むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

10、浮舟 ⑤

2024年07月01日 07時58分50秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・浮舟は動転していた

傍へ身を寄せた男を、
薫だとばかり思っていたのに、

「静かに、驚かないで」

という声は薫ではない

「あなたは?」

といいかけると、

「しっ、黙って
私はあなたを愛している男
女房たちには悟らせないで」

浮舟は混乱から立ち直れないで、
夢を見ている心地

男はそめそめとささやく

「二條院ではじめて見た、
あなたを忘れたことはなかった」

(二條院?)

浮舟の頭に、
異母姉のいる二條の邸で、
宮に迫られた衝撃がひらめいた

ではこの男性は、
宮だというのか?

(ひどいわ
はじめから薫さまでないと、
わかっていれば、
何とか抗うすべもあろうものを、
すっかり薫さまと、
信じ切っていたわたくしを)

不意をつかれて、
浮舟は、
踏みとどまろうとしたけれど、
無理だった

二條院のように、
はた目を気にしなければ、
ならなかった所でさえ、
意に介されなかった宮である

いまは夜の闇
宮の情熱を押しとどめる、
何物もない

浮舟は萎れた花のように、
ひっそりと涙を流す

(お異母姉さま<中の君>を、
裏切ることになってしまった
あんなにわたくしにお優しく、
して下さったお異母姉さまを
わたくしの心からでは、
ないといいながら)

そう思うと身もすくむ思いがして、
泣くばかりだった

宮はもとより、
中の君と浮舟を関係を、
ご存じないので、
浮舟の涙は、
薫と宮との板挟みになった、
苦悩のせいと思っていられる

その間に夜は明けてゆく

お供の者たちが来て、
お出ましの用意が出来たことを、
お知らせする咳ばらいをする

右近はそれを聞き、

(お立ちだわ・・・)

と何心もなく、
お二人のそばへ行った

宮は、もう、
お顔を隠したりなさらない

「驚くな
無分別なことと思われても、
仕方ないが今日は、
とても帰れそうにない
時方は京へ戻って、
私が山寺で参篭しているとでも、
言い繕って適当にあしらってくれ」

右近は驚愕する

薫だとばかり思っていた、
姫君のもとへ案内したのは、
宮でいらしたというのか

まさか人違いと考えることも、
出来なかった

よく確かめもせず、
軽率に宮をお入れした、
ふつつかさに右近は、
自責に身をもみ、

(取り返しのつかないことを)

と立ちすくんでしまう

(私の落ち度だわ
戸を開けたのも、
姫君の元へ案内したのも私
まあ・・・とんだことになって)

魂もまどう心地がしながら、
しかし利発な右近は、
この場を収拾するのは、
自分しかいない、
と状況を判断した

あたふたと騒いだところで、
どうしようもないばかりか、
宮にも姫君にも、
よい結果とはならない

思えばかの二條院で、
宮が浮舟にご執着を持たれたのも、
こんな事態を引き起こす、
ご宿縁だったのかもしれない
運命というものなんだわ

右近はそう考えて、
自分を慰めたが、
とりあえずこの場は、
宮を人目につかず、
お帰ししたかった

右近は宮に訴える

「今日、
実は姫君にお迎えのお車が、
来るのでございますが、
それをどう遊ばすおつもりで、
いらっしゃいましょう
今日はあいにく、
折が悪うございます
今日のところはお帰りあそばして、
また改めて、
お志がございますれば、
おいで下さいまし」

宮は、
こうと思いこまれたらお強い

あとへ引かれないのである

「私は帰らない
世間の非難なんか、
知ったことではない
お迎えの車が、
どうだっていうのだ
そちらへは、
今日は物忌で、
などといっておくがいい
それよりも人に知られないような、
算段を考えてくれ」

宮は浮舟への情熱にかまけて、
他人がどんなに自分をそしるであろう、
という配慮も忘れてしまわれる

右近は部屋を出て、
ご帰京を促がした供の男に、
宮のお言葉を伝えた

大内記は、
右近の言外の意味を悟り、

(厄介なことになった)

と思った

右近は、

(誰にも気づかぬようにするには、
どうごまかせばいいかしら?)

と肝を冷やしていた






          


(次回へ)

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