『霧深き宇治の恋』

田辺聖子さん訳の、
「霧深き宇治の恋」上、下
(平成五年)新潮文庫

3、平中の恋  ②

2021年07月12日 08時37分28秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・そののち、私の考えることといったら、
どうかして私が愛想をつかすようなあの女のいやな欠点を聞き出したい、
ということばかりだった。

ところが一向、そんなことも聞かれない。
そのうち、ふと思ったのは、

(そうだ。あの女がどれほど美しくても、生ま身の人間、
排泄するのは世間の人間と同じだろう。
それを手に入れて見たり嗅いだりしたら、
きっと興ざめして嫌気がさすかもしれぬ)

そう思いついたので、
樋洗(ひすまし)が筥(はこ)を洗いにゆくのを、
奪い取って見てやろうとした。

(筆者注:このころの上流階級の人は、
部屋の中に筥を持ちこんで用を足し、
それを樋洗とよばれる下人の少女がその都度、筥を洗い清める。
この筥は螺鈿や蒔絵のきれいなものが多い)


~~~


・私はさりげなく局のあたりをうかがっていると、
ちょうどそこへ十七、八の美少女が撫子がさねの着物に、
濃い紫の袴をはき、香染(黄ばんだ紅色)の布に筥を包み、
赤い扇で筥をかくしつつ局から出ていくじゃないか。

これだ!と思った。

私は見え隠れにあとをつけ、
ひと気のない所で走り寄って筥を奪った。

「何をなさいます!」

女童は泣きながら奪われまいとするのをかまわずひったくり、
走っていって人のいない家へ入って中から錠をさすと、
女童は外で泣いて立っていた。


~~~


・筥は漆塗りであった。
この筥の美しさからしてあの女にふさわしい。

それを無理に開けて、おぞましい排泄物を見るのは、
いくら愛想づかしのためとはいえ気がひけてなあ。

私はしばし筥をながめてためらっていたが、
心を取り直し、蓋を開けてみた。

丁子(ちょうじ 香料)のいい香りが鼻をうった。

(どうしたことだ、これは・・・)

筥の中には薄黄色い水が半分ほど入っており、
おや指ほどの太さの黒ずんだ黄色で長さ二、三寸ばかりのものが、
三切れほど丸まって入っている。

(おお、これが侍従の・・・)

と思って見ると、えもいわれずよい匂い。
そういう気がしただけではない、事実香り高いのだ。

私は驚き、そこらにあった木片でその、ものを突き刺し、
鼻にあてて嗅ぐと、やや、これは黒方という練香の匂い。

(ああ、あの女は天女だ。並の人間ではない。
不浄のものまでこんなに清らかに香り高い)

私は我を忘れ、侍従恋しと思う心に狂ったようになった。
この女のなら飲み干してもみたい。

私は筥を寄せてすすりこんだ。
液体は丁子の香りに満ちていた。

個体は木片で突き刺したものを少しなめてみると、
にがく甘く、しかも香ばしい。

はっと私は悟った。

尿(ゆばり)とみせかけたものは丁子を煮た汁。
もう一つのものは野老(ところ)と練香をあまずらで調合し、
大きな筆の軸に入れ、それを押しだしたものなのだ。

これくらいの細工は誰だってするだろう。

しかし私が筥を奪って開けるかもしれぬなんて、
誰が思いつこう。

なんて先をよむ女だろう。
やっぱり普通の女じゃない。

こういう女にこそ思いをとげたい・・・

恋しさに私はふらふらと家へ帰るなり、
ばったりと病いの床についてしまった。


~~~


・え?その後の話だって?
それきりさ。

侍従はあくまでつれなく美しく、
私を焦がれさせたまま、ある日忽然と姿を消した。

どうやら、どこかの受領の北の方におさまり、
平和に幸せな日々を送っているそうな。

近ごろ聞いたところでは、
侍従はそれほど美女ではなかったという人もある。

しかしあの機智とお茶目ぶりこそ、
私にはたぐいもない美女だよ。
あの女こそ今昔無双の美女さ。

釣殿を渡る風は平中の話にうなずく若公達ばらに涼しく、
細い三日月が池の面に砕かれて映っている。

水草に蛍が光るようである。






          


(了)

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