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「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

16,姥だてら ⑥

2025年05月07日 09時05分32秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・この息子はゴツゴツ言いで、
私と顔を合わせるとケンカするくせに、
お母ちゃん、と今も私を呼び、
いちばんちょくちょく私の所へやってくる

前頭部が禿げあがり、
口がへの字になって、
見るからにうっとうしい

こういう、うっとうしい、
口うるさい男の機嫌を、
よくとってくれることだと、
この点だけは嫁に感謝する

世間には、
息子に嫁が来ても、
息子にまつわりついて、
その世話を焼きたがる母親が、
あるそうだが、
私には考えられもしない

息子は嫁に押し付けて、
のうのうとしたいものである

息子がやってくると、
好きなテレビも見られない

スポーツ新聞も読めない

「めし食うてへん」

などというから、
食事の支度もしてやらねばならない

「何で家で食べへんのや」

「帰りとうない」

「何ぞあったんか」

「ノボルが入試に失敗しよってな、
全部すべった、いうから、
普段の心掛けが悪い、
いうて怒ったら、
生意気なことぬかすさかい、
頬べたなぐってこましたった
そしたら嫁はんもほかの子もみな、
息子の側についてな
腹立ってなあ、
おもろないねん」

「そういう年頃やから」

「ワシ、
今晩、ここへ泊るわ」

私はうんざりしてしまう

修羅場の年代ではあろうけど、
七十八の親まで巻き込むな、
と言いたい

この次男は五十の声を聞き、
鉄鋼会社の部長という肩書きがついていて、
まだ親に甘えているとしか、
思えない

「さあ、
そうと決まったら、
ひと風呂浴びよか」

息子はいそいそしている

「帰ったほうがええ、
思うけどねえ
電話でもしときなさいよ」

「お母ちゃん、しといて」

息子が風呂へ入っている間、
私は豊中の次男の家へ電話をする

嫁は息子が今夜、
ここへ泊ると聞いて、

「あらま・・・
やっぱりそこだったんですか」

と喜ばしそうな声をあげる

「今夜といわず、
いつまででも、
気のすむまで泊ってもらえると、
ありがたいんですけど」

とんでもないことをいう

「そんなわけにもいきませんよ、あんた、
キヨアキの面倒見てもらわな」

「だってこの頃、
口うるさくなりましてね、
カサ高うて陰気で横柄で、
モノいわせれば、
ゴツゴツとつっかかって」

それは確かにそうであろうけど

「それはしょうがありませんよ
そういうタチなんやから」

そういうタチの男を選んだのは、
おのれやないか、
と言いたい

不出来な息子には違いないが、
こちらだって嫌がるのを無理に、
押し付けたのではないのだ

嫁は言い募る

「いまパパが家にいると、
家中に暗雲がたれこめるんです」

「それはあんたとキヨアキの問題でしょ、
私には関係ない」

「そうかなあ
お姑さんが育てた息子だから、
期待なんかしていないけど、
それにしても、
パパはうっとうしいんです
もう、男、要りませんわ
本音のところ」

嫁にまでそんな言葉を聞こうとは、
思わなかった

「要りませんといったって、
チリ紙交換に出すわけにはいきません
子供らの父親やないの、
面倒見なさいよ」

伊賀夫人の本音には、

「私もそう思いますわ」

といえるが、
嫁の本音はたしなめなくてはならない

そうですか、とはいえない

あんなむつかしい男の機嫌を、
よう取ってくれるこっちゃと、
内心、嫁に感謝していたが、
やっぱり嫁でもむつかしいと見える

「なんでああも、
男ってカサ高いんでしょ、
可愛げなくて
お姑さんの育て方がどっか、
間違っていらしたんじゃないですか
つくづく思いますわ
もう、男、要らんなあって
パパがいないとノボルも、
素直に勉強してるんです
ノボルのためにも、
しばらくその分別ゴミ、
あずかって下さい」

