}が完全に実現出来ている理想世界に少しでも近づこうとして。
民主主義が更(サラ)に躍進(ヤクシン)して全人類に浸透するコトによる『理想としての標準的に統一された世界作り』を目差し・『変節』を拒み・『良識としての全幅の理解』の普及に努め、「社会統制の(唯一(民主主義)・整然(上意下達の枠組み)とした形での確立」のための社会や周囲への貢献を(障害の排除を)実践するコトによる、敵の多い一生を(多様性を【許容】したり・世界の【共有】を考えたりはしない頑なな人生を)送っていて。
人類史上最強・最大の『多様な外世界』への『侵略集団』を結成しているのです]〕。
子供達を『縛り』続けた『躾け』は、成人して『市民』となってからも「人の一生は『世界の理』に適うために在る」のだと形を変えて存続し、さらには「知性は『標準的に統一された世界作り』を目差すモノで在る」といって『縛り』を強化させていたのです。
・≪【予言】≫の予告
≪【予言】≫第3項『責任』~~~予告(第0012号参照)
『主流派』は『重い責任』を“過度に尊重”するおかげで、他者の責任領域の侵害をよくするのに誉められて、『非主流派』は『責任問題の範疇の明確化』に“過剰に熱中”するあまり、自己責任領分内での責任範疇の厳守をやりすぎて非難されるという不思議が起こっている。
≪【予言】≫第4項『民主主義』
≪【予言】≫第5項『テロ』
≪【予言】≫第6項『平和』
≪『悪夢』≫第7項『人類滅亡』
~~~第0011号先頭へ~~~
ちび猫のコメント参照
次回につづく。
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