死後に於ても、現実界に自分がある。
それは丁度、生きてゐる時も半分は霊界で生活してゐるのと同じであるぞ。
自分の衣は自分の外側であるぞ。
自分を霊とすると、衣は体、衣着た自分を霊とすれば家は体、
家にゐる自分を霊とすれば土地は体であるぞ。
更に祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。
兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。
人類は横の自分、動、植、鉱物は更にその外の自分であるぞ。
切りはなすこと出来ん。
自分のみの自分はないぞ。
縦には神とのつながり切れんぞ。
限りなき霊とのつながり切れんぞ。
故に、神は自分であるぞ。
一切は自分であるぞ。一切がよろこびであるぞ。
霊界に於ける自分は、殊に先祖との交流、交渉深いぞ。
よって、自分の肉体は自分のみのものでないぞ。
先祖霊と交渉深いぞ。
神はもとより一切の交渉あるのであるぞ。
その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ。
中間に属するものもあるぞ。
神界に属するものは、正流を通じ、
幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してくるぞ。
正流に属する祖先は正守護神の一柱であり、
外流に加はるものは、副守護神の一柱と現はれてくるのであるぞ。
外流の中には、動植物霊も交ってくることあるぞ。
それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ。
一切が自分であるためぞ。常に一切を浄化せなならんぞ。
霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。
霊体一致が喜びの根本であるぞ。
一つの肉体に無数の霊が感応し得るのざ。
それは霊なるが故にであるぞ。
霊には霊の霊が感応する。
又 高度の霊は無限に分霊するのであるぞ。
二重三重人格と申すのは、二重三重のつきものの転換によるものであり、
群集心理は一時的の憑依霊であると申してあろうがな。?👿⚡
霊が元と申してくどう知らしてあろうが。
人間は現界、霊界共に住んで居り、その調和をはからねばならん。
自分は自分一人でなく、タテにもヨコにも無限につながってゐるのであるから、
その調和をはからねばならん。
それが人間の使命の最も大切なことであるぞ。
調和乱すが悪ぞ。人間のみならず、総て偏してならん。霊に偏してもならん。
霊も五、体も五と申してあらう。
ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。
神は主であり、人間は従であるぞ。
五と五と同じであると申してあろう。
(霊主体従)霊(ひ)の元
差別則平等と申してあらう。取り違い禁物ぞ。
神は愛と現はれ、真と現はれるのであるが、その根はよろこびであるぞ。
神の子は皆よろこびぢゃ。よろこびは弥栄ぞ。
ぢゃがよろこびにも正流と外流とあるぞ。
間違へてならんぞ。
正流の歓喜は愛の善となって現はれて、又 真の信と現はれるぞ。
外流のよろこびは愛の悪となって現れるぞ。
何れも大神の現れであること忘れるなよ。
悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ。
神は弥栄ぞ。
これでよいと申すことないのであるぞ。
大完成から超大大完成に向って常に弥栄してゐるのであるぞよ。
宇宙は総てに於ても、個々に於ても総てよろこびからよろこびに向って呼吸してゐるのぞ。
よろこびによって創られてよろこんでゐるのであるぞ。
故によろこびなくして生きないぞ。合一はないぞ。
愛は愛のみではよろこびでないぞと申してあろう。
真は真のみでは喜びでないと申してあろうが。
愛と真と合一し、
するところに、陰と陽と合一、弥栄したところによろこびあるのぢゃぞ。
この巻 冬の巻、五月五日の佳き日。ひつく神。
日月神示