嫁は言いたい放題いい、
そこへ次男が来たから、
私は電話を切る

私の家には、
息子たちのために、
男物パジャマが置いてあるので、
それを着て次男はのんびり湯上りの顔でいる

「ここへ来ると落ち着くな」

などといって、
新聞を敷いて足の爪など切っている

「しばらく家離れたら、
ウチのヤツも気づくやろ、
子供らかて、
ワシのありがたみがわかるやろ」

などといっている

その時私は思ったのである

女三界に家なし、
というけれど、
本当は三界に家ないのは、
男ではないか

女たちに、

「もう男要りませんわ」

「パパのいない方が、
子供も素直に勉強している」

などと言われているのも知らず、
男は自分が家庭に必要なもの、
と思い込んでいるのだ

そう思うと、
次男の大きな体つきも、
哀れになってくる

次男は私にそう思われてるのも知らず、

「久しぶりにのんびりしたなあ
いや、大学受験の子持つ家庭なんて、
地獄や」

と機嫌よく、

「お茶でも淹れてえな」

などと催促する

私は膝先が冷える宵もあるので、
日本間に春炬燵をしていて、
夜はそこで習字の稽古をする

「こないして、
落ち着いて茶ぁ飲むことも、
でけへんかった
テレビはつけたらアカン、
大きい声でしゃべったらアカン、
いわれて」

次男は炬燵に足を入れ、
テレビなどつけて、
ハレバレした顔でいる

自分の家でそんな顔をすればよいのに

「ここは落ち着く
ホッとするわ
ちょいちょいこうやって、
泊りに来ることにするわ、
お母ちゃんもその方が心丈夫で、
ええやろ」

「別に
無理して来んかてよろし」

「そんなこというて、
一人でメシ食うとるとか、
ややこしいおっさんに、
怒鳴りこまれるとこなんか、
想像するとな、
何とのうお母ちゃんが哀れでな、
具合悪いんじゃ」

双方で双方を哀れがっていたら、
世話はない






          


(次回へ)

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16,姥だてら ⑤

2025年05月06日 08時11分45秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・伊賀夫人が跳ねるように、
玄関へ出て来た

