むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

10、浮舟 ⑬

2024年07月09日 08時58分05秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・大内記の報告に、
匂宮は焦燥なさった

ご自分の乳母で、
遠国の受領の妻として、
下る者がいて、
その家が下京にあるのを、

「ごく内密の話だが、
ある女をね・・・
しばらく隠しておきたい
家を貸してもらえないか」

とお頼みになる

宮がたいそう真剣なご様子なので、
お断りするのもお気の毒になり、
承諾した

乳母の一行は、
三月末に下向するというので、
その日に浮舟を連れて来ようと、
宮は手はずをととのえられる

お手紙は宇治へたびたび遣られるが、
ご自身でお出かけになることは、
とても出来ない

宇治の方でも、
口うるさい浮舟の乳母が戻ってきて、
ひたと浮舟に付いているので、
宮がおいでになるのは、
無理と手紙で申し上げていた

薫は、
浮舟を京に迎える日を、
四月十日と定めた

浮舟は追い詰められた

京の母君の家に、
身を寄せていようかしら、
しかし、そこには、
異母妹の出産が近づいていた

かの少将の妻になった、
常陸介の娘である

もし宮とのことが、
ばれて世間の物笑いになったら、
乳母や女房たちは、
どう思うだろう?

あの一途な宮は、
どこへ隠れようとも、
きっと見つけ出されるに違いない
宮さまもわたくしも、
身を滅ぼすことになる・・・

その宮は今日も、

「私を信じて隠れ家へおいで」

とお手紙を下さった

どうしたらいいだろう?

浮舟はあれこれ悩み、
気分も悪くなって横になった

「どうしてこう、
青ざめて痩せているのかしら?」

母君は心配した

「このところ、
ずっとお具合が悪くて、
お食事も召しあがらず、
ご気分がすぐれません」

乳母がいうと、母君は、

「もしかしたら、
おめでたじゃないの?」

「でも、石山詣は、
お取りやめになったのですから、
それはないと存じます」

と女房がいい、
浮舟は恥ずかしくてたまらず、
伏し目になる

月の障りのせいで、
石山詣が出来なかったと、
いうのである

日が暮れて月が明るい

浮舟は涙が止まらない

宮に抱かれて川を渡ったとき、
有明の月が空に澄んでいた

(宮さまのことが忘れられない)

浮舟は、
身は薫に、
拉っし去られようとしながら、
心は宮と引き裂かれる苦しみに、
さいなまれていた

弁の尼も加わって、
昔話に花が咲く

宮との関係を何も知らぬ母君は、

「薫の君さまは、
帝の姫宮をご正室になさって、
いられる方ですけれど、
その姫宮とうちは、
何の関係もないのです
もし、匂宮さまと、
不都合なことをしでかす娘だったら、
私も、もう世話は出来ません」

浮舟は胸のつぶれる思いがする

肉親さえも指弾するような、
罪を犯してしまった、
もう自分の逃げ場はない

(死ぬしかない
いつかはこのことが世間に知れるだろう
そしたらわたくしはみんなに責められ、
そしられ、
物嗤いのたねにされ、
生みの母にも捨てられるのだ)

顔を伏している浮舟の耳に、
宇治川の水音は恐ろしいまでに、
ひびいた

「激しい川音ですね」

母君の耳にも、
その水音は感じられたらしく、

「こんな辺鄙なところに、
住んでいたのですもの、
薫の君さまが、
娘を可哀そうと思って下さるのも、
当然のことでございます」

母君は自慢げにいいつつ、
いつか話題は、
宇治川の流れの恐ろしさに移る

「先だってのこと、
渡し守の孫の男の子が、
川に落ちて死にました
溺れて命を落とす人の多い川です」

女房たちも話している

(川に落ちて・・・
わたくしもこの川に身を投げて、
行方がわからなくなってしまったら、
薫さまも宮さまも母君も、
悲しみに沈まれるかもしれない
けれどそれだって、
生き長らえて人の物笑いに、
なる辛さに比べたら、
ずっとまし・・・)

浮舟は、
入水したらすべての苦しみが、
消えるように思い、
それしかない、
と道が開けたような気がする






          


(次回へ)

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