・その男は今、乞食のように落ちぶれてさすらっているという。
妻はどうかして男を見返してやりたかった。
もとの夫に妻を捨てたことを後悔させ、詫びさせたかった。
妻はそのころ成上りの金持ちの男に求婚されていた。
愛はなかったが、もとの夫に張り合いたいために応じた。
妻は美々しい邸に、美しい衣装をまとって、
何不自由ない暮らしを送る身となった。
しかし妻の心は晴れない。
いつか、もとの夫に復讐してやりたい。
そのことばかりが、生きる支えだった。
もとの夫との間に出来た一人息子も、
やがて実の父のあとを追うように出家して、
比叡山で修行する身となっていた。
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・ある日、かねて言いつけておいたように、
邸の下人が注進に来た。
「どうやらお申しつけの坊さんらしいのが、
お布施を勧進するとて、門口でお経をよんでいます。
汚い風の乞食のような坊さんです」
妻はその僧を座敷へ上げ、ご馳走を並べさせた。
僧は合掌して、敬虔に頭を垂れる。
やはりもとの夫だった。
やつれて老け、むさくるしくなっているが、
もとの夫に違いなかった。その姿は乞食と変らなかった。
「お久しぶりね」
妻は勝ち誇って言い、簾を上げさせた。
「私を覚えている?
あなたが昔、捨てた妻よ。
あなたが私の前で乞食のように食べ物を乞う、
みじめな姿が見たかったのよ。
捨てられた私は、どう?
今はこんな邸の、女あるじなのよ・・・」
男は目を上げて、もとの妻を見た。
その目には静かな慈愛の色があるだけで、
妻の期待したような狼狽も屈辱も驚きもなかった。
「奇特のお志、尊く存じます。
後世のためのご供養、まことに殊勝なお振る舞い、
ありがたく頂きます」
男はそういうと膳の食事をあまさず食べ、
合掌して静かに去った。
これが長年夢見て来た、夫への復讐だったのだろうか。
妻は呆然とする。
夫はもう、次元の違う世界へ飛翔してしまっていた。
嫉妬も憎悪もない、広大無辺の仏の真理の世界へ。
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・その後、比叡山で修行している、出家した息子が、
妻のもとへやって来て、泣く泣く告げた。
「父上は、仏道修行のため震旦(しんたん 中国)へ、
渡られるそうです。震旦は万里の波濤の果て、
生きて再び帰れるとは思われぬからと、
私のもとへ、会いに来て下さいました。
お前はこのお山でよくよく修行して、
行い、学問、怠ることなく勤めよ、と。
私は泣きながら、お山のふもとまでお送りしました。
月の明るい夜でした。父上は、『早くお帰り』とおっしゃって、
霧の彼方へ去っていかれました」
妻はつぶやいた。
「私を許して下さったろうか・・・」
「お心にかけておられました。
幸せでいるように、仏のご加護を祈っている、と」
男は、いや寂照法師は七月七日に、
河尻(淀川川口)から九州へ向けて船で発った。
そして八月二十五日、肥前の国、松浦から、
唐土へ向けて出発したといわれる。
妻は急いで男の装束を仕立て、
贈ろうとしたが、男は河尻から発ったばかりだった。
まだ今からなら肥前までには追いつけようと、
妻ははなむけのそ贈り物に歌を添えて送った。
<着ならせと思ひしものを旅衣 たつ日を知らずなりにけるかな>
(あなたが着慣れて下さるように、
そして無事にお帰りになったら、
また私のもとへ来慣れて下さるようにと、
心をこめて裁ちましたこの旅衣、お立ちになる日を知らず、
遅れてしまって・・・どうかお手もとに届きますように)
男はその装束を手にし、歌を返してきた。
<これやさは雲のはたてに織ると聞く たつこと知らぬ天の羽衣>
(天の羽衣は縫い目もなし、裁つこともないと聞くけれど、
これがそうなんだね。あなたが作ってくれた天の羽衣、
私は喜んで身にまとって、入宋するよ)
殿は、震旦でいよいよ修行され、霊験あらたかに、
人々の帰依も深く、かの地の皇帝から、
円通大師の号をたまわるほどの大徳となられました。
北の方でございますか?
北の方のその後は伝わっておりませぬ。
けれどもお歌は勅撰の撰集に「詠み人知らず」として、
載せられているのでございます。
風で御簾があおられ、老尼の肩も花吹雪で白くなった。
巻十九(二)
(了)