「おお」

老紳士は目をパチクリして、

「やっぱり、居ったんか、
どうしたのかと思った」

「今まで何してたの?」

と夫人は呆れたようにいう

「何してたって・・・
オマエ、
このマンションの前で待っとれ、
いうから待っとんたんやが、
あんまり遅いのでやって来たら・・・」

「なんで今まで待ってたん
先に帰ったらええのに!」

伊賀夫人は叱咤するようにいう

してみると夫人は、
テレビを見るあいだ三時間も、
この人が待ってることを忘れていたので、
あろうか

しかも紳士を叱りつけて、

「いま行きますから、
エレベーターの前で待ってて!」

とえらそうにいい、
押し出してドアを閉めた

私に紹介するつもりはなさそうで、
あわてて礼をいって帰った

廊下で彼女がしゃべる声が聞こえる

「何してた、って、
野球を見せてもらってたの、
テレビで
優勝したのよ、優勝!」

老紳士の声は聞こえない

それはともかく、
伊賀夫人と野球メイトになって、
タイガースが西武を破って、
日本一になった時には、
一緒に見られなかったが、
電話でおめでとうを言い合った

「おしゃれの店・マダムさち子」
へ行くと、

「今年も優勝できるかしらね、
阪神は」

などという話題が出て、
愉快である

「また二十一年かかるのやったら、
その時まで生きていられるかどうか」

と私はカールされた私の髪に満足して、
鏡を見入る

伊賀夫人はいまどきの、
若い子とちがって、
入念な仕事をするので、
私は気に入っている

かつ、センスも若々しい

眼鏡も用いずに、
こまかい仕事をするが、
その指はがっしりと太い

夏でも冬でも夫人は、
二の腕までむきだしにしているが、
ずいぶんたくましい腕である

男物の腕時計をはめ、
手首も男のように太い

「奥さまなら、
二十一年先でもお元気ですわ」

夫人はドライヤーを軽々と扱いつつ、

「その時には、
髪を黒と黄のタイガースカラーに染めて、
同じ色の杖ついて見に行きましょうか、
けどきっと今年も優勝ですよ」

などという話もおかしい

私は自分のことを、
元気少女だと思っていたけれど、
この夫人も(中々、ようやる)
というところである

「こんな楽しみあって、
仕事あって・・・
ということになれば、
もう男はん要りませんなあ」

と夫人のいうひと言とダブり、
一層伊賀夫人が好ましく思える

それは私も同じこと、
書道教室へ行けば、
六甲おろしも掛布コールも、
おくびにも出さず、

「今日は仮名の連綿体の応用をすこし、
お勉強してみましょう」

とお手本を書いて見せたり、
している

今年は黄色が流行色というのも、
タイガースの影響であろうか、
いやいやそんなことはあるまい

世間の人は、
陰鬱なのがしんからいやに、
なったのであろう

パーッと明るく、
派手派手しく、
陽気な色が好ましく、
感じられるのであろう

私も黄色のスカート、
白いコットンセーターに、
レモンイエローの薄いスカーフを、
首筋にあしらって、
オレンジ色の口紅を塗り立てている

そうしてタイガースの「タ」の字もいわず、

「ずいぶん上達しましたのねえ・・・」

と生徒さんの宿題を、
優雅にほめたりするのである

私の本音のひとことは、

(男はん要らんよってに、
こういう楽しみもできる)

ということである

男はんがいたら、
野球狂いも出来ない

この前、
次男が夜やってきて、

「エレベーターの中で会うた、
七階のおっさんと、
ケンカしてしもうたがな」

という

この次男は向こう意気強く、
口の荒い中年男である

「なんで、ケンカなんかしますねん」

「いや、
あんた山本さんとこの人やろ、
いうさかい、
そや、いうたら、
時々、子供がキャーキャーいうて、
床踏み鳴らしてるが、
気ぃつけとくなはれ、
いうさかい、
何いうてはりまんね、
お袋の一人住まいで、
子供なんか居りまへん、
いうたった」

「ふーん」

「いや、たしかにおたくや、
いうさかい、
キャーキャーいうような子供は、
居らんちゅうたら、
どこぞよそと間違うとんのとちゃうか、
いうたったら、
そんなハズないとケンカになってもうた
けったいなおっさんや、
いちゃもんつける気ぃかもしれん
なんぞややこしいこと、
いうてくるようやったら、
すぐワシのとこへ連絡しいや
一発かましたるよって」

この次男は、
すぐカッとする男であるから、
さもありなん

しかし私としては、
はなはだ居心地わるいわけである

知らん顔をしてなければしかたない

「ケンカなんかしなはんな
ええ年して」

「しかし根も葉もない、
言いがかりつけて怒ってきよるさかい、
ムカッとするやないか
何やな、
このマンションの自治会長に、
ちょっと注意しといたほうがええな
ワケのわからん奴がおりまっさかい、
いうて」

「もうよろし、よろし」

「いや、よろし、て、
お母ちゃん一人や思て、
ナメとんのかもしれんやないか
いうことはちゃんといわんと、
今日び、
何されるやわからん」

「ええのや、ええのや」

「いや、ええ、ええいうとったら、
次、何いわれるかわからんで」

「同じ屋根の下の隣組の人と、
気まずうなりとうない
まあ、よろし、それは
それよか、あんた、
相手かまわずケンカしなさんなよ
どだい、
あんたのいうのは、
いつもきつすぎるよってに」

「何がきついねん
ワシ、
当たり前にモノいうてるやないか」

「そういう言い方が、
つっかかったように聞こえますねやが」

「何いうてんねん
お母ちゃんこそ指図がましい、
管理すな、ちゅうねん
五十になった息子に」

「私ゃ言いとうないけど、
あんたが言わせるんや
ええかげんにその、
ゴツゴツしたものの言いぶり、
柔らこうせんと、
人はついて来まへんで」

「ほっといてんか、
お母ちゃんこそ、
管理ぐせなおしたらええんや」






          


(次回へ)

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16,姥だてら ④

2025年05月05日 08時35分18秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・私は照れながら、
箪笥の引き出しから、
タイガースの帽子を出してくる

二つも三つもある

甲子園球場へ行くときに買ったもの、
阪神デパートのタイガースコーナーで、
また買ったもの、
いつの間にやらたくさんたまってしまった

ほかに黄色いメガホンや、
ハッピもそろえてある

息子や息子の嫁たちに見られると、
何を言われるか知れないので、
箪笥の中へしまいこみ、
隠している

甲子園へ一度行ったとき、
これらを持って行ったけれど、
球場のやかましさに、
恐れ入ってしまった

熱狂した群衆に踏まれて、
怪我でもしたとあれば、
恥をかく

熟年老女として、
ぶざまなことになってはいけない

で、私は球場に出かけないで、
わが家のテレビで試合を楽しむ

そういうとき、
せめて場内のファンと一つ心になろうと、
タイガースの帽子をかむり、
黄色いメガホンを持って、
テレビを見るのである

「これをかぶりません?」

「よろしいわねえ
あたしも持ってますのよ」

伊賀夫人はニコニコして帽子をかぶった

熟年老女二人、
タイガースの帽子を頂いて、

<六甲おろしに さっそうと・・・>

と口ずさみながら、
お酒をすすり、

「真弓がよろし」

「阪神も男前増えて」

「巨人より男前増えて」

なんて言い合う楽しさ
息子らが見たらびっくりしよるやろ

試合は二回、
ヤクルト一点先攻である

やっぱりあかんかなあ、
と思っていると、
四回で真弓が同点ホーマー放った

メガホンを打ち振り、

「いけますやんか、
いけますやんか」

「やったー!」

私と伊賀夫人は抱き合ってしまった

ヤクルトが猛然と反撃する
めためたと四点取られてしまった

夫人はいっぺんにしょげこみ、
うなだれてトイレへ行く

私は焼松茸もお酒も、
手につかなくなる

せっかくの松茸、
こういうものは心静かに楽しむもの、
であるのに優勝がかかっていると思うと、
心も空になって無粋なことである

松茸に申し訳ない

九回裏で掛布が本塁打、
みごとに決めた

スタンドは総立ちになっている
一点入った
どたんばである

「あと一点や!」

伊賀夫人は顔を覆い、

「もう、よう見んわ、ウチ・・・」

「これからが正念場やないの、
見なさいよ」

代打は佐野

岡田が二塁打、
バントで三塁へ、
佐野が高々と犠牲フライを打ちあげて、
岡田がタッチアップからホームイン

ようし、もう決まりや!
勝つ!

われながらはしたない、
ぐっとお酒をあおって叫ぶ

私の目は血走っているかもしれないが、
どうしようもない

九回から中西が登板しているが、
がっちりしたいい男

頼みまっせえ

ヤクルトの杉村が倒れてワンアウト
球場のファンは叫んでいる

「あと二人、あと二人」

水谷が三振、
このあたりでついに私も、
伊賀夫人と「あと一人!」と、
声を合わせていたのは、
タイガースの試合を見ていると、
人格が変わるという世間の噂どおり

この試合は全く、
ハラハラドキドキのしっぱなしである

ヤクルト最後の打者、角は、
ふわふわしたピッチャーゴロ、
中西がしっかり捕って一塁へ

ウイニングボールは、
ファースト渡真利のミットに、
吸いつくようにおさまった

勝ったのだ
阪神が勝った

ほんまやろか
優勝してしまった

伊賀夫人は金切声

「勝ったんやわ、
勝ったんやわ、
ヒャー、おもしろ、
まさか思てたのに、
やっぱり勝ちましたなあ
ヒャー」

「どたんばまでハラハラさせて、
ほんとにもう・・・
でも吉田さん、おおきに、有難う!」

私もおのずからこぼれる快心の笑みを、
どうしようもない

私は伊賀夫人と改めて祝杯を挙げ、
足を踏み鳴らし、
メガホンを口にあて、

「勝ったんや、
勝ったんや!」

「優勝や、ばんざーい」

とクッションを投げ、
足踏みし、両手をあげてばんざいする

と、電話が鳴る

はて

タイガースファンが、
喜びの電話でもかけてきたのであろうか、
タイガース狂は誰かいたかいなあ、
と受話器を取ると、
聞きおぼえのない声である

「恐縮ですが、
静かにさせて頂けませんか」

「は?」

「さっきから、
ドンドンと天井が鳴って、
黄色い歓声がひっきりなしです
子供さんに少し静かにするように、
テレビでも小さくして下さい」

「それは失礼しました」

「こっちこそごめんなさい
もう止むか、もう止むかと、
思っていたのですが、
もう十時ですから」

私は赤面してお詫びをいい、
伊賀夫人に話して、
クスクス笑い合う

「ウチが来たばっかりに、
やかましゅうてすみません」

「いえいえ、
こんな晩は二人で騒いだほうが、
ずっと楽しいですわ」

私はブランデーの水割りを作り、
チョコレートなどを出しつつ、

「でも、今夜は楽しかった
ウチの息子は巨人ファンやし、
一緒に応援できる人はいてへんのですよ」

「あ~おかし
こんな楽しみあって、
仕事あって・・・してたら、
もう、男、要りまへんなあ」

これも耳に立つ本音の一言であった

しかしこれは、
不愉快な棘として心に刺さるのではなく、
共感で耳に立つのである

「ほんまに、
私もそう思いますわ
ウチの主人も役立たずの、
男はんでしたよって、
その辺のことようわかりますねん」

と言い合い、
二人で乾杯した

と、玄関のドアフォンが鳴った

またご近所の苦情であろうかと、
私は急いで立っていって、
ドアを開けると、
がっしりした体格の老人が、
遠慮がちに立っていた

セーターにジャンバーを羽織った、
見知らぬ老紳士である

「つかぬことをお伺いしますが、
こちらに伊賀さち子は、
うかがっておりませんでしょうか」

言葉はおだやかで落ち着いている






          


(次回へ)

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16,姥だてら ③

2025年05月04日 08時52分36秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・とりわけ、私をカッカさせるのは、
「子供だまし」という言葉である

ハカナゲなヤスモノの美しさを、
「子供だまし」とひとことで、
片付けるのは気に喰わない

何が子供だましであろう

私から見たら、
ブランド物のほうが子供だましで、
ある時がある

美しいものは、
いくら安くてもはかなげであっても、
美しいのだ

それにしても、
本音のひとことというのは、
耳に立つものである

棘のようにささるものである

私はそれ以後、
小物の可愛らしいものを見つけると、
嫁の「子供だまし」というひとことが、
思い出され腹を立てていた

それがなくなったのは、
伊賀夫人のおかげである

伊賀夫人が私が買った、
スカートを持ってきてくれたときのことを、
話すのを忘れていた

夫人は近くまで来る用があったので、
スカートと鉢植えの蘭を持って来てくれた

「いつもご贔屓頂いてますお礼に」

という

夫人はベージュのパンタロンに、
同色のセーター、
そのセーターには白い水玉が飛んでいる、
若々しい装いだった

何よりもその表情がいい

だいたい事業をやっている女たちの顔は、
抜け目がなくなっているものである

しかも四十年、五十年と生き抜いているうち、
だんだん地金が出て来、
七十年も生きていると、
地金一色になる

貪欲、エゴ、狡猾、
などというのがモロむき出しになるが、
反対にいいものが出てくる人もある

伊賀夫人は美人ではないが、
肉厚の顔がトクをして若く見え、
笑うといかにも人のよさがにじむ

人がいいのと、
事業の成功は両立しないものであるが

私は夫人の顔を見て、
これは気分のいい女だと思った

「まあ、お茶でも」

と私は夫人を招き入れた

「いえいえ、お玄関で失礼します」

と夫人はかたく辞退するので、
私は女の子にあげるつもりだった、
二、三枚のハンカチを、

「お使いさんにと思って、
用意しておきましたのですが、
およろしければどうぞ」

と夫人に渡した

なんでしょうと包みを開けて、
夫人はみるみる顔をほころばせ、

「まあ、きれいなハンカチ
珍しい
鹿の子の柄のハンカチなんて、
始めてですわ」

と喜んだ

私も嬉しくなってしまう

「子供だましみたいなものですけど」

「いえいえ、とんでもございません
わたし、年がいっても、
こういうものに目がございませんでね
ところが忙しいて、
中々こういうものを買いに出るひまもなくて、
嬉しいですわ」

「お気に入ったらどうぞお使い下さいな」

私の方こそ、
夫人の反応が気に入り、
立ち話をするのが勿体なくなってきた

見よ、
ウチのバカ嫁どもと違って、
年輩の伊賀夫人は、
美しいものを愛する気持ちを失っていない

ほんとに喜んでいるのか、
お世辞を言っているのか、
この年になればわかろうというもの

私は紅茶でも淹れるつもりであったが、
夫人はどうしても靴を脱がない

「実は奥さま、
恥ずかしいんですけど、
早く帰ってテレビを見たいんですの」

「テレビ」

「今日は阪神がヤクルトと、
神宮球場でやりますでしょ、
もしかして優勝やないかと思うと・・・」

「そうそう、
勝つか引き分けになったら優勝やと思うと、
わくわくしますわね」

「えっ
あの奥さまも野球お好きですか、
あたし野球好きで
そやけど婿は巨人贔屓ですやろ?
ウチ、自分一人の部屋で、
テレビ見ますねんわ」

「それなら、
ここで見ていって下さい
もう始まっていますよ」

私はついでに食事もすすめた

夫人もお酒をたしなむというので、
私は清水焼の盃を二つ出し、
日本酒をあたためる

肴は書道教室の生徒さんがくれた、
みごとな二本の松茸

これを焼いて指で割き、
すだちを添える

ほうれん草を湯がいてしぼったものを、
三杯酢で和えて、松茸とともに

伊賀夫人も一緒にキッチンに立ち、
私が用意した土瓶蒸しを器用に作ってくれる

「台所のことは、
し慣れていますねん
何しろ昔ニンゲンですよって、
舅姑のごはん作って、
子供らに食べさして、
店へ出ては仕事してましたの
仕事と家のことと、
両方なんとかこなしてきましたよってに、
料理いうても早いだけの、
まねごとですわ
あ、奥さま、
青みはこの三つ葉でよろしいですね」

「そうそう、
銀杏は煎って皮むいてますから」

老女二人、
土瓶蒸しと焼松茸を手早く作る

そうして二人とも、

「やっぱり昔の女ですわねえ」

と笑い合う

仕事は出来るが家事は出来ない、
という女ではなく、
昔のきびしい躾のおかげで、
金儲けも出来るが、一方、

「ちゃっちゃっと、
台所のこともでけますしなあ」

とわれ褒めし合う

テレビをつけて、
お酒を注ぎ合い、
すだちをぎゅっと絞って、
松茸にしたたらせる

薄い透けそうな盃に、
金色のお酒を盛って口に含みつつ、

「今年は開幕すぐから、
阪神快調でしたなあ」

などと言い合う楽しさ

「そやけど、
毎年やったら、
八月終わりごろにはもう、
テレビ見いひんところが、
今年は十月まで見んならんさかい、
仕事が手につきませんでしたわ」

夫人は土瓶蒸しのお汁を、
小皿に受けつつ、

「いやあ、おいしい・・・
ウチは、阪神Aクラスに入るかな、
思てましてん
けど九月に広島に連勝して、
ひょっとしたら優勝するんやないやろか、
思たらもう。ドキドキしましたわ」

「今夜はどうやろか」

「いけるの、違いますか」

「阪神のことやさかい、
はじめ喜ばして、
あとでカクンとさせはんねん」

五万の観衆がワーワーいっている
テレビの画面からすごい熱気が伝わってくる






         


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16,姥だてら ②

2025年05月03日 09時27分44秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・私がこんなことをいうのも、
ウチの嫁たちは、
一向に世の中を知らないからである

長男の嫁ときたら、
電車の切符も買えない

いつも誰かが、
買ってくれるのだそうである

いつだったか、
二人で阪急電車に乗ることがあり、
嫁は私の分も買おうとして、
切符売場の上に掲げられた全線図を見て、
不思議そうに、

「お姑さん、
ここの〇〇駅ってありませんわ」

という
私は情けなくて、

「ありますやないか、
当駅として出てますがな」

「あっ、なるほど」

と嫁は間が悪そうに笑い、
阿呆かいな、
それぐらい解らぬようでは、
どっちが年上かわからない

この頃は無人改札であるから、
切符をさしこむと、
改札口の棒がバタンと動いて通してくれる

それにも嫁はマゴマゴし、

「何ですか、
このキカイは困りますわねえ」

と不満げである

「わたし、
この頃どこへ行くのも、
タクシーかうちの車を使うもので・・・
電車なんぞ乗ったことないものですから」

半分、自慢たらしくいう
私はいってやる

「車なんぞ乗っていると、
足腰弱りますよ
電車やバスは体鍛えるのに、
いちばんよろしねん
駅の階段の上り下り、
坐れない電車の中で、
こけんように足をふんばる、
これみな美容体操になりますのや
それに、人に見られるという、
この緊張感が体にも心にもよろしねん」

「でも、
いい着物を着て出かけるものですから、
汚してはいけないと、つい・・・」

「汚さんようにするのも、
才能の一つですよ」

嫁は悔しそうに口をもぐもぐさせるが、
車ばかり乗っているから、
全く足が弱くて、
私について歩けない

次男の嫁と三男の嫁は、
四十代だけにいささか若い体力を、
誇っているが、
その代わり、
「ささやかな小物の楽しみ」
など知らない

嫁たちが珍重するのは、
グッチのバッグだとか、
エルメスのスカーフだとか、
ティファニーのペンダントとか、
ばかりである

銘柄品ならいいように思い、
お互い張り合って、
買い集めているようである

私も時としてそれらを持つことはあるが、
お気に入りの形をしていたから、
買ったまでで、
つまり楽しい小物の一つとして買ったのだ

しかし嫁たちは、
気に入る気に入らない、
というよりも、
ブランド物だから買うようである

いつかも私は、
次男の嫁が得々として持っている、
カバンに目を止め、

「まあ、
道子さんはこんなんが好きなの?
へーえ・・・」

といった

形といい色合いといい、
ぞっとしないデザインである

嫁はたけりたって、

「お姑さんはご存じないでしょうけど、
これはルイ・ヴィトンなんですよ
十万円もするんですから!」

「知ってますよ
LとVの柄を見ればわかりますよ
だけど、
その塩化ビニールコーティングという、
それが安っぽくて私ゃいやなのよ
それ腰につけてハサミ鳴らして、
『毎度ありがとうございます』
というてると、
昔のバスの車掌さんやわ」

「何てことを
これはルイ・ヴィトンなんですのよ
十万円ですのよ
十万円!」

と嫁は絶叫し、

「同窓会に行っても、
これくらいのもの、
持ってる人はいなかったんですから!」

「そうかもしらんけど、
やっぱりどう見ても、
車掌さんのカバンや」

「ルイ・ヴィトンですったら!」

嫁は声をからしていた

嫁はこうこうだから好きなのだ、
ここがよいのだといえないで、
ただただ、ルイ・ヴィトンの一点張り

私はこの嫁に、
刺繡をしたハンカチをやったことがあるが、
嫁は目を輝かせて、

「これはスイス製ですか!」

という

「いえ、日本のものよ
でもその刺繍が上品で、
色がよかったから・・・」

「あら、日本製ですか」

と嫁はとみに関心を失った体である

どこ製であろうが、
美しいものは美しい、
それを楽しむことができないようでは、
困ったもの

三男の嫁も、
私はいつか、
縮緬の布を張った小箱を、
やったことがある

この嫁は理屈いいである
手にとってひねくりつつ、

「この小箱は何を入れるものですか」

「何を入れてもそれは好き好き、
持ってるだけでも楽しいやないの」

「しかし何も入れないで持ってるだけ、
というのは無意味ですわね」

人生はある面からいえば、
無意味で成り立っているのだ

私は面倒くさくなり、

「飾っておいても、
ええ眺めでしょう」

「しかしこれは縮緬でしょ、
そうすると埃がかかりますわね、
出しておけば
絶えず注意して埃をはらわないといけない
それは徒労というものですわ
といってしまいこんでおくのも無意味だし、
どうすればいいんですか?」

知らんがな、そんなこと!

「とにかく、
あたしはこういうもの頂くと、
徒労と無意味の間を行き戻りして、
処置に困るんです
合理的な生活、
というライフテーマを目指している、
あたしから見ると、
こういう無意味・非実用的・
不急不要の無駄・不利不経済な、
クソの役にも立たぬシロモノは困るんです」

と嫁は顔色も変えずにいい、
私はむかっ腹を立てる

「おーや、それはお気の毒に
あんた、須美子さん、
人がモノをあげようというのに、
クソの役にも立たぬ、
というのは言い過ぎですよ
いいですよ
じゃ、返してもらいましょ」

「いいえ、お姑さん、
せっかく頂いたものだから、
頂戴しますわ
あたしのいうてるのは、
ただこういう手の、
子供だましのような、
ハカナゲなヤスモノの、
現実における位置の認識ですわ、
それをあたしに下さろうというのは、
別の話ですわ」

と手を出して小箱を取り上げた

それなら屁理屈いわずに、
ただひとこと「おおきに」
といえばよいのに、
可愛げない嫁である






          


(次回へ)